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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2007-09-21


 さて、今日は満でもあり、暑い日が続いているので、ここで涼しい「」の話をさせていただきたい。

 といえば、よく戸田先生は“光を浴びながら、人生や哲学、未来を、夜中まで語り合い、論じ合ってこそ青春である”と言われていた。

 ともあれ、地球の衛星である。それは古来から“かぐや姫の宮殿”と親しまれてきたように、私達にはいつも何かを語りかけてくれる“おとぎの世界”でもある。


 また、義は、ロマンの世界にとどまらない。大聖人は御自身のお前について、こう仰せである。

「明かなる事・日月にすぎんや浄(きよ)き事・蓮華にまさるべきや、法華経日月蓮華となり故に妙法蓮華経とく、日蓮日月蓮華との如くなり」(1109頁)

 ――明るいことは太陽と以上のものはない。清浄なことは蓮華以上のものはない。法華経は「日月」と「蓮華」が象徴である。ゆえに妙法蓮華経とづける。日蓮もまた日月蓮華のようである――と。

 この御文には甚深の義があると拝するが、大聖人も御自身を「日月」のごとしと仰せのように、太陽とは切り離せない。

 私どもも常々、「太陽の法」とたたえるが、太陽だけではない。をも包摂する義を持つ法なのである。


 また一般的には、太陽とは互いに相対するものとして考えられている。だが、実は、相対するものの「調和」が価値を生み出す。それは、陽と陰、男と女、火と水、外向と内省等の関係にも見られる非常に大事な原理である。

 人間もまた同じである。いつも「太陽」のようにギラギラ燃えてばかり(笑い)、大で激励ばかり(笑い)では、自分も疲れる。第一、周りが迷惑である(大笑い)。

 皆が疲れている時には、「今日はベートーベンの曲でも」(爆笑)と穏やかに、疲れを癒すことも必要であろう。ともあれ、「」の光が包み込むように、静かに語りかけてゆくことも大切である。

 ある時は「太陽」のような満々たる生命力が必要である。とともに、ある時は「光」のように、清浄で穏やかな「精神の光」と円満な「知恵の光」を持たなくてはならない。

 特にこれからの高齢化社会、成熟社会には、この両面が必要になってくるようにう。

 また、学会にあっても、これまではいささか偏りのある“ミニ太陽”のような人が多かったかもしれない(大笑い)。今後は、「太陽」の力と「満」の光とが、見事に調和されたような人材の成長を目指してゆくべき時代といえよう。


 その味でこれからは、いわば「日月調和の時代」である。

 それは一つには、「自分を見つめる力」が要求される時代である。これまで我が国は「日本株式会社」(笑い)と言われるように、豊かな生活を求めて誰もが皆、せわしなかった。しかし、人間を犠牲にした経済的発展、氾濫する情報を前に、もはや外にばかり目を向ける時代ではなくなっている。今や、内なる自己を見つめる力が強く求められているといってよい。

 もう一つには、従来の男社会に対し、「女」の特質がより重要になる時代である。政治の分野でも、女の発言が重みを増しつつある。ここ東北にあっても、これまで以上に女見を尊重しながら進んでいただきたいとう。


 もちろん、太陽が男が女とは限らない。当然、その反対であってもよい(笑い)。事実、太陽が女詞、が男詞とする言語もある。女を太陽、男とする文化もある。

 かつて、社会運動家の平塚らいてう女史が、「元始(げんし)、女は太陽であった」と語ったことは有である。また私も、婦人は「家庭の太陽」と申し上げてきた。

 要は、「太陽」と「」、両者の絶妙な調和が必要となる時代を迎えていることを知らねばならない。


 かつて私はこう記した。

「昼は太陽と共に謳いながら 生命を燃やそう 夜は静かな光の道で 友の休むのを待って 自分という人間を考えよう」と。

 多くの詩人や歌人がを通して人生を詠み、それはまた日本人、東洋人の一つの精神史を綴ってきた。

 いわばは、を映す鏡である。古来、人々はいを託し、と語り、に我が人生を映して、の内を見つめてきたのである。

 人は、「自分を見つめる」ことを忘れた時、必ず進歩がなくなる。また、自分を見つめない人は、人間的な魅力も出てこないし、最後は枯渇せざるを得ない。

 だからといって、ただ自分を見つめてばかりいて(笑い)、行動のない人には前進も成長もない。大切なことは、実践の中で自分を凝視しつつ、そこで深められた精神を、更なる価値創造へのバネとしてゆくことである。

 その味で私どもは日々、御本尊に向かい、唱題することによって自らを照らし、境涯を深めながら、限りなく前進してゆくことができる。これほど偉大な世界はないし、価値ある人生もない。


 大聖人は妙一女(みょういちにょ)に「御身は忽(たちまち)に五障の雲が晴れて覚を詠(なが)め給うべし」(1262頁)――あなたは、たちまちに五障の雲が晴れて寂光の覚をながめられることでしょう――とのお手紙を認められている。

 五障とは、爾前経において、女人が1.梵天、2.帝釈、3.王、4.転輪聖王、5.になれない、とされた五つの障りのことである。しかし、たとえそのような身であっても、三大秘法御本尊に真剣に題目を唱えるならば、「寂光の覚」をながめられる自分になってゆく。すなわち、界の悟りの智が輝いてゆく。

 己の「界」の満に照らされた、その「智」の光は自身を見つめさせ、同時に他の人をも導く根源の力となる。そして、自身を照らす光が強ければ強いほど、他人への洞察や尊敬が深くなり、慈愛も深まってゆく。指導の力も深まる。

「守護国家論」の中で大聖人は、「内界を知らざれば外の諸も顕われず」(67頁)――自身の界を知らない内は、外の諸も姿を顕さない――と仰せになっている。

 この御文は「十界互具」の義を説かれたものである。また、私どもの信の一についても重要な示唆を与えてくださっていると拝する。すなわち己の「界」の光が強まれば強まるほど、他の人の「界」も確信できる。本来、であるという本源的な尊敬のが起こってくるのである。

 反対に、権威をカサに子を見下し、“我尊し”と威張っている人間は、それ自体、己界を現じていない証拠である。

 当然、「自分を見つめる」力もない。成長も止まる。堕落が始まる。人からも信用されない。

 そして、表では立派そうに振る舞いながら、中には裏で学会を利用しようと策動する者さえ出てくる。まことに「偽りの精神生活」である。それが、責任ある立場にありながら退転し、反逆した人間の正体でもあった。

 信の世界は全部、「自分」の内実がどうかが根本である。表面的な“組織の論理”で決まるのではない。大切なのは、いわゆる「話のうまさ」でも、多くの人を動かしてゆく「立場」でもない。どこまでも信である。一個の人間として、信仰者として偉大なる境涯を開いてゆくことである。それが自身の成を決定してゆく。また、実質的に広宣流布を進めてゆくのである。この原理・原則を私は厳然と言い残しておきたい。


 さて、再びの話に戻ることにしたい。

 アポロ計画以来、の研究は飛躍的に進んできている。その中で最も身近な天体であるに、太陽系全体の歴史が刻み込まれていることもわかってきた。ちょうど「一人」の人間に、「人類」の進化の歴史が集約されているのと似ている。また、「一人」をから味方にすることが「万人」に通じていくのである。

 最近の研究によると、の誕生は約46億年前。太陽系や地球とほぼ同じである。では、はどのようにしてできたのか。これには、地球と一緒にできたとする「兄弟説」、地球から分かれてできたとする「親子説」、地球が漂うをとらえたとする「捕獲説(他人説)」、その他がある。

 原始のは、燃えたぎるマグマの海であった。その後、次第に冷えて、軽い物質が表面の方へ、重い物質は中へと分かれて、地殻とマントルが形成された。

 約44億年前から40億年前までの間、激しい隕石の嵐や雨がを襲った。この時期、地球も含めた太陽系全体が、無数の隕石が飛び交う激動期にあった。

 宇宙においても、また、人間の世界においても、形成期には必ず激しい嵐があるものだ。戸田先生はよく語っておられた。“ある味で、学会も第三代が最も大変だよ。一番、嵐にあうだろう。だが、それを乗り越えれば、あとは永遠に安定していくであろう”と。

 初代、二代も熾烈な建設の闘の連続であった。それにも増して重要な時期が第三代であるならば、未聞の嵐はむしろ当然である。広布の磐石な未来を決する学会の“形成期”を第三代で総仕上げせよとの、先生のおに応える以外に、私の人生はないとっている。


 太陽系の激動期の中で、地球にも多くのクレーター(くぼみ)ができた。が、後の火山活動によってその痕跡はほとんど消されてしまった。

 一方、にはクレーターがそのまま残っている。いわゆる、“のあばた”である。なぜなのか。

 それは、が39〜32億年前まで火成活動をし、「の海」(他より低く、黒く見える部分)などをつくった後、深部まで冷えきり、活動を停止してしまったからである。このことはに、31.5億年より若い岩石がないことからも推定されている。

 つまり、は32億年前に、ほぼ死んでしまった天体である。その寿命は14億年。天体として出発した時のエネルギーが小さく、尽きてしまった。そのため、激動期の状況、いわば傷跡をそのまま表面に残しているのである。

 人生も、活動を止めてしまえば、理を実現し、完成させることはできない。ともかく生きて生きて生き抜いてゆく――その中でこそ様々な傷や痛みも時とともに癒され、人間としての円満な境地も築かれてゆくものだ。美しい緑に包まれた地球のように――。

 また、妙法を信じ、広布へと進んでいる今こそ、三世永遠の幸の旅路への出発の時である。ゆえに大きなエネルギーが必要である。題目を唱えに唱え、“満タン”のエネルギーを蓄えながら、私どもは悠々と幸福の軌道を進んでゆきたい。


 さて、静寂な「死の世界」であるには、ほとんど大気も水もない。大気は地球の10兆分の1。ほぼ真空の世界である。

 大気がないということが、どれほど悲惨なことであるか――。大気に守られないの表面は、「直(じか)に」宇宙空間からの脅威にさらされている。無防備の裸の状態である。

 太陽からのX線や紫外線、帯電粒子すなわち、いわゆる太陽風。また、その他のあらゆる宇宙線や隕石等々、そうした宇宙の“暴力”に何十億年も、は痛められ続けてきた。

 大気がないため、昼夜の温度差も激しい。昼は130度、夜はマイナス170度にもなる。その差、何と300度である。

 これに対し地球は、オゾン層など厚い大気の層や地磁気で保護されている。ゆえに、人類をはじめとする生物が生きてゆける。


 しかし、こうした無数の“宇宙のギャング”達の害に、人間が気づいたのは、つい最近のことである。「大気に守られている」という事実に、長い長い間、誰も気づかなかった。

 あまりにも大きな恵は、人は忘れがちである。あまりにも、すっぽりと身近に包まれているので、空気の偉大さに「謝」することがなかった。

 その大気がない世界の無残さを見て、初めて「地球の素晴らしさ」がわかったのである。地球に住むことが、どれほどありがたいことか。緑したたる宇宙のオアシス地球を、皆で大切にし、皆で真剣に守らなければならない。


 学会も、宇宙の中で最高に幸福な「信の世界」である。

 絶え間なく降り注ぐ物の攻撃から信仰を守り、諸天の力を増幅させながら、福徳の華を繚乱と咲かせている。

 確たる軌道もなく漂うのみの人生が多い中で、自他ともに人生を最も充実させて歩むことができる。

 その味で、正法を守りゆく組織が絶対に必要である。人々を守りゆく指導者が必要である。また、ありとあらゆる社会の分野で活躍しゆく同志がいなければならない。

 一人になってしまったなら、無防備ののようなものである。無数のから信仰を守ることは困である。広宣流布も進めることができない。


 学会の存在が、どれほどありがたいか。大切であるか。あまりにも大きく守られているゆえに、その恵を当たり前のようにい、忘れてしまう場合がある。それでは浅はかである。また、守られ過ぎて、ひ弱になってもならない。


 謝のがなければ、もはや信もない。その人の周りの空気は濁り、福徳と歓喜に満ちた新鮮な空気を味わえない。それのみならず、不満と嫉妬で環境をも汚染してゆく。絶対にそうさせてはならない。

 また、そうした人間から、信の世界の清浄な空気を断固、守り抜いていかねばならない。


 にも始めは少しの大気があった。しかし、の重力が小さいため、結局、どんどん宇宙に逃げていってしまった。福運も、それを引きつける信の引力が弱まれば逃げていってしまう(笑い)。

“幸いを万里の外より集める”強盛な信一年で、汲(く)めども尽きぬ満々たる福運と生命力を私どもはたたえてゆきたいものである。


 ところで、は「死の世界」であるにも関わらず、地球に巨大な影響を与えている。

 それはあたかも、宇宙には「生」の力のみならず、「死」の力も存在していることを象徴しているようでもある。

 宇宙に溶け込んだ「死」の状態の生命も、実は様々な面で人間に影響を与えている場合がある。そこに法の追善供養の背景の一つがある。

 御書には「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり」(1336頁)――(妙法の)妙は死、法は生である。この「生死の二法」が(地獄から界までの)十界の全ての当体である――と。

 生死、生死と永遠に繰り返していく生命。その「生死の二法」からは誰人も免れない。この生と死を貫く大法が妙法である。ゆえに妙法を持(たも)ち続ける人は、自身も三世にわたって幸福である。また、先祖をも救ってゆくことができる。

 反対に、妙法の世界を破壊しようとすることは、そのまま自身の生命を破壊することに通ずる。ゆえに、生死、生死と永遠に悩の極限の境涯となる。


 の引力が、太陽の引力とともに、海の潮汐(ちょうせき)――満ち潮、引き潮を起こしていることは常識である。

 それに加えて、最近ではが人間の行動や理・生理にも大きな影響を与えているという研究も注目されている。

 それによると、満や新の時に、人間の情緒が不安定になり、犯罪件数も増加するという。もちろん、これは主にアメリカでの統計であり、異文化の各国にそのまま当てはめることはできないかもしれない。

 ただ、人間の身体にも「海」がある。すなわち、体液は海水と似た成分である。その「内なる海」が、の変化に応じて何らかの影響を受ける――そうした見方に関が高まっていることは事実である。

 昔からよく知られているように、女の妊娠期間の平均も、満から満までの期間(29.5日)の、ちょうど9倍である。

 このように人は、太陽とともに時を刻む以上に、実はとともに生命の時間を生きている。

 ちなみに日本語の「つき」の語源は、「尽きる」であるともいう。形が段々欠けて尽きてしまうからである。

 しかも、「とき(時)」も、古くは「つき」と同じ味で使われた。例えば、「あかつき(暁)」を「あかとき」と表現した。

 英語の「ムーン(moon)」も「測る」という味が語源にある。「メーター(meter)」「メジャー(measyure)」などの語も親戚である。

「時を測る」ものがであった。「タイム(time)=時」と「タイド(tide)=潮」も同語源である。


 人間はをはじめとする宇宙とともに生きている。その事実は時代とともに、いよいよ明らかになってきている。

 大聖人は常に、日天よ、天子よ、あらゆる諸天よと呼びかけておられた。

 元東京天文台長・広瀬秀雄氏は、大聖人が「天体の活動と不離不可分の生活をしていた」(『年・・日の天文学』中央公論社)ことに注目され、「依智(えち)の星下り」が“最大光輝の金星”に、「竜の口の光り物」が“エンケ彗星による流星”によると推定しておられる。

 このことは対談『「法と宇宙」を語る』の中でも触れておいた。

 広瀬氏は結論して、日蓮大聖人のいうように「その身と天体との一致まで堅く信じた人は他にほとんどいないとう」(前掲書)と述べておられる。大聖人の広大な御境界の一端に、一流の科学者も関を寄せているのである。

 ともあれ、全宇宙を我が「人生空間」とし、宇宙の運行のリズムに合致して生きる、その妙法受持者の生き方の正しさを、「と人間の関係」をはじめ、科学もまた証明しつつあるといえよう。


 法では「天」を様々なたとえに用いている。「三昧(がつあいざんまい)」もその一つである。

 父を殺した悪逆の阿闍世王が、提婆達多にだまされ、乗せられて、悪を犯したことを悔い、に「悔熱(げねつ)」を生じた。

 地獄しみ、身体にも悪のできもの(瘡/そう)が出る。誰も治せない。自自得とはいえ、あまりにも悲痛な姿である。

 病気にも「身の病」と「の病」がある。の病の方が治すのはしい。

 この時、釈尊が王の後悔の姿を見て、彼を懺悔させ、そのを癒した。その様子が「太田入道殿御返事」には、次のように描かれている。

「世尊・大悲導師・阿闍世王のために三昧に入りたもう三昧に入り已つて大光明を放つ其の光り清凉にして往いて王の身を照すに身の瘡即ち愈えぬ」(1010頁)

 ――大悲の導師である釈尊は、阿闍世王のために三昧に入られた。そのあと大光明を放たれた。その光は清涼であり、阿闍世王のもとに行って王の身を照らすと、悪瘡(あくそう)はたちまち治った――。

 これは、「の病」を治したの慈悲の光を、優しい光にたとえた話である。


 軽度の「の病」の人は、いよいよ増加している。そういう人には強烈な激励は逆効果になる場合が多い。

 むしろ、粘り強く、静かに話をよく聞いてあげ、同してあげる包容力がポイントとなる。

 一般的にいっても、何か相談すると、話も聞かない内に、いつも「とにかく、題目をあげればいいんだ!」(爆笑)では、やり切れない。たとえ、真実ではあっても、相手が納得できなければ仕方がない。

「真理である」ことと、「説得力がある」ことは違う。どう、その人に「信の力」「唱題の力」を確信させ、発させてゆくか。そこまでに至る力が「指導力」なのである。


 釈尊が「三昧」に入ったということは、深い義があるとう。すなわち、これは妙法の「生命を癒す」力の一分を表している。

 宇宙は妙法の当体であり、日天、天の働きもまた妙法の力による。大聖人は、この妙法即御自身の御境界を御本尊として御図顕された。御本尊には大日天王を、大天王をも厳然とお認(したた)めである。

 ゆえに、「三昧」といっても、全て御本尊のお力に含まれる。

 また、妙法を信受し、修行する私どもの生命にも、日天・天の働きが分々に顕れてくる。


 涅槃経には「」の働きを通して、三昧の六つの義が説かれている(梵行品/ぼんぎょうほん)。

 第一に、光が3000年に一度咲く優曇華(うどんげ)を開花させるように、人の善を開かせる。

 第二に、光が道ゆく人を照らして喜ばせるように、道をゆく人を照らして喜ばせる。

 第三に、新から満へと次第に成長するように、煩悩によるしみが次第に減ってゆく――宿命転換してゆく。

 第四に、十六夜(いざよい)から次第に形が小さくなっていくように

煩悩によるしみが、次第に減ってゆく。――宿命転換してゆく。

 第五に、暑い盛りの時、光に涼(りょう)をとるように、人間の「貪り」の悩みの「熱」を冷やし、取り去る。

 第六に、星々の王が満であるように、あらゆる善の「王」である。すなわち大善中の極善が妙法である。


 日月といっても、実は「我が胸中」にある。その明るい光を大きく周囲に放ちながら、日のごとく、のごとく慕われゆく人でありたい。

 そして、素晴らしき「我が家」を、「我が地域」を、「我らが社会」を、その「生命の光」「人間の光」で照らし、輝かせてゆくことが私どもの使命なのである。


は犬が吠えるのを気にしない」(The moon does not heed the bark of dogs)というイギリスの諺(ことわざ)がある。

 いかなる卑しい吠えにも、は悠然と高みに澄んで、皓々(こうこう)と地上を照らす。

 これこそ、「信仰者」の姿である。人間の「王者」の姿である。私どもも、この気で進んでまいりたい。


【第21回本部幹部会 1989-09-15 東北文化会館