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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2007-12-04

九州広布の原点


 牧口初代会長が出席して、初の九州総会が開催されたのは、昭和16年(1941年)の秋11。ちょうど今頃の季節であった。場所は福岡県二日市の武蔵旅館。もちろん、学会会館などなかった時代である。

 その時の参加者は約40人。太平洋戦争勃発(昭和16年128日)の直前であり、社会に暗雲がたれ込めていた中での開催であった。時に牧口先生、70歳。総会には、奥さまとお嬢さまとともに出席されている。

 最晩年に当たるこの時期に、牧口先生は毎年、九州に足を運ばれている――昭和13年夏、鹿児島へ。14年春、福岡の八女へ。15年11には福岡、久留米、八女、長崎の雲仙(うんぜん)、更に島原から荒尾、熊本を経て大分の別府へ――。そして、翌16年11に、この九州総会への出席となるのである。

 東京から九州へ、今なら飛行機で1時間半ぐらいだが、当時は列車を乗り継いでの長旅であった。旅費も大変な中で工面されていた。

 行く先々で、3里(約12km)、4里という交通の不便な田舎道を、折伏の先頭に立って歩かれた牧口先生。ご高齢にもかかわらず、その足取りの勢いたるや、同行の人達も中々ついていけないほどであったという。

 このように牧口先生の行動は、「大聖人の仰せ通りに、必ず広宣流布をしてみせる」との“大情”に貫かれていた。要領や策など微塵もなかった。愚直なまでに、どこまでも「一人」のために尽くされた。これが、私ども学会の創立者である。そして、この初代会長が、まさに五体をぶつけるようにして切り開かれたのが、九州広布の誉れある天地なのである。

 本日、九州総会にお集まりの方々をはじめ、九州各県の同志の福運に満ちあふれた姿を、牧口先生もどれほどお喜びくださっていることであろうか。どうか、このことを強く確信し、最大の誇りとしていっていただきたい。


 人生に偉大な目的をもつ人は強い。偉大な仕事、偉大な道に生き抜いた人は、自らをも偉大にしてゆける。いかなる困も悠々と乗り越え、常に大きく境涯を広げてゆくことができる。

 牧口先生の時代も、戸田先生の時代もの連続であった。その中から何としても活路を開かんとの、初代・二代会長の死闘によって、今日の学会の基礎が築かれたのである。

 その「大」が胸中深く刻まれているがゆえに、私はどのような困にも、またどのような試練にも負けなかった。師匠が偉大だったからこそ、私はひたすら学会に仕えてきた。この信は、これからも絶対に変わることはない。更に更に勢いを増しながら、報の誠を尽くしてゆくのみである。


 さて、牧口先生を迎えての九州総会――この総会それ自体が、いわば波乱の劇でもあった。

 会場に着かれた牧口先生。総会の準備にあたっていた役員が顔色を変えて報告する。「大変なことになりました。特高刑事が3人もきています。総会ができるかどうか……」と。特高とは特別高等警察のこと。戦前の警察制度で、政治関係を担当し、人々に恐れられていた。この頃、既に牧口先生、学会への弾圧の手が伸びていたわけである。

 この報告に牧口先生は、「なに、大丈夫だよ」と悠然と応えられる。

 役員や周囲の人は、“いや、危ないです。行かれない方がいいです”と、牧口先生を止めたいであったかもしれない。だが牧口先生は、何の恐れる風もなく、平然と会場へ入ってゆかれた。

 その時である。会場にいた一人の男が牧口先生に向かって、大で怒鳴るように言った。「国がすすめている天照太神を悪く言うのは、けしからんではないか」。

 いつの時代にも、時流に流される人がいる。何が真実かもわからず、権威に媚び、形勢のいい方につこうとする。こうした信のない臆病な人ほど、哀れな人はいない。

 居丈高(いたけだか)にまくしたてた男は、「どうだ、答えられないだろう」と得気であった。しかし牧口先生は、気迫のこもった目でその男を見つめ返された。男は気圧(けお)されたように沈黙してしまった。

 牧口先生は会員の方に笑顔を向けながら、開口一番「天照太神とは、法華経の行者を昼夜にわたって守護する諸天善神なのです」と。まことに鮮やかな反撃であった。御書に照らして本質を鋭く突いて、パッと切り返す。これが信の戦いである。

 こうして総会は始まり、牧口先生は諄々(じゅんじゅん)と宗教の真実の道について語られた。あの権威を借りた居丈高の男は、いたたまれなくなったのか、いつしか姿を消していた。

 70歳の牧口先生自らが、国家権力を後ろ盾にした妨害の徒との戦いの矢面に立たれ、厳然と会員を守り抜かれたのである。私にはその光景が絵のように浮かんでくる。

 これが広布の「将」の姿であり、代々の会長の精神であった。

 私は、青年部の諸君にこそ、この精神をしっかりと受け継いでもらいたい。いかなる権力、悪の勢力に対しても、厳然と我が身を挺(てい)して立ち向かう学会精神、青年部の魂を忘れないでいただきたい。


 九州総会は、体験発表、質問会と進んだ。「時間だ」とストップをかける特高刑事。牧口先生は2時間、淡々と指導を続けられたのである。

 私も現在、機会あるごとにスピーチをしている。これは後世のために、悪を打ち破り、広布の大道を幾重にも開き、残しておきたいからである。私の命のある限り続けてゆく決でいる。


 ともかく、初の九州総会は終始、牧口先生の勇気ある学会精神に貫かれたものであった。ここに、「創立者」の手づくりによる、信の「原点」が刻み残されている。

 いかなる波乱があっても、毅然と、また悠々と乗り越えていかれた牧口先生。この創価精神さえ忘れなければ、九州は絶対に負けることはない。永遠なる発展を遂げてゆくことができる。否、牧口先生の戦いをえば、九州は負けられない、負けてはいけない法戦の地であると、強く申し上げておきたい。


 交通の便もよくない当時、牧口先生高齢をおして、遠く九州まで何度も足を運ばれた。東京から博多まで、途中の地を訪れながら4日目に到着されるということもあった。今のように飛行機もないし、新幹線もない。汽車の硬い座席に長時間、揺られながらの旅である。高齢の先生にとって決して楽なものではなかったはずである。

 しかし、なぜ九州に行くか――牧口先生はその情を一人の婦人に、こう言われている。

「私は、あなたが本物になれば、こうしてはるばる来た甲斐がある」と。

 本物の信の人を育てたい。そのためには、いかなる労もいとわない。これが初代牧口先生の切なるいであった。

 いずこの地にあっても、「本物の信」の人が一人いればよい。広宣流布の命脈は、その「一人」によって厳然と守られ、幾重にも広がっていくからである。

 私も戸田先生のもとで、その「一人」になることを決して、立った。そして今は、皆さま方一人ひとりが、その「一人」となっていただきたいことを願し、日々広布の戦いに挺身している。


【11.18記合同幹部会 1989-11-12 創価文化会館


 今、草創期と同じ労をしているのは海外である。その味で、世界広布はまだ草創期といっていいだろう。その中から必ずや本物の弟子が陸続と現れることを確信する。日本の学会員が、海外の同志に教えを請うようになるのは時間の問題だ。広布を語る資格もなければ、師弟を語る資格もない幹部を一掃しよう。人知れず地道に戦い続ける庶民を、と崇(あが)め称(たた)えよう。