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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2007-12-11

本日付聖教新聞の長編詩


 君は

 人々のを斬りつけている

 邪悪な友と戦ってきた。

 愚劣な友は

 人を傷つけ

 正義の人を陥れようと

 陰謀の日々となってきた。

 浅ましき友だ。

 鉄槌を下す必要がある。(中略)


 悪逆な嘘つきどもは

 断じて倒さねばならぬ。

 お前の財宝は

 極悪と愚昧のだ。

 私の財宝は

 正義と平和と友情のだ。


【「わが同志(とも)とは三世永遠! 完勝の歴史を刻まむ」/2007-12-08 東京牧口記会館にて】


「友」とは「内部」である。この一節を実践し、の底から納得できる学会員が果たして何人いることか。まあ、100人に1人もいないだろう。ひょっとしたら、1000人に1人もしいかも知れぬ。


 精一杯の背伸びをしたところで所詮、真似事に過ぎない。事実関係の掌握を誤って、組織を撹乱(かくらん)する結果となることは火を見るよりも明らかだ。


 先日、悩み続けてきた同志のために私は一つの結果を出した。3年もかかってしまった。そして今日、師匠からのメッセージをしかと受け取った。私は「ミスター鉄槌」だ。増上慢われるほどの自信に満ちながら、地響きを立てて堂々と歩みゆくことを決した。

中学生文化新聞殿御返事


 2007-12-12付で紹介されたCDは以下の通り――


アニタ・シングス・ザ・モスト ブルースの花束 マック・ザ・ナイフ~エラ・イン・ベルリン


 いくら何でも、中学生にこのラインナップはねーだろーよ(笑)。しかぁーーーしっ、周囲の視線を気にすることなく、自分の好みを真っ向から押し付ける姿勢は見上げたものだ。その気を買っておこう(笑)。スタンダードな本物志向であるのは確かだ。

幹部は“会員の小使い”


 今、世界を「民主」の風が嵐のごとく吹き巡っている。先日も「ベルリンの壁」の崩壊という象徴的な出来事があった。民衆を抑圧する権威や権力を打ち破り、“我らの民主の時代を”との潮流が渦巻き始めている。

「民主」とは何か。それを考えさせるこんなエピソードがある。

 アメリカの開拓時代のこと。ある蒸気船が出発しようとしていた。乗船のため多くの人が列をなして並んでいる。その時、一人の男が列を無視して船に飛び乗った。自分が先に乗るのが当然という素振りである。それは、ある州の議員であった。“何てやつだ”と多くの乗客が怒(おこ)った。男は威張った。「俺は議員だ! 『人民の代表』だぞ!」。人々は言い返した。「何を! 俺たちは『人民』だぞ!」(笑い)。

 議員は言葉に詰まって、並び直さざるを得なくなった――という話である。

「民主」主義である以上、民衆のために指導者がいるのである。指導者のために民衆がいるのではない。

 だが、この道理がいつの間にか転倒されてしまう。

 夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で、猫にこんなことを言わせている。

「役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委託した代理人のようなものだ。

 ところが委任された権力を笠に来て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについてなんらの嘴(くちばし)を容(い)るる理由がないものだと狂ってくる」と。

 漱石は、こうした社会に充満する“狂った人”のことを「泥棒根」と呼んでいる。

「公僕」の自覚をなくし、本来、自分のものでもない権力(立場)を、私用、つまり自分のために使うのだから、「泥棒」と言ったのである。


 戸田先生は、こうした転倒の指導者に厳しかった。昭和29年3度の本部幹部会では、このように語られている。

「幹部は絶対にいばってはならない。抑えてはならない。支部長がどれほど偉いか。会長がどれほど偉いか。みな凡夫である」

「(ただ会長は)絶対の確信にたって、大臣がなにものぞ、天なにものぞという、天波旬も恐れない確信をもっているが、なにも偉くない。もし偉いというならば、それは力をもっているからである」

 そして、「会長は会員の小使いであり、支部長は支部員の小使いである」と。漱石の言う「役人は人民の召使」と同様の“民主の”である。

「小使い」「召使」という言葉は、時代を反映した表現であるが、その本は、人間は一切平等であるとの主張にあったことは言うまでもない。

 学会の幹部も、あくまでも「会員のための幹部」である。会員に奉仕し、献身する存在でなければならない。私も徹底して、この精神でやってきた。これこそ、どんな立場になっても、絶対に忘れてはならない学会の根本精神であると強く言っておきたい。


【第23回本部幹部会 1989-11-18 創価文化会館


 どんぴしゃりの呼吸。小野不一、1ポイント獲得!


 役人も学会幹部も勘違いしているのは、皆さんご存じの通り。


 政治家官僚も世論には勝てない。世論が最も強いのだ。


 今日存在する最も強い政治力は、機関銃でもなく、銃剣でもなく、世論である。


【『クーデンホーフ・カレルギー全集 5』(鹿島研究所出版会)鹿島守之助訳】


 これは米国においても同様で、戦争を開始する際には、世論を誘導する大掛かりな情報操作を行っているのが歴史的事実である。9.11テロですら、そう見る識者が多い(米国の自作自演)。愛国を煽るためなら、自国の犠牲者も厭(いと)わないところに特徴がある。


 今求められているのは、「民主」から「衆賢(衆愚の反語)」へのステップアップである。一人ひとりが聡明になり、一方的に垂れ流されるメディア情報を賢明に読み解く作(情報リテラシー)が必要だ。そろそろ、義務教育から導入すべきであると私は考える。


 学会幹部は、おしなべて「広布の御用聞き」であれ。しっかりと掃除をして、どんな話でも真剣にを傾けよ。それだけで、人は育つ。

村八分


 なぜ、「村十分」ではないのか? 葬式と火事の時だけ、村で面倒をみるからである(二分)。残りの八分は、成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行となる。関係が完全に切れていないところに、いやらしさをじてならない。日本社会における“社会的抹殺=制裁”とは、村八分のことである。小中高生が織りなすイジメの現場では、「シカト」という行為で受け継がれている。村八分は過去の歴史ではなく、現在でもしっかりと行われており、今でも時々裁判が行われている。