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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2007-12-12

権威への崇拝と盲従、現状容認と独立心のなさが日本の精神風土


「リーダーは、民衆の小使いである」との戸田先生の指導者論は、実は日本において革命的なものであった。

“お上には逆らえない”“長いものには巻かれろ”“寄らば大樹の陰”――。権威への崇拝と盲従、現状容認と独立のなさが、長き伝統に培われた、日本の精神風土だったからである。

 かつて、その卑屈な精神を撃ち、変革しようとしたのは、明治の啓蒙家達であった。いわゆる「官」(政府権力)と、「民」(民衆の権利)の争いである。

 福沢諭吉は言う。「官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂(へつら)い、毫(ごう/みじん)も独立の丹(たんしん/偽りのない)を発露する者なくして」「日本には唯政府ありて未(いま)だ国民あらずと云うも可なり(言うこともできる)」(『学問のすゝめ』)と。

 また、歴史についても、「日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ」(『文明論之概略』)と断じている。

 明治日本を代表する啓蒙家・福沢諭吉。さすがに的を射た言葉とう。

 また、大学を創立する際など、彼が「私立」の語に込めたいは、「官」に対する「私」の独立――すなわち「独立した個人」の育成であった。

 それなくして、“一人の時には弱く、集団になると強い”精神風土を引きずっていては、「徳川の世」、封建時代と同じではないか、と。

「独立した個人」を育むことの弱かった日本。それは、世界へ向かう姿にも色濃く反映していた。

 かつて述べたこともあるが、戦前は軍事が先に走り、その後を人間がついていった。戦後は経済の後を人間がついていった。いずれも、「集団」や「力」が先行しての進出であり、「個人」、つまり「人間」は“二の次”にされていた。

 これに比べてヨーロッパの人々などは、是非はともあれ、まず「個人」である。「個人」が世界に飛び込み、道を開く。自らの信に従い、「個人」としての責任をとり、行動する。

 こうした精神が太く骨格をなしている。まことに残なことだが、日本にあっては、そうした志、人格、独立精神が深く根づくことはなかった。


 それではどうして「独立した個人」が出てこないのか。指導者の「悪」に従順な人間が多くなってしまったか。

“東洋のルソー”と呼ばれた中江兆民は言う。

「我日本古(いにしえ)より今に至る迄哲学無し」「其(その)浮躁(ふそう/浮かれ騒ぎ)軽薄の大病根(大きな病気の原因)も、亦(また)正に此(ここ)に在り(哲学がないところにある)」「一種小怜悧(しょうれいり/小利口)、小巧知(しょうこうち/小才子)にして、而して偉を建立するに不適当なる所以也(偉の建設に向いてない理由である)」

 また、「我(わが)邦人(ほうじん)は利害に明(あきらか)にして理義(道理)に暗(く)らし、事に従うことを好みて考うることを好まず」(『一年有半』)と。

「哲学」がなく、軽薄で目先のことのみを考え、「考えることが嫌い」なため、愚かな指導者におとなしく従ってきたのだ、というのである。

「哲学」なき人生は不幸である。「考えること」なき人は惨めである。私が現在、様々な角度から長時間のスピーチを行っているのも、一つには皆さま方に、この「考えること」の尊さを知っていただきたいからである。

 ともあれ、こうした文化人の努力も、それなりの義はあった。しかし、抜本的に日本の精神風土を変えるには至らなかった。――その一例が、“大東亜戦争”で権力の前に次々に転向していった文化人といわれる人々の姿であり、権力に迎合したマスコミであった。

 そして今尚、「地位」「人気」「富」にとらわれ、「利害に明るく、道理に暗し」という無原則な生き方をしている人があまりに多い。“あの人には地位がある、お金がある、がある”。だから“を惹かれる”。だから“ついていこう”等――と。しかし、地位や富があることと、人間的偉さとは全く別である。この点を一人ひとりがの眼を開いて、よくよく見極めていかねばならない。そうでなければ、日本自体が国際社会でも決して尊敬されないであろう。


【第23回本部幹部会 1989-11-18 創価文化会館


 哲学とは、物事の善悪を自分で判断する力のことだ。日本漢字能力検定協会が毎年暮れに発表している「今年の漢字」には「偽」の字が選ばれた。本年1の不二家に始まり、政治家の事務所費に至るまで、偽装のオンパレードだった。


 そこに見え隠れしているのは、「皆がやっているから大丈夫だろう」という甘え、「消費者にバレなきゃ構わない」という身勝手、そして、「上からの指示だから仕方がない」という無責任であろう。


 農耕民族は団体戦である。皆で協力しなければ生きてゆけない。波風を起こす行為が毛嫌いされるのは当然だ。こうして「村の掟」が出来上がる。それに従わない者は村八分となる。


 日本に「個人」という言葉が登場したのは、明治17年頃といわれる。それまでは、「個人」という概すらなかったに違いない。


「赤信号、みんなで渡れば怖くない」――これが日本人の精神風土である。「赤信号は危険だ!」と言う人物がいれば、「余計なことは言わないで、皆に従え」というのが世間のルールなのだ。


 大聖人鎌倉時代にありながら、国主諌暁を断行された。この一事だけでも革命のに値する偉だ。例えば、100人以上従員がいる企で、社長を折伏できる青年部が果たして何人いるだろうか? その上、社長の誤りを指摘するのだ。


 日本の悪しき精神風土は、学会組織にも蔓延している。本来であれば、善悪の基準は御書であるはずなのに、いつの間にやら「組織の論理」がまかり通っている。


 悪いことに対して「悪い」とも言えず、おかしなやり方に対して「おかしい」と叫ぶこともできない人が殆どだ。判断力を失った人々は義務の虜(とりこ)となり、知らず知らずの内に生命力を失ってゆく。「動けば動くほど疲れる。ストレスが溜まる一方だ」――そんなあなたは退転というの崖っ淵に立っているのだ(笑)。


 我が地区、我がブロックに、大善の哲学を打ち込め。役職の権威を叩き伏せよ。

冬柴大臣殿御返事


 公明党のマニフェスト2005年)をないがしろにする理由を説明してもらいたい。


ユーザーの立場で、自動車関係諸税を見直し


 自動車関係諸税は、公共事5カ年計画や道路特定財源のあり方の検討にあわせ、見直します。

 その際、特に自動車重量税については、その財源が本来の道路整備事に活用されていない現状にかんがみ、例えば、暫定税率の引き下げにより納税者に還元することや、その使途のあり方を検討することなど、見直します。


 公明党関係者で説明できる方がいれば、是非とも教えて欲しい。

共産党ビラ配り、僧侶に逆転有罪


 ドアポストに共産党のビラを配布する目的で分譲マンションの廊下に無断で入ったとして、住居侵入罪に問われ、1審東京地裁で無罪になった東京都葛飾区の僧侶、A被告(60)の控訴審判決公判が11日、東京高裁であった。池田修裁判長は住居侵入罪が成立すると判断し、1審判決を破棄、金5万円(求刑金10万円)の逆転有罪判決を言い渡した。


 マンション玄関ホールには「パンフレットの投函(とうかん)、物品販売は厳禁」などとの張り紙がされていた。1審判決は「政治的なビラ配りを禁じていたことが来訪者に伝わるように表示されていなかった」としていた。


 判決理由で池田裁判長は、住民の総としてマンションへの無断立ち入りを禁じていたと判断した上で、張り紙の内容や張り方を検討。「各戸のドアポストへのビラ配布のための立ち入りが予定されていなかったことは明らか。そのことを来訪者に伝えるための措置がとられていなかったとはいえない」と述べ、住居侵入罪が成立すると結論付けた。


 A被告側は「立ち入りを処することは、表現の自由を保障した憲法に違反する」などと主張していた。これに対し池田裁判長は「表現の自由は絶対的に保障されるものではない。を外部に発表するための手段でも、他人の財産権を侵害することは許されない」と述べ、この主張を退けた。


【産経新聞 2007-12-11】


 公明党のチラシを配布する際にも、十分気をつけたい。幹部は世間知らずが多いから、しっかりとこのニュースを伝えておかれよ。