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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2007-12-13

指導者観の革命=“リーダーは、民衆に奉仕する者”


 ところで大聖人は、指導者が「親」として敬うべきものとして、「民」とともに、あるものを挙げておられる。それは「道理」である。

「国主は理を親とし非を敵(かたき)とすべき人にて・をはすべきか」(1524頁)――国主は「正しき道理」を親として従い、「あやまれる考え」を敵として排する人であるべきではないか――と仰せになっている。

 指導者は、人数の多さとか、時の勢いとか、ましてや自分の利害などを“親”として従ってはならない。それが正しい道理にかなっているかどうか、それを根本として現実を見極め、判断していくべきである。

 誰が何と言おうとも、非は非とし、「敵」として排除すべきである。絶対に従ってはならない、との指導者論である。


 ここには重大な味がある。すなわち、「民を親とする」民主主義の原則も、単なる“数の暴力”や、“権利の乱用”“自由の乱用”に陥っては、衆愚の社会となり、崩壊してゆく。

 社会の根底に、「正しき道理」に従うという大原則がなければ、“民主”を貫くことすらできなくなる。

 例えば、「言論の自由」にしても、その権利を正しき道理に基づいて使っていくのでなければ、人権を無視した「言論の暴力」がまかり通ることになりかねない。

 結局、ある人々の信用を失って、先人の尊(たっと)き血と努力の結晶である「自由」を貶(おとし)め、民衆の「権利」をも狭(せば)める口実を、権力に与えてしまう。

 自分で自分の首を絞(し)めているようなものである。また、親の築いた財産(権利)を守るどころか、それを浪費し、食いつぶしている子供にも例えられるのではないだろうか。

 あるいは、自分が努力してつかみ取った「権利」ではなく、いわば“与えられた自由”であるゆえに、大切にしないのであろうか――。


 ちなみに「権利」とは、本来「正しさ」という味に基づく。

 英語では「ライト(right)」、ドイツ語では「レヒト(Recht)」、フランス語では「ドロワ(droit)」が元の言葉であるが、すべて「正しい」ことを味する。

権利」とは、正当、すなわち人間としての「正しき道理」にのっとった資格であるという考えが、こうした背景にあるといえるかもしれない。

 ゆえに日本でも初めは、これらの語を「権理」と訳した。この方が元の味に近い。

 いつしか「権利」としてしまったところに、「正しさ」を無視して、私利をのみ主張する風潮が象徴されているようにもわれてならない。


 ともあれ大聖人の法は、こうした「道理に基づいた民主社会」の基礎を与えるものである。それは民衆を蔑視する「権力の」と真っ向から対立する。ゆえに、常に弾圧されるのである。

「権力の」については、生命論の上から、「他化自在天」「元品の無明」との関係など、いつか論じたいとうが、本日はただ、「人間をバカにし、子をバカにする、利用しようとする、それは権威と権力のに魅入られたである」とのみ言っておきたい。


 日本の卑屈な精神風土。その“根”は何か。どうして、そうなってしまったのか。

 様々な歴史的要因、また議論があろうが、端的に言えばそれは、民衆を自立させるべき「宗教」が、「権力」に取り込まれ、骨抜きにされてきた結果である。

 この一点を、特に青年部諸君は厳しく見つめていただきたい。日本において、宗教は常に権力の僕(しもべ)として、飼い馴らされてしまったのである。

 広宣流布の運動は、この忌まわしき“根”を断ち切り、民衆が厚き大地の殻を打ち破って、続々と立ち上がってゆく革命運動である。ある味で、法華経に説く「地涌」の姿どおりの実践である。

 ここに初めて、兆民の言う「哲学なき社会」を変革する現実の方途もある。一国の精神風土をも変えてゆく哲学とは、現実には民衆に根差した宗教による以外にないからである。


 この「地涌」の革新運動には、「指導者観の革命」を伴う。“リーダーは、民衆に奉仕する者”とのの徹底である。

 この指導者観の「文化革命」「革命」を広げ、定着させねばならない。民衆が賢明になって、決然と立ち上がり、指導者を厳しく監視し、変革させてゆく波また波を起こしていくべきである。

 それでこそ日本も世界も、初めて「民衆の時代」へと扉を開けてゆくことができる。

 また、広布の世界も、大聖人の御にかなった、麗しき「民主」の世界を広げていけるのである。

 戸田先生の「指導者は民衆の小使い」との指導は、こうした味で、文化史的、社会史的にも重大な義をもっていた。

 先の先まで見通した、本当に鋭き、偉大な先生であられた。この先生の遺言を今、私もを限りに叫びきっている。


 私どもでいえば、いわゆる「権威の指導者」であるのか、それとも「信の指導者」であるのか。

 また、組織の力に安住した「組織悪の指導者」なのか、それとも法の力を身に体した「法の指導者」なのか――自分に絶えず問いかけ、謙虚に自身を磨き、成長していかねばならない。

 また、他の世界の指導者も同様である。


 もはや、「権威」で人を引っ張ることはできない。そうした時代は終わった。また、終わらせねばならない。世界の大きな民主化のうねりも、独裁に対する、傲慢な権威に対する反撃であったと多くの識者は見ている。


 それでは何をもって人々を正しい方向にリードしていくのか。それは、「人間」しかない。指導者論も、要するにその人の「人格」に帰着する。

 それでは、「人間」とは何か。

 法の世界においては、その根本は子への「深き祈り」である。

 友に「本当に幸せになってもらいたい」「安穏であっていただきたい」「健康であり、長寿であっていただきたい」と、真から祈りに祈ってゆく。そして、行動してゆく。その「信」が、最高の「人間」であり、指導者の要件となる。また、その「信の深さ」が、自身の「福徳の大きさ」になってゆくのである。


【第23回本部幹部会 1989-11-18 創価文化会館


 薬害肝炎訴訟を見ていると、つくづく官僚主義の恐ろしさをじる。死人を出しても自分達の責任を回避する姿は、もはや人間ではない。組織の利益を守るロボットと化している。


 米国では1977年12にフィブリノゲン製剤が製造承認を取り消されていながら、どうして日本では1994年まで使用されていたのかという批判がある。1978年1の時点で、ミドリ十字には承認取り消しの事実が伝えられていたのだ。この点を究明しなければ、またぞろ薬害の犠牲者を出す羽目となるだろう。


 資本主義は経済効率を目指す。善悪を無視しながら。例えば、BSE(狂牛病)が発生したイギリスは、原因が肉骨粉にあることを知りながら、自国では規制した後も隣国へは輸出をし続けていた(『もう牛を食べても安心か』)。


 また、1999年のNATO軍(90%は米軍)によるコソボ空爆は、古くなった爆弾の在庫処分が目的だったという指摘もある。


 官僚主義は、人間から魂を奪う。


 学会の草創期は清流の時代だった。それでも官僚は存在した。参謀室の足を引っ張り続けた理事室である。『若き日の日記』をひもとけば、その一端が窺える。


 だが戸田先生は、若き先生を甘やかさなかった。


 午後2時より、輸送会議。最高首脳(理事)たちは、その実態を知らず、現場の青年のやりにくきことを配する。


 先生のおられぬ間の責任は、理事長であり、理事だ。怒りたいい、激し。


 夕刻、先生とお目にかかる。


「やりづらくとも、君たちが、学会を支えてゆくのだ」と、厳しき指導あり。先生の胸中……。


昭和33年118日】


 富士美術館や創価高校・大学をつくる際にも、最高幹部は反対した。挙げ句の果てには、坊主から言われるがままに師匠の首を斬ったのだ。


 そこで、私は敢えて官僚部門を設けることを提案したい(笑)。ブロックから方面に至る各組織に事務方のポストを用する。ブロック事務長とかね。この連中に、報告全般と打ち出し伝達を任せる。折伏も家庭指導もしなくていいよ。その方が、はるかにスッキリするとうんだけどねえ(笑)。本部職員で構成すれば、もっとスッキリするわな(笑)。給料が出ているんだから、文句も出ないだろうよ。


 そして、ラインにおいては「役職番付制」を導入する。これで完璧だ(笑)。