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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2007-12-29

そして間もなく


 NHKで「絶景エベレスト街道をゆく」(19:30)が放映される。決して偶然ではあるまい(笑)。

ヒラリーとテンジン


 エベレストの登頂の成功は1953年(昭和28年)。“発見”から約100年、最初のアタック(攻略)から32年の後である。

 成功したイギリス隊は、何と9度目の遠征であった。成し遂げるまでは断じて負けない不屈の英国魂であろう。

 さて、世界中の登山家の“夢”であったエベレスト。誰が初めて、その山頂に立ったのか?

 それは、イギリス隊のヒラリー(ニュージーランド人)と、現地人のシェルパ(案内人・荷運び)であるテンジンであった。

 人々は驚いた。「ヒラリーはともかく、荷かつぎ風情(ふぜい)のテンジンが、この栄光を分かつとは!」。当時、シェルパへの認識は低かった。

 高地民族であるシェルパ族は、ヨーロッパ人がヒマラヤ登山に訪れるようになると、山の案内や登山の手伝いに活躍するようになった。シェルパとは本来、彼らの部族である。

 しかし、彼らは常に冷遇された。彼らがいないと現実には登山できないにもかかわらず――。

 実際に労している人、労働している人、その人をこそ大切にし、尊敬しなければならない。しかし、社会の現実はその反対であることがあまりにも多い。これまでの歴史もそうであった。その逆転のために私は戦っている。また、そこに諸君の使命もある。


 重い荷物は全部、シェルパたちが持つ。危険も同じである。むしろ彼らの方が多かったかもしれない。にもかかわらず、登山家とは食事も衣服・寝所(しんじょ)等も別。立派な装備も与えられなかった。

 しかも成功すれば、栄光はすべてヨーロッパ等の登山家のものになる。

 ある味で消耗品のような扱いであった。もちろん、友情の芽生えもあったが、“利用するだけ利用する”という態度には、次第に不満を持つ者も増えていった。

 このままではヒマラヤ登山も、「民衆を犠牲にしたエリートのスポーツ」と言われても仕方なかったと厳しく見る人もいる。

 こうした中でも、多くのシェルパたちは勇敢に働いた。健気(けなげ)であった。時には自らの命を捨ててまで、登山家を救った。彼らは絶大の信頼を得たが、その待遇は変わらなかった。


 1947年、テンジンの前にデンマンという英国育ちの登山家が現れた。

 デンマンは言った。

「君とエベレストに登りたい。ただし、主人とポーター(荷運び)としてではなく、友人として」

 対等の“山の仲間”として一緒に登ろうというのである。テンジンは動した。

「行きましょう!」

 この時のチャレンジ(挑戦)は失敗に終わったが、テンジンはデンマンの友情を生涯忘れなかった。

 6年後、彼がエベレストに登頂した時、かぶっていた帽子(毛糸製の防寒ヘルメット)はデンマンがくれたものであった。

 あるいは彼は、「友人」と一緒に登り、その喜びを二人で分かち合いたかったのかもしれない。


「同志」のが大切である。その麗しいの交流から限りない力が湧いてくる。異体同が一切の勝利のカギなのである。

 広布の遠征にあっても、彼らは御本尊の御前(おんまえ)に、皆平等である。

 志を同じくする友である。“山友”であり、“岳友(がくゆう)”である。

 口に異体同を唱えながら、最も大切な子を下に見、その健気さ、真剣さをいいことに、利用するだけ利用し、社会的地位を得たり、自分は楽をしようというのでは、そこには、もはや信のかけらもない。権力のに破れた姿である。

 私どもは永遠に「異体同」という広布と信の要諦を忘れてはならない。また、子を利用しようとする悪を見破り、打ち破っていかねばならない。


 次第にテンジンは、「エベレストに最も詳しい男」になっていた。彼なしで登頂は不可能と言われた。彼は実力でこの評価を勝ち取ったのである。

 1953年。イギリス隊、9度目の遠征である。この時は背水の陣であった。

 これに失敗すれば、まず間違いなく他国に先んじられる。北極・南極点到達も他国に越されており、必死であった。エベレストは発見以来、縁(えにし)の深い山でもある。

 また、エリザベス女王の戴冠式に、「最高峰登頂」を贈り物にしたかった。


 イギリス隊は再三再四、テンジンの参加を依頼した。テンジンは迷った。何より体力に自信が持てない。彼はもう39歳になっていた。大病から回復したばかりでもあった。

 しかし、熱な懇願と期待に、彼は遂に決めた。「エベレストで死のう。エベレストなしに自分の人生はないのだ」と。

 エベレスト登頂への夢――これがいつしか、抜き去りがたい彼の「原点」なっていたのである。魂の「原点」のままに生き、死んでいく。ある味でこれほど幸福な人生もない。


 この第9次遠征隊でも、シェルパたちの待遇は悪かった。そのために、いざこざもあった。怒って引き返した者さえいた。しかし今更、目標は変えられない。テンジンは彼らをなだめた。

 そして、不満を抑え切れないと見るや、“秘密”を打ち明けた。

 ――実は山頂には、イギリス人だけが登るのではない。自分も登る。隊長は、登攀隊(とうはんたい)の一人に自分も入れているんだ。我々の旗も頂上に立てられるのだ。

 シェルパたちは喜んだ。そして、生き生きと働き始めた。彼らが不満を持ったままでは、成功はあり得なかったかもしれない。その味でテンジンの登頂は、もはや不可欠の要件であった。


 そして、1953年529日、午前11時半。ついに二人の男が「世界の頂点」に立った。

 その一人は言うまでもなく、“民衆の代表”テンジンであった。敢えて言えば、エリートと庶民のそれぞれの代表が、あらゆる違いを乗り越え、手を携えて頂点を極めたのである。画のような情景であった。

 ――「エベレスト、世紀の登頂!」

 ニュースは全世界を駆け巡った。

 報がロンドンに届いたのは、エリザベス女王の戴冠式の直前であった。これ以上の祝福もなかったであろう。


 欧州の報道では、その多くがヒラリーのみを主役とし、テンジンは完全に脇役であった。眼中になかったのかもしれない。

 しかし実際は、テンジンの力なくして成功はあり得なかった。

 そして、テンジンの存在こそが「世界最高峰」を極めるという“人類の快挙”を、真に義づけた画竜点睛であったと私はう。

 それは、「民衆の実力」を絶対に無視することのできない〈新しい時代の夜明け〉を象徴していたからである。

 広宣流布のエベレストもまた、その登頂の栄光を抱くのは、真に労した民衆自身でなければならない。また、世界のすべての分野においても同様である。この「民衆の時代」登頂のために諸君がいる。


 ヒラリーとテンジンは、世間の惑とは関係なく、互いに深い尊敬と友情で結ばれていた。極限の労を共にした“岳友”に隔てはなかった。

 テンジンは語った(1964年)。「山には友情がある。山ほど人間と人間を結びつけるものはない」と。

 下界のわずらわしさは、“世界の高み”では塵のようなものである。何より“境涯の高み”にを据(す)えれば、小さな利害や情など、ものの数ではない。

 だから――とテンジンは提案する。

問題があったら、山で解決すればいい。(ソ連)のフルシチョフも、(アメリカの)ジョンソンも、そして(インドの)ネールも、(中国の)毛沢東も……」

 文字通り、サミット(山頂)会議の提唱である。

 実際に山に行くかどうかは別にして、指導者が小さな利害や立場を乗り越え、「高山」「境涯のエベレスト」に登って、広々とした気持ちで率直に対話することこそ、人類の悲願であるに違いない。

 私が、米ソ首脳会談をはじめ、人類の課題についてはトップとトップが腹蔵なく語り合っていくことが先決であると主張してきた理由の一つもここにある。


 ともあれ、社会の変化のスピードは速い。問題は、その変化が人間にどのような「生き方の変化」を要求しているのか――それを自覚することなく、百万言を費やして時代を語ろうとも、所詮は流転の波間に溺れゆくに違いない。

 日本も、また個人も団体も、そうであってはならない。

 ゆえに今こそ、人間としての見識を高め、境涯を高めゆく時なのである。


人間主義」「生命主義」の時代。その主役は、若くして最高の哲学を持った諸君である。諸君以外にあり得ないことを確信していただきたい。

 そして、「正法流布」こそ、万年永遠の山であり、民衆勝利への遠征である。

「平和」と「文化」という、その高峰(こうほう)を極めゆくために、「諸君よ、『我が人生のエベレスト』『我が青春の最高峰』に勇んで挑戦せよ」と私は願しておきたい。

 一日一日の山、一つ一つの課題を着実に越えながら――。

 最後に、若き諸君が常に日蓮大聖人の御書を深く深く拝読されることを望みたい。

 そして、最高に有義なこの一年を全員が勝利で飾り、また、創価学会の先駆となり、大原動力となって走り抜いていただきたい。


【第19回全国青年部幹部会 1990-01-08 創価文化会館


 シェルパが置かれた環境はいまだに劣悪だ。アルピニスト野口健氏が「シェルパ基金」(NGO)を立ち上げている。


 現在でも、登山家が亡くなった場合はニュースとなるが、シェルパが死亡しても記事になることはない。


 広宣流布という山は、エベレストよりも壮大で険しいことを我々は自覚する必要がある。


 野口氏によれば、エベレストの山頂近くには人ひとりがやっと歩けるほど狭いルートがあり、凍死して凍ったまま放置されている遺体を踏まないと辿り着けないそうだ。文字通り、「屍(しかばね)を乗り越えて」頂上を制覇するという。


 その上、登攀(とうはん)した後の方が大変で、事故の大半が下山する際に起こっている。つまり、「進むも地獄、退(ひ)くも地獄」という状況なのだ。


 広宣流布の山並みも同様だ。草創の先輩が切り拓いた道を、後から歩くのは楽チンだ。青年ならば、誰よりも厳しいルートを選べ。

そして謎は残った―伝説の登山家マロリー発見記

登山は、敢えて「困難に挑もう」とする文明人の行為


 単に「生きている」だけなら、わざわざしい山登りなどする必要はない。登山は、敢えて「困に挑もう」とする文明人の行為であり、「不可能を征服すること」(フランスの登山家ヤニック・セニュール)である。いわゆる原始人は、「狩り」はしても「登山」はしない。言い換えるなら、登山は自己の可能を探る冒険といってもよい。

 宗教もまた、単に「生存している」だけなら必要ないかもしれない。しかし、「よりよく生きよう!」「より高い境涯に登ろう!」とした時、正しい宗教が必要となる。登山が文明人の行為であるごとく、宗教も文化人・文明人の証なのである。


 アルプスのあるガイドは書いている。

「まずなによりも、わたしたちは生命が、真の生命が好きなのだ。そして4000メートルの空気には、特別の味わいがある」「真の人間は、自分に対して、きびしい者でなければならない。彼のをしずめ、その運命に満足させるには、テレビでは事足りない。志があれば、道は通じる。彼は生存しているだけでは満足できない。彼は自ら生きたいのだ。彼には肉体と魂があるのだ。高嶺は、彼に、行動と瞑を与えてくれることだろう」(ガストン・レビュファ『星と嵐』近藤等訳、白水社刊から)

 つまり、彼は言うのだ――真の生命を戦い取るために山に登る。私は、テレビを眺めるだけの“受動的な人生”“生きながらの死”を拒否する。労の道を進んだ方が自身のためになる――と。

 この「困への愛」に「真の人間」の証明がある。

 烈風に吹かれながら、ナイフのように鋭き山稜を進む。絶壁に足掛かりを刻み、一歩一歩、更に次の一歩と踏み出す――。

 山との格闘は、そのまま自分との格闘である。


【第19回全国青年部幹部会 1990-01-08 創価文化会館


 本日付の聖教新聞に掲載された「随筆 人間世紀の光」を読んで、予定が変わった(笑)。呼吸は合っているのだが、書くタイミングが少し遅れてしまった。


 人間の種類を大きく分けると山派と海派になるらしい。私は札幌の地で、手稲山を見つめながら育ったので完全な山派である。上京してからというもの、関東平野には目印となる山がないため、今でも方角がわからなくなることが多い。


 ガストン・レビュファの『星と嵐』は最も好きな本の一つ。山好きでなくとも手にした人は多い。フランスのクライマーが紡ぎ出す言葉がこの上なく詩的で美しい。


 天に近い場所は、人間を斥(しりぞ)けようと険の峰で立ちはだかる。そこを制覇した者にしかわからない世界が確かにある。

星と嵐―6つの北壁登行 (集英社文庫)

永遠に朽ちぬ生命の日記を綴れ


 ペトラルカは、先人の書から、「自己自身を知れ」という呼びかけを聞き取った。

 時代や社会は様々に変化する。だが、幸福も不幸も結局は、「自分自身」に帰着する。

 御書に「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(563頁)と。つまり、「八万四千」とも形容される膨大な経典も、すべてことごとく「一人」の生命について記した「日記」の文書である、と仰せになっているわけである。

 自分を取り巻く現実の世界で日々、刻々と起こり、展開されてゆく出来事は、すべて自分自身の生命が綴っている「日記」ととらえることもできる。

 宇宙より広大な我が内なる「の世界」に、どのような“日記”を記していくか。三世永遠に続いてゆく、この我が生命を、どのような人生の“文字”で綴ってゆくか。喜び、あるいは悲しみの色の文字となるか。幸福、あるいは不幸のページとなるか。それは、時代や社会がどうかで決まるものではない。すべて「自分自身」に帰着するのである。

 青年部の諸君は、今は悩み多き時かもしれない。試練の人生の季節かもしれない。しかし、その闘の時代に、自分自身の偉大なる広布の日記を綴っていただきたい。永遠にして不朽の生命の日記を記していただきたいと強く願する。


【第18回全国青年部幹部会 1989-12-09 創価文化会館


 人生とは、何かを探し続ける旅路のようなものだ。「何を」「どのように探すか」で幸不幸は決まるのだろう。


 間もなく2007年も終わろうとしている。今年の決はどの程度達成できたであろうか。学会員は振り返ることを知らぬタイプが多いが(笑)、静かにこの一年を顧みることも大切だ。


 人生の折々に様々な目標がある。それに向かって怒涛の如く進んでゆくと、知らぬ間に人間革命が進んでいる。これを化城即宝処という。


 化城とは、同行者を奮い立たせるための詐欺的神通力っていたのだが、人生を欲的に過ごすための目標と捉えれば腑に落ちる。それが単なる欲望によるものであれば、化城のままで終わってしまうだろうし、智を発揮できれば人間革命が伴う。


 ということは、目標は何でもいいのだ。問題は「歩き方」だ。


 闘のさなかにいる同志は、起承転結の“転”に向かっていることを確信せよ。偉大なる劇の主人公として、不屈の魂を燃やせ。

『官僚病の起源』岸田秀


 個々の官僚を道義的に非し、官僚が道義的になりさえすれば問題が解決するとっている人がいるようであるが、そういう人は、無能な上官の排除のシステムが欠けていることや、兵器の改良より兵士個人の熟練を重視することや、補給や情報を軽視することなどの、組織的欠陥のために敗北を重ねる日本軍の弱さの問題を、個々の兵士の勇気の問題にすり替え、個々の兵士が勇敢になりさえすれば勝てるとい込んでい叱咤激励するしか能がない司令官をわせる。

 道義や勇気などの個人のレベルに問題を見ることは、真に問題にすべき組織のレベルの欠陥から目を逸らし、かえってその欠陥を温存することになりかねない。


 たとえば、十何年か前、山本七平との対談『日本人と「日本病」について』のなかで指摘したことであるが、幕府が江戸に北町奉行南町奉行の二つの司法機関を設けえ毎に交替させていたのは実に賢明にして巧妙な処置であった。幕府は奉行所というものが自閉的共同体となりがちなことを知っていたのである。自閉的共同体となった奉行所は身内や身近な人の犯罪は見逃すであろうし、仲間が誤判をしてもそのことを隠して、正しい判決だと強弁しつづけるであろう。しかし、1ヶ後には別の奉行所が事件を審理することになっていれば、そこに歯止めがかかる。

 組織が自閉的共同体化しがちな日本においては、立法、行政、司法の三権分立制度よりも、同じ機能の組織を二つつくって交替させるこのような制度のほうが、権力の乱用を防ぐのに向いているかもしれない。


 特権識がよくないのは、官僚が国民に対して威張っていい気分になるからではない。官僚がいい気分になるだけですむなら、大した害はない。特権識が危険なのは、官僚が国民の犠牲において多大の利益を享受することを正当化する根拠として使われるからである。官僚の不正の背景には、必ず、おれはとくに選ばれた優秀な人間で、国のためにこんなに働いているのだから、これぐらいのことはいいんだというような、不正を正当化する特権識がある。腐敗官僚は気が咎めながらコソコソと不正をしているわけではない。だから、逮捕されたりすると、運が悪かったとしかわないのである。

官僚病の起源 歴史を精神分析する (中公文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)