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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2008-09-11

政府、イラク空自の年内撤収を発表


 政府は11日午前、イラクでの復興支援のため現地に派遣している航空自衛隊を年内に撤収させると発表した。多国籍軍が駐留する根拠となる国連安全保障理事会の決議が12末で期限切れになるためで、米国によるイラク駐留米軍の削減方針も考慮した。高村正彦外相が同日午前、外務省で記者団に「年内をめどにイラクの航空自衛隊の任務を終わらせる方向で具体的な検討に入る」と語った。

 自衛隊の活動はイラク復興支援特別措置法に基づき、来年7に期限切れとなる。現在は航空自衛隊のC130輸送機がクウェートを拠点に、バグダッドなどとの間で国連職員や医療品などを運んでいる。

 安保理決議が失効する来年以降も多国籍軍が駐留を続けるには、イラク政府と新たに地位協定を締結しなければならない。現在、最大の派遣国である米国がイラクと大詰めの締結交渉を進めている。ただ現地の治安情勢は一定の改善が見られ、ブッシュ米大統領は来年2までにイラク駐留米軍を 8000人削減する方針を表明している。


【日本経済新聞 2008-09-11】


 お付き合いもほどほどに。インド洋での給油活動もやめるべきだ。

『テレビ救急箱』小田嶋隆


 オダジマンこと小田嶋隆のテキストは「読む快楽」といってよい。天才的なボキャブラリーセンスが、正確な矢となって突き刺さる。本人が描いたイラストも秀逸。


 テレビの使命は「倫理」や「道徳」ではない。放送コードにしたところで特定の団体の「情」や「圧力」への反応に過ぎない。だから、テレビの下品さについては、もう何も言わない。でも、せめて、キワ物の自爆芸を「お笑い」にする習慣だけはやめてもらいたい。

 だって、モラル云々は別にしても、あんまり哀れで見てられないから。

 にしおかすみこ、小島よしお、ムーディ某、あるいはちょっと前のHGや桜塚やっくんあたりを交ぜてもよいが、彼らが見せているのは「芸」ではない。個人的な「恥」に過ぎない。

 芸人修の初期の段階で、「恥部」をさらけ出す根が求められるという側面はあるのだろう。が、だとしても「恥」そもののは「芸」ではない。

 現状、若手芸人が求められている役回りは、イジメ被害者の「モガキ」だ。で、その七転八倒を、われわれは「笑い」として消費している。要するに、われわれの社会は、誰かが恥をかいたり、痛い目に遭ったりしている姿を大勢で眺めて笑うという、集団リンチにおける爆笑発生過程みたいなものを産化しているわけだ。でなくても、お笑いの世界は、新人部員に裸踊りを強要する体育会系や、準構成員を家畜扱いする暴力団組織と同質のサル山構造でできあがっている。

 だから、もともとは人を笑わせたくてお笑いの道に入ったはずの芸人も、お笑い組織の準構成員として、やぶれかぶれの恥辱露出芸をやらされているうちに、いずれ、ヤクザじみた人々に変質する。と、それに合わせて人生観も、「面白い人」としての自覚よりも、「道を外れた人間」の自識を「芸人魂」と解釈する方向に修正される。かくして、

「ワイらは、素人とは違うデェ」

 ぐらいな覚悟が、彼らのプライドないしは虚栄のよりどころとなり、それゆえ「いかに変わったことをするか」「いかに極端な逸脱を見せるか」「いかに耐えい恥辱を晒(さら)すか」ということが、芸人としての「格」になる。


 春は昔から出会いと別れの季節だった。それゆえ、詐欺まがいの訪問販売者や、街頭で新鮮なカモを探索するキャッチセールスの皆さんにとっても年に一度の書き入れ時だったわけで、つまるところ、春は、どさくさにまぎれて何かをはじめたり、うやむやのうちにその場から逃げ出したりするためにはぴったりの季節なのである。でなくても、3から4にかけて、町には新入生や山出しや事情を知らない新参者があふれかえっている。とすれば、その混乱と傷と興奮に沸く春霞の空気は、テレビにとって、願ってもない背景なのだ。だからこそ、テレビの見世物小屋は、桜咲くこの季節に、古いテントを畳み、新しい花茣蓙(ござ)を広げる作を繰り返してきたわけです。そう。テキ屋の皆さんと一緒。桜前線とともに各地の祭りを北上しつつ、その場限りのテンポラリーな商売を楽しむ、と。縁日。


(※亀田)大毅の態度は擁護できない。容認もできない。が、パンチは、自分に返って来る。ボクサーというのはそういう存在だ。ボクサーである以上、下品なマナーはファンの反発を買うし、分不相応な大言壮語は赤っ恥の原料になる。天に向かって吐いた唾は残らず自分の顔に落ちて来るし、傲慢は惨敗というこれ以上ない屈辱として、わが身に返って来る。おまけに反則はライセンス停止を招き、不用切腹発言は、本人の背中に臆病者の烙印を焼き付ける結果になった。で、ひっくり返った亀は、二度と起きあがれない。あわれだ。

 一方、亀の背中に乗って竜宮で遊んでいた連中は、まったくの無傷だ。

 みのもんたは、一番はじめに手の平を返した。テリー(伊藤)に至っては、亀田を非するのみならず、TBSはぬるいとまで言い切った。これまでずっとそのTBSの番組内で全力を挙げて亀田を擁護し、亀田関連の仕事で一番潤ってきたのがほかならぬ自分自身であるにもかかわらず、だ。


 1966年にビートルズが来日した折、「ビートルズ台風と呼ばれていることについてどういますか?」という問いに対して、ジョージ・ハリスンは、こう答えている。

「台風を起こしているのは、あなたたちマスコミではないのか?」

 と。これが、もう40年も前の話だ。そう。マスコミは変わっていない。まるで成長していないのだ。自分たちで騒ぎを起こしておいて、「この騒動をどういますか」と、他人事のように問いかける手法を、いまだにやめていないのだ。

テレビ救急箱 (中公新書ラクレ 274)

宗教の功罪


 人類、生命といった普遍的価値――高等宗教も、まさにそこを志向している。

 ゆえに、そうした「宗教」は「国家」の権力も、他のいかなる権威をも超越する。それらに屈しない人間をつくっていく。

 東欧の変革の底流にも、ポーランドを始め、「宗教」の土壌を背景にした“人間”の決起が、「イデオロギー」で鎧(よろい)した“権力”を打倒した――この革命劇は一面、このように見ることもできるかもしれない。

 歴史を見ても、「宗教」の力は、まことに巨大である。あらゆる「権力」「権威」が、宗教の力を恐れ、封じ込めようとしたり、利用しようとした事実も、十分に理由のあることなのである。


 問題は、その「宗教」もやがて権威をカサに、しばしば人間を抑圧する存在となることである。人間を解放するはずだった宗教が、制度化するにしたがって、反対に人間を抑えつけ、縛りつける悪の顔を示し始める。

 僧侶の立場を利用して、子を迫害した悪侶らも、その典型であった。

 ここに、制度化された「宗教」の悪に打ち勝つ、生きた「信」「信仰」の力が絶対に必要になってくる。

 人間を外から縛ろうとする「宗教」の悪の面に対して、人間の内面から、限りなく挑戦し、打ち破っていく。この真実の「信」を民衆に教え、根づかせているのが、日蓮正宗創価学会なのである。


 要するに、「宗教」は「権力の悪」にも打ち勝つ力を持つ。その「宗教の悪」に打ち勝つ力、人間解放の究極の力が「信」なのである。

 私たちは、この「信」の力を奮い起こして、幾たびとなく「策謀」や悪知識の「権威」に勝ってきた。


 人間は、いかなる権力、権威の奴隷になってもならない。それでは民衆は利用され、永遠に流転の悲劇となる。この悲劇を転換するために、日蓮聖人は戦われた。国家権力と既成宗教の権威との連合に対して、ただお一人、常に命に及ぶ迫害の中、真実の自由への闘争を続けられたのである。

 どんな権力、権威にも侵されない一個の人間の力、その絶対の証明を大聖人はしてくださった。「人間の旗」「勝利の旗」を打ち立ててくださった。

 この大聖人の御精神、代々の御法主のおを破壊しようとしたのが、かの悪侶らであった。これからも、日蓮正宗創価学会の中に同様の動きが現れてくることがあるかもしれない。それらに負けては、広宣流布はない。人類の真の「幸福」と「安穏」と「満足」への道も消え去ってしまう。

 ゆえに、妙法への正しき「信」を教え、信仰という「魂」を脈々と伝え、永遠に広げていかねばならない。そこに「創価学会」を創立された牧口先生、そして戸田先生の誓いもあった。私は真っ直ぐにその軌道を歩んでいる。


「信」による一個の人間の確立。何ものにも屈せず、「魂の自由」を貫く人間群の育成。私の現在の行動の焦点もここにある。

 それは、状況の変化次第で右に左に揺れる日本人の“自我なき精神風土”を根底から変革する戦いでもある。今のままでは日本人は不幸である。確たる基準がないゆえに、何を見ても正しく判断することもできない。情や利害、先入観等の奴隷となって、自分を見失い、歴史の動向をも見失ってしまう。

 また、人間として信用されず、国際社会にあっても孤児のようになっていこう。


東京・小金井圏青年会議 1990-01-28 小金井池田文化会館


 21世紀の基調とすべき指導である。宗教は人間を自由にする跳躍台でもあり、束縛する大リーグボール養成ギブスでもある。


 宗門問題の前夜ともいうべきタイミングでの絶妙なる指導。我々が気づいたのは、ずっと後になってからのこと。知らないうちに予防接種をされていたようなじだな。いつだって、そうだ。後になってから先生の指導の味を知り、自分の人生の義を勝手に深めている。先生は、偉大なナレーターなのか? 「この時まだ彼等は気づいていなかった。人類史の新たな扉を開いていることを――」。


 坊主の権威には勝ったものの、まだまだ奴隷が多い。いわば「創価のクンタ・キンテ」。役職の奴隷、活動の奴隷、打ち出しの奴隷、成果の奴隷、書類の奴隷などなど。尚、奴隷の定義については「やりたくないことをやらされている状態」としておく。自分の頭でものを考える機会がなかった2世、3世のメンバー。そう、君のことだ。教学的な裏づけが乏(とぼ)しく、まだまだキャリア不足の若い婦人部。そう、あなたのことだ。


 ここで問題にしている「自由」とは、勝手気ままという味ではない。「自分の力を最大限に解き放つ」という次元である。100メートルを走ることに関しては、ジャマイカのウサイン・ボルト選手が一番自由である(北京五輪で9秒72の世界新)。イチローや北島康介も自由だ。トインビー博士は、最も自由に歴史を読み解いたといえる。


 このように考えると、宗教とは「信じる自由」を追求する世界であることが理解できる。その割には、学会員ってえのあ頑(かたく)なだよな(笑)。どうも不自由とみえる。


 日蓮大聖人は封建的な束縛された時代の中で、最大に自由であった。牢獄に縛られた戸田先生も自由な境涯だった。どうして我々は、自由な環境にいるにもかかわらず、これほど束縛されているのか? ひょっとしてSM趣味があるのかも知れない。もっと鍛えて、鞭打って、ローソクたらして……。


 がんじがらめのロープは、社会の至るところに張り巡らされている。これほどの情報化社会になると、「自分の考え」など存在しない。昨夜、君が友人に語った政治的な見は、先週の「サンデープロジェクト」で田原総一郎が話していた内容だ。


 宗教革命が単なる階級闘争となれば、新たな階級が跋扈(ばっこ)する結果となるのは必然であろう。そこに現れるのは、「新たな束縛」に過ぎない。紙上座談会が「赤旗的」な異臭を放っているのは、組織防衛という目的のために、会員の自由を蔑(ないがし)ろにしているからだ。


「確かに自由が大切であることは認めるが、方向を誤ると大変なことになる」という本部長クラスのが聞こえてきそうだ。だが、配には及ばない。自由には自覚が伴うからだ。自由であるからこそ失敗に気づく。「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの――みつを」。だから、つまずくのは早い方がいいんだよ。元暴走族少年なら勘弁しようもあるが、現役中年暴走族はダメだろ? 「ちょいワルおやじ」はファッションのことだが、極悪おやじでは堪(たま)ったもんじゃない。


 当然、自由にだってルールがある。それは、人を傷つけないことだ。そして真の自由を獲得した者のみが、多くの人々を幸せへと導いてゆける。