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2008-09-25

『山手線膝栗毛』小田嶋隆


 一つだけ紹介しておこう。これは凄いよ。小田嶋隆、34歳の時の天才的なコラム。もはや神がかりの領域に達している。ただし、「障りの良い言葉」という表現は間違いで、「あたり」が正解。


 川端康成に「川のある下町の話」という小説があるが、この小説が書かれた頃には、「川」とか「橋」とか「土手」という言葉にはもっと違った風情が含まれていたはずなのだ。

 たとえば初夏の夕刻は、川べりに涼風が流れたはずだし、その風は、当然、一片の重油の匂いも含んでいなかった。そして、土手の斜面に腰掛けて夕涼みをしている少女の長い髪は、どこからどう考えてみても、たおやかになびかなかったはずはないのである。

 ところが、わが平成の東京の川風は、メタンガスと廃油とアオミドロの匂いを乗せて、ビルの壁の間のひねこびた通路を灰燼を巻き上げながら通り抜けて行く。であるから、もちろんそんな場所で夕涼みをする少女なんてものはいるはずがないし、いたところでそういう女の奥歯には、いじきたなく食べ散らかしたピザの切れっぱしがはさまっているに決まっているのだ。

 環境破壊の話をしているのではない。

 私は、不動産屋の陰謀の話をしているつもりだ。

 つまり、具体的に言うと、「主に東京の西半分を拠点に土地開発を展開した私鉄不動産複合体財閥の連中が行なった悪質なる水辺蔑視定着活動の成果」の話を私はしているわけなのだ。

 川は水害と病原菌と公害の源泉であり、海抜高度の低い所に住むのは貧乏人でありまして、ですから丘の上に住むのでなければ貴族階級とはいえないのでござあますのよ、というこのは、決して確かな伝統を持ったものではない。せいぜい戦後半世紀足らずの間に醸成されたプチブルの典型例であるに過ぎない。


 欧米の事情はいざ知らず、わが国では、いや、もっと範囲をせばめて少なくとも東京では、と言い直しても良いが、少なくとも我らが東京では、山の方に住んでいる人間は田吾作だったのである。

「なんでえ、おめっちのとこにゃ橋もないってか」

 ってえくらいなもので、何が悲しいといって、江戸っ子が、運河も掘ってないような山奥に追いやられるほど悲しいことはないのである。

 しかし、それでも大手不動産屋たちは、「○○丘」や「○○台」こそが高級住宅地だ、という宣伝を怠らなかった。なぜかといえば、彼等がどう土地を売ろうとっても、東京で土地が余っていたのは内陸の台地ばっかりだったからだ。海辺や川べりの「一等地」(とあえて言うぞ、オレは)には、すでに由緒正しい江戸っ子が住んでいて、新しく東京に出てきた作蔵だの捨吉ずれに分けてやれるような半端な地面は、草深い「山の手」にしか残っていなかったからだ。

 であるからして、彼等、鉄地複合体制(鉄道および地上げ複合企体)は「郊外」という障りの良い言葉を発明した。そして、それをムジナが出るような二毛作の大根畑に当てはめる一方で、返す刀で東半分の旧東京を「水っぺり」呼ばわりにし、そのイメージの低下を促し続けたのである。

 ……と、何かにつけて私が繰り返しているこの主張は、考えてみれば、「東京者」という、結局のところ東京において最も田舎臭い存在におちぶれてしまった存在である私のような者だけが抱いている、一種のひがみなのかもしれない。

 このことは認めても良い。

 しかしながら、地方出身者にだって地方出身者のひがみがあるはずだ。

 たとえば、東京の西半分を造成した張本人である五島某太や堤某次郎のような人々は、地方出身者であったが、その彼等には「東京者だけが集まって田舎者いびりをしている旧東京体制」に対する敵があったはずだと私はっている。

 だからこそ彼等は、

「よおーし、そんならオラが新しい東京を作ってやるから覚悟してやがれ」

 と決したのであり、そうやって出来たのが、田園調布であり所沢であり多摩プラーザであり、つまり現在の東京であるわけなのだ。

 ううむ。とすると、ひがみのスケールとして、明らかに彼等の方が大きい。それに、おなじひがみと言っても質がまるで違うじもする。

 なにより、我々東京出身者がもっぱら過去の東京や少年時代の東京に拘泥しているのと比べて、彼等地方出身者は東京に自らの未来を見ている。

山手線膝栗毛

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