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2008-11-22

試論:ゲーデルの不完全性定理と仏法


 ちゃあんと「試論」と書いておくよ。それでも不信を起こすような者がいるなら、勝手にしろ、だ(笑)。新しい知識が脳内を嵐のように駆け巡っているのだが、如何せん閃(ひらめ)きが出てこない。ってなわけで、悪い頭でいくら考えても仕方がないので、メモ書きを残しておこう。


 クルト・ゲーデルの不完全定理については以下のページを参照されよ――

 第一不完全定理 システムSが正常であるとき、Sは不完全である。

 第二不完全定理 システムSが正常であるとき、Sは自己の無矛盾を証明できない。


 ゲーデルはウィーン大学博士論文で完全定理を証明した。この時、23歳。そして、24歳で不完全定理を発表。それまで営々として築き上げられた数学のを木っ端微塵にした。人類を真理へと誘(いざな)う人物のメッセージは、いつの時代も衝撃的な破壊力に満ちている。スクラップ・アンド・ビルド。粉々になったのは、過去の常識、旧習、い込み、錯覚など、それまで“正しい”とされてきた価値観だ。


 ロバート・オッペンハイマーが「アリストテレス以来の最大の論理学者」と称賛すると、アインシュタインの共同研究者ジョン・ホイーラーは「アリストテレス以来の最大の論理学者と呼ぶくらいでは、ゲーデル過小評価しすぎだ」と述べた。天才的と称される学者のはるか彼方に君臨したのがゲーデルだった。


 ゲーデルは神の実在をも証明しようと試みた。だが、不完全定理は神をも天上から引き摺り下ろそうとする――


 ニューヨーク州立大学の哲学者パトリック・グリムは、1991年、不完全定理の哲学的帰結として、神の非存在論を導いている。彼の推論は、次のようなものである。


 定義 すべての真理を知る無矛盾な存在を「神」と呼ぶ。

 グリムの定理 「神」は存在しない。


 証明は、非常に単純である。定義により、すべての真理を知る「神」は、もちろん自然数論も知っているはずであり、無矛盾でもある。ところが、不完全定理により、ゲーデル命題に相当する特定の多項方程式については、矛盾を犯すことなく、その真理を決定できないことになる。したがって、すべての真理を知る「神」は、存在しないことになる。

 ただし、グリムは、彼の証明が否定するのは、「人間理によって理解可能な神」であって、神学そのものを否定するわけではないと述べている。


【『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論高橋昌一郎(講談社現代新書)】


 ということは、だ。法にも当然、“解決できない矛盾”が存在すると考えられる。「“欠けるところがない”から円教って言うんだろ? エ、これじゃあ、月の家円鏡だわな」と私は呟いた。特に深い味はない。


 ぐらついても倒れないのが私の信条だ。ぐらつきを前傾姿勢に転じて、加速度を増すのは私の得とするところだ。ざまあみやがれ、ゲーデルめ!


 私はこの数年、なぜ大聖人曼荼羅を図顕し、唱題行を勧めたのかについて考を巡らしてきた。実は、釈尊や天台の法に「祈り」ってないんだよね。で、鎌倉教全体が密教の影響を色濃く受けているため、「密教っぽくなったのか?」なんてったりもした。


 例えば、「偶像崇拝」という言葉がある――


【アイコン】Icon


(中略)このIconなる英語は、実は、「イコン」すなわち、ギリシア正教でいうところの「聖母像や殉教者の肖像画」と語源を同じくしている。

 つまり、キリスト教圏に住む英語国民にとって「アイコン」は、相当に宗教味を帯びた言葉なのである。

 であるからして、漢字および文化圏に住む者の一人として、私は、い切って「アイコン」を「曼陀羅」と訳してみたい衝動に駆られるのであるが、そういうことをして界に宗教論争を持ち込んでも仕方がないので、このプランはあきらめよう。

 さて、「イコン」は、聖書主義者あるいはキリスト原理主義者の立場からすると、卑しむべき「偶像」である。

 彼らは、イコンに向かってぬかづいたりする人間を「アイコノクラスト(偶像崇拝者)」と呼んで、ひどく軽蔑する。なぜなら、偶像崇拝者は、何物とも比べることのできない絶対至高の存在である神というものを、絵や彫像のような卑近な視覚対象として描写し、そうすることによって神を貶め、冒涜しているからだ。しかも、偶像崇拝者は、もっぱら神の形にだけ祈りを捧げ、神のみ言葉にを傾けようとしない愚かな人間たちだからだ。

 ……ってな調子で、融通のきかない原理主義の人々はコしいことを言っているが、一般人は、ばんばん偶像崇拝をしている。

 結局、偶像は、迷える仔羊たちに「神」を実させる道具として有効なのだ。というよりも、形を持たないものに向かって祈ることは、並みの人間にはなかなかできないことなのである。


【『コンピュータ妄語録小田嶋隆(ジャストシステム)】


 つまり、もしも曼荼羅が絵像や木像であったなら、これは完全な偶像崇拝となってしまう。ところがどっこい、大聖人の曼荼羅は文字である。「文字即実相なり」(383頁)。


 面倒臭くなってきたので、結論に入ろう。


 ゲーデルの不完全定理が証明したのは「理の限界」だった。それゆえ、法理論にあっても矛盾は存在することだろう。それを打ち破るのが三大秘法なのだ。つまり、「事の一念三千」の当体となる“行為”という別次元から、法理を証明するのだ。ここまでいついてやっと気づくのだが、三大秘法そのものはではない。「場(ば)」であるとするのが相応(ふさわ)しいとう。


 不完全定理は、理の一念三千を説いた法華経迹門の限界を示している。そして、私の疑問の一つは氷解した。めでたしめでたし。

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