Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2009-01-05

報恩抄を思索する その二


 昨日の続き――


 人の智はあさく教はふかくなる事なり(328頁)


 この御文は、例えを見れば明らかなように、「智が浅くなるが故、相対的に教が深くなる」のではなくして、反比例となっている。


 前回、以下のように書いた――


「法の流布における勝劣=教の深さ」となっているため、教=とは考えられなくなってしまうのだ。


 決定的な証拠を示そう。最澄は、天台以上の論理体系を現していないのだ。で、大聖人が注目しているのは最澄による「戒壇建立」である。これについては前回書いた通りで、「偉大なモニュメント」というよりは、むしろ、僧俗の差別義を打破し、法を社会に開いた事実に着目すべきであると考える。


 しかしながら、比叡山延暦寺に祀(まつ)られたのは薬師如来像であった。ここにも密教の影響が見て取れる。そもそも一般的には、真言宗東密、日本天台宗台密と考えられている。実はどっちも密教なのだよ。


 ここで、もう一度教という言葉の味について考えてみよう。類似しているとわれる語句の検索結果は以下の通り――

 明らかに「教」は少ない。御書を詳しく読んでないため、軽々しく述べることはできないが、次の御文がヒントになりそうだ――


 教をもつて教を失ふこそ失ふ人も失ふともはず只善を修すると打ちうて又そばの人も善と打ちうてある程にはざる外に悪道に堕つる事の出来候なり(115頁)


 例えば「教の浅深勝劣」という観点からすれば、日蓮大聖人は完全に中国教(天台)を採用していることになる。すると、「内証は同じけれども」の箇所に「釈尊」の前がないことも首肯できる。最澄と徳一との論争を大聖人がご存じであった以上、大乗非仏説定されていたものと考えることもできよう。


 その上で、「法の流布」という限定はあるにせよ、天台よりも最澄を高く評価していることは極めて重要だとわれる。


 私見ではあるが、この御文における「教」とは、「時代と社会を変革する運動」を示しているものと受け止める。


 そして大聖人はこの後、「天台伝教の弘通し給わざる正法ありや」とのテーマを掲げ、三大秘法を説くのである。


 今日のところはここまで。


 はっきり言って、私の手に余る疑問であるため、ご見を募集する。以下のフォームに入力するか、あるいは「創価スピリット」の配信メールに返信すればオッケー。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20090105/p2