Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2009-01-10

報恩抄を思索する その三


 問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために留め置き給う迦葉阿難馬鳴竜樹等天台伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだひろまらず一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経等ともをしまず唱うるなり(328頁)


 天台・伝教が弘めなかった正法が「三大秘法」であることを宣言されている。では、「正法」とは一体何ぞや? それは信ずべき対象である。何が正法であるかを判断するまでは徹底的に批判・考証がなされるが、正法と定まると信じるしかない。


 釈尊の対機説法は人間を見つめたものだ。一方、天台の摩訶止観は止観が「禅定(止)+智(観)」であることから精神闘争といえる。じゃあ、三大秘法は何なのかって話になる。


 さとりを求める者が学ばなければならない三つのことがある。それは戒律の統一(定)と智(ちえ)の三学である。


アングッタラ・ニカーヤ(増支部)】

 戒律とは元々教団内のルールであった。


 この戒律(律)は、そもそも出家修行者の修行共同体サンガ)の運営規則のようなものであった。もし戒(シーラ)と律(ヴィナヤ)を分けて言えば、戒は個人道修行を守ろうとする徳目であり、律は共同体の秩序を維持するための規則集といえよう。大乗戒といえども、出家者には、元来小乗教のサンガの律であったものが適用されたのである。いうまでもなくそこでは、独身を守り、私有財産を持たないなど、厳しい行持が要求されたのであった。


【『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男(大東出版社)】


 しかし、日蓮法の場合は受持即持戒で金剛宝器戒となる。つまり本尊に向かい、我が身を律する場が戒壇となる。秩序とは社会の異である。とすると、社会に対して貢献しようとするスタート地点ということも可能だろう。


 本尊と題目に関しては索がまとまらず。ただ、三大秘法でないことは確かである。哲学という行為は、(いごう)に含まれるとはうものの、では括りきれない積極じる。戒定の三学は修行の柱である以上、に貫かれているとわれる。とはいうものの何となく、戒定と信行学が結びついているような気もする。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20090110/p1
Connection: close