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2009-04-29

大石寺の「寺社奉行」的構造 江戸期にみる創価学会破門の源流 1

 菅田正昭(すがた・まさあき=宗教史家・離島文化研究家)


 当然、その一方で、異端を排除していく気風も生じた。というよりも、正統識の純粋培養の中で、自らが異端派を創り出してしまうのだ。すなわち、三鳥(さんちょう)派とか堅樹(けんじゅ)派……等々の異端が興門派(とくに大石寺系)の中から生じてくる。

 三鳥派は大石寺18世の了源日精(1600-83)の愛弟子だった三鳥院日秀を派祖とするグループだが、寛文年間(1661-73)に初めて邪法として「仕置(しおき)」された。江戸時代、徳川幕府は切支丹(きりしたん)と不受不施(ふじゅふせ)と、この三鳥派を幕府指定の「邪宗門」としたが、この三つの宗教の場合、信徒の疑惑がもたれただけで逮捕し処することができた。

 とくに、三鳥派はまだ芽のうちに摘んでしまえとばかり厳しく弾圧され、そのあまりの厳しさのため、取り締まった側の寺社奉行にもその教義・行法(ぎょうほう)がわからなくなってしまった。いわば〈謎の宗教〉である。ただいえることは、宗祖日蓮へ回帰していく過程で日蓮そのものを突き抜け、当時の大石寺およびその周辺に漂(ただよ)っていた法華神道富士信仰の要素を強めてしまったらしいということだ。さらに、法の中で結束力の強化のため共同体的志向が濃厚となり、三鳥派の最期の組織者だった玄了は、流刑地の八丈島で一種の流人コンミューンを夢見て元文2年(1737)3の八丈島最大の流人騒動に巻き込まれて死罪判決を受け、半年後の同年1011日、底土(そこど)の断崖から荒波の洗う岩場へ突き落とされている。

 いっぽう、同じ大石寺系の堅樹派の場合、日蓮・日興・日目の御三尊の原点へ還ろうとする宗教改革から発したようだ。すなわち、自らの派の中に大石寺の信の堅い樹であることを示そうとしたのが、その改革運動の指導者の堅樹院日好(1739-1812)だった。しかし、宗旨人別帳による寺請制度というの〈国家教体制〉の中で、幕府の走狗と化してしまった大石寺は日好を異端派として告発し、寺社奉行の手に委ねてしまうのだ。

 こうして日好は安永5年(1776)2、37歳のとき三宅島へ流され、さらに島内から本土の信者組織に手紙を出した罪を問われて寛政6年(1794)8、利(と)島へ島替えさせられた。それは一種の目上の理由で、実際はその頃、三宅島へ相次いで不受不施やその他の宗教犯が流されていたが、幕府当局は彼らが三宅島で接触するのを恐れて、事前に「島替え」をしたらしい。そして日好は、利島の日蓮宗・長久寺の過去帳によれば、文化9年(1812)128日、行年74歳で遷化(せんげ)している。

 その後、幕末の嘉永2年(1849)4、堅樹派の在家組織「完器講」の講主・(後藤)増十郎が三宅島へ流されている。彼は明治3年に赦免されて東京へ戻って布教を再開するが、創価学会の前身の創価教育学会を創立した牧口常三郎日蓮正宗へ導いた三谷素啓(みたに・そけい)という人は、一説ではこの堅樹派=完器講の系統から出てきたといわれている。


 いま、わたしの机の上に一冊の本がある。堀日亨/編『富士宗学要集・第9巻 資料類聚2』(創価学会昭和53年12刊)である。わたしはその214〜246ページを、しばしばめくることがある。そこには「上編 第十章 異流義」として、三鳥派と堅樹派のことが紹介されているからである。

 もともと、わたしは大石寺法門とは無縁の人間である。にもかかわらず、大石寺法門の〈異端〉である三鳥派と堅樹派に興味をおぼえるのは、彼らがわたしの民俗学のフィールドである伊豆諸島へ流されていたからである。すなわち、流人研究をしている過程での、あくまでも一種の副産物なのである。そして、不受不施や、吐菩加美(とほかみ)神道の井上正鐵(まさかね/1798-1861)、如来教の金木大隅(かねき・おおすみ/1781-1849)、烏伝(からすづたえ)神道の梅辻規清(うめつじ・のりきよ/1798-1861)らと同じように、彼らにい入れをしてしまったのである。

 ここで注目しなければならないのは、この本が大石寺法門の異端派を「異流義(いりゅうぎ)」の辞でよんでいることである。じつは、江戸時代、教各派の本山は自己の内なる異端の発生を、「新義異説」とか「異流義」として寺社奉行へ告発すれば、切支丹や不受不施や、三鳥派でなくても「遠島」にしてもらうことが可能であった、という事実である。この「異流義」の罪で流刑にされた宗教犯が最も多かったのが、不受不施を除くと、三鳥派・堅樹派を含めた大石寺系だった、ということである。いうなれば、〈異流義〉という語の中に、大石寺が持つ闇の部分というか、罪との契機が内包しているのである。したがって、三鳥派や堅樹派の人びとの・志操をみようとはせず、ただたんに大石寺の宗教的権威に寄りすがっての、ア・プリオリな〈異流義〉判断をしてしまうと、その人は江戸時代の寺社奉行の位相に自らを置いてしまうことにもなりかねないのである。


【『大石寺の「罪と罰」』玉井禮一郎〈たまい・れいいちろう〉(たまいらぼ出版、1997年)所収】

大石寺の「罪と罰」

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