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2009-05-30

8月総選挙強まる 首相『解散は補正関連後』


 2009年度補正予算の成立を受け、政府・与党内に29日、政局の最大の焦点である衆院解散・総選挙の時期について、8中の総選挙実施との見通しが強まった。政府・与党が補正予算関連法案や、海賊対処法案、国民年金法改正案など重要法案の成立を確実にするため、63日までの今国会の会期を8上旬までの60日間以上延長する方針を固めたためだ。

 麻生太郎首相はこれらの法案成立後に衆院解散に踏み切る構えで、これにより、712日の東京都議選との同日選挙は見送られることになる。

 これに関連し、自民、公明両党の幹事長、国対委員長は29日に国会内で会談し、今後の政局対応などについて協議した。補正予算関連法案の衆院通過が6上旬にずれ込んだことを踏まえ、当初検討していた7下旬までの延長幅をさらに拡大することで一致。憲法の規定で「60日ルール」と呼ばれる参院のみなし否決を視野に、60日間以上の延長が必要との考えでまとまった。

 麻生首相は61日に公明党太田昭宏代表と会談し、延長幅を最終判断する。衆院解散時期について、首相は29日、首相官邸で記者団に「関連法案が上がらないと(補正予算の)執行に支障を来す」と、関連法案の成立を優先し、衆院解散は関連法案成立後との考えを示した。

 早期解散を求める民主党は「図的な審議引き延ばしはしない」との考え。関連法案や重要法案が早期に成立した場合、首相は78日からの主要国首脳会議サミット、10日まで)前にも解散し、82、9日、遅いケースでも30日の投開票を模索する。


東京新聞 2009-05-30】

「死の幻影」4


 第二に私が得たといえるものは、痛についてである。死の極限に近いような肉体的痛を体験したことのない人には疑わしくわれるだろうが、それはそれでいっこうにさしつかえない。私はそのような種類の痛を味わったことがなくて、痛の状態を論じ得る人がもしいるなら、あまり信用しないが、こちらの方から説得しようという気持もなんらもちあわせてもいないからである。それではなぜ書くのかと問われるならば私は答えるのである、私はただ、人間にはこのようなものもあったのだということを報告しておくだけだ、と。

 極限に近い痛は、人間という生きものの持つ独特の機能である論理的考の働きを粉砕する。人間はまさしく、一個の生きものとしてしんでいる自分を発見する。自分が獲得したと信じ、自分を支えているとい、自分の言葉そのもので表現できるといこんでいたが、もし真に血肉化されたものでなければ、像を絶する肉体の破壊の威力の前にそのような借り物は一切粉砕されつくすのである。どのように孤立化され、周囲から切断されても、真に自立しうるおのれ自身のでない限り、すべて粉砕される。

 ただ、明らかに他の動物とちがうことは、自分を襲っている痛をひき起こした真の原因について、人間は知ることができるし、知っている、ということなのだ。知っているということは、大きなことである。なぜなら、知っているということは、たとえ力及ばないにしても、どう立ち向かえばよいか考える余地があるということである。たとえば、痛が大きくなればなるほど、それをひき起こした対象の質いかんによっては、憎しみを増大させ、いっそう呪い憎悪することで対抗しようとする場合もありうるだろう。そして私の場合は、私のしみをひき起こした対象は、私を死へ向かわせるために存在したのではなく、逆に人間のにおいて私を死からひき離すために、存在したものなのである。したがって、私は、そのしみのさ中にあって、いまは何がどうなっているのか、よりいっそう知るために、医師に小さなでよく質問した。

 ――先生、どうしてこんなにしいんですか、と私はかろうじてある医師に言った。くり返すが、いま述べたような味で私は訊ねたのである。すると、その医師は、しいですか、と言って、しばらく考えた。それからこう答えた。

 ――切ったからでしょうな。

 私はあまりにも痛だったので笑いはしなかったが、本当はその言葉を聞いて笑いだしたかったのである。私はいまの段階の、いまの痛をひき起こしている私の内部の現状を知りたかったのだ。しかし、考えてみれば、その医師も全く正しかったのだ。痛いのは、切ったからでしょう。なるほど。全くそうだ、その通りにちがいない、と私はった、皮膚だけでなく中まで切り裂くということはこんなにも痛いことだったのだ。これが、切る、ということだったのだ。その医師の言葉はまことに単純にして明快だった。私の図とはちがってはいたが。そのおかしさは、私のをほんの少しではあったがやわらげた。まことに、知ることは力である。

 その医師にひきかえて、主治医の荻村医師はていねいであり、相手がしろうとであることを十分に承知の上で、私によくわかるように、考え考え教えてくれるのだった。それは、私が退所するまで一貫していた。

 しいでしょう、しいはずだ、小林さん、と荻村医師は私をのぞきこんで言うのだった。胸の中の出血はどうやらとまりそうだけど、しいでしょう、我慢することなんか少しもいらないんですよ、しいのがあたりまえなんですからね、だけど、病巣はもうすっかりとってしまいましたからね、もう配いらないんですよ、よかったですね、出血がかなり多かったから、13日に抜管(ドレンの管を胸からひきぬいて、あとから、2針縫うのだ)するのが普通だけど、1日だけ余分にようすを見ましょう、いいですね。

 御大のS博士はまたちがっていた。カーテンの中へひょいと入ってきて、どうだい、といきなり言う。はあ、とだけ私は言って、それ以上口がきけない。

 うまくいったからな、肋膜はぜんぶはげなかったがどうっていうことはない、だけど、それでは肺がのびないから、もう一度補正をやるよ、1本骨ははずしておいた、補正は大したことはない。

 そして出て行く。もう一度やる――痛のただ中にある切られたばかりの私にとって、それはおそろしく残酷な言葉だ。その言葉は、私の痛の上にさらに重い力となってのしかかってくる。だが、その言葉は、誰の言葉にもまして、正確に私の内部の現状を私に教える。その言葉は、この痛を越えて、さらに歯をくいしばることを私にきびしく要求する。結核から真に解き放たれることは、人々がうようになまやさしいものではないことを示す。甘ったれた病者の理をまずおのれの中で、おのれの力でたたきつぶさねばならぬことを示しているのだ。知るということはまた、なまやさしいものではない。

 切って4日め、313日に、私はつきそいのおばさんにノートと鉛筆をとってもらい、自由に動く左の手でそれを胸の上に支えた。しびれてよく動かない右手に鉛筆を持ち、労して、ほんの少し記録した。

 翌14日、ドレンの抜管。私は胸にさしこまれた2本の管から自由になった。おばさんに、ベッドの足もとの方へ帯をしばってもらい、手助けをことわって、左手一本で、じりじりと上体を起こして、ようやく2〜3分起きていることができた。この時いぜんとして痛は私をうちのめしてはいたが、死の幻影を見たその第一段階が私において終わったことを私はじた。


(※文中、傍点は【 】に表記を変えた)


【『生命の大陸』(三省堂、1969年)/『死 私のアンソロジー7』田道雄編(筑摩書房、1972年)】

生命の大陸 生と死の文学的考察


死 私のアンソロジー7

2009-05-29

父から渡されたバトン


 私の父は、組織から見放された人々の面倒を見続けた。全部で7〜8人ほど。その中にはタテ線時代の先輩もいたように記憶している。いずれもの病を抱えた人だ。この内2〜3人の方には葬式を出す約束までしていた。役所から父に連絡が入る手筈(てはず)まで整えていたというから抜かりがない。


 気になったので母に尋ねた。母は詳しいことを知らなかった。あるお宅へは一緒に連れ立って訪問したこともあったが、外で待つよう父から言われたとのことだった。その上、父が支部長時代に世話した人々が大半なので、今となっては住所が広範囲に及んでいる。父の訃報を報(しら)せるとなれば、直接訪ねるしかない。


 年賀状を見たところ、比較的近いところに住んでいる方がいた。その一風変わった前が私の記憶に残っていた。「確か、あの人だな……」と記憶を辿った。私よりも4〜5歳年上で、男子部時代に何度か会った覚えがあった。


 帰京する前の日の電話をした。私は小野の長男であることを告げ、「確か男子部時代に何度かお会いしたとうんですよ。ま、会えばわかるといますから」と言って、訪問することにした。か細いに聞き覚えがあった。


 前もって下見に行っていたので家の場所はわかっていた。「盗んできました」と言わんばかりのサビだらけの自転車にまたがって、私は風を切った。


 ピンポンを鳴らすと直ぐにドアが開いた。そこには全く知らないオジサンがいた。ただの一度も会ったことのない方だった。ま、そんなことでビビるような訓練は受けてない。にこやかに挨拶を交わし、家へ入れてもらった。


 既に父の件は知っていた。「生前、父がお世話になりました」と私は頭を下げた。「と、と、とんでもないですよ。お世話になったのは自分の方です」と言われた。「そうじゃありません」と私は控え目に語った。以下がその内容――


 組織には役職という上下関係がある以上、指導する側と指導される側が存在する。では、指導する側が偉いのかといえば、そんなことはない。なぜなら、指導を求める人がいればこそ、指導者は法を説けるのだから。まずがいて、それから民衆が出てくるわけではない。衆生しみに応じてが現れるのだ。これを感応妙という。諸法実相抄によれば、悩める衆生がいるおかげでとしての役目を果たせるのだ。相対して互いのに頭(こうべ)を下げて尊敬するところに信頼と団結が生まれる。だから私の父は、あなたのおかげで幹部としての使命を果たすことができたんですよ。


 聞けば、倒れる1週間ほど前にも父が訪れたという。「微動だにしない自分の中に本当の幸せがあるんだよ」と語っていたそうだ。これを私がもう少し深く打ち込んでおいた。「でもね、微動だにしない人間なんて、いやしませんよ。それじゃあ、まるで像みたいじゃないですか(笑)。人間なんだから揺れるのが当然なんです。微動どころか激動だって珍しくありません。でね、振り子みたいにが揺れるでしょ? 一番大事なのは揺れた後に引き戻せるかどうかなんです。その“戻す力”が本当の自分の力になっていくんですよ」と。


 本当に人柄のよい方で、優しい顔の好人物だった。ご家族の状況なども確認して、1時間半ほど語り合った。「今度から、何かあったら私の方から相談させてもらいますね」と握手をして別れた。


 ま、全員と連絡がつくまで何年かかるがわからないが、父が面倒を見ていた人々に関しては、私が引き受けるつもりだ。父が「葬式を出す」と約束した以上、私が出さねばなるまい。その程度のことは飯前だ。

「死の幻影」3


 私は少しも大袈裟に書いているのではないのだが、はっきりさせておきたいことは、私の味わったこの痛は、【この時の私の特殊なものである】、ということである。これをもって、みんなこういうものだ、というつもりはいささかもないのである。

 あたりまえのことながら、体はみんなちがうのであり、手術にしても、同じ肺結核と言ってもいろいろちがい(正確に言うなら一つとして【同一】のものはない)、また痛と言っても、これまた全部ちがうのである。また骨だけをとる成形と肺摘出では大いにちがい、中には、お産の方がよっぽどしかった、という女も実際にいるのであり、成形だけやった50半ばのある男の如きは、殆ど出血もなくてドレンの管も胸にさされなかったので、手術したその日の夕刻麻酔からさめると、食堂へ出て行って、テレビを見ていたのだ。すると、あなたはいつ手術ですかと顔見知りに言われ、さっき終わりましたと答えて、相手を呆然とさせたのである。これはつくり話ではない。これは事実なのである。したがって、私のこれはあくまで私個人の体験なのである。そして、私のような体験は、程度の差はむろんあるが、まあかなりの人が味わうのだ、くらいに考えておけばよいのだ。多分、私が、あそこへ行けばパタッと死、という、痛を越えてしまった混沌の中で幻影を見たのは、私の手術がそれくらいたいへんだったせいかもしれない。つまり、剥離が完全にできず、出血がとまらなかったことで、私はあんなにしんだのかもしれないのだ。

 しかし、そこを体験し、くぐったために、私は、私が予していたものとはちがった、新しい事実にぶつかることとなったのである。

 その第一は、これまで述べてきたように、たとえ幻影であろうと何であろうと、私は死の影を見、それを具体的にじ得た、ということだ。痛の果ての死を具体的に考える一つの手がかりを私は得た、ということだ。つまり、痛というものも、その極限に達しはじめると、私は痛をずる能力を失っていったのだ。それは痛というものとは別の次元であるようにじた。つまり、痛に襲われている間は、私はまぎれもない一個の生命体としてその生の状況をしんでいたのだ。そのような状態に追いつめられている傷ついた生そのものをしんでいたのである。

 そこを過ぎると死との間の中間帯の次元が現れる。そこでは痛をじ反応し、さまざまの信号を脳が発する能力はしだいに弱まり、あいまいになってしまう。そこに入っていった時、私は、あたたかい地球から離れてしまった、とったのである。このまま行けば、いっそう私自身も周囲の空間もつめたくなり、そして、そのきわみに、一切が突然なくなってしまう世界がある、とったのである。なるほどこういうものだったのか、というぐあいに私がった、そのことが鮮明に残っている。

 そこにはもう、ただ一つのことを除いては、どのような人間情も存在しなかった。おれはいま、燃えつきようとする一個の物体だ、と私はい、そして私の親しい人々に対しても、また私自身についてすら、喜んだり悲しんだりするすべての情はもはや消滅していた。これはいまにしてえば全く予しないことであった。親しい多くの人々と別れて、淋しいとかつらいとか悲しいとか、そういった情はここにくると、もう存在しなかったのである。

 ただ一つだけ、最後まで残っていた情がある。それは、何とも言えない無いであった。こうやってついに生命に別れを告げるのか、という確認と同時に、かつて人間であり、ただ一度の生を生きたというその証拠を、自分がこうしてパタッと消えるとしても、やはりつづいていくであろう人間の歴史の上に、たとえどんなかすかな爪あととしてでも刻むことなくして飛び去らなくてはならないという無さであった。

 これは外だった。自分なりに精いっはい生きてきたつもりだったのに最後にそんなものが残るとは夢にもわなかった。どうせ死んだらどんな人間もみな同じだ、とったりする人も世の中にほあるが、一回きりの生命というものは、一回きりのにおいて、最後のどたん場で、私を責めたのである。このことについては、これが出発点となって、それ以後私はその内容をさぐっていくようになるのであるが、それは第3章で追究していくことにする。ただ私なりの考えの一端を書いておくと、どうせ一度きりのいのちだ、どう生きようと自由だ、という考え方は、それはそれで、私は別にどう干渉するつもりもないが、生のまさに終えんとするそのどたん場で、はじめて愕然(がくぜん)として、言い知れぬ無いを抱いて死に突入するほど、凝縮された絶望はほかにあるまいとえるのである。


【『生命の大陸』(三省堂、1969年)/『死 私のアンソロジー7』田道雄編(筑摩書房、1972年)】

生命の大陸 生と死の文学的考察


死 私のアンソロジー7

兜羅緜/兜羅綿(とろめん)


《「とろ」は、梵語の音写。綿花の》綿糸にウサギの毛をまぜて織った織物。色はねずみ色・藤色・薄柿色などが多く、もと舶来品。のちには毛をまぜない和製のものもできた。


【『大辞泉』】

2009-05-28

初七日


 今日が初七日。の勤行を皆で行う。勤行を始めた途端、曇っていた空から光が射(さ)した。私は、14時30分千歳発のANA66便にて帰京。


 この間、実にたくさんのお悔やみメールを頂戴した。から謝申し上げる。


 父は、11日に「、」(読点/とうてん)を打ち、22日には「。」(句点)をつけて今生の幕を下ろした。この11日間は、家族に対して「一家和楽の信」の楔(くさび)を打ち込む期間であったと私は確信している。ま、元々短腹(たんぱら=短気の)だったので、エイヤッと逝ってしまったのだろう。


 識不明の時から半眼半口だったので、あまり配はしていなかった。ところが、遺体と対面したところ口が閉じていた。「あれ、おかしいな?」とい、よく見ると、枕が高くなっていて、胸に乗せた大きなドライアイスが父の顎(あご)で抑えられていた。「おいおい」と言いながら、ドライアイスをずらし、枕の下の綿を一つ抜いたところ、ちゃあんと口が開いた。開かなかったら、力ずくで開かせるつもりだった(笑)。遺体は柔らかいままだった。


 私が導師となって、親戚一同と共に仮通夜を行った。父は生前、「自分にもしものことがあったら、タカシ(私の本)を導師にして家族葬で送って欲しい」と親戚の伯母に語っていたそうだ。伯母が「タカシでいいのかい?」と確認したところ、「ああ、タカシだ」と答えていたとのこと。諸般の事情があって通常の葬儀となったが、仮通夜で長男としての義理は果たしたものと考えている。


 続いて湯灌(ゆかん)。者が持ち込んだ浴槽にお湯を張るのかとっていたら、柄杓(ひしゃく)で足に掛け湯をし、シャワーで洗うだけだった。「下らん作法だな」とっていたのだが、一部の親戚はいたく動していたと後から聞いた。とにかく、家族一同で元気一杯祈っている様子を羨ましくっていたようだ。


 亡くなった翌日に、老婦人が娘さんと弔問に訪れた。私は「折角なんで触っていって下さいよ」と棺(ひつぎ)の蓋(ふた)を持ち上げた。老婦人は頬に手を伸ばしながら泣き崩れた。この泣きっぷりが凄かった。私も危うく、もらい泣きしそうになったほど。


 24日(日)18時より、やわらぎ斎場にて通夜。北海道は結婚式は簡素だが、葬式は盛大に行うようだ。友人葬でありながら、東京とのあまりの違いに驚かされた。会場も私が見てきた中では最大級。「こんなに来るのかよ?」と配したが、場外に溢れるほどの参列者が来てくださった。その数、450人。弔電も80通ほど。非常に残なことに、通夜では遺体の顔を見せないとのこと。東京じゃ見せるけどねえ。3人の孫による弔辞も動的だった。


 25日()10時より告別式。これまた150人も参列してくださった。妹が「触ってあげてください」と言い、たくさんの方々が父の柔らかい頬に触れて、涙に掻き暮れていた。火葬場で最後のお別れをした際、更に口が開き、白かった顔には赤味がさしていた。そして父は遂に骨と化した。最後に骨壷に収める10センチ大の頭蓋骨を6人の子供達が箸で運んだ。骨の向きが反対であったため、私が「離せ!」と大きなで言うなり、他の5人がさっと箸を離した。その様があまりにも鮮やかであったため皆が大笑い。ま、他にも面白いネタはあるのだが今回は控えておこう。その後斎場に戻り、初七日&四十九日の法要を行った。


 小野タケヒロの生命は大宇宙に冥伏(みょうぶく)した。もう二度とあの怒鳴りを聞くことはできない。しかし沈黙したまま、これからも多くのことを教えてくれることだろう。


 父は最後の最後まで悪い幹部を糾弾し抜いた。6人兄弟の中で父に一番似たのが私だった。だがこれは、血やDNAの類いではないとっている。たまたま私の歩んできた道が、父の歩んだ道と似ていたのだろう。ある程度の訓練を受けると、誰もが同じ軌跡を辿るのだ。本気で民衆を守ろうとすれば、権力のと戦わざるを得なくなる。そして権力と戦う人は多いが、勝てる人は少ない。


 本当に“戦う人生”そのものだった。もう少し楽しい人生を送って欲しかったというのが私の本音である。だが、会員に尽くし抜いた一生を私は誇りにう。これからは、父が遺してくれた“信”の財産を私が継承してゆく決である。


 お父さん、ありがとうございました――。生きている内は一度も言えなかったが、私のを父は知っていたはずだ。私は一粒の涙もこぼさなかった。父と私との間に傷は必要ないからだ。ただ、あなたの子であったことに謝は尽きません。


 今、ほんの少しだけ涙――。でも、泣かなかったことにしておく。

2009-05-22

23時47分


 父逝く。南無妙法蓮華経――。

 享年69歳。

 もう一つくらい、い出をつくっておきたかった。

 されど、に無の風は吹かず。

 不肖の子にとっては、最後の最後まで偉大な父であった。

 涙は滲むが、絶対にこぼさない。

 小野家の第二章が、ここから始まるのだ。

親孝行


 父が倒れたと聞いた時、「まだ、孝行らしい孝行もしてないのに……」といういが込み上げてきた。続いて「親孝行したい時には親はなし」という言葉が浮かんだ。言葉には人の考を縛る作用がある。そこで私は脳内の回路をつなぎ変えた。「だったら、親孝行しようとわなきゃいいんだな」と。私はを決して親不幸の道を歩む。こうなったら、グレてやろうかな(笑)。

「死の幻影」2


 この第1回めの手術で私は5200ccの血を失った。もちろん、もし、そんなに大量の血がなくなったら人間は生きておられない。つまり私は、あらかじめ輸血であつめた血の量を慥(たし)かにこえる他人の血液を、新たに体内にそそぎこまれたわけで、それによって生きていることができたわけである。長時間の全身麻酔と大量の輸血、これが私の数時間にわたる手術を支えていたのだ。そして、この長時間全身麻酔の技術開発が、肺外科の進展に全く新しい局面を開いたのである。戦後かなりの期間は同じ手術と言っても、肺そのものを手術するというのでなくて、肋骨を何本か切って病巣のある肺の部分をおしつぶす手術、つまり胸郭成形だったのだが、それは全身麻酔の技術がまだなかったために、言ってみれば、人間が識を失うか失わないかのほぼぎりぎりのところで麻酔をやめて骨を切ったのであるから、どれくらい手術そのものが痛なものであったか像することができる。

 いつ、どこらあたりから識がもどりはじめたか、私ははっきりと言うことができない。いや実際は、手術室の前の部屋で医師に起こされて、どうやら礼を言ったらしいのだが、全く覚えていない。まして、私が看護婦を見て、びっくり仰天するようなことを口走ったかどうか、わからないのであって、これは困ったことである。しかし、長い長い廊下をストレッチャーで運ぱれて帰ってくる時、私は最初のを聞いている。そこを気をつけて、と言うのである。廊下は、木のつぎ目が多くて、ほんのちょっとでもガタンとゆれると、それは私にこたえたらしいのだ。らしいというのは、廊下を運ばれながら、ガタンとするたびに痛い、痛い、と言ったことを記憶しているからである。それからまたすぐ記憶はなくなる。

 次は、何人もの手でストレッチャーからふとんごとかかえあげられ、そして、ベッドに移された時、私は、誰にも多分かぼそい悲鳴としか聞えなかったであろうが、痛い、痛い、と言ったのである。そしてまたすぐ識はなくなった。この時はまだ麻酔の残りで、其の痛を私は味わってはいなかったとう。

 10日の深夜から識がもどってきたが、それと共に痛が来た。それは怒涛といってよかった。それに襲われると、眼の前も頭の中も、真赤になった。血の色である。私はふんづけられ、くちゃくちゃにまるめられ、ひきちぎられ、たたきつけられ、うなりをあげた。その極限で識はもうろうとなり、幻影じみたものをたびたび眺め、そして昏睡した。また識がもどってきて、私をふみくだく。私の胸からつき出しているドレンの管に、私が、うっ、と言うたびに血がふき出しているらしい。私は胸の中にたまっている血が喉へつきあげてくるのがわかるが、咳をすることが全くしくてできない。そして、熟練したおばさんが私の胸をかるくおしながら血を吐かせる。おばさんが隣のおばさんに、囁くように言うが、眼を閉じてうめいている私のにとてつもなく大きく聞える。

 ――血がとまらないのよ、ドレンの管へびゅっびゅっと、ほら、こんなに、こんなにたまってしまって。

 そして痛みの極みに達した時、私はすうっと飛びはじめたのをじたのだ。いまにしてえば、これは多分幻覚だろうとうのだが、私は、その時、私の姿をはっきり見た。私がこなごなに割れて、燃えつきた黒いかたまりになって、果てしない空間を、とてつもない速さで飛んでいくのである。私は地球を離れたとじていた。ガガーリンは、地球は青かった、という言葉を人間の歴史に刻んだ。私は空間を飛びながら、ああ、おれの地球はあたたかだった、とっていた。ほんとにあたたかい星である地球の大地、そこから私は離れて、いまとても寒い、とった。とてもつめたい。いっそうつめたいところへ飛んでいく。そして私の前方は無限の宇宙空間であり、うす青い色からしだいに濃い青へ、そして黒々とした色へとつづいていた。そうだ、このまま飛びつづけてあそこへおちこんだ時、あの手術室のマスクの中で、突然、何もなくなってしまったように、おれは、パタッとなくなってしまうのだ。こうやっていって、そしてパタと。これが死なんだ、と私ははっきりった。

 その時、私はもう自分の痛すらじ得ないもうろうたる状態にあったらしい。

 ――そうか、こんなぐあいなのだな、しくてしくて、というのはあるところまでで、そして、そこを越えるとこんなふうにぼうっとしてきて、そして飛びはじめて、飛びつづけて、あの青黒く果てしもない空間の中でパタと、と私はった。

 そうか、かつて、手術を受けても死んだ人たちは、いまのおれと同じここまで来て、そして、ここから先へ、あの黒い空間の淵へ行ったんだな、そうか、こんなぐあいだったのか。それが、死だったのか。

 そこから不に私は、全く強引に、荒々しくつれもどされた。私は全然知らなかったが、レントゲンの器械をおして技師が入ってきていたのだ。私の、手術直後の内部の状態を正確に見るために、深夜、ベッドの上で写真をとるのである。これは、私をひきもどす人間の手だった。私の襟をしっかりつかみ、彼は少しばかり私を起こしたらしい。しかし、私は、肉と皮をばりばりはがれるような痛みで悲鳴をあげた。それはどうもになっていないらしかった。斜めに起こされた私の背中にかたい大きな板がさしこまれ、そして、写真をうつされると、私はもとのようにねかされた。私はもうあのつめたい空間にはいなかった。地球の上で、ベッドの上で、身動き一つできずにうなっていた。私はまた痛にひきちぎられていた。


【『生命の大陸』(三省堂、1969年)/『死 私のアンソロジー7』田道雄編(筑摩書房、1972年)】

生命の大陸 生と死の文学的考察


死 私のアンソロジー7

2009-05-21

一歩前進


 たくさんのお見舞いメールをお寄せいただいた。より謝申し上げる。


 今、一番下の妹から電話があり、「先ほど父の目が開いた」と。目の焦点は合っているものの、まだ識があるとは言いいようだ。多分、視覚野が機能し始めたのだろう。こいつあ、ビッグニュースだ。本当に嬉しい。皆の題目のおかげ。


「目は、むき出しになった脳である」という指摘もある。五官の中でも情報量が最も多く、他の四つの器官が物質を介在するのに対して、目は同時並列で一瞬にして情報を処理する。父の脳にもたくさんの刺激を及ぼすことだろう。


 脳幹は、脳と身体との間にあり、生存本能を支えている場所である。大脳は人間の考を司っており、小脳が運動機能を調整している。情動を支えているのは大脳辺縁系といわれている。そして、意識と生命を維持しているのが脳幹である。


 そこは、煩悩の嵐が渦巻く世界であろう。脳幹こそは、生と死を分かつ崖っ淵といってよい。欲望よりももっと根源的な本能がメラメラと燃え盛り、十界の原動力となっているのだろう。父は、そこで上半身を此岸にしがみつかせ、下半身を彼岸にブラブラさせているような状態であると察する。


 脳幹は医師の手をも拒絶する。そして、我々家族の手も届かない。生死の淵で辛うじてつなぎ止めているのは、まさに「祈り」だけである。私がつらつら書いている悟りは、まだまだ考の次元に過ぎない。私自身が脳幹で祈る必要がある。考や情よりも奥深くに存在するであろう“祈る本能”を引きずり出して、御本尊に体当たりするのみだ。


 なづき(頭脳)をわりみ(身)をせめて・いのりてみ候はん、たださきのいのりとをぼしめせ(908頁)

「死の幻影」1


 小林勝(こばやし・まさる)

【(1927-46ママ)〈※没年は71年の誤り〉

 作家。鮮に生まれる。鮮の中学から陸軍士官学校へすすみ、敗戦後、旧制都立高校を経て、早大露文科を中退。1952鮮戦争反対集会で逮描され、あしかけ8年の裁判ののち敗訴、半年間の刑務所生活を送った。そのとき獄中で書いた戯曲「檻」は新劇戯曲賞を受けた。おもな著書には『フォード・一九二七年』『断層地帯』『檻の中の記録』『強制招待旅行』などがある。死後『明治五十二年』が刊行された】


《『「生死一大事血脈抄」の池田会長講義』(1977年4聖教新聞に掲載された講義/後日、小冊子に)で引用された作品。小冊子42ページ》


 310の6時15分、私は観察室のベッドの中で眼覚めた。観察室のベッドは白いカーテンをぐるっとひくと、白い壁の狭い個室となる。その仮の個室の中で私の頭はたいへんすっきりしていた。さっそくノートを開いて、私は書いた。

「7時には起きなくてはならない。だが、こうやって、イヤホンでラジオを聞いていると、のんびりして、あたたかくて、気分がいい。外は曇りでだいぶ寒いようだ。もう、何もたべたり飲んだりしてはならない。昨夜は、睡眠薬を2粒のんで、これでいったい効くのか、少しも変りがない、などとっているうちに、一切不明。そして限が覚めてみると、このだった。

 脈搏は60。体温は、5度9分。」

 ここで術前の記録は切れているのだ。記録が再び始まるのは、手術日の10日をいれて4日め、313日からである。この4日間、私はついに一字も記録することができなかった。私は昏睡からよみがえり、すぐまた支離滅裂の境地にさまよいこんでいき、またよみがえってうなり、そしてまた混乱の渦へのめりこむという状態をまる4日にわたってつづけた。この4日間の記録は全く残なことにノートに書くことが不可能だったから、つまりどこにもないのである。それはいま、私の頭の中にあるだけなのだ。いま、それをできうる限りたどりながら、事態が、私の懸命な準備とどのように一致したか、あるいはどのようにちがっていたか、あるいはどのように予外のものが現れたか、検討してみることにしたい。

 10日の、7時前につきそいのおばさんがやってきた。おばさんはもう15年もこの仕事に従事してきたそうで、口数は多くなく、この道の熟練者である。私は、おばさんに教えられながら下帯をつけたきりの裸体の上へゆかたを着て、処置室へ行った。そこに患者運搬用のストレッチャーがあって、その上に私は横になった。すぐ予備麻酔がうたれ、気分がのびやかになり、うっとりしてくる。おばさんが毛布のすそをまくりあげて、熱い湯でしぼったタオルで足くび全体をあたためつづける。これは血管を膨張させて、そこへ輸血の針をさしこむのが容易なようにするのである。しだいに、時間の観はぼんやりとなっていった。眼をガーゼでおおわれていて、うっとりと眼を閉じているだけである。

 それから看護婦とおばさんによって、私をのせたストレッチャーはごろごろと動きだす。長い長い廊下を動いている。これから全身麻酔をかけられるが、その最後がどんなぐあいになるものか、よくよく見きわめようと、私は考えている。は平静である。

 手術室へ入った。床が木から固いタイルに変ったことがわかった。それから、手術台に移される。医師も看護婦もサンダルで動きまわっていて、そのかわいた固い音が響いている。カメラマン氏は手術の最初からうつすのだと言っていたが、来ているのやらいないのやらわからない。そろそろ始めますかな、という若々しいが聞える。誰のだかわからない。不にやわらかな酸素マスクのようなものがおしあてられ鼻と口をすっぽりとおおった。

 ――いまは酸素が出ています、と誰かが言う、頭の中でゆっくり数をかぞえて下さい。

 いち、に、さん、し、……いまか、いまか、と私はう、ほんとにこれはまだ酸素らしいな、ずいぶん時間をかけるものだな、とったその時、突然、ばっと何もなくなった。私がいなくなった。そんなぐあいだった。

 私は二度これを経験した。二度めのときは、もっと注深く、その途切れるところに気をつけていたのだが、突然、ばたっと消えて、それでもう何もかも一切がなくなるのである。この、何もなくなるじ、その瞬間は全く鮮やかな印象で、全部なくなってしまうあのじは、二度ともそうだったが、まことにあっけらかんとしていて、すがすがしくさえある。

 それから手術が約4時間時間をかけて進行し、私の背中は肩胛骨によって切り裂かれおしひろげられ、肋骨(ろっこつ)がはずされ(と言っても一端だけ)そして上葉と中葉が摘出された。もちろん私の知らぬ間である。それから、肋膜の癒着が少しずつメスによってはがされていったのだが、私の場合癒着はひどいものだったらしく、出血がひどくなり、さすがのS博士も全部はがすことをあきらめざるを得なかったとあとで聞かされた。

 もともと肺臓はビニールの袋のような肋膜に包まれているのだが、残された肺は肋膜の一種の袋におさめられ、袋に穴があいていると、気胸を起こす(つまり、袋からどんどん空気がもれて、肋骨の内側をおおっている膜と肺を包んでいる膜との間にたまっていくと、肺はその圧迫を受けてちぢんでいって、呼吸困になるのだ)ので、空気もれがないかどうか、切り開いた胸腔の中へ液体をそそぎこんで、その中へ沈めてしらべるのである。つまり、パンクした自転車のチューブへ空気をいれて、水の中へつっこんで、空気の泡がプクプク出てくるのをしらべるのと同じことなのだ。穴がないことがたしかめられると、液体を吸いあげて、処置をほどこしてから、あとは、縫い合わせるという、まあだいたいこういった手順でことはおこなわれるらしい。とにかく気管支を切り、大小無数の血管の網を切りながらおこなうのであるから、その技術たるや、なみたいていのものではないにきまっている。

 こうして私は皮も肉も骨も、そして胸の中までも切られて、縫い合わされたのであるが、昔は刀でこれくらい切られると人は確実に死んだのである。つまり昔は死んだということは、手ちがいがあればいまでも死ぬ可能があるという、そういう状態にまでもっていって、しかもなお、死の手へ渡さずに確実に生命を確保する技術なのだ、ということである。私はそのことをきもに銘じておきたい。つまり、死へのぎりぎりのところまで人間をもっていっても、確実にそこから人間をとりもどす技術と確信を今日の肺外科医は持っているのであって、したがって、肺の手術は盲腸なみ、などと安易に考えてはならないということなのである。それは同じ手術という言葉はつかっても、全くちがうものだというふうに私にはわれるのである。


【『生命の大陸』(三省堂、1969年)/『死 私のアンソロジー7』田道雄編(筑摩書房、1972年)】

生命の大陸 生と死の文学的考察


死 私のアンソロジー7

2009-05-20

腹八分目の勝利


 また100%という前提に立つとついウソやごまかしが出てきます。100%を目指してうまくいかないと、「まずいなあ、1個間違えたぞ。今までの信用を全部失う」とって、「ウソをついてごまかそう」、「誰かのせいにしよう」となるのです。これは几帳面で真面目な人が起こしやすい間違いです。100%を望むのでなく80%でいいとっていれば、問題は起きません。ミスをしても「いけない、やってしまった」でいいわけです。素直に「ごめんなさい」と言えます。

 真面目な人は100%を望みますが、そもそも100%の完全などありえません。完全主義というのは潔癖主義と同じで一種の病気です。自分に対する執着の表れ、すなわち自己愛が強すぎるのです。力を出し惜しみする80%ではなく、80%という気持ちの余裕をモノサシとして持っていればいいのです。


【『運に選ばれる人 選ばれない人』桜井章一(東洋経済新報社、2004年/講談社+α文庫、2007年)】

運に選ばれる人 選ばれない人 運に選ばれる人  選ばれない人 (講談社+α文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-05-19

栄光


 若くして死ぬなら死んでもいい。しかし栄光もなく、祖国に尽くすこともなく、生きた跡形を残すこともなく生きているのだったら、若くして死んではいけない。そんな生き方は酔生夢死も同然だからだ。(※32歳)


【『ナポレオン言行録』オクターブ・オブリ編/大塚幸男訳(岩波文庫、1983年)】


ナポレオン言行録 (岩波文庫 青 435-1)

2009-05-17

一時間置きに現れる悟り


 本来であれば私事はあまり書きたくないのだが、記録として残しておきたいゆえ、何卒ご容赦願いたい。


 父の件で好き勝手なことを書いているが、実はこれ悟りである。そこ、笑わないよーに! いや本当の話だ。大体、一時間に一つの悟りが現れる。明らかに脳内でシナプスのつながり方が変わっている。「あ、こうなんだな」ってな具合だ。ひょっとすると三千遍かも知れない。私のスピードだと45分を切る時間である。


 父が倒れたのが11日の午後のこと。で、「今日、明日がヤマです」と医師から言われた。私は15日から謝の唱題を捧げている。父は既に寿命を延ばしているとっているからだ。で、今日もまだ生きている。つくづくありがたいことである。本当に「有りい(有ることがしい)」とはこのことだ。


 命は三千にもすぎて候・而も齢(よわい)もいまだ・たけさせ給はず、而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべし、あらをしの命やをしの命や、御姓並びに御年を我とかかせ給いて・わざと・つかわせ大日月天に申しあぐべし(「可延定書」986頁)


 初めは「親父が生きていて、ありがたいなー」とっていたのだが、「そういや、俺が生きているのもありがたいなー」となり、「先生もお元気で嬉しいなー」と、妙に生温かい情が湧いてきた。父の病が、“当たり前であることの幸福”を教えてくれているのだ。謝は尽きない。

『隻腕の剣士 教壇に立つ』浅野健治


 その夜、彰(あきら)くんが教師になって、剣道部顧問として頑張っている姿を、どうしてもその人に伝えたくて私はある人に電話をかけた。

 受話器から懐かしいが聞こえた。中学で中山彰を鍛え抜いた、“剣道の鬼”古屋監督のだ。

「そうですか、彰は頑張っているんですね」

 喜びを隠し切れないような弾んだでそう言った後、古屋監督はいがけないことを告白した。

「実はですね、あれほどまでに厳しくしたのは、一年のときに彰が書いた作文を見たからなんです。その作文には『母は労ばかりしている。その母に自分は何もしてやれない。できることといえば剣道しかない。だから、剣道で母を安させてあげたい』というようなことが書いてありました。だから私はどんなことがあっても、彰を全国大会に出そうと決したんです。しかし、できたばかりのクラブではしいですよ、全国は。だから、私はどんなに憎まれてもいいから“鬼”に徹しようとったのです。今だから言えますが、死に物狂いでかかってくるあの子の気迫に、私は何度も負かされそうになりました。しかし、指導者が「まいった」とは言えません。必死で彰の攻撃をかわしていました。あの子は不屈の精神で何事にも負けずに自分の剣道を貫き、そして勝ったのです。お母さんを連れて行った、福井の全国大会。あんなに嬉しかった日はありません。私にとって今でも最高の記日です。今、『隻腕(せきわん)の中山』は、宮崎では道徳の時間の教科書になっています。彰は私の誇りです。生徒に対して本気で叱ってあげられる教師になってもらいたいと、それだけを彰に伝えてください」

 電話を切っても、九州なまりのやさしい“鬼”のは、いつまでもの奥に響いていた。


【『隻腕の剣士 教壇に立つ』浅野健治(潮出版社、2001年)】


隻腕の剣士 教壇に立つ (Memories in life)

2009-05-16

帰京


 本日夕刻、帰京。メールをくれた方々に謝。


 札幌は寒かった。旭川では雪が降ったそうだよ。


 昨日、先生よりお見舞いの品が届けられる。あまりの速さにビックリ仰天した。「福光和楽」の押印和紙が午前中に、そして「健康山 三世栄光 大作」(※裏書/小野家の栄光を祈りつつ)の短冊と、先生がご祈された際に使われた紙(※父の名前が記されている)が夜届いた。夜、母に御礼の報告書を書かせる。


 実家で都合7時間ほど題目を唱えてつくづくったのは、「倒れたのが母でなくてよかった」ということであった。父は題目の鬼なんで、母が倒れたら子供達はあまり祈らなかったことだろう(笑)。「お父さんがやってるから、いいや」ってね。また、父は非常に恐ろしい存在なのでコミュニケーションを取りにくい。


 だから、小野家の宿命転換ということを考えると、父が倒れたことに味があったとえてならないのだ。更に識不明であったことも功を奏した。会話ができたら、またぞろ喧(やかま)しいことを言い続けたことだろう。誰も本気で配しなかったはずだ。


 我が家にあって父は「強さ」の象徴であった。その鉄拳と信には誰もかなわなかった。私が逆立ちしても足許にも及ばない。


 大体、母を含めた家族全員が「こんなに近くでお父さんを見たのは初めてだ」と口々に言っているのだ。


 私が付き添っていた時、ナースから「ご長男さんは東京から来られたんですってね。大変でしたね」と言われたので、「いやあ、死んでから来ようとったんだけど、親戚の伯母がうるさいから仕方なく来たんですよ」と応じた途端、親父は左腕をピクピクと動かした。多分、私を殴ろうとしていたのだろう(笑)。


 前に置かれた押印和紙の味を考えた。最初に見た時、「福はら光お(父方の従弟)と和子(母方の従姉)は楽しむ」とわず読んでしまった。いかんいかん、ギャグをひねり出している場合ではない。


 前にも書いたが、私は23歳の時に家を飛び出して、それから父と会ったのは結婚する時だった。実に17年ぶりの再会だった。ま、長男の私がこんなもんだから、どんな家庭か像がつくだろう。信だけでつながっている殺伐とした家族関係だった。その上全員が幹部なもんだから、殺伐の度合いに拍車がかかっている。


 我々兄弟は親元から巣立って外で戦ってきた。その「福運の光」を「一家和楽」のために結集せよ、と先生は教えて下さっているのだ。普通であれば、「和楽福光」となりそうなもんだ。「福光和楽」との言葉は従果向因をも示しているようにずる。


 初めの内は「長寿」や「健康」という言葉がなかったので、「あれ?」とった。ただ、「和楽」という文字を見て、「先生はやっぱりお見通しなんだな」ともじた。父が倒れた間で祈りながら、謝のが込み上げてきた。

2009-05-15

私の兄弟殿御返事


 一、倒れた時の状況、及び見舞いに来てくれた人々など、一々記録を取っておくこと。写真も撮っておくように。


 一、医師の所見では、「呼吸が悪化し、生命にかかわることになるかもしれません。命が助かったとしても、ベッド上生活(寝たきり)になる可能が高いです」(※診断書原文)とのことだが、これは医療技術の限界を説明したもので、現在の医療では「治す力」を引き出せないと言ってるだけの話。


 一、病院では例外的に夜の付き添いを認めてくれているが、1週間経ったら付き添いをやめること。病院が例外を認めるのは死ぬ確率が高いという意味なので、それをこちら側から先に否定する必要がある。


 一、大聖人は、「真実一切衆生の留を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」(1170頁)、「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如しいかなる病さはりをなすべきや」(1124頁)と仰せである。どのような病状であっても、それが“成の妨げ”になることはない。


 一、医師は「今日、明日がヤマ」と言いながら、入院予定は2ヶ月以上ととぼけたことを書いている。つまり、ヒロシの誕生日前に退院できれば、小野家の勝利となる。


 一、助かる助からないが問題ではなく、になるかならないかが最大の問題だ。勝ったか負けたかが問われていることを銘記されたい。


 一、父に遺恨がある者は、生きているうちに元で罵詈讒謗(ばりざんぼう)の限りを尽くせ(笑)。


 一、入院一週間後くらいに、再び障魔が襲い掛かることだろう。そのひと山を乗り越えてからが本当の戦いだ。


 一、俺は、もう帰って来ないからね。


 以上

2009-05-14


 11日の午後、実家で父が倒れたと妹より電話あり。直ちに救急車で搬送されたが、識不明で四肢麻痺の重態。診断の結果、脳幹出血が確認された。部位が部位だけに手術はできない旨を告げられ(※手術できる医師もいるようだ)、「今日、明日がヤマ」とのことだった。


 格好をつけても仕方がないので正直に書いておこう。私は「フム、そうか」と言った。「少しくらいは動揺すべきなんだろうな」とった。我ながら呆れるほどが動じなかった。


 帰省するつもりもなかった。母親には「容態が急変したら連絡してくれ」と伝えた。沖縄の弟からも電話があったが、「今日がヤマなんだから、取り敢えず今晩の様子を見てから帰省を考えよう」と言っておいた。


 世間の目には「薄情な子」に映ることだろう。実は──その通り。私は薄情者だった。


 翌日の昼過ぎに、またしても妹から電話があった。嫌な予がした。「親戚の伯母が話したいと言っている、代わるから」。代わって欲しくなかった。私が一番弱い伯母だった。「あんたね、お父さんがあんたの激励を待っていることくらい、あんたが一番わかってるんでしょ? 死ぬにしても助かるにしても、今会っておかないと必ず後悔するよ」──翻訳すると、「つべこべ言わずに、とっとと帰って来い」という味だった。「うん、わかった」と応じたものの、実は全然わかっていなかった。親の死に目に立ち会うことが、私の中では親孝行の基準にすらなっていなかった。本当に死んでから帰るつもりだったのだ。ところが、会話の行き掛かり上、帰省する羽目となってしまった。


 で、札幌に着いたのが13日。そのまま病院へ向かった。母と伯母もいた。識をなくした父の元で、「お父さん、死んだらダメだよ。喪服を持ってきていないから」と言った。前日までは全く動かなかったようだが、足がピクピクと動き不随運動が見られるようになっていた。


 夜は私と四男で付き添った。昔、一緒に戦った後輩も駆けつけた。御守り御本尊をベッドの上に置き、左手を父の額に当て、右手の指で調子を取りながら父の身体をとんとん叩いて題目を唱え続けた。目蓋の下で目玉が時折反応した。無理やり目蓋を開き、「お父さん、見える? 見えてたら下向いてよ」と言うと、ちゃんと下を向いた。ま、単なる偶然かも知れない。


 もし、私を待っていたとすれば、の7時までに死ぬはずだと考えていた。だから、7時まで起きていた。死ななかった。第1ラウンドは私の勝ちだ。


 今、札幌から発信している。いまだ予断を許さない状況であるが、私は勝手に予断する。「きっと父は、晩年に差し掛かる前に自分の人生の確認をしたかったのだろう」と。中間総括みたいなもんだな。我が家は兄弟が多いこともあって、中々全員が揃う機会がないのだ。「親父、これで死んだら格好がつかないぜ」とも伝えておいた。


「死なないで欲しい」「長生きして欲しい」というのが家族の情である。それは所詮、情に過ぎない。情とはエゴイズムの異だ。この世に生を享けた以上、万人が必ず死ぬのだ。しかし、その現実を受け容れることができない。ここに人間の矛盾とおかしみがある。これが他人の死であれば、皆冷静に受け止めることができるのだから。


 死は不議である。だからこそ生も不議だ。妙とは不可思議であり、生死の二法は一心の妙用(みょうゆう)である。そんなことを深く痛切にじた。


 明後日、帰京する予定である。もう病院に行くつもりもない。

2009-05-10

沖浦某の息子より民事訴訟の連絡


 既に掲示板でも紹介したが、その旨のメールがあった。法治国家である以上、権利を侵された人がいれば訴えるのは自由だ。私の不法行為が認められれば賠償金を支払うのが当然である。


 一昨日、ライブドアしたらばサポート(掲示板の管理会社)から、「誹謗中傷を理由とした削除要請」が寄せられているとの連絡をもらった。ところが削除して欲しい記事の番号もない上、権利を侵害された人物かどうかも特定できずに困惑を隠せない様子だった。で、該当スレッドは以下である――

 沖浦某本人は、関知してないと書いているようだが、この親子の一体不二(どこかで聞いたことがある言葉だな)ぶりは万人が知るところで、父親のいない掲示板に子がいた試しがない。生活も一緒なら、仕事も一緒、更にネットでも一緒というベタベタした親子関係に特徴がある。


 沖浦某は新聞沙汰になるような事件を起こし、散々学会に迷惑を掛けておきながらも、ネット上から姿を消すことはなかった。まともな信をしていれば、一旦は雌伏(しふく)し、別ハンドルで見交換をするだろう。ところが沖浦某は何の臆面もなく実ネットに居座り続けた。


 今となっては明らかだが、自分が主催する「熱原の三烈士」公演のチケット販売とボランティアを募るところに目的があった。そのためのアドバルーンとして法華講員との対論を行った。私から何度も「組織利用」であることを忠告したが、沖浦某はを貸さなかった。


 見過ごすわけにいかないのは、沖浦某が自分自身で裁判を利用した脅迫行為を示唆していることである。

 私の場合は自営なので対応のしようがあるが、サラリーマンであれば大変な負担となる。ネットにおける一つのテストケースとして、よく覚えておくべきだ。


 みんな、気をつけるんだよ。ネット上のやり取りで相手が学会員だからといって、むやみやたらと個人情報を教えちゃダメだからね。


 最後に沖浦某シンパ諸君へ。既に個人情報を知られてしまっていることとうが、頭を働かせて静かに沖浦某から離れるよう進言しておく。被害に遭ってからじゃ遅いよ。


 尚、沖浦某の子が「不法行為」という言葉を知っていたので驚いた。ただし、味はわかってないようだ。

2009-05-09

『世界の識者が語る池田大作』鳥飼新市(潮出版社、2009年)


世界の識者が語る池田大作


 世界の知はそこに21世紀の曙光を見た。人間主義の精神、希望と平和の哲学、師弟の道を貫く人格。

『本門佛立講と創価学会の社会学的研究 宗教的排他性と現世主義』大西克明(論創社、2009年)


 著者は創大出身。


本門佛立講と創価学会の社会学的研究―宗教的排他性と現世主義


 日蓮系新宗教の隆盛の原因を、欧米の「セクト」とは異なる「宗教的排他」という概に着目し、アンケート調査を核とする社会学的アプローチを存分に駆使して、その謎を実証的に解明した。

2009-05-07

「決して恐れるな、獅子として堂々と生き抜け」


 戸田城聖第二代会長生誕90周年を記し、第二代会長をしのぶ第1回懇談会が9日午後5時半から、池田誉会長が出席し、新宿区内で開かれた。

 席上、誉会長は、メンバーの日頃の活躍の労をねぎらいつつ、「戸田先生を知らない世代に、師の残された広宣流布の精神を語り伝えておきたい」と述べ、約1時間にわたり、大要、次のように戸田第二代会長の指導を語った。


 1.戸田先生が晩年、青年によく言われていた指導がある。「決して恐れるな、獅子として堂々と生き抜け」と。

 2.人生には、さまざまなことがある。ゆえに、必ず何でも相談できる人を一人、に置いておくことが大事である。

 3.常に弱者の味方たれ。傲慢とは、どこまでも戦い抜いていかねばならない。

 4.いかなる組織や団体でも、大きくなれば、さまざまな問題や事故はあるものだ。これは必然である。しかし、それらの問題を解決しながら、更に大きく発展させていくのが「妙法」の力であり、価値創造なのである。

 5.「世界の広宣流布を」との日蓮大聖人の御遺命は素晴らしいことである。「理」が大きければ大きいほど、「人生」は大きくなる。また、労なくして真の指導者は育たない。


 更に誉会長は、こうした第二代会長の指導を引きながら、「時とともに成長していかないのは、本当の人生修行ではない」「何事も電光石火のごとく手を打たねばならない。そこに勝敗の分かれ目がある」「強く生きよ。堂々と我が信の道を進んでいくことだ」「一生懸命行動した分だけ、人々との絆を強めることができる。そのの結び合った人たちが、いざという時に諸天善神の働きとなってくれる」「子を守るための戦いを忘れてはならない。『戸田の生命よりも大切な広宣流布の組織』で戦っている人を守れということである」など語った。


戸田先生生誕90年記の懇談会/第1回懇談会 1990-02-09 東京・新宿区内】


 民主主義の代詞である議院内閣制が生れたのは18世紀のこと。古代インドや古代ギリシアには部分的な民主政は存在したが、その後否定されている。民主主義の母体となった市民革命は、1641年にイギリスで清教徒革命が起こり、1789年にはフランス革命が欧州の大地を揺るがした。しかしながら両国はその後、王政復古へと逆戻りしている。歴史はいつだって矛盾に満ちている。そして大衆はいつだって気まぐれだ。


 人類がまだ民主政を発見していなかった頃、政治は君主制だった。王位は自動的に継承された。代々続けば、時には愚かな王様も現れる。そうしたリスクを回避するために幼少時から施されたのが帝王学である。ソクラテスからマキャベリに至るまで帝王学というテーマは継承された(上田惇生著『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』ダイヤモンド社、2006年)。


 我が創価学会においては、民衆の指導者を育てるべく戸田先生が青年部に将軍学を叩き込まれた。そして、組織の命運を左右する参謀室・渉外部の責任者に若き池田先生を任命された。人材を抜擢して育てるのが戸田先生の育成法だった。


 将軍学が知識であるうちは、まだダメだ。肚(はら)の底に入っていて、瞬時に行動できるようでなければ。これは、訓練を繰り返す中でしか身につかない。そして、偉大なる将軍の身近にいなければ、将軍たる者の覚を理解し得ない。結局、人が人を育てるのだ。


 短い言葉の中に深遠な教えが込められている。そこに気づき、索し、体得する日々であらねば。

2009-05-05

人間はどこにいるんだろう


 彼(※スタインベック)は旅立つ前、友人の政治記者からこんな期待を寄せられていた。その記者は、大統領の候補を民間人の中に探し求めていた。

 記者いわく、「今度の旅行で根のある人間に会ったら、場所をおぼえてきてもらいたいね。行って会ってみたいんだ。いまは臆病者とご都合主義者にしかお目にかかれないからね」。

 そして、「人間が必要だからね。人間はどこにいるんだろう」「2〜3人でもいいから探し出してきてもらいたいね」と。

 また、「民衆がどこへいったか、探してきてもらいたい」とも記者は言った。アメリカ独立宣言で言っている「民衆」、リンカーン大統領が言った「民衆」――それらは一体、どこにいるのか、と。

 記者の言葉には、アメリカの理と現状との間の大きなギャップ(へだたり)を前にしたしみが込められていた。

 彼が“根のある”本物の「人間」と呼ぶのは、たとえ多くの反対にあおうとも、自分の見を貫くことを恐れない人間のことであった。

 そして、本物の「民衆」とは、特権的な権威や専制を許さない、“歴史の主役”として戦う民衆のことであったに違いない。


【第26回本部幹部会 1990-02-07 創価文化会館


 ウーム。Googleのサイト内検索の結果が文字化けしてしまう。「創価系サイト検索」も全滅っぽい。を決して書こうとった途端、このザマだ。ま、直しようがないんで放っておこう。きっと、時間が解決してくれることを信じて……。


 さあ書くぞ。2008年10月26日以来だ。実はこの指導で止まっていたのには理由がある。「記者の発言」の出典を確認しようとったのだ。調べたところ、『チャーリーとの旅』は2007年に新訳(竹内真訳)が出ていた(「厳格な牧師」)。だが、私はこの訳が気に入らなかった。そこで今、大前正臣訳を読んでいる最中だ。ひょっとすると、『アメリカとアメリカ人 文明論的エッセイ』(サイマル出版会、1969年/平凡社、2002年)あたりかも知れない。見つからなければ、こちらも読む予定だ。


 実は、スタインベックが愛犬のチャーリー(プードル)とアメリカ大陸を旅していた頃、先生が訪米されていた。文豪と詩人は期せずしていて接近していた。


 それにしても記者の言葉は振るっている。社会というものは分によって成り立っており、ヒエラルキーを構成する。大衆はいつの時代も抑圧され、搾取(さくしゅ)されてきた。ヒエラルキー社会においては、権力者に従うことが得となる。この点ではチンパンジー社会と変わりがない。


 社会的な圧力がのしかかると、大衆の力は弱まってゆく。負荷を掛け続けられたバネが弾を失うように。大衆は時々い出したように怨嗟(えんさ)のを漏らすことはあっても、羊の如く群れに付き従う。


 学会は民衆の団体である。しかし、「たとえ多くの反対にあおうとも、自分の見を貫くことを恐れない人間」がいるだろうか? いないね。だって見たことないもん。「多くの反対」どころか、2〜3人の婦人部幹部から反対されただけで見を引っ込めるようなのが多いね。田舎になると、幹部に見しただけで破和合僧と考える者までいる。組織権威主義はセットになっている。それがいかなる組織であっても。


 我々は先生の指導をそのまま実践できなくなっている。例えば、地域活キーワードとして「よそ者と馬鹿者と若者」がクローズアップされたことがあった。では、この三者があなたの組織で上記の指導を実践したとしよう。一体どうなるであろうか? まず間違いなく村八分にされることだろう(笑)。学会組織の原則は「郷に入っては郷に従え」という雰囲気になっている。で、挙げ句の果てに「を積んではに引きずられる」始末だ。


 会合では本音を言うことも許されない。美辞麗句が飛び交い、皆が皆作り笑顔で相槌を打っている。数字だけが目立つ活動報告、決まり文句を繰り返すだけの幹部指導、師弟という言葉はあっても魂はどこにもない――誰がそんな学会にしてしまったのか?


 それは――あなたと私である。戸田先生池田先生とが命懸けで築いた民衆を、どうでもいいプレハブ小屋にした犯人は我々弟子なのだ。


 今日は「創価学会後継者の日」。嵐が吹き荒れる昭和51年(1976年)のこの日、関西戸田記講堂で行われた鳳雛会・未来部の記勤行会で制定された。私は中学1年生だった。この世代(戸田先生の逝去後に生まれたメンバー)が、真の池田門下生として立ち上がる以外に道はない。

義務


 パレアナはためいきをつきました──義務という言葉はいやな言葉だとったのです。「叔母さん、お願いです」と呼びかけました。「それを喜ぶには、どうしたらいいんでしょう──義務ということをです?」

「なんのことを言ってるの?」ミス・バレーは驚いて見上げましたが、急に顔を赤くして、腹立たしげにおりていきました。「パレアナ、しつこく言うものじゃありません」

 狭しい、むしあつい、屋根裏の部屋で、パレアナは背中のかたい椅子にくずれるように腰をおろしました。頭の中では義務という言葉が、ぐるぐるからまわりしていました。「なにがしつこいんだろう? あたしはあのギム、ギム、ギムっていうことに、なんのうれしいことがあるのか、知りたかっただけなのに」

(中略)

「あたしにはなんにもうれしいところが見つからないわ」と大きなでひとりごとを言いました。

「ただ、ギムが終わったらどんなにうれしいだろうとだけは言えるは」そこでパレアナは突然をたてて笑いました。


【『少女パレアナ』エレナ・ポーター/村岡花子訳(角川文庫、1962年)】

少女パレアナ (角川文庫クラシックス) パレアナの青春 (角川文庫)

2009-05-04

曲がり角の選挙協力=党利優先、募る不満−自公


 自民、公明両党が連立を組んで10で10年。この間、3回の衆院選を乗り切れたのは選挙協力が順調だったのも一因だ。同時に、「党利」を重視するがゆえ、互いへの不満も募りつつある。自公協力は曲がり角に差し掛かった。(敬称略)


都議選が影 東京12区


「ご労さまです」。公明党代表の太田昭宏は426日、北区内の祭り会場で参加者と次々に握手を交わした。春は花見に運動会、夏は盆踊り。支持母体の創価学会以外のイベントへの出席は、太田の年中行事。12区内の学会票は「4万から4万5000」で「保守票や浮動票を取らないと勝てない」(公明党関係者)からだ。

 太田が支持者を集めて3に開いた講演会来賓の自民党都連会長・石原伸晃は太田を持ち上げ、蜜をアピールした。これに限らず、石原はたびたび太田の地元を訪れ、都議や区議らに太田支援を訴えている。都連会長として、他の都内24選挙区での学会の支援を期待してのことだ。

 しかし、太田が自民党の都議や区議の会合に呼ばれることはまずない。「太田さんのために頭など下げたくないという人もいる」。都連関係者は、党内に太田支援への抵抗があることを明かす。

 12区の民主党候補は未定だが、太田はこれまで以上に危機を募らせる。7に都議選があるからだ。都議選では12区の北区、足立区で自公が競合しており、「自民党の太田支援の動きがさらに鈍る」(公明党関係者)と警戒する。もし太田が落選すれば、連立を維持できても大きな亀裂が生じるのは必至だ。「太田が負けたら公明党のダメージは計り知れない」(学会幹部)。12区の行方は、連立政権の将来を左右しかねない。


頼りは公明 大阪9区


 自民・原田憲治が2万票弱の差で民主・大谷信盛を退けて初当選した2006年10の衆院大阪9区補選。党組織を挙げての支援を得た補選と違い、今回は自力での戦いだ。それだけに、公明・創価学会の協力なくして勝利はおぼつかない。

 「この間はおかげさまで勝てました」。原田は44日夜、箕面市内で開かれた公明党市議団の会合で深々と頭を下げた。代表に太田が就任して最初の国政選挙だったこともあり、学会は全力で原田を支援。9区内で3万5000票程度とされる学会票が勝利の決定打になった。原田は公明・学会との良好な関係維持に腐する。

 しかし、同党府本部関係者は「今回は候補を立てる府内4選挙区で手いっぱいだ」と素っ気ない。比例代表での見返りがなければ動かないとのシグナルでもある。実際、学会幹部は「あくまでも全国300小選挙区の一つだ」と、どこまで支援するかは原田の協力次第であることを示唆する。

「常勝関西」。学会にあって、大阪の集票力が抜きんでていることを示すことばだ。「常勝」を義務付けられた大阪学会にとっては、府内での4議席維持と比例票の上積みが至上命令だ。こうした事情を知る原田陣営からは「前回のような協力は無理かもしれない」との不安が漏れる。

 もっとも、自民党内からも「うちの協力がなければ、公明も議席維持は簡単じゃない」(選対関係者)とのも聞かれる。9区で効果的な協力を維持できるのか。全国での自公協力の今後を占う「リトマス試験紙」(学会幹部)とも言える。


時事通信 2009-05-04

戦争犯罪の心理的矮小化


 こんな話のとき、それでもなお私は小島さんの罪の識に分け入る質問を続けた。

「それは血のつく手をイメージするのですか? それとも、殺される中国人の顔ですか?」

「血です」

「手のほうですか。相手のことはわないのですか。自分のことしかわないのですか」

「兵隊の手に血がつくわけですよ。

 それで私がうのは、われわれが帰った後、あのグシャグシャになった死体を家族が見つけて引き取っていく。その時の悲しみがどんなものだったかとうと、もう眠られなくなっちゃうんですよね。家族は泣いて泣いて、グシャグシャになった胸を見て、気が狂ったのではないかと……」

 ここでも小島さんは、残された家族の情という回路をへて、行為の残忍さを語っている。殺される者の無、人間がこれほども理不尽になれることへの絶望についてじとり、その上で、遺族の悲痛について像しているのではない。私はあえて問いかけた。

「今のお話を聞いていても、殺された人間が抽象化されていて、顔がじられない。殺されている人の顔はい出さないんですか?」

「顔はい出しませんよ。むしろ刺した部分です」

「そういう味では、やはりモノですね」

 小島さんは黙ってしまった。


【『戦争と罪責』野田正彰(岩波書店、1998年)】

戦争と罪責

2009-05-03

第三代会長就任直前、体重は50キロを切った


 戸田の三回忌(昭和35年42日)が近づいたある日、幹部たちは話し合い、戸田の三回忌が終わったら、池田に会長就任を要請することを決めた。

 しかし、「いやで仕方がなかった」という池田は、要請をかたくなに断わり続けた。一方、幹部たちもくり返し会長就任を懇願する。この間に、池田は10キロ以上も体重を減らし、50キロを切るほどにやせ細った。池田が50キロをきった(ママ)のは、戸田との闘が続いた昭和25年と、この時の二度だけである。葛藤と逡巡は、それほど激しいものだった。会長就任が決まった414日、池田は「万事休す」と日記に記した。


【『池田大作 行動と軌跡』前原政之(中央公論新社、2006年)】

池田大作 行動と軌跡

組織過剰


 ドラッカーの処女作。アメリカで初版が刊行されたのは1939年(昭和14年)のこと。書き始めたのはドラッカーが23歳の時であった。ドラッカーは戸田先生より9歳年下。


 ところが、組織の有効にとって組織自体を目的とすることほど危険なことはない。

 その結果もたらされるものは、構造的にも技術的にも最も深刻な種類の組織過剰である。すでにドイツとイタリアでは、計画化と正確を追求した結果、政府組織や産が、過度に集権化され、組織化されている。小さな歯車が一つ狂っただけで、極度の混乱が引き起こされるようになっている。


 あらゆる組織において、下部機構は決定と自由裁量をまったく禁じられている。

 自らの発によっては何事も行うことができない。そのような混乱はすでに、ドイツの鉄道網で、何度も劇的に起こっている。かつては現場の担当者がなく修正できたわずかな時間のずれが、遠く離れた中央のどこかからの指示待ちのために、広大な地域の運転休止をもたらしている。予定どおりにいっている間は、いかに厳格な専門家をも満足させる仕事ぶりを見せているのに、ごくわずかなずれが生じただけで大幅に狂う。


 同じように深刻な問題として、すべてを把握し指揮することのできる者が一人もいなくなっている。すべてがあまりにも複雑化した。ドイツとイタリアでも、国家財政の全容を把握している者は、あの唯一の最高指導者を除き一人もいない。


 大蔵大臣は、予算、税収、大蔵省発行の公債残高については知っている。しかし、独自に債券を発行している数百にのぼる政府機関それぞれの財政状況については何一つ知らない。十指に余る丸秘扱いの歳出項目についても内容を知らない。

 そのうえ、あらゆる組織が自らの活動を秘密にする。他の組織を犠牲にしてまで自らの組織を拡張し、最強の組織たらんとする。しかも、組織そのものが目的化しているために組織の支配権が組織内闘争の的となる。


 経済的には、これらのことは企が無駄な手続きのために膨大な費用を負担させられることを味する。今日ドイツでは、その費用は生産コストの4分の1にのぼると推計されている。


【『ドラッカー著集 9 「経済人」の終わり』P・F・ドラッカー/上田惇生〈うえだ・あつお〉訳(ダイヤモンド社、2007年/岩根忠訳、東洋経済新報社、1958年)】

ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり

2009-05-02

感想募集


 佐野洋子著『100万回生きたねこ』(講談社、1977年)のを募集する。尚、転載する場合があるので必ずハンドル(あるいはペンネーム)で応募願いたい。


100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1))

「誼」殿御返事


 座談会で触れた温かい励ましに、が明るくなった。悩みを語り、共に乗り越えようと決し合う姿に、「自分も」と誓った。向かった先は、かつて自分をいじめた同級生。懸命に信仰の喜びを語ると、友は理解を示してくれた。「最初に一番手な人に話せば、壁が破れるとった」と語る▼日蓮大聖人は、「人を成長させるものは、味方よりもかえって強い敵である」(917ページ、趣)と。誰しも“手だな”とう人はいる。そこを避けることは簡単だ。しかし、どんな相手でも、忍耐強く、誠実に対応しようと挑戦すれば、自身が磨かれる。も通じるものだ▼ゴールデンウイークは、近隣との交流、旧友との再会など、友情を深める機会が多い時期。誠実な語らいで、大きく自己を成長させる「黄金週間」にしたい。(誼)


【「字の言」/聖教新聞 2009-05-01】


確認事項」に書き、その後何度も注をしているのだが、聖教新聞が私の足を引っ張っている。たまったものではない。


「友は理解を示してくれた」だってさ。じゃあ何だい、「同志は理解して欲しいと頼んだ」とでもいうのか?


 この文章は滅茶茶だ。何の説明もなしで、「強い敵」=「手な人」と決めつけ、「忍耐強い挑戦」を勧めた上でゴールデンウイークの交流に結び付けている。忍耐強さは日常にこそ求められるべき質のものだ。記者子の格破綻ぶりがモロに現れている。


 こんな文章を読ませられる学会員が気の毒でならない。こんな文章で動する学会員がいたとすれば、信仰は盲信を味することになる。


 組織の打ち出しを自己の内面で消化しきれないまま後輩をコントロールしようとすれば、その言動は必ず政治的な匂いを放つ。結果的に論理が破綻し、情に訴えようとする。その典型がこの文章だ。

特殊相対性理論


 アインシュタインは、特殊相対理論によってこの衝突を解決し、そのことによって空間と時間についての理解を完全にひっくり返した。特殊相対理論によれば、もはや空間と時間は、誰もがまったく同じように経験する普遍的なものとは考えられない。アインシュタインによる新しい考えから出てくる空間と時間は、むしろ、観測者の運動状態次第で形と見かけが変わる柔軟な構成物だった。


【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン/林一、林大訳(草社、2001年)】

エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する

2009-05-01

「絶対」や「永遠」は定義できない


 この問題を考える場合に一番重要なことは、宗教的真理を含む真理一般をどのように考えるかという問題です。例えば、「大聖人法は絶対に正しい、永遠の真理である」などと言ったりしますが、哲学の議論では「絶対に」や「永遠の」という言葉は、定義できない言葉であって、話者のある種の情を示すことはできても、何かの事実に関して有味な情報を与える言葉ではないと考えられています。また「正しい」や「真理である」という言葉も、その言葉を使う人々の間に共通の正義観、真理観がなければ、有効な議論をすることができないということも明らかであります。


【「宗教における原理主義と改革主義 牧口常三郎の挑戦」宮田幸一/『創価教育研究 第2号』】

大石寺の「寺社奉行」的構造 江戸期にみる創価学会破門の源流 3

 菅田正昭(すがた・まさあき=宗教史家・離島文化研究家)


 流人史を調べていくと、しばしば「無宿」とか「非人(ひにん)」というコトバに出会う。だが、ここでは、世間からのけものにされた存在だから、犯罪に走りやすいのだ、とはわないでほしい。農民や漁民や町人が犯罪者になったとき、あるいは、犯罪者に仕立てられたとき、結果的に無宿とか非人にされることが多いのだ。とくに、宗教犯の場合、そういう傾向が強かった。

 江戸時代、徳川幕府は、人民はかならずどこかの寺に所属しなければならないという寺請制度を創設して人民支配を実行した。寺院はその先兵として戸籍を作成して人民を管理した。その戸籍簿がいわゆる宗旨人別帳である。この人別帳から除籍された人を「非人」とか「無宿」というのである。

 ここで、〈異流義〉問題で信徒が逮捕された場合を考えてみよう。すると、幕府当局はその信徒が所属している寺院や、主(なぬし)などの村役たちに圧力をかける。その信徒を人別帳から外さないと、隣保組織の五人組や、その家族たちも同罪にするぞと恫喝(どうかつ)するわけである。あるいは、幕府当局から何も言われなくても、多くの寺院はそういう信徒を人別帳から除してしまうのである。

 こうして異端の信徒は「無宿」とか「非人」にされてしまうのである。こうなると、封建体制下での最低限の人権も喪失してしまうのだ。おそらく、八丈島へ流された「じん」も、こうして「無宿」にされたのであろう。

 これを見て、何かじないであろうか。そうなのである。今日の、大石寺による信徒資格喪失の通告と、人別帳からの除とは、驚くほど、その論理構造が似ているのである。もちろん、今日では、憲法で信教の自由が保障されているし、たとえ寺院から信徒資格を剥奪(はくだつ)されても、戸籍から自分の前が消されるわけでもない。しかし、構造的に分析すれば、これは同質の所といわざるをえない。

 すなわち、これは幕藩体制下における、一種の「国家教」体制の中での、「寺請制度」による発なのである。そして、それはたえず〈異流義〉を自己の内に生みだし、その〈異流義〉を幕府の手によって宗教弾圧してもらおうと、寺社奉行へ事実上、信徒を売り渡してきた大石寺法門の論理構造を背景として成立しているといえよう。


【『大石寺の「罪と罰」』玉井禮一郎〈たまい・れいいちろう〉(たまいらぼ出版、1997年)所収】

大石寺の「罪と罰」