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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2009-05-14


 11日の午後、実家で父が倒れたと妹より電話あり。直ちに救急車で搬送されたが、識不明で四肢麻痺の重態。診断の結果、脳幹出血が確認された。部位が部位だけに手術はできない旨を告げられ(※手術できる医師もいるようだ)、「今日、明日がヤマ」とのことだった。


 格好をつけても仕方がないので正直に書いておこう。私は「フム、そうか」と言った。「少しくらいは動揺すべきなんだろうな」とった。我ながら呆れるほどが動じなかった。


 帰省するつもりもなかった。母親には「容態が急変したら連絡してくれ」と伝えた。沖縄の弟からも電話があったが、「今日がヤマなんだから、取り敢えず今晩の様子を見てから帰省を考えよう」と言っておいた。


 世間の目には「薄情な子」に映ることだろう。実は──その通り。私は薄情者だった。


 翌日の昼過ぎに、またしても妹から電話があった。嫌な予がした。「親戚の伯母が話したいと言っている、代わるから」。代わって欲しくなかった。私が一番弱い伯母だった。「あんたね、お父さんがあんたの激励を待っていることくらい、あんたが一番わかってるんでしょ? 死ぬにしても助かるにしても、今会っておかないと必ず後悔するよ」──翻訳すると、「つべこべ言わずに、とっとと帰って来い」という味だった。「うん、わかった」と応じたものの、実は全然わかっていなかった。親の死に目に立ち会うことが、私の中では親孝行の基準にすらなっていなかった。本当に死んでから帰るつもりだったのだ。ところが、会話の行き掛かり上、帰省する羽目となってしまった。


 で、札幌に着いたのが13日。そのまま病院へ向かった。母と伯母もいた。識をなくした父の元で、「お父さん、死んだらダメだよ。喪服を持ってきていないから」と言った。前日までは全く動かなかったようだが、足がピクピクと動き不随運動が見られるようになっていた。


 夜は私と四男で付き添った。昔、一緒に戦った後輩も駆けつけた。御守り御本尊をベッドの上に置き、左手を父の額に当て、右手の指で調子を取りながら父の身体をとんとん叩いて題目を唱え続けた。目蓋の下で目玉が時折反応した。無理やり目蓋を開き、「お父さん、見える? 見えてたら下向いてよ」と言うと、ちゃんと下を向いた。ま、単なる偶然かも知れない。


 もし、私を待っていたとすれば、の7時までに死ぬはずだと考えていた。だから、7時まで起きていた。死ななかった。第1ラウンドは私の勝ちだ。


 今、札幌から発信している。いまだ予断を許さない状況であるが、私は勝手に予断する。「きっと父は、晩年に差し掛かる前に自分の人生の確認をしたかったのだろう」と。中間総括みたいなもんだな。我が家は兄弟が多いこともあって、中々全員が揃う機会がないのだ。「親父、これで死んだら格好がつかないぜ」とも伝えておいた。


「死なないで欲しい」「長生きして欲しい」というのが家族の情である。それは所詮、情に過ぎない。情とはエゴイズムの異だ。この世に生を享けた以上、万人が必ず死ぬのだ。しかし、その現実を受け容れることができない。ここに人間の矛盾とおかしみがある。これが他人の死であれば、皆冷静に受け止めることができるのだから。


 死は不議である。だからこそ生も不議だ。妙とは不可思議であり、生死の二法は一心の妙用(みょうゆう)である。そんなことを深く痛切にじた。


 明後日、帰京する予定である。もう病院に行くつもりもない。

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