Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2009-05-28

初七日


 今日が初七日。の勤行を皆で行う。勤行を始めた途端、曇っていた空から光が射(さ)した。私は、14時30分千歳発のANA66便にて帰京。


 この間、実にたくさんのお悔やみメールを頂戴した。から謝申し上げる。


 父は、11日に「、」(読点/とうてん)を打ち、22日には「。」(句点)をつけて今生の幕を下ろした。この11日間は、家族に対して「一家和楽の信」の楔(くさび)を打ち込む期間であったと私は確信している。ま、元々短腹(たんぱら=短気の)だったので、エイヤッと逝ってしまったのだろう。


 識不明の時から半眼半口だったので、あまり配はしていなかった。ところが、遺体と対面したところ口が閉じていた。「あれ、おかしいな?」とい、よく見ると、枕が高くなっていて、胸に乗せた大きなドライアイスが父の顎(あご)で抑えられていた。「おいおい」と言いながら、ドライアイスをずらし、枕の下の綿を一つ抜いたところ、ちゃあんと口が開いた。開かなかったら、力ずくで開かせるつもりだった(笑)。遺体は柔らかいままだった。


 私が導師となって、親戚一同と共に仮通夜を行った。父は生前、「自分にもしものことがあったら、タカシ(私の本)を導師にして家族葬で送って欲しい」と親戚の伯母に語っていたそうだ。伯母が「タカシでいいのかい?」と確認したところ、「ああ、タカシだ」と答えていたとのこと。諸般の事情があって通常の葬儀となったが、仮通夜で長男としての義理は果たしたものと考えている。


 続いて湯灌(ゆかん)。者が持ち込んだ浴槽にお湯を張るのかとっていたら、柄杓(ひしゃく)で足に掛け湯をし、シャワーで洗うだけだった。「下らん作法だな」とっていたのだが、一部の親戚はいたく動していたと後から聞いた。とにかく、家族一同で元気一杯祈っている様子を羨ましくっていたようだ。


 亡くなった翌日に、老婦人が娘さんと弔問に訪れた。私は「折角なんで触っていって下さいよ」と棺(ひつぎ)の蓋(ふた)を持ち上げた。老婦人は頬に手を伸ばしながら泣き崩れた。この泣きっぷりが凄かった。私も危うく、もらい泣きしそうになったほど。


 24日(日)18時より、やわらぎ斎場にて通夜。北海道は結婚式は簡素だが、葬式は盛大に行うようだ。友人葬でありながら、東京とのあまりの違いに驚かされた。会場も私が見てきた中では最大級。「こんなに来るのかよ?」と配したが、場外に溢れるほどの参列者が来てくださった。その数、450人。弔電も80通ほど。非常に残なことに、通夜では遺体の顔を見せないとのこと。東京じゃ見せるけどねえ。3人の孫による弔辞も動的だった。


 25日()10時より告別式。これまた150人も参列してくださった。妹が「触ってあげてください」と言い、たくさんの方々が父の柔らかい頬に触れて、涙に掻き暮れていた。火葬場で最後のお別れをした際、更に口が開き、白かった顔には赤味がさしていた。そして父は遂に骨と化した。最後に骨壷に収める10センチ大の頭蓋骨を6人の子供達が箸で運んだ。骨の向きが反対であったため、私が「離せ!」と大きなで言うなり、他の5人がさっと箸を離した。その様があまりにも鮮やかであったため皆が大笑い。ま、他にも面白いネタはあるのだが今回は控えておこう。その後斎場に戻り、初七日&四十九日の法要を行った。


 小野タケヒロの生命は大宇宙に冥伏(みょうぶく)した。もう二度とあの怒鳴りを聞くことはできない。しかし沈黙したまま、これからも多くのことを教えてくれることだろう。


 父は最後の最後まで悪い幹部を糾弾し抜いた。6人兄弟の中で父に一番似たのが私だった。だがこれは、血やDNAの類いではないとっている。たまたま私の歩んできた道が、父の歩んだ道と似ていたのだろう。ある程度の訓練を受けると、誰もが同じ軌跡を辿るのだ。本気で民衆を守ろうとすれば、権力のと戦わざるを得なくなる。そして権力と戦う人は多いが、勝てる人は少ない。


 本当に“戦う人生”そのものだった。もう少し楽しい人生を送って欲しかったというのが私の本音である。だが、会員に尽くし抜いた一生を私は誇りにう。これからは、父が遺してくれた“信”の財産を私が継承してゆく決である。


 お父さん、ありがとうございました――。生きている内は一度も言えなかったが、私のを父は知っていたはずだ。私は一粒の涙もこぼさなかった。父と私との間に傷は必要ないからだ。ただ、あなたの子であったことに謝は尽きません。


 今、ほんの少しだけ涙――。でも、泣かなかったことにしておく。