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2009-06-11

矢野元公明委員長が勝訴 記事で名誉棄損と賠償命令


 矢野絢也元公明党委員長が、企の課税逃れなどに関与したかのような刊誌記事で誉を傷つけられたとして、発行元のリベラルタイム出版社(東京)に2200万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は10日、220万円の支払いを命じた。謝罪広告掲載の請求は棄却した。

 問題となったのは、刊誌「リベラルタイム」が矢野元委員長について2006〜07年にかけて掲載した記事4本。

 本光一郎裁判長は「いずれも元委員長の社会的信用を低下させ、誉棄損に当たるのは明らか。内容も真実と認める証拠はない」と指摘した。

 判決によると、発行元は、元委員長に関し「企者一族の課税逃れに絡んで多額の報酬を得た」「自宅に数億円の札束が運び込まれた」などと報じた。


共同通信 2009-06-10】

釈尊、イエス、ソクラテスはなぜ文字を残さなかったのか?


 長年にわたる疑問が氷解した。またしても悟りである(笑)。ざまあみろってえんだ。

 これらの人々は人類の教師ともいうべき存在でありながら、著作を一つも残さなかった。「孫子の兵法」でを知られる孫武(紀元前5世紀頃)も文字は残していない。


 カール・ヤスパースはこの時代を「枢軸時代」とづけた。文字がなかったわけではないから、図的に書かなかったことが像される。


 私は昨年来、「とは物語である」と考えるようになった。優れた芸術作品にはおしなべて物語があることは誰もが認めるところだろう。しかし私に言わせれば、科学・政治・経済に至るありとあらゆる人間の営為が、これ物語である。それをシンボリックに表現したのが「因果」という言葉だ。


 釈尊は経典を残さなかった。文字にしなければ正確が損なわれることは承知していたはずだ。初めのうちは、インドカースト社会の上層階級に専有されることを嫌って文字にしなかったと私は考えていた。だが、どうもすっきりしなかった。一旦つかまえた疑問を私が手離すことはない。そして25年を経た今日、やっと答えがわかった。


 では、その「物語」はどこから来るのか。近代の小説が「著者」という起源によって創出されるのに対し、「物語」は作者不詳だ。その起源は定かではない。物語はつねに、かつて誰かから聴いた話だ。そして、その誰かは別の誰かからその物語を聴いたにちがいない。(※アントン・シャンマース著『アラベスク』で)「ぼく」が語る物語が、かつてユースフ叔父さんが「ぼくたち」に語ってくれた物語であるように、幼いユースフ叔父さんもまた、別の誰かからそれらの物語を聴いたにちがいない。物語は、時と場合に応じて変幻自在に語られる。同じ物語がいつも同じように物語られるとは限らない。「ぼく」もまた、やがてそれらの物語を「ぼく」流にアレンジしながら、誰かに語り直すだろう。語られる物語のなかに、その物語を聴き、語り継いできた複数の語り手、複数のが存在し、一つの物語には無数の物語が存在するのだ。


【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年)】


 つまり、だ。釈尊は「大いなる物語」の原型を示し、自らが亡き後も陸続と現れるであろう弟子達が友に語り広め、子に語り継ぐことをひたすら信じ、物語の継承作の中に法が脈動することを知っていたのだ(←断言)。


 五十展転の功徳の物語は、吹が伝わる様相を示している。そこに求めらるのは正確よりも、むしろ語り手と聞き手の間に交流する激や動なのだ。そして釈尊は、万物と万物が相互に関係し合う実相を「縁起」と説き明かした。凄い。釈尊は凄すぎる。


 岡真理の「それらの物語を『ぼく』流にアレンジしながら」という指摘は、我見を味するものではない。物語に示された原理を、自分らしく豊かに表現するという味であり、我々にとっては「功徳体験談=人間革命の物語」となる。


 釈尊の教えも、弟子達の「無数の物語」によって支えられている。否、それ自体が八万法蔵となってゆくのかもしれない。そして、それら「無数の物語」の結晶が大乗仏教であったのだ(←またしても断言)。大乗仏教が無署であるのも全く同じ理由からであろう。


 人は深い動を覚えると、じっとしていられなくなる。自行化他とは単なる修行の規範ではなくして、人間に本然的に備わる能動をも味している。躍動する生命からほとばしる言葉が友の胸を打つ。大きい音が出るか、小さい音が出るかは、飽くまでも語り手次第である。


 釈尊の言葉は、2000年を経た今も尚、時代を超えて人々の胸を震わせている。


【※岡真理著『アラブ、祈りとしての文学』の前に、広河隆一著『パレスチナ 新版』、ガッサーン・カナファーニー著『ハイファに戻って/太陽の男たち』を必ず読んでおくこと。テーマは全く異なるがの闊達さ――あるいは物語を読み解く達人――という点で、友岡雅弥著『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』、広井良典著『死生観を問いなおす』などと岡真理のアプローチは共通している】

アラブ、祈りとしての文学