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2009-07-18

大御本尊に対する沖浦某の邪義


 以下にプリン君の書き込みを転載――


 沖浦氏は、平成14年(2002年)改正の創価学会会則&規則において「本門戒壇の」の語句が改変されたことは、創価学会が「戒壇本尊否定論」を採用したことを示すものだとし、それは伊藤立教氏のような第三者たる他宗・日蓮宗の批評をして明らかだと主張する。


 当該、伊藤立教氏(日蓮宗現代宗教研究所主任)の批評はこれであろう。

 従来から、論理的考に欠けると指摘される沖浦氏だが、ここでもやはり文章の論理的読解力に欠けるようだ。以下、沖浦氏も引用した伊藤氏の批評を再引用する――


 創価学会の内部規範である会則が、この平成14年(2002年)41日に改正施行された。この時点で、宗教法人創価学会そのものの規範である宗教法人規則は変更されていなかった。

 会則・規則とも従前は日蓮正宗の外護をうたっているが、変更後の会則ではこの文言が削除されている。つまり、会則では日蓮正宗を外護せず、規則では日蓮正宗を外護することになって、矛盾することになった。この点をついた批判も、出た。

 その矢先の426日、規則が文部科学省の認可を受け変更施行されて、矛盾に対する批判は無味になった。これで、平成3年(1991年)の日蓮正宗による創価学会破門以来の会則・規則と実態との矛盾も、ようやく解消される形になった。


 伊藤氏はここで、平成14年(2002年)の創価学会会則&規則の改正により、「平成3年の日蓮正宗による創価学会破門以来の会則・規則と実態との矛盾も、ようやく解消される形になった」と評価するわけだが、ここで伊藤氏の言及する「矛盾」というのは、従来記載のあった「日蓮正宗の外護」の文言のことなのである。


 要は、破門後も創価学会の会則&規則には『日蓮正宗の外護』の記載があったが、平成14年(2002年)改正により当該文言が削除された結果、かかる『矛盾』は解消されたと評価しているのである。


 伊藤氏はここでは「戒壇本尊」云々については言及せず、改めて項を分けて論じている。したがって、伊藤氏のかかる評価をもって、創価学会が「戒壇本尊否定論」を採用したかのごとく主張するのは“牽強付会”としか言いようがない。


 では、問題となる「大御本尊」の表現につき、平成14年(2002年)改正では何がどのように変わったのか。改正された会則&規則の趣旨や解釈については、当然のことながら、改正権者たる創価学会の公式見解がある。

 実は、伊藤氏の批評にも続きがあって、沖浦氏も勿論読んでいるはずなのだが、我見に染まり悩乱仕切った彼においてはそれが読めないらしい。伊藤氏の要約を借りれば、当該改正部分の趣旨&解釈について創価学会の公式見解は次のようになる(以下、引用)――


 本尊について、聖教新聞330日号に載っている、全国総県長会議での斉藤教学部長の「創価学会会則の改正について」という記事の中で、


 次に「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」とあります。これは、創価学会に貫かれてきた「大御本尊への信」の本義をしめしたものです。


 と説明し、弘安2年1012日に大御本尊を図顕された大聖人に呼応する信こそ「大御本尊を信受する」という味で、一閻浮提総与の語に大御本尊の本義が明らかで、


「分身散体」の義に照らして、弘安2年の大御本尊を書写した御本尊を正しい信で受持することはそのまま大御本尊の受持になります。(中略)したがって、各自が家庭に御安置した御本尊を拝することが、そのまま大御本尊を信受することになるのです。どこか特定の場所に参拝しなければ成できないという日顕宗(筆者注−現日蓮正宗阿部日顕法主を用いて日蓮正宗を揶揄攻撃する言葉)のような誤った考えは大聖人の御本ではありません。


 と論じている。総本山大石寺への参詣を絶対視していたことへの釈明は、ない。「日顕宗」という言い方には、現法主が悪い、伝統ある宗門は別、という味があるのか。

 

 創価学会の公式見解によれば、「弘安2年1012日に大御本尊を図顕された大聖人のに呼応する信こそ「大御本尊を信受する」という味」なのであるとする。そして、当該「大御本尊」こそは「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」と定義されるものなのであって、「三大秘法」総在の「“大”御本尊」とは、本門戒壇の大御本尊と同義であることは明らかであるから、結論として、「弘安2年1012日に図顕された大御本尊」をして、未だ創価学会は「本門戒壇の大御本尊」としていることになるのである。


 当該「大御本尊」は“一閻浮提総与”であって、これを「分身散体」の義に照らせば、それを書写した御本尊の受持もまた「大御本尊の受持」になる、と言っているのだ。何も矛盾はない。


 創価学会が、従来と変わらず大御本尊信仰の根幹とすればこそ、伊藤氏をして「総本山大石寺への参詣を絶対視していたことへの釈明は、ない。」と癖をつけるのである。


 伊藤氏の評価は、大御本尊に対する創価学会のスタンスが“不変”であることを前提にしないかぎり成り立たない主張だからだ(当該、伊藤氏の癖についての反論は省く)。


 かかる創価学会の公式見解が存在するにも拘らず、あたかも創価学会が「戒壇本尊否定論」を採用していると強弁するならば、沖浦氏はそれをあらためて立証せねばなるまい。


 ちなみに、改正された会則&規則において「戒壇本尊」の文言が改変されたのは、「正本堂」が破壊されたことと関係があるのだろう。「本門戒壇の大御本尊」とは「本門戒壇に御安置すべき大御本尊」をさすが、創価学会にとり「正本堂」こそが「本門の戒壇」だったのであり、それが破壊された今日においては未だ本門の戒壇は存在しないことになるからだ。


 正しい信の者が建立してこそ、戒壇堂が「本門の戒壇」になるのである。当該大御本尊は不幸にも邪宗・日顕宗が占有しているのであって、正しき信の者たる創価学会が邪宗に戒壇堂を供養することはありえないのであるから、事実上、これからも「本門の戒壇」は存在しえないことになる。


 存在しえない「本門の戒壇」をもって「本門戒壇の大御本尊」とするのは、自己矛盾以外のなにものでもない。沖浦氏は、邪宗が建てた安普請の「奉安堂」をこそ「本門の戒壇」とでもいうのだろうか?


【「沖浦さんの誤謬をガンガン破折スレ創価法研鑚掲示板】

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