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2009-10-16

十如是の原文(サンスクリット・テキスト)


 立川武蔵の考えは、「空」に傾き過ぎるキライがあるので注が必要だ。


 ここには「是の如き」(如是)が10回現われており、「十如是」と呼ばれてきた。このことばについての考察は便宜上後まわしにし、まず「諸法実相」という表現について考察しよう。

法華経』のサンスクリット・テキストは、この羅什の訳文とかなり異なっている。まず「のみ能く諸法の実相を究め尽くす」はサンスクリット・テキストでは「すべてのもの(ダルマ、現象)を如来たちのみが知っている」である。サンスクリット・テキストには「諸法」にあたる箇所でも、「如是」にあたる表現は五つあるのみである。また、「相」「」「用」等の明確な概がもちいられいているわけでもない。


 それらのもの(ダルマ)は何であり、どのようなものであり、何に似ており、どのような特質(ラクシャナ)を有し、どのような本(スヴァバーヴァ)を有するものか。これらのものを如来のみが眼に知り直接に知っている。


 このサンスクリット原文では、如来の知る「もの」(存在)が「どのようなものであり、どんな特質や本を有しているか云々」とは述べてはいるが、羅什訳のように10もの哲学的概を並べたてているわけではない。したがって、サンスクリット原文に従うかぎり、『法華経』の編者たちがこの箇所で諸法の実相に関する詳しい考察をしようとしたとはえない。そもそも天台教学にもちいられているような味での「実相」にあたるサンスクリットの概はないようにわれる。


【『最澄と空海 日本の誕生』立川武蔵(講談社選書メチエ、1998年)】


 教が次の段階へと飛翔するためには、「漢字文化」が不可欠であったと私は考える。漢字に翻訳されることがなければ、ブッダの教えは矮小化(わいしょうか)されていたことだろう。安易に「ゲゲッ、天台の訳だったのか」などと驚くよりも、天台が炎の如き情熱をもって、悶えしむような精神闘争の果てに生み出した言葉であると受け止めるべきだ。これこそが、天台の悟りであったのだろう。

最澄と空海―日本仏教思想の誕生 (講談社選書メチエ)

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