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2009-11-10

観心の長者から業を考える


 少し長いがしっかり読んでくれ給え――


一有大長者の事 仰に云く此の長者に於いて天台大師三の長者を釈し給えり、一には世間の長者二には出世の長者三には観心の長者是なり、此の中に出世観心の長者を以て、此の品の長者とせり、長者とは釈迦如来の事なり、観心の長者の時は一切衆生なり、所詮法華経の行者は男女共に長者なり、文句の五に委しく釈せり、末法当今の長者と申すは日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり、されば三の長者を釈する時、文句五に云く、二に位号を標するに三と為す、一は世間の長者二は出世の長者三は観心の長者なり、世に十徳を備う、一には姓貴二には位高三には大富四には威猛五には智深六には年耆七には行浄八には礼備九には上歎十には下帰なり云云、又云く、出世の長者は、は三世の真如実際の中より生ず、功成り、道著われて、十号極り無し、法財万徳、悉く皆具に満せり、十力雄猛にして、を降し外を制す、一の三智通達せずと云うこと無し、早く正覚を成じて、久遠なること斯くの如し、三智に随つて、運動して失無し、威儀を具して、大なること海の如し、十方の種覚共に称誉する所なり、七種の方便而も来つて依止す、是を出世の大長者とく、三に観心とは、観心の智実相より出で生じて家にあり、種真正なり、三惑起らず、未だ真を発さずと雖も是れ如来の衣を着れば、寂滅忍と称す、三諦に一切の功徳を含蔵す、正観の愛見を降伏す、中道双べ照して権実並に明なり、久く善根を積みて能く此の観を修す、此の観七方便の上に出でたり、此の観心を観ずるを上定とくれば、即ち三過無し、歴縁対境するに威儀失無し、能く此くの如く観ず、是れ深信解の相諸皆歓喜して持法の者を歎美したもう、天竜四部恭敬供養す、下の文に云く、子是の地に住すれば、即ち是れ受用し給い、経行し及び坐臥し給わんと、既に此の人を称してと為す、豈観心の長者とけざらんやと此の釈分明に観心の長者に十徳を具足すと釈せり、所謂引証の文に、分別功徳品の則是受用の文を引けり、経文には子住此地とあり、此の字を是の字にうつせり、経行若坐臥の若を及の字にかえたり、又法師品の文を引けり、所詮子とは法華経の行者なり、此地とは実相の大地なり、経行若坐臥とは法華経の行者の四威儀の所作の振舞、悉くの振舞なり、我等衆生の振舞の当体、の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ、仍つて観心の長者は我等凡夫なり、然るに末法当今の法華経の行者より外に、観心の長者無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚不求自得の長者に非ずや、既称此人為の六字にを留めて案ずべきなり云云。(「御講聞書」818-819頁)


 創価学会では「御講聞書」が軽んじられている。「御義口伝」と比較しての話だ。内容もさることながら、日向が書いたものだからというのが大きい理由だとわれる。少々踏み込んだことを書いておくと、日蓮大聖人が日興上人に対して血脈相承をしたという歴史的事実はない。富士門流には二箇相承が伝えられているが、これを鵜呑みにしているのは富士門流だけである。大聖人が逝去する直前に行ったのは六老僧を定めた(弘安5年108日)ことのみで、その後で日興上人だけエコヒイキするとは考えにくい。


 ここのところ観心について考えている。あるインド家の著作に触れたのがきっかけとなった。「観心って、勤行唱題のことだろ? 観心本尊は信の本尊ってことだよな?」――その通り。そして、そこで学会員考は停止している。永遠に停止したままだ(笑)。


 字義の通りに考えると、観心は「を観る」ことになろう。実に不議な符合であるが、「開目抄」というタイトルも「見る」ことがテーマになっている。ってことはだよ、凡夫には見えてない世界があるってことになるわな。で、信してから果たして「見える」ようになったのか? ウーーーム、なったような、なっていないような……(笑)。


 実際は見てないね(←断言)。我々が見ているのは短くなりつつある線香や時計、あるいは前が記入されていない啓蒙用紙や成果のグラフだ。


 御本尊は明鏡に喩(たと)えられるが、我々の目の焦点はいつも定まっていない。鏡に付着したゴミを眺めているようなじだろう。


 本題に入ろう。人間を形成しているのは癖や習慣であり、その集積が(ごう)である――私は今までこう考えてきた。つまり、身口のバランスシートといっていいだろう。ただ、この考え方でいくと、一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がることの多い人生だと、いつまで経っても負債が減らないことになりはしないか? っていうか、利子が嵩(かさ)みそうな気になる。


 大聖人は長者に三種類あると説かれている。世間の長者、出世間の長者、そして観心の長者である。とすると、同じ善でも三つの段階があると考えられる。これを私は、足し算の長者、掛け算の長者、そして2乗の長者と受け止める。


 出世の長者は「三智に随つて、運動して失無し」だから、何をやってもリズムに乗ったように上手くゆく。そして観心の長者は「三過無し、歴縁対境するに威儀失無し」となっている。しくてよくわからん。でも、出世の長者よりは凄そうだ。


 結論を述べよう。私が考えるに、努力から習慣へと移行することは望ましいと多くの人が信じているが、実は結果的に「習慣の奴隷」となり、単なる惰に陥る危険がある。そこに沸き立つような歓びはない。信が歯磨きレベルになってしまうのだ。やらなくていいと言っているわけではないからね(笑)。


 観心という次元で振り返ってみよう。私は己を観じていない。今静かに見つめてみると、そこには希望や願望や欲望しかないようにじる――そうか、餓鬼界だってわけだな。


 折伏にしても同様だ。相手の幸せと自分の成果とは紙一重の違いである。観心とは、こうしたの微妙な動きを自覚することなのだろう。生命は一念三千という帯域で動き回る。そこをただひたすら見つめる。理由や味すら考えないで見つめ続ける。虫眼鏡で拡大し、スローモーションで映し出すように見つめる。すると、因果を超える瞬間が訪れる。これが直達正観(じきたつしょうかん)であり速疾頓成(そくしつとんじょう)だとう。「言語道断の経王心行所滅の妙法なり」(465頁)。


 その昔、わら一本で長者になったジイサンがいた。我々は信心一筋で長者となるのだ。


 私見に過ぎないから、あちこちで紹介するんじゃないよ。

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