Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2009-11-26

日蓮の文字マンダラ その一


 日蓮マンダラ(曼荼羅)が文字である味を考え続けている。マンダラとは宇宙観のイメージを図像化したものである。絵像・木像の類いはイメージの喚起力が具体的――かつ限定的――であり過ぎるために偶像崇拝と斥(しりぞ)けられる。


 日蓮は文字を重んじた。禅宗が教外別伝と称して「不立文字」(ふりゅうもんじ)と経典を無視する姿勢を徹底的に糾弾した。その真は奈辺(なへん)にあったのか探ってみよう。


 法華経の文字は六万九千三百八十四字一字は一なり(971頁)


 法華経の文字は「」である。


 文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり唯所詮一法界の旨を説き顕すを妙法とく故に此の経を諸の智とは云うなり(383頁)


 文字即実相であるがゆえに、文字は「諸の智」である。


 御義口伝に云く義とは観心なり、其の故は文は教相義は観心なり所説の文字を地に沙汰するを義と云うなり、就中無量義は一法より無量の義を出生すと談ず(784頁)


 文は教相、義は観心である。「地に沙汰する」とは絶妙の表現である。知識から智への変容、規範から生きざまへの変化を表すか。


 此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持身とは是なり(1025頁)


 観心にも十界の差別がある。


 今の法華経の文字は皆生身のなり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見菩薩は種種の色と見種純熟せる人はと見奉る、されば経文に云く「若し能く持つこと有るは即ち身を持つなり」等云云、天台の云く「稽首妙法蓮華経一帙八軸四七品六万九千三八四一一文文是真説法衆生」等と書かれて候(1050頁)


 文字は文字に非ず。


 何だかますますわからなくなる(笑)。では具体的に見てみよう。日蓮マンダラに書かれているのは、諸と神々の前である。

 これらが「単なる前」ではないとすると、何らかの作用や働きを示していることになる。しかもこのマンダラは立体的なピラミッド構造となっているのだ。その上、右半分と左半分とが実は向かい合う様相まで描き出している。まるで、左右に分かれている脳味噌のようだ。


 前ではないなら言葉でもなくなる。また「義は観心」とすれば、義は概なのかあるいは味なのか。それを「観る」ことにはどのような味合いや関係があるのか。


 考は言葉で行われるがゆえに、言葉に支配され束縛される。我々は言葉の外側に脱出することができない。だが考えてみよう。言葉にはおのずと限界がある。簡単な例を示そう。あなたは、美しい夕焼けに染められた空を見上げていた。この光景を電話や手紙で100%伝えることは可能であろうか? 無理に決まっている。半分も伝えることはできないだろう。


 このように五官による知覚は圧倒的な情報量を持った豊かな世界なのだ。言葉はそれを限定してしまう。しかも言葉は、双方が全く同じ語で使っていることすらあり得ない。互いが歩み寄り、探り合い、折り合いをつけながら会話は進んでゆく。時に言葉の味を誤っていることすら珍しくはないのだ。


 では、言葉を超えた向こう側に何があるのか。それはきっと「真理」とづける他ない何かなのであろう。真実は一つしか存在しないが、真理は理であるがゆえに万人が「観る」ことが可能となる。


 その真理を日蓮は「南無妙法蓮華経」と説いた。味や解釈はさまざまだ。しかし、本当のところは「南無妙法蓮華経」とづけるしかない「何か」なのだ。その「何か」を人々が見出すために、日蓮は文字マンダラを顕したのだろう。


 マンダラと言葉には驚くべき共通点がある。実はどちらも「シンボル」なのだ。つまり、文字マンダラは二重の象徴を示していることになる。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20091126/p4
Connection: close