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2009-12-19

増上慢という言葉づかいに見られる教条主義


 ブッダ法華経を説いている最中(方便品第二)に、突然5000人の人々が座を立って去って行った。これを五千上慢、五千起去という。

 慢とは「未だ得ざるをこれ得たり」(539頁、他)とのこと。つまり、5000人もの連中は「んなこたあ、知っているよ」とったわけだ。昔、「♪知っているのに 知らんぷり」という歌(「涙の太陽」青山ミチ/私の世代だと安西マリア)はあったが、「知らないのに、知っているふり」をするのだから、とんでもない話である。


 この他にも三類の強敵増上慢づけ、不軽菩薩を軽んじた人々を上慢の四衆と呼ぶ。


 ところが、学会組織の中において増上慢味は変質する。「お前は増上慢だ!」というふうに使用され、幹部の言うことを聞かないメンバーに対する最終的なレッテルと化しているのだ。しかし、よくよく考えてみると、後輩を増上慢呼ばわりする先輩の方が増上慢であることは確かだろう。


 これが教条主義の怖いところだ。や教義が死んだ理論となり、人々をはめ込む鋳型(いがた)と化す時、それは教条へ変貌する。本来は人々を救う教えだったにもかかわらず、人々を束縛するロープとなるのだ。ここに理論の落とし穴がある。


「そんなの常識だろう?」と言う時、我々は社会の奴隷となっている。社会を重んじるのは、そこに安定があるためだ。そして安定を求めた瞬間から腐敗が始まる。


「妙とは蘇生の義」(947頁)なれば、教義を日々の生活の中に蘇らせる姿勢が求められよう。そうでなければ、死んだ教義も同然なのだ。「日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし」(1190頁)――この御文は教条主義を破折したものである。

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