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2010-01-31

師匠が「仏法は勝負」と言われているのに、なぜそれを否定するのか?


 同じ内容の質問が数件寄せられたので、まとめて答えておこう。


質問


イズムの罪〜「勝負主義」と「現証主義」について”を読めば「なるほど」と思うのですが、しかし先生は今尚「仏法は勝負」と繰り返し指導されています。これをどう受け止めればよいのでしょうか?


小野不一


 もしも、「仏法は勝負」が「第一義」であるとすれば、仏法は完全な競争原理となってしまいます。では、虫眼鏡で「勝負」の文字を拡大してみましょう。勝負とは「邪正をただす」(16頁)ことであり、公場対決を指す言葉と考えてよいでしょう。鎌倉時代は印刷技術もないため、人々に権実雑乱の現実を知らしめる行為は公場対決しか考えられません。


 では我々が望んでいる「勝利」とは何でしょうか? それは目標の達成です。ある時には弘教であり、またある時には新聞啓蒙であり、そしてある時には選挙だったりします。学会総体として見た場合、全て広宣流布のためであると意義づけられています。


 勝負である以上、勝ったり負けたりすることは避けられません。勝てば気分がよくなり、負けると落ち込むのが人の常でありましょう。これは自我が大きくなったり小さくなったりするためです。


 数え切れないほどの悲惨な地区があります。これらの地区が弘教を推進すれば、悲惨を広げていることになりはしないでしょうか? 悲惨な組織にいる、悲惨なメンバーが行う折伏は、当然の如く悲惨な結果を生むに決まっているのです。


 あなたはなぜ戦っているのでしょうか? それは「組織の命令」や「幹部の指示」があるからです。我々はお尻を叩かなければ戦わないほど怠惰な人間なのです。自分で自分を管理することができないため、組織に隷属することで管理してもらっているわけです。これを美化した言葉が「叱咤激励」です。ムチとニンジンを欲するあなたが、馬のような人生を歩むのは仕方がありません。


 もっとわかりやすく言いましょう。たとえ選挙に勝とうが負けようが、そこには「変わらぬ自分」がいるのです。変化するのは「気分」だけです。一時的に勝負という山を経験しますが、またぞろ仏法勝負とは無縁な日常に舞い戻るわけです。


 そして私が書いた批判的な文章を読んでは溜飲(りゅういん)を下げ、先生の指導を読んでは「あれ、どっちなんだ?」と迷いを深め、周囲をキョロキョロ眺めながら、同じ場所をグルグル回るような人生を過ごしているわけです。ネズミ車の中をひた走るハムスターのように。


 自分の頭で考えるのが大変なので、あなたは常に誰かの考えに寄り掛かり、依存し、もたれているのです。あなたは他人の言葉を杖とし、先生の言葉を車椅子にしておきながら、自分の足で立っていると錯覚しているのではないでしょうか?


 80歳を過ぎた師匠に何度も何度も「勝て!」と言わせる創価学会でいいんですか? 我々はどうして毎度同じことを先生に言わせているのですか? それは負けているからです。負け続けているからでしょう。命懸けの青年が一人もいないためでしょう。先生がいなくなれば滅びゆく創価学会だからでしょう。


 私は、年老いた師匠を利用し続ける創価学会に我慢がならないだけです。私は凄まじいばかりの焦りを覚えてなりません。このまま行けば、先生は一教団のリーダーという存在で終わってしまいます。本当であれば、日本人全員が親しく接する機会を持っていて当然なのです。歴史に名を残した偉人は皆そうです。民衆が実際に自分の目でその姿を見、その声を聴いて、自分の心に炎を灯(とも)してきたのです。


 書籍にしても同様です。思想という次元で考えた場合、書籍はそのエッセンスといえます。では今現在、先生の著作でゆくゆく岩波文庫に収録されるようなものがあるでしょうか? デカルト、カント、ヘーゲルと並べられるような作品があるでしょうか? 私はないと思います。なぜなら、殆どの著作が学会指導となっているためです。


 つまり我々学会員が先生の手足を縛り、身動きできなようにしているわけです。師匠に依存し、おんぶしてもらい、抱っこをせがむ幼稚な弟子しかいないのが現状です。「勝て!」と言われなければ、勝とうとすらしない弟子しかいません。


 追伸――人の言葉に心を振り回される人はネットをすべきではありません。まず、基本的な訓練をしっかりと受けるのが先です。

東京電力CIA


(※福島県)浜通りでは70年代から通称“TCIA”(東電CIA)が暗躍。原発反対派の集会では車のナンバーを調べ、選挙では反対派候補の家や事務所に出入りする住民のをチェックする。原発批判、とくに東電絡みの記事が載った週刊誌、雑誌は町の書店では買えない。TCIAが買い占めてしまうからだ。その結果、86年のチェルノブイリ事故について、当時の中学校教師が生徒たちに聞くと、知っていたのはクラスで3〜4人しかいないという驚くべき状況になっていた。職場はもとより、家庭内ですら、原発イコール東電となって話題にするのもはばかられるのだ。

 それは柏崎市や刈羽村でも同じだ。


【『東京電力 暗黒の帝国』恩田勝亘〈おんだ・かつのぶ〉(七つ森書館、2007年)】

東京電力・帝国の暗黒

2010-01-30

公共の電波が創価学会のCMを解禁するのは問題じゃないのか


 スポンサーの「CM離れ」が深刻になっているテレビ界。ここにきて民放各局がある重大な決断を下した。間もなくテレビ東京が創価学会のCMの放送を“解禁”し、他のキー局も順次放送を開始するという。久本雅美ら学会員タレントがCMに起用される可能性もありそうだ。

 すでに創価学会ローカル局ラジオ局など電波系メディアにCMを大量に出稿している。タクシーに乗って、ラジオから「創価学会〜♪」というCMが流れてくるのを聞いたことがある人も多いのではないか。

 しかし、影響力がケタ違いの全国ネットのテレビ放送となると話は別。テレビ局内でも創価学会のCM解禁には慎重意見が相次いだという。

「フジテレビと日本テレビが08年10月から『創価大学』のCMを放送して、話題になったことがあります。ちょうどその頃、衆院解散が近いとみられていたため、フジと日テレの局内では報道スタッフを中心に“選挙学会公明党の報道に支障をきたすのではないか”という指摘があったそうです。今夏も参院選があって、状況は1年半前と重なります。創価学会がスポンサーになって、報道の公平性が担保できるか疑問です」(マスコミ関係者)

 そもそも、かつてテレビ局はパチンコ関連、宗教団体関連、ハイリスクの金融商品のCMを不文律で禁止してきた。それが08年のリーマン・ショック以降、なし崩しになり、今やパチンコ台やFXのCMが普通に流れている。そして、創価学会のCMがついに解禁……。

 メディア論が専門のある大学教授がこう言う。

「信教の自由がある日本で、宗教法人がCMを流すことが一概に問題とはいえません。むしろ心配なのが“背に腹は代えられない”と次々に『禁断の果実』に手を出すテレビ局の姿勢です。放送倫理について、もう少し真剣に考えてもらいたい」

 一番ツライのは創価学会に興味のない視聴者だが……。


【日刊ゲンダイ2010-01-27】


 私は一学会員としてCM放映に反対する。というよりも、宗教団体が行う宣伝の全てに反対である。そこに、どのような戦略や付き合いがあったとしても認めない。宣伝によって得られるものよりも、失うものの方が大きいと思うからだ。資本主義経済における自由競争というのは画に描いた餅であり、実際は広告によって競争が左右されている。つまり広告によって消費者を奪い合っているのだ。メディア戦略に力を注いだ分だけ、確実に学会員から折伏する力が失われてゆくことだろう。聖教新聞社のラジオCMもやめるべきだと言いたい。そんな金があるなら、配達員さんの賃金をアップするのが先ではないのか? ゲンダイの記事は単なる揶揄(やゆ)の次元となっている。公共の電波や放送倫理を問題視するのであれば、テレビ番組そのものをまず問うべきだろう。テレビCMは莫大な費用が掛かる。どうしても宣伝したいのであれば、会長がテレビ出演すればいいことだ。会長がバラエティ番組に出てバツゲームでもやらされた暁には、創価学会の人気度も格段に上がることだろう。

反逆と混乱


 昨年の10月20日からクリシュナムルティの著作を読み始め、既に16冊を読了した。クリシュナムルティとの出会いは、「衝撃」というよりも「事故」というべき経験であった。内外を問わず、これはと思う人物数十名に本書を薦めた。


Q――もしもすべての個人が反逆していたなら、世界に混乱が起きるだろうとは思われませんか。


 まず質問を聴いてごらんなさい。なぜなら、ただ答えを待つのではなく、問題を理解することがとても重要だからです。問題は、もしもすべての個人が反逆していたなら、世界は混乱しないだろうか、ということです。しかし、現在の社会には、もしもあらゆる人がそれに対して反逆したなら結果的に混乱するような、完全な秩序があるのでしょうか。それとも、【今】、混乱がないのでしょうか。あらゆるものが美しくて、腐敗していないのでしょうか。あらゆる人が幸せに充分に豊かに生きているでしょうか。人と人が対立していないでしょうか。野心や無慈悲な競争はないのでしょうか。それで、世界はすでに混乱しているのです。それが最初に悟らなくてはならないことです。これが秩序ある社会だと決めこんではいけません。言葉で自分を眠らせてはいけません。ここでもヨーロッパでもアメリカでもロシアでも、世界は腐敗の過程にあるのです。その腐敗が見えるなら、君は挑戦されています。この切実な課題の解決法を見出すようにと挑戦されているのです。そして、この挑戦にどのように応答するのかが重要でしょう。ヒンドゥー教徒、仏教徒キリスト教徒、共産主義者として応答するなら、その応答はとても限られていて、それではまったく応答にはなりません。ただ、君に恐怖がないのなら、ヒンドゥー教徒、共産主義者、資本主義者としてではなく、この課題を解決しようとしている完全な人間として考えるのなら、充分に適切に応答できるのです。そして、君自身がすべてのものに対して、社会がそれに基づいているところの野心的な欲得に対して反逆しなければ、それは解決できません。君自身が野心なく、欲がなく、身の安全にすがりついていないとき、そのときにだけこの挑戦に応答し、新しい世界を創造できるのです。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-29

良心の危機


 良心の自由を叫んだことで知られる宗教団体が、個人の良心の声を抑えるために極めて厳しい制裁措置を取る。この現代において実におかしなことであると思う。


【『良心の危機 「エホバの証人組織中枢での葛藤』レイモンド・フランズ/樋口久訳(せせらぎ出版、2001年)】


良心の危機―「エホバの証人」組織中枢での葛藤

2010-01-28

怠惰とナルシシズム


 ここでもまた、われわれ人間全体に共通する怠惰とナルシシズムに直面する。要するにこれは、あまりにもやっかいな問題だったのである。われわれにはわれわれの生活がある。毎日の仕事にはげみ、新しい車を買い、家のペンキを塗り替え、子供を大学に入れなければならない。集団のメンバーの大多数は少数の人間に導かれることに満足する。それと同じことで、市民としてのわれわれは、政府に「政府の仕事」をさせることで満足していたのである。国民を導くのはジョンソン(大統領)の仕事であり、われわれはそれに従うだけだ、というわけである。市民があまりにも無気力であったために、目覚めることができなかったのである。おまけに、われわれアメリカ国民は、ジョンソンのテキサス魂的ナルシシズムを共有していた。アメリカの国家的姿勢や政策に間違いのあろうはずがない。われわれの政府は自分のしていることを知っているはずだ。結局のところ、アメリカ政府はわれわれの選んだ政府である。彼らは善良かつ誠実な人間たちだ。彼らはこの素晴らしい民主主義体制の産物であり、とんでもない過ちをしでかすはずがない。われわれの為政者、学者、政府の専門家たちがベトナムのためにいいと考えた体制は正しいに決まっている。なぜなら、このアメリカという国は世界で最も偉大な国であり、自由世界のリーダーなのだから。われわれはこう考えていたのである。


【『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学M・スコット・ペック:森英明訳(草思社、1996年)】


「政府」を「幹部」に読み替えると理解が深まる。

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

2010-01-27

貧しくとも力強く生きるバングラデシュの人々


 貧しさは生活の至るところで人間を傷つける武器として現れた。その度に、どんなに変えたくても変えられない現実があるんだと思い知った。車に跳ねられても一言も言えずに立ち去る少年も、クラスメイトの女性も、リキシャ引きになる少年も、洪水の中泳いで薬を買いに行く子どもも、みんな、生きるために、生きていた。そこに生まれなければ発揮できたはずの沢山の可能性がある。しかし、正義や努力が日の目をみない腐った社会でも、自分の生きる道を何とか切り開き、力強く、生きていた。

 私は何かの力になりたいと思ってこの国に来たが、私にもっていない「強さ」をこの国の人たちはみんな持っていた。自分だったら環境を責め、自暴自棄になっていると思えるような過酷な現実だった。しかし私には「帰る場所」があった。日本という恵まれた国に生まれ、最低限以上のものを与えられ、生きてきた。そんな私が、「貧しい人のために」なんて思っていたことが、なんて浅はかで、傲慢で、無知な想いだったんだろう、と強烈に感じた。


【『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子(講談社、2007年)】

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

2010-01-26

権威が行動を生み、行動が権威を支える


 このように大規模な行動(※強制収容所への大量輸送)が可能だったのは、ひとえに、ナチス党やSS将校・兵卒だけでなく、社会の各部が分担参画したからである。権威主義のもとでは、権威と教条のもと、社会の各部がそれを支え、かつそこから利益を得る形に社会構造ができあがっていく。

 権威が行動を生み、行動が権威を支えるという循環構造ができていくのが、権威主義社会の特徴なのである。


【『権威主義の正体』岡本浩一(PHP新書、2005年)】

権威主義の正体 PHP新書 330

2010-01-25

無神経で野蛮な日本人


 帰国後、地元の中学に転校した直後、私がひとかたならぬショックを受けたのは、いとも気軽に生徒たちが、学友や教師を、「デブ」とか「ハゲ」とか「チビ」とか「出っ歯」とか「オデコ」と当人の人間としての本質とは無関係な、当人の意志ではどうにもならない容貌(ようぼう)上の特徴をあげつらって呼んでいることだった。しかも、当人に面と向かってまで平然とそれを繰り返している。当人がそれを許容している。完全に日常の風景となっているようなのだ。私としては、恐ろしく無神経で野蛮な人々の集団の中にいきなり放り込まれた気がして憂鬱(ゆううつ)になったのを覚えている。


【『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里〈よねはら・まり〉(角川書店、2001年/角川文庫、2004年)】


嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (文芸シリーズ) 嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-01-24

聞く技術


「聞く技術」というものがあります。本当に相手の言葉を聞くためには、あらゆる偏見や、前もって公式化されたものや、日常の生活の問題などを捨ててしまうか、脇へ片づけておかなければなりません。心が何でも受け入れられる状態にあるときには、物事はたやすく理解できるものです。あなたの本当の注意力が【何かに】向けられているとき、あなたは【聞いて】います。


【『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ/根木宏、山口圭三郎訳(篠崎書林、1980年)】

自我の終焉―絶対自由への道 自我の終焉 絶対自由への道

(※どちらも同じ作品)

2010-01-23

真蹟主義について考える


 ゆくゆくは大きな問題になるであろう「真蹟」(真跡とも)に関する覚え書き。書こう書こうと思いながらも、いたずらに日が過ぎているので、中途半端な状態ではあるが書いてしまおう。


 日蓮の遺文を我々は「御書」と呼んでいるが、直筆遺文を「真蹟」(しんせき)という。次に「曽存」(かつては真蹟が存在したもの)は、火災などで焼失しているが記録や写本によって判断される。確証が高いものを「真撰」と呼ぶ場合もある。そして明らかに日蓮が書いたものと認められないものを「偽書」と名づける。その他は「真偽未決」。


 古来、洋の東西を問わず宗教の歴史には偽書が跋扈(ばっこ)してきた。印刷技術がなかったため、書写する際の誤りも多かったことだろう。今となっては確認のしようがない。


捏造された聖書 偽書の精神史―神仏・異界と交感する中世 (講談社選書メチエ) 日本の偽書 (文春新書)


 聖教新聞社版『日蓮大聖人御書全集』だと、目次の「正筆所在」が明記されているものが真蹟である。一見すると驚くほど少ないことに気づく。真蹟については以下のページからダウンロードできる。

 偽書は日蓮の名を騙(かた)っている以上、各教団の正当性を示すための政治的意図が込められていた。有り体にいえば、共産主義者が得意とするプロパガンダ怪文書工作、歴史修正主義と同じ手法だ。邪悪な意図は隠すべくもない。


 ここからは「真蹟主義」について触れる。真蹟以外の一切を認めない立場の人々を真蹟主義と呼称する。これは何も私が勝手につけたわけではなく本人達がそう言っているのだ。


 日蓮系の相手と話したことがある人なら承知していると思うが、「御義口伝」や「百六箇抄」を持ち出すことはできない。なぜなら、これらを日蓮思想と認めない人々が存在するからだ。

 偽書に共通する点としては「本覚」、「無作」、「久遠元初」+「自受用報身如来」というキーワードが挙げられる。つまり、日蓮を「わかりやすい本仏」に祭り上げようとする魂胆が見て取れる。


 私は御書の真偽について研究することは大変結構だと思うが、真蹟主義を否定する立場だ。なぜなら、「主義」と名がつけば必ず原理となり、教条となって人々の思考を束縛するからだ。真蹟主義者はおしなべて神経質である。彼等はラインからはみ出たプレイに対して、けたたましくホイッスルを吹くような種類の人間である。


 近頃では、「如説修行抄」に偽書の可能性ありという論文もあるそうだ。仮に偽書であったとしても、そのまま摂受を採用することにはなるまい。ところが真蹟主義者は、精確な第一次情報の間口を狭めるだけ狭めてしまっているため、主張がどうしてもニッチ(隙間)な方向や新奇かつ珍妙な説に傾きがちだ。


 開目抄は曽存であるが真撰であることに異論を挟む者はいないだろう――


 夫れ摂受折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属寒月に苦をう諸水は月輪の所従熱時に本性を失う、末法摂受折伏あるべし所謂悪国破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし(235頁)


転重軽受法門」は真蹟である――


 これは世に悪国善国有り法に摂受折伏あるゆへかとみへはんべる、正像猶かくのごとし中国又しかなり、これは辺土なり末法の始なり、かかる事あるべしとは先にをもひさだめぬ期をこそまち候いつれ(1000頁


 その国が「無智悪人」であるのか「邪智謗法」であるのかが問われている。つまり衆生の機根だ。


摂受・折伏に関する考察」にも書いたが、私は末法という時代相を「国家という枠組みが支配する情報化社会」と考えている。劇的なパラダイムシフトが生んだのは、「一切を知識化」する脳内作用と社会構造であった。これを日蓮は本已有善と本未有善という過去世の物語に仮託したのだと思う。つまり、思考や価値観がネットワーク化された時代が末法なのだ。


 真蹟主義者は真偽の判断に全力を傾注しているため、それ以上の仕事はできない。彼等の精力は「それは偽書だ」と叫ぶことに注がれている。だから、何が書かれた文章であろうと偽書を見掛けただけで、思想的な吟味を放棄する。


 では、もう一歩本質を探ってみよう。真蹟主義者が行っているのは「分析」である。そして彼等が真蹟を語る時、それは「解釈」となり「翻訳」とならざるを得ない。真蹟原理主義を踏まえると、この瞬間に真蹟日蓮から離れ、「自分の言葉」に変化している。結局、真蹟主義はタコツボ教学となる運命を辿っているのだ。


 ここからは完全な私論となるので要注意。


 そもそも言葉は絶対なものだろうか? 生涯の愛を誓ってから2〜3年後に離婚した夫婦の言葉が絶対でないのは確かだろう。言葉は名詞から始まったと考えられている。つまり名前だ。

 名前は付与された途端、世界から分け隔てられる。山、川、犬、猫といった名詞は、「それ」と「それ以外のもの」に世界を二分するのだ。つまり、言葉は分析のための道具なのである。これを科学の世界で徹底的に行う立場を「要素還元主義」という。このため西洋の知性は帰納法的アプローチとなって「分かる」ことを目指す。なぜなら、「神は細部に宿る」からだ(笑)。これに対して東洋の英知は演繹的(えんえきてき)な「悟り」を目指す。


 ブッダ日蓮も何かを悟った。では果たしてその悟りを言葉で表現することは可能であっただろうか? 無理だね。なぜなら、悟りが言葉で表現された瞬間にそれは知識になってしまうからだ。


 言語道断の経王心行所滅の妙法なり(「持妙法華問答抄」465頁)


「悟り」は経験されるものであって、人から教えてもらうものではない。言葉には限界があるからだ――

 もっと踏み込んだことを述べよう。日蓮は自分の文言を「教義」と考えていたのだろうか? 私は日蓮が文証を重んじたのは、仏教界が権実雑乱している様相を明らかにする目的があったのだろうと考えている。つまり、思想を吟味・検討する際には何らかの物差しが必要となる。日蓮は翻訳の危うさを承知していた――


 経教は西天より東土に■(およ)ぼす時訳者の意楽に随つて経論の文不定なり、さて後秦の羅什三蔵は我漢土の仏法を見るに多く梵本に違せり我が訳する所の経若し誤りなくば我死して後身は不浄なれば焼くると云えども舌計り焼けざらんと常に説法し給いしに焼き奉る時御身は皆骨となるといへども御舌計りは青蓮華の上に光明を放つて日輪を映奪し給いき有りき事なり、さてこそ殊更彼の三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給いしか、然れば延暦寺の根本大師諸宗を責め給いしには法華を訳する三蔵は舌の焼けざる験あり汝等が依経は皆誤れりと破し給ふは是なり、涅槃経にも我が仏法は他国へ移らん時誤り多かるべしと説き給へば経文に設ひ法華経はいたずら事釈尊をば無明に迷へる仏なりとありとも権教実教大乗小乗説時の前後訳者能く能く尋ぬべし、所謂老子孔子は九思一言三思一言周公旦は食するに三度吐き沐するに三度にぎる外典のあさき猶是くの如し況や内典の深義を習はん人をや、其の上此の義経論に迹形もなし人を毀り法を謗じては悪道に堕つべしとは弘法大師の釈なり必ず地獄に堕んこと疑い無き者なり(「聖愚問答抄」484-485頁)


 で、何と日蓮サンスクリットが読めた――


 天竺の梵品には車の荘り物其の外聞信戒定進捨慚の七宝まで委しく説き給ひて候を日蓮あらあら披見に及び候(「大白牛車御消息」1584頁)


 ということは、大乗非仏説をも視野に入れていた可能性が高い。それゆえ尚のこと、日蓮が経典を「仏の金言」として仰いだのは、思想戦の土台作りであったように感じてならない。


 日蓮鎌倉時代に妙法が広まる様子を次のように書いている―― 


 当世此の十余年已前は一向念仏者にて候いしが十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑をなす故に心中に法華経を信じ又釈迦仏を書き造り奉る、是れ亦日蓮が強言より起る(「善無畏三蔵抄」890頁)


 尚、善無畏三蔵抄は「日蓮聖人御遺文 解題 その1」によれば、「近年、京都妙覚寺所蔵の真蹟断片が本書のものであると確認された」とのこと。


 教義は人間を束縛する。そして教義は異端を生み出す。教義は内と外との間に明確な線を引き、敵味方へと分断する。日蓮が示した教義があったとしても、それは現代の我々が考える教義の意味とは異なっていたのではないだろうか? やかましく教義を説いたのであれば、1〜2割もの人々が題目を唱えていたはずがない。


 ブッダや日蓮は人々を自由にしようとしたはずだ。そこには教義で人間を縛る発想は皆無であったことだろう。言葉が多くなり、氾濫(はんらん)するほど人々は「知識の奴隷」となってしまう。


 南無妙法蓮華経は法華経文底に秘されていた。秘されていた以上それは言葉ではないだろう。「言葉にできない何か」なのだ。


 日蓮の言葉を絶対視すると落とし穴にはまるような気がしてならない。個々人が絶対的に信ずることはあって当然だが、言葉を金科玉条として振りかざす行為に日蓮の心があるとは思えないからだ。


 何と書き上げるのに3時間もかかってしまった。それだけ、私自身の中でまとまっていないということだ。

仏壇屋


 前にもちらりと書いた話。会館を出て10メートルほど歩くと、若い男がチラシを配っていた。私は立ち止まって受け取り、チラシの内容を確認して男に言った。「指導を受けた上でやっているのか?」と。仏壇屋のチラシだった。当然、この男は男子部だろう。男は「エッ?」という表情をしていたので、「やめておけ」と一言だけいって私は去った。創価大学の正門を下って行った交差点の右側にある仏壇屋だった。この辺だ。若い男はきっと上司から言われるがままに仕事をしていただけなのだろう。上司は創価大学のお膝元で商売をしているのだから、これくらいは当然と思っていたのだろうか? あるいは本当にお得なセール情報を伝えたい親切心からであったのだろうか? それとも売り上げのノルマを達成するためになりふり構わぬやり方に打って出たのだろうか? それはわからない。


 事実だけ検証してみよう。創価学会員を商売のために利用しようとする会社があって、そこでは信心の判断力を欠いた若い社員が働いているということだ。何となく気になるのは、でかい顔をする以上は、それだけの理由があるのかもしれない。


 創価学会を取り巻く環境はここまで腐敗している。そして、腐敗と戦うことを奨励する幹部はいない。

感情


 原書1834年に刊行された。美文、名文がずらりと並んでいる。


 感情というものはそれに特有の生命をもち、感情を生み出すに至ったいろんな事情から生ずる性質を持っている。感情は、それが成長した場所の特徴と、それの発展に影響した思想の刻印を保存する。

 情熱には、心のなかに熱くはぐくまれて、それがそのまま熱くつづくものもある。たとえばクラース夫人の夫にたいする情熱がそれである。それからまた、すべてがそれに向かってほほえみかけたような情熱がある。かかる感情はの歓喜をそのまま持ちつづけていて、その喜びにみちた収穫にはきっと、笑いとお祭りがおともをする。けれど一方にはまた、宿命的に憂愁によって縁どられたか、さもなければ不幸という輪をはめられたような恋にも出逢うものだ。そうした恋の喜びはつらいものか、高くつくか、懸念心配がからみついているか、良心の苛責で毒されているか、それとも絶望でみちているかである。


【『「絶対」の探究』バルザック/水野亮訳(岩波文庫、1939年)】

「絶対」の探求 (岩波文庫)

2010-01-22

蒙古襲来


 それから半刻余り、湿原の中で激しい戦闘が繰り広げられた。

 太鼓と鉦がしきりに打ち鳴らされる。それに合わせて敵の兵が素早く移動や突撃を仕掛けて来る。矢の雨が敵味方構わずに降り注ぐ。泥に腰まで埋(う)まった兵を馬が踏み潰す。薙刀が首を刎(は)ねる。馬から振り落とされた武者を20人ほどがいっせいに襲って矛で串刺しにする。鉄炮が派手に爆発して鉄片と一緒に泥を飛ばす。傷付いて暴れる馬が兵らの顔面や背中を蹴り付ける。体に何本もの矢を受けた武者が己れの喉を掻き切って自決する。切られた腕がくるくると空を舞って湿地に沈む。兜が木槌で割られる。5〜6本の矛が一人の武者に向けて投げられる。泥だらけになりながら組み合いしている者らもいる。怒号と悲鳴と罵声(ばせい)が交差する。そしてまた鉄炮の爆発。黒煙が広がる。煙を割って馬が飛び出す。泥に潜っていた兵が馬の腹に矛を突き立てる。転がっている敵の首を刎ねる者がいる。右腕を失って逃げ惑う兵もある。苦痛の声が上がる。勝ち誇った者もたちまち死骸となって転がる。指が千切れ飛ぶ。泥を撥(は)ね上げて覚悟の突進をする者がある。20人の敵にただ一頭だけで踏み込む武者もある。怯え、狂気。安堵。あらゆる感情が渦を成している。馬の群れが敵の一団を追い散らす。目に矢を受けて立ち尽くす者がいる。不発の鉄炮で骨を砕かれる。泥に腰まで嵌(は)まりながら刀を振り回す。獲った首をいくつも腰に下げて戦う武者もある。修羅場であった。地獄であった。


【『時宗』高橋克彦(NHK出版、2000年/講談社文庫、2003年)】

時宗〈巻の1〉乱星 (講談社文庫) 時宗〈巻の2〉連星 (講談社文庫) 時宗〈巻の3〉震星 (講談社文庫) 時宗〈巻の4〉戦星 (講談社文庫)

2010-01-21

信念を組織化することはできない


 信念というものは純粋に個人的なことがらであって、組織化することはできず、また、してはならないものなのです。もしそうするなら、それは生命のない結晶体になってしまいます。それは、他人に押しつけずにはすまない教義や宗派、宗教になるのです。


【『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)】


クリシュナムルティ・目覚めの時代

2010-01-20

リハビリテーションという言葉の深淵


 リハビリテーションという言葉の深淵には「人間として生きること」への尊厳が流れている。リハビリテーションは「再び、より適した、すぐれた、ふさわしい、望ましい状態に、すること」という意味のラテン語である。

 リハビリテーション医の上田敏によればリハビリテーションの本来の語義は「権利・名誉・資格の回復」であり、医学におけるそれは「全人間的復権」を意味する。


【『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三(春秋社、2006年)】

リハビリテーション・ルネサンス―心と脳と身体の回復、認知運動療法の挑戦

2010-01-19

Skypeヘッドセット


 評価がまあまあのものを紹介しよう。左上から安い順番となっている。一番下のはカメラ付き。私が使用しているのは1000円以下のものだが全く問題ない。FMラジオ並みの音質である。


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島の規則


 先生のスピーチに引用された箇所。狭い世界で生きていると本当に小さくなってしまうという話――


 島に住んでいる動物と大陸に住んでいる動物とでは、サイズに違いが見られる。典型的なものはゾウで、島に隔離されたゾウは、世代を重ねるうちに、どんどん小形化していった。島というところは、大陸に比べ食物量も少ないし、そもそもの面積も狭いのだから、動物の方もそれに合わせてミニサイズになっていくのは、なんとなく分かる気がするが、話はそう単純ではない。ネズミやウサギのようなサイズの小さいものを見てみると、これらは逆に、島では大きくなっていく。

 島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は大きくなる。これが生物学で「島の規則」と呼ばれているものだ。


【『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』本川達雄〈もとかわ・たつお〉(中公新書、1992年)】

ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)

2010-01-18

本当の友


 今、イチオシの作家。既に「北欧ミステリの女王」と呼ばれている。


 部屋が静まり返った。

 ペーターの中の扉が開いた。そしてからだ全体が外から差し込む強い光をまぶしく感じた。体の隅々まで、素晴らしいことが起きたのだとわかった。

 本当の友を得たのだ。


【『罪』カーリン・アルヴテーゲン/柳沢由美子訳(小学館文庫、2005年)】

罪 (小学館文庫)

2010-01-17

検察の手口


 我々は検察の暴力性を知るべきである。鈴木事務所の事務員は検察に殺されたも同然だ。


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本人ではなく周囲が病んでいる場合がある


 心の問題を扱っていますと、身体を診る一般科ではあまり問題にならないような、特殊なテーマにいろいろと遭遇します。

 たとえば、クライアントのお話を聞いていくうちに、むしろ周りにいる人たちの方が病んでいるんじゃないかと思えてくることもありあす。その人自身が病んでいなかったからこそ、歪(ゆが)んだ周囲に反応して具合が悪くなっていたり、また、日本の精神風土に【染まり切れない】ために不適応が起こっているようなケースもある。さらには、現代社会の不自然さに対して馴染(なじ)めないために苦しんでいる人もいる。

 そういうわけで、本人と環境の、そもそも一体どちらが問題なのかということについては、そう簡単に判断することはできません。違和感を覚えないで生きている多数派の方がすなわち健康、と考えるのはあまりに早計でしょう。


【『「普通がいい」という病』泉谷閑示〈いずみや・かんじ〉(講談社現代新書、2006年)】


 こうしたことからアメリカでは初めて診療・カウンセリングに訪れた人を「見なし患者」と呼ぶ(M・スコット・ペック著『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』)。あらゆる集団、組織、企業、学校、家族の内部には「同調圧力」が働いている。それを我々は家訓、社風、文化、伝統などと美化している側面がある。完璧な組織は存在しない。我々が心で求めている完璧な組織というのは幻想である。より完璧に近づけるためには、思い切った「緩やかさ」が求められよう。「一人ひとりが自立できないから組織する」という論理は、必ず人々を束縛する。

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

2010-01-16

鈴木宗男、検察を痛烈批判


 本日開催された民主党2010年度定期大会より。佐藤優が懸念していた通りになった。鈴木宗男の指摘は正しい。要は国家を運転するのが、国民によって選出された政治家なのか、あるいは官僚(=検察)なのかが問われているのだ。


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『未来を拓く君たちへ なぜ、我々は「志」を抱いて生きるのか』田坂広志(くもん出版、2005年/PHP文庫、2009年)


 以前紹介したのがリンクが切れていたため記事を削除した。音声ファイルが復活していたので、再度紹介する。創価学会の副会長で、これほどの真剣さ、これほどのひた向きさ、これほどの誠実さで2時間も話せる人物が果たして何人いるだろうか? 尚、書籍と講演は殆ど同じ内容となっている。


未来を拓く君たちへ―なぜ、我々は「志」を抱いて生きるのか 未来を拓く君たちへ (PHP文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)


 人生という登山。頂上への道標は無く、その道は険しい。しかし、自ら道を拓き、遥かな頂を目指すとき、我々は人間としての素晴らしい成長を遂げることができる。では、登山口に立つ若者は、何を思い定めるべきか。いま、山道を登り続ける壮年は、若者に何を語るべきか。そして、登山の終わりを迎える老境は、自らの人生を、どう振り返るべきか。すべての人々に贈る、著者渾身のメッセージ。

土下座


 土下座をしろと言う人がいて、土下座をする人がいて、土下座を見つめる人々がいたとしよう。この場は完全な無責任に支配されている。

カースト制度の実態


 ガンディーはインド独立のために戦ったのであって、カースト制度と戦ったわけではない。それどころか彼はカースト制度の熱烈な擁護者の一人であった。ガンディーは自らが断食することで、カースト制度の打破を試みたアンベードカルの行動を妨げた。ここにおいてガンディーの非暴力は「暴力」と化した。カースト制度という仕組みが暴力そのものである。その実態はこうだ――


「この村の不可触民の一人が、地主の虐め方がひどいと抗議したのです。そのときは他の不可触民も一緒にいたので、地主も手を出さなかったのです。

 2〜3日後、地主の手のもの何人かがその農夫の家へやってきて、無理矢理引っ張ってゆきました。彼等はライフルや槍で武装しているので家族や仲間も手が出せなかったのです。

 そいつらは、農夫を村のホールに連れてゆき、予(あらかじ)め打ちこんであった杭(くい)にしばりつけました。

 農夫は必死に大声をあげ、助けを求めました。

 周りには“見物”の村人が総出でつめかけていたのです。家族は人びとの足にすがりついて助けを乞うたのに、だれも見向きもしなかったといいます。

 やつらは、泣き叫ぶ家族の目の前で、鶏の首を打ち落とすように、斧(おの)で農夫の首をはねてしまいました。

 しかも、その人殺し共は、屍体の始末をその農夫の家族にやらせたのです。

 わたしたちが駆けつけたときには、杭はありませんでしたが、地面は血を吸ってどす黒い跡を残していました。

 首のない亡骸(なきがら)を前に、わたしも男泣きに泣きました」

「警察は、どうしたのです?」

「きません」

「どうしてです?」

「通報するものがいないからです。暗くなって、われわれダリッツ支部に知らせにくるのがやっとだったのです」

「……」

「警察にはわれわれが届けました。村の不可触民は後の報復を怖れて警察にもいけないのです。

 われわれは、州首相にも報告書を提出しました。

 裁判にはかけられるでしょうが、地主が実刑をくらうことはまずないでしょう。その地主は大変な金持ちで、警察や政府関係者を完全に買収していますから ね。

 州政府はこの事件に関して未だに返事を寄こさず、なしのつぶてです」


【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/光文社知恵の森文庫、2000年)】

不可触民もうひとつのインド 不可触民―もうひとつのインド (知恵の森文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-01-15

教育の機能 6

 君たちはこれがどういうことなのか、恐怖のない雰囲気を生み出すことがどんなにとてつもないことになるのか、知っていますか。それは【生み出さなくてはなりません】。なぜなら、世界が果てしない戦争に囚われているのが見えるからです。世の中は、いつも権力を求めている政治家たちに指導されています。それは弁護士と警察官と軍人の世界であり、みんなが地位をほしがって、みんなが地位を得るために、お互いに闘っている野心的な男女の世界です。そして、信者を連れたいわゆる聖人宗教の導師(グル)がいます。彼らもまた、ここや来世で地位や権力をほしがります。これは狂った世界であり、完全に混乱し、その中で共産主義者は資本主義者と闘い、社会主義者は双方に抵抗し、誰もが誰かに反対し、安全なところ、権力のある安楽な地位に就こうとしてあがいています。世界は衝突しあう信念やカースト制度階級差別、分離した国家、あらゆる形の愚行、残虐行為によって引き裂かれています。そして、これが君たちが合わせなさいと教育されている世界です。君たちはこの悲惨な社会の枠組みに合わせなさいと励まされているのです。親も君にそうしてほしいし、君も合わせたいと思うのです。

 そこで、この腐った社会秩序の型に服従するのを単に助けるだけが、教育の機能でしょうか。それとも、君に自由を与える――成長し、異なる社会、新しい世界を創造できるように、完全な自由を与えるのでしょうか。この自由は未来にではなくて、今ほしいのです。そうでなければ、私たちはみんな滅んでしまうかもしれません。生きて自分で何が真実かを見出し、智慧を持つように、ただ順応するだけではなく、世界に向き合い、それを理解でき、内的に深く、心理的に絶えず反逆しているように、自由の雰囲気は直ちに生み出さなくてはなりません。なぜなら、何が真実かを発見するのは、服従したり、何かの伝統に従う人ではなく、絶えず反逆している人たちだけですから。真理や神や愛が見つかるのは、絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいるときだけです。そして、恐れているなら、探究し、観察し、学ぶことはできないし、深く気づいてはいられません。それで確かに、教育の機能とは、人間の思考と人間関係と愛を滅ぼすこの恐怖を、内的にも外的にも根絶することなのです。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 これと全く同じことを示しているのが以下の指導である。

 尚、メッセージの全文は以下――

 多くの学会員が知る指導である。知らない者は訓練をやり直せ。メッセージが送られてから既に10年以上が経過している。本当なら、「お前が本当に好きになれる創価学会」がそこここに出現しているはずだ。果たしてそのような組織はどこにあるのだろうか? 「権威的で、真剣にやらない上に、後輩を大切にしない先輩」が一掃された区や本部はどこにあるのだろう?


 多分――ないよ。我々は「反逆」できない。反逆はおろか「抵抗」もできず、意見すら言えないのが現状だ。先輩に物申すことが破和合僧となると勘違いして、取り敢えず調子を合わせることが組織内のトレンドとなっているのだ。


 結局、このような臆病が「権威的で、真剣にやらない上に、後輩を大切にしない先輩」を増殖させる要因となっているのだ。呼ばれた時しか来ない幹部、頼まれない限り家庭指導をしない幹部――こんなのばっかりだ。


 組織は腐敗している。もちろん、あなたと私も。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-14

日蓮の文字マンダラ その二


日蓮の文字マンダラ その一」の続きを――


 創価学会は真理を軽んじるきらいがある。これは牧口先生の価値論がカントの真善美を否定し、美利善という価値観を打ち立てたのが最大の理由だろう。曰く、「真理は認識の対象であって価値にあらず」と。これについてはその内書く予定だが、マンダラの研究が殆ど見られないのも似た理由からと思われる。


 マンダラとは図でありシンボルである。それゆえ、見る人によって意味合いが異なる。青年部時代の私は「大宇宙の縮図」とか「一念三千の当体」などと何も考えずに語っていた。


 では、きちんと御本尊を見つめてみよう。

 真ん中に「南無妙法蓮華経」とあって、一段目は釈迦・多宝・四菩薩、二段目は三乗と天界の代表、三段目は六道といっていいだろう。で、四段目には天台・伝教・龍樹・章安など正法像法時代の代表選手。そして中央最下段には「日蓮」と。


 マンダラの相貌(そうみょう)は様々である。意外と気づいていない人が多いと思われるが、菩薩二乗、はたまた龍樹にまで「南無」が冠せられている。それは多分こういうことだ――


第廿九法界礼拝住処の事

 御義口伝に云く法界に立て礼拝するなり法界とは広きに非ず狭きに非ず惣じて法とは諸法なり界とは境界なり、地獄界乃至仏界各各界を法る間不軽菩薩不軽菩薩の界に法り上慢の四衆は四衆の界に法るなり、仍て法界が法界を礼拝するなり自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり云云(769頁)


 つまり、妙法に南無することで自体顕照している姿が認(したた)められているのだ。南無することで、南無されてるってわけだよ。これが「自他不二の礼拝」。ということは、一段目とか二段目に書かれているのだが、実は妙法蓮華経とつながっていることになる。


 わかるだろうか? 一幅のマンダラに表されているのは「壮大な縁起の世界」であったのだ。しかも、最上段は二仏並座をもって久遠元初を示し、日蓮をもって現在にまで至っている。空間的には十界三千の衆生が妙法に照らされ、時間的には久遠末法が表現されていることになる。


 このマンダラの前に坐して己心の実相を浮かび上がらせる時、マンダラは明鏡と化し、我々は虚空会の儀式に連なるのだ。


 そこで新たな問題が登場する――「虚空会って一体何なのさ?」。これを過去の現実として考えている学会員は多いだろうが、私はそうは思わない。大体、検証不可能だ。とすると、単なる神話なのか? それも違う。物語を刷り込むことで民衆が仏性を覚知できるとは考えにくい。


 例えば彼岸という言葉がある。あの世のことだ。生きている現実は此岸(しがん)。虚空会とはあの世のことだろうか? これも違うな。もし日蓮仏法の根幹が「あの世の論理」であったとすれば念仏に等しくなってしまう。では、無意識や睡眠状態を意味するのだろうか? 私は寝ている時に夢を見ることが殆どない。


 虚空会の儀式とは、我々が知覚し得ない現実なのだろうと考えている。通常、知覚している世界が霊山会(りょうぜんえ)である。そこにいるのは、「私」という我(が)に支配された一人ひとりであろう。生まれや育ち、性別、年齢、地域、個性、趣味、嗜好、星座、血液型など、諸々の条件づけによってバラバラに分断された存在である。


 この断絶を超えたところに虚空会という世界がきっとあるのだ。我々が縁起を悟る時、そこには互いが互いを南無する生命の実相が生じるのだ。


 私が妙法を唱える時、久遠は即現在となる。つまり私と御本尊との間には、亡くなった家族や同志も列座しているのだ。


 髭文字(ひげもじ)は光を表しているように思う。あるいは超ひもか。

教育の機能 5

 若いうちに恐怖のない環境に生きることは、本当にとても重要でしょう。私たちのほとんどは、年をとるなかで怯えてゆきます。生きることを恐れ、失業を恐れ、伝統を恐れ、隣の人や妻や夫が何と言うかと恐れ、死を恐れます。私たちのほとんどは何らかの形の恐怖を抱えています。そして、恐怖のあるところに智慧はありません。それで、私たちみんなが若いうちに、恐怖がなく、むしろ自由の雰囲気のある環境にいることはできないのでしょうか。それは、ただ好きなことをするだけではなく、生きることの過程全体を理解するための自由です。本当は生はとても美しく、私たちがこのようにしてしまった醜いものではないのです。そして、その豊かさ、深さ、とてつもない美しさは、あらゆるものに対して――組織的な宗教、伝統、今の腐った社会に対して反逆し、人間として何が真実なのかを自分で見出すときにだけ、堪能できるでしょう。模倣するのではなく、発見する。【それ】が教育でしょう。社会や親や先生の言うことに順応するのはとても簡単です。安全で楽な存在方法です。しかし、それでは生きていることにはなりません。なぜなら、そこには恐怖や腐敗や死があるからです。生きるとは、何が真実なのかを自分で見出すことなのです。そして、これは自由があるときに、内的に、君自身の中に絶えま(ママ)ない革命があるときにだけできるでしょう。

 しかし、君たちはこういうことをするように励ましてはもらわないでしょう。質問しなさい、神とは何かを自分で見出しなさい、とは誰も教えてくれません。なぜなら、もしも反逆することになったなら、君は偽りであるすべてにとって危険な者になるからです。親も社会も君には安全に生きてほしいし、君自身も安全に生きたいと思います。安全に生きるとは、たいがいは模倣して、したがって恐怖の中で生きることなのです。確かに教育の機能とは、一人一人が自由に恐怖なく生きられるように助けることでしょう。そして、恐怖のない雰囲気を生み出すには、先生や教師のほうでも君たちのほうでも、大いに考えることが必要です。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


「反逆」とは、自分の内側で繰り広げられる絶え間のない革命である――凄まじい言葉だ。階級によって構成される世界では、「ランクダウンするかもしれない」という恐怖感が原動力になっている。そして組織というものは細分化を避けられない。すると今度は支部と支部とが、地区と地区とが敵となって競争を開始する。競争原理を支えているのは恐怖と満足である。つまり、欲望ってことだよ。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-13

教育の機能 4

 生という、微妙なすべて、そのとてつもない美しさ、悲しみ、喜びのある大いなる広がりを理解する助けとならないなら、教育には確かに意味がありません。君たちは学歴を得て、名前の後に肩書きを連ね、とてもよい仕事に納まるかもしれません。しかし、それからどうなるでしょう。その過程で心が鈍り、疲れて愚かになるなら、それが何になるのでしょう。それで、若いうちに生とはどういうものなのかを探して見出さなくてはならないでしょう。そして、これらすべての問題の答えを見出そうとする智慧を君に涵養することが、教育の真の機能ではないのでしょうか。智慧とは何か、知っていますか。確かに智慧とは、何が本当で何が真実なのかを自分自身で発見しはじめるように、恐怖なく公式なく、自由に考える能力です。しかし、怯えているなら、決して智慧は持てないでしょう。精神的だろうと現世的だろうと、どんな形の野心も不安と恐怖を生み出します。そのために野心は、単純明快、率直で、それゆえに智慧のある心をもたらす助けにはなりません。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 よく考えてみよう。実は「社会のために役に立つ」という言葉は、正当化された野心に過ぎない。我々は学校教育という通過儀礼を経て、社会を構成する一員として社会を支えることを強いられる。我々は労働に従事し、税金を支払い、法律を順守することで、国家の安定に寄与している。しかしながら、国民の努力によって安定しているはずの国家は、他国の戦争を手伝い、大企業優先で税金をばらまき、病指定を認めなかったりしている。一見すると安定しているように見えるが、国のあちこちで混乱が起こっている。学校教育の目的は、兵士と労働者を育てるところにある。このため我々は死ぬまで野心を抱いて競争に参加する羽目となる。


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-12

消費者ホットライン、全国で稼働


 悪質商法や製品事故などのトラブルに遭った場合、全国共通の電話番号にかけると最寄りの相談窓口につながる「消費者ホットライン」が12日、全国稼働した。消費者庁の目玉施策の一つで、番号は「0570・064(守ろうよ)・370(みんなを)」。音ガイダンスに従い、住所地の郵便番号などを入力すると、最寄りの消費生活センターなどに転送される。料金は「通常の固定電話並み」(同庁)という。

 東京都新宿区の消費生活センターでは、職員らがいつもと同じ午前9時から、相談対応にあたった。以前からセンターの番号を周知しているため、ホットライン経由の相談は少なかったが、村上道明所長は「消費生活センターの存在を知らない人もいる。ホットラインは全国のセンターへの相談を掘り起こそうという国の強い志の表れだ」と期待を込める。

 ホットラインは原則として相談者から最も近い相談窓口につながるが、市区町村か都道府県の窓口かを選べる自治体もある。


日経ネット 2010-01-12

教育の機能 3

 私たちが成長し、大人の男女になるとき、みんなどうなるのでしょう。君たちは、大きくなったら何をしようかと、自分自身に問うたことがないですか。君たちはたいてい結婚し、自分がどこにいるのかも知らないうちに母親や父親になるでしょう。それから、仕事や台所に縛られて、しだいにそこから衰えてゆくでしょう。それが【君】の人生のすべてになってゆくのでしょうか。この問題を自分自身に問うたことはないですか。問うべきではないですか。君の家が豊かなら、すでにかなりの地位が保証されているかもしれません。お父さんが安楽な仕事を与えてくれるかもしれません。恵まれた結婚をするかもしれません。しかし、そこでもやはり腐敗し、衰弱するでしょう。わかるでしょうか。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 何と辛辣(しんらつ)な言葉か。クリシュナムルティは生徒達に対して全く手加減しない。我々は本能の赴くままに異に恋をして、欲望に身を任せて子供を出産しているというのだ。結婚という制度そのものが機械化を促進し、更に夫婦という役割分担が機械化に拍車をかける。このようにして皆が皆、腐敗し、衰弱してゆくというのだ。個々人は「自分らしさ」にしがみついて勝手な物語をつくり上げる。こっちの人よりも早く結婚したと優越に浸(ひた)り、あっちの家よりもいい車を持っていると自慢する。子供ができたらできたで、今度は子供同士を比較し、ランク付けすることに余がない。「君のお父さんが副会長なら、すでにかなりの地位が保証されているかもしれません」――全く仰せの通りだ。テレビ局というのは、政治家や有人の子弟によって形成されるサロンのような場と化している。学会の外郭企も似たところがある。大幹部の子供というだけで、活動も満足にしていないのがゴロゴロしている。このようにして魚は頭から腐ってゆく。


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-11

教育の機能 2

 それで、教師だろうと生徒だろうと、なぜ教育をしていたり、教育をされているのかを自分自身に問うことが重要ではないでしょうか。そして、生とはどういうものでしょう。生はとてつもないものでしょう。鳥、花、繁った木、天、星、河とその中の魚、このすべてが生なのです。生は貧しい者と豊かな者です。生は集団と民族と国家の間の絶え間ない闘いです。生は瞑です。生は宗教と呼ばれているものです。そしてまたの中の微妙で隠れたもの――嫉妬、野、情熱、恐怖、充足、不安です。このすべてともっと多くのものが生なのです。しかし、たいがい私たちは、そのほんの小さな片隅を理解する準備をするだけです。私たちは試験に受かり、仕事を得て、結婚し、子供が生まれ、それからますます機械のようになってゆくのです。生を恐れ、怖がり、怯えたままなのです。それで、生の過程全体を理解するのを助けることが教育の機能でしょうか。それとも、単に職やできるだけ良い仕事を得る準備をしてくれるだけなのでしょうか。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 謳(うた)い上げられた生の諸相が一念三千を志向している。「このすべてともっと多くのものが生なのです」――かくも広大なる生を果たして我々は日常の中でじ取っているだろうか? 学校や親は「社会のルール」を叩き込むことで子供達の生を抑圧し、狭い世界へと追い立てる。こうして小学生にもなれば、生きることが競争を味し、競争に勝つことが幸福であることを自覚し始める。テストや運動会を通してランク付けされ、おのずとクラス内では序列が形成される。既に親の姿から、強い者には媚びへつらい、弱い者を軽んじることは学習済みだ。かくして生はどんどん貧しくなってゆく。当たり前のように、「親の言うことを聞け」「先生の言う通りにしろ」と我々は育てられた。つまり、「大人の言いなりになる」ように促され、責め立てられ、強制されてきたのだ。これ、第六天の魔王の所為である。善悪の判断もできない年頃から完全なコントロール下に置かれていることに改めて驚かされる。このため、正常な子供ほどストレスにさらされる事態となる。まともな子供ほど不適応という烙印(らくいん)を押されてしまう。こんな劣悪な教育環境に適応している子供はどこか異常なのだ。結局、我々が生きているのは、異常が支配する世界なのだろう。進学、就職、結婚、子育てという決まりきった人生のサイクルが人間を機械化してゆく。更に学校で、職場で、そして家庭で機械化は進行する。我々は否応(いやおう)なく、弱肉強食の競争社会の中に取り込まれる。常に比較され、評価され、差別化されることで幸不幸をじているのだ。我々は「社会の部品」だ。しかも交換可能な部品なのだ。生は断片化し、分断され、分離されて砂粒のように卑小な姿をさらしている。


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-10

教育の機能 1

 君たちは教育とは何だろう、と自分自身に問うたことがあるのでしょうか。私たちはなぜ学校に行き、なぜさまざまな教科を学び、なぜ試験に受かり、より良い成績のために互いに競争し合うのでしょう。このいわゆる教育とはどういうことで、どのようなものであるのでしょう。これは生徒だけではなく、親や教師やこの地球を愛するすべての人にとって、本当にとても重要な問題です。なぜ労して教育を受けるのでしょう。それはただ試験に受かり、仕事を得るためなのでしょうか。それとも若いうちに、生の過程全体を理解できるように準備することが教育の機能でしょうか。仕事を持ち、生計を立てることは必要ですが、それですべてでしょうか。それだけのために教育を受けているのでしょうか。確かに生とは単なる仕事や職だけではありません。生はとてつもなく広くて深いものなのです。それは大いなる神秘、広大な王国であり、私たちはその中で人間として機能します。もし単に生計を立てる準備をするだけなら、生の味はすべて逃してしまうでしょう。それで、生を理解することは、単に試験に備えて、数学や物理や何であろうと大いに上達することよりもはるかに重要です。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 クリシュナムルティが創設した学校はインドに数校と、アメリカ、イギリスにもある。現在はオーストラリアにもあるようだ。クリシュナムルティ神智学協会という神秘主義団体に見出され、「世界教師」という救世主と目され、10代からエリート教育を施された。クリシュナムルティが16歳の時点で彼のために「星の教団」が設けられた。27歳の時、「プロセス」と呼ばれる激しい宗教体験を経て彼は目覚めた。34歳となった彼は教団の解散を宣言する――「〈真理〉は途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです」と。それ以降、彼は一切の教義、一切の組織を否定した。彼は自分の弟子や信奉者すら認めなかった。彼の教えが「主義」となることを嫌い、彼のからも離れよと諭(さと)している。しかしクリシュナムルティは終生にわたって教育に力を注いだ。社会や歴史や文化によって条件づけされている子供達を自由にしようとした。彼が行う講話で原稿が用されることはない。それどころか事前に話す内容すら決めていないのだ。集った人々を1分間ほど見渡してから、おもむろに語り出すことを常としていた。クリシュナムルティは我々の「価値観=条件づけ」を激しく揺さぶる。絶妙な動執生疑といってよい。教育の目的は「生の全体」を学ぶところにある、という指摘はあまりにも重い。


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-09

佐藤優が語る官僚の世界


 本気で悪と闘っている人物にはこれほどの迫力がある。


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すべての偉大な文明は教育者の上に築かれた


 周知のように、世界中の教育は失敗したのです。なぜならそれは、歴史上で最も大規模かつ破壊的な戦争を二度も起こしたからです。そしてそれは失敗に帰したのですから、単にある方式を別のに取って代えることは、私にはまったくの無駄のようにわれます。これに対して、もし教師の考、情、態度を変える可能があれば、そのときには多分新しい文明がありうるのです。なぜなら現代文明は完全な崩壊へと向かっているからです。次に来る戦争は、われわれが知っているものとして西洋文明をおそらく清算することでしょう。多分われわれは、それによってこの国においても深甚なる影響を受けるでしょう。しかしこのいっさいの混沌、不幸、混乱、争いのただ中で、教育者の責任は確かにとてつもなく大きいのです――彼が公務員だろうと、宗教的教師だろうと、あるいは単なる情報伝達者にすぎなかろうと。ですから、もし新しい秩序が作り上げられるべきなら、生計の資を得る手段として教育の上で肥え太るだけの人々は、私に言わせれば現代の社会構造の中で何の居場所もないのです。そしてわれわれの問題は児童、少年少女というよりはむしろ教師、教育者であり、彼の方が生徒よりはるかに教育を必要としているのです。そして教師はすでにできあがり、固定しているので、教育者を教育することのほう(ママ)が、生徒を教育するよりははるかに困なのです。彼は単に日課通りに機能しているにすぎません。なぜなら彼は実際のところ考過程、英知の涵養に関がないからです。彼は単に情報を与えているのにすぎません。そして全世界が自分ののまわりで音を立ててくずれているとき単に情報しか与えない人間は、確かに教育者とは言えません。皆さんは、教育とは生計の資を得る手段だとおっしゃりたいのですか? それを生計の手段とみなし、自分自身の幸福のために児童を利用することは、私には教育の真の目的とまったく相反するようにわれます。

 ですから、質問にお答えする上で、要点は教育者であって子供ではないということを銘記いただきたい。正しい環境、必要な道具等々を備えることはできますが、しかし重要なことは教育者自身が、この生存全体が何を味するのかを見出すことです。なぜわれわれは生きているのか、なぜわれわれは闘しているのか、なぜわれわれは教育を施しているのか、なぜ戦争があるのか、なぜ人と人の間の宗教的紛争があるのか? こういうすべての問題を研究し、英知を働かせること、それこそは真の教師の役割なのです。自分自身には何ものも求めず、教育を地位、権勢、権威を得るための手段として用いない教師、利益のためではなく、一定の方針に沿ってではなしに真に教えるところの教師、自分自身の内に英知を培っているがゆえに生徒の内部にも英知を育て、目覚ましている教師。確かにこのような教師こそは文明の中で主要な居場所を持っているのです。なぜなら結局のところ、すべての偉大な文明は、技師や技術者ではなく、教師の上に築かれたからです。(1984年の講話)


【『クリシュナムルティの教育・人生論 理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性

2010-01-08

組織伸長が抱える課題


 ユマニテの記事から索してみる。

 布教こそ宗教の生命線である。なぜなら信仰によって得られた歓喜は、一個人の内面にとどめておけるものではないからだ。また、周囲に悩める友がいれば、自然な振る舞いとして信仰を語ることはあってしかるべきだろう。


 ところが組織というものは大きくなるにつれて組織拡張に重が移る。組織の発展が優先された途端、一人ひとりの幸福や信仰の深化は二の次となる。布教は果たすべき目標として具体的なノルマが課せられる。この時、「相手を幸福にする」はずの布教が、「取り敢えず入会すればオッケー」的な勧誘と化すのだ。このため、若いうちから学会活動にいそしむようになると、どんどん友人を失うというジレンマに陥る。もちろん私もそうだ(笑)。キレイサッパリ友人はいなくなり、もはや跡形もない。


 年末に行われる地区討議では、必ず明年の目標が設定される。地区部長は最初っから何も考えちゃいない。ま、来ただけでもよしとしておこう。地区婦人部長はやる気満々に見えるが、それも空元気の部類だ。皆が皆、伏目がちとなり沈黙が漂う。指されることを恐れた若手が小で「あ、すいません、ちょっと電話しないといけないもんで……」と言って席を外す。巧い。実に巧妙だ(笑)。地区婦人部長は抜け目なくB長か白ゆり長を指する。「ブロックの目標はいくつですか?」と。そこには、ブロックの目標を合算して地区の目標にしておけば、各ブロックと地区とは運命共同体となる惑が働いている。地区部長は「ま、何とかなるでしょう」程度にしか考えていない。彼はただのお荷物に過ぎないのだ。広布の電信柱。道端に立っているだけでオッケー。たまに動くと必ず余計なことをしでかす。「それでは、来年の目標は3世帯ということで……」。毎年同じ光景が繰り返される。毎年、毎年……。歴劫修行のように。


※このドラマはフィクションです。登場する人物は架空のもので、よく似た地区部長がいたとしても本ブログは一切責任を負いかねます。


 ま、そんなわけで、目標を達成するために友人を利用するケースが増えてゆくのだ。聖教新聞の啓蒙がその最たるもので、読まれてもいない新聞がどのくらいあるか像してみるといい。これ自体が環境問題だと言ってもいいほどだ。同様に無理な布教を進めれば、「拝まれない御本尊」が雑乱することになるだろう。そこの男子部! そう、君のことだ。


 信仰は個人の次元で行うべきものである。であれば、信仰の目的は個人の内面を豊かにし、自由な方向へリードするものでなければならない。そして深められた確信は必ず歓喜となって外に表れ、人間の発光が人々のを打ち、共を獲得するのだ。


 組織というのは概である。実体はない。我々が組織という時、そこにあるのは自分を取り巻く人間関係なのだ。つまり、組織の問題は「関わり合いの問題」ということになる。もう少し踏み込んで表現すれば、「問題のある組織」というものは存在せず、「問題を放置している人々が関係をなしている」と考えることも可能だろう。


 結局、「組織の伸長」とは「自分の伸張」に他ならない。


 もう一点、私が最近じているのは、「価値論にかまけて真理の探究をしなくていいのか?」ということであるが、これについては日を改めて書くことにしよう。

「一・一ライン」の市川氏が公明の常任顧問に 民主連携の布石か


 まったく酷(ひど)いニュースだ。公明党は権力闘争に向けて舵を切った。清濁併せ呑んで腐敗してゆくことは確実だ。


 公明党は8日の中央幹事会で、市川雄一元書記長(74)を常任顧問に起用することを承認した。市川氏は誉顧問を退いた平成17年以来の党務復帰となる。細川政権や旧新進党時代には、民主党の小沢一郎幹事長と「一・一ライン」として強力な連携を取ってきたことから、民主党に接近する「布石」との憶測を呼んでいる。

 山口那津男代表は記者会見で、市川氏復帰の理由について「夏の参院選は党の再生と今後の命運をかけた総力戦だ。OBの経験や人脈を役立たせていただきたい。OBの代表格としてお願いした」と述べた。民主党との連携を頭に置いた人事かとの質問には「そういうことを考えて人選したのでない」と強く否定した。

 一方で、自民党が18日召集の通常国会で、「政治とカネ」問題に絡み、鳩山由紀夫首相の関係者や、小沢一郎民主党幹事長らの参考人招致を求めていることには、「呼ぶ根拠が重要だ。全会一致のルールに当てはまる内容があるか、主体的に判断したい」と、自民党と距離を置く姿勢をにじませた。

 ただ、公明党内には「一・一ライン」は市川氏が政界引退をした時点で消えているとの見方が支配的で、「党に人材がいないことを内外にさらしたようなものだ」(党関係者)と、山口氏ら執行部の運営を批判するが出始めている。

 中央幹事会では、黒柳明(78)、大川清幸(せいこう)(84)の両元参院議員の顧問就任も了承された。


産経新聞 2010-01-08


小沢氏との「一・一ライン」復活? 市川氏、公明顧問に


 公明党は8日、政界を引退していた市川雄一元書記長(74)を常任顧問に起用すると発表した。市川氏は、細川連立政権で新生党代表幹事だった小沢一郎・民主党幹事長と「一・一ライン」と呼ばれる関係を築き、政局を主導した。公明党が民主党政権に近づくため「小沢シフト」に転換したと憶測を呼んでいる。

 山口那津男代表は市川氏起用について「現職時代の人脈を今もキープしている」と記者会見で語り、小沢氏との関係を考慮したことを示唆。民主党との連携については「今のところそういうことを考えて人選したわけではない」と明言を避けた。

 市川氏は2003年に引退し、誉顧問を退いた05年以降は公の場から遠ざかっていた。1993年の細川政権では小沢氏と連携し、94年の新進党結成へ導いた。97年の新進党解党で関係は冷めたが、周辺によると、引退以降に再び親交を持つようになったという。

 公明党は野党転落後、自民党と一線を画し、民主党には是々非々で対応している。鳩山由紀夫首相には虚偽献金問題を理由に退陣を求める一方、同じく政治資金問題を抱える小沢氏の追及は手控えてきた。小沢氏が政権の最高実力者となったとみて、現実的に対応しているとみられる。

 夏の参院選の結果次第では民主党と連携する可能も視野に入れる。党幹部は「小沢氏と話ができる人がいない」と語り、小沢氏との関係強化のためと解説。支持母体の創価学会幹部も「参院選後の選択肢は多くあった方がいい」と認める。


朝日新聞 2010-01-08


公明:市川元書記長を常任顧問に 「一・一ライン」復活?


 公明党は8日の中央幹事会で、政界を引退していた市川雄一元書記長(74)を常任顧問とする人事を決定した。党の役職を退いた元議員が幹部に復帰するのは異例。市川氏は細川連立政権で、当時新生党代表幹事だった小沢一郎氏(現民主党幹事長)と「一・一ライン」と呼ばれる関係を築いた経緯があり、将来の連携をにらんだ民主党へのシグナルとの見方も出ている。

 今回の人事について、井上義久幹事長は記者会見で「参院選勝利に向け、OBへの働きかけや党再建にアドバイスをいただきたい。(小沢氏との関係は)まったく考えていない」と説明した。

 市川氏は03年に政界を引退し、05年に党誉顧問も退いた。公明党は最近、永住外国人への地方参政権付与実現などをにらんで「小沢シフト」を鮮明にしている。


毎日新聞 2010-01-08

資本主義と民主主義の根源は「迎合」にある


 資本主義と民主主義の根源は、迎合にあるのだ。どちらも迎合なくして運営できない。商品生産者消費者にへつらい、あらゆる政治家は地元の選挙民にへつらう。

 実体と幻影の関係がそこにある。両者が迎合しあい、不自然を作る。物(ぶっしん)ともの貧しさが、銀色のアンテナに迎合する。銀は貧しさを睥睨(へいげい)しつつ、黄金の夢を安売りする。自由、平等の夢である。安直な自由は安直な憧れを、安直な平等は安直な無関を生む。その象徴はすべてCMの中に描かれる。

 一過で瞬時にうつろう希望と落胆として。

 もしその商品が、それほどの情熱と金をつぎ込んで喧伝するほど、そんなに素晴らしい商品ならば、なぜ同じ商品の同じCMが5年10年と続かないのか。もし人間の創造物に万人が教養と人間を高める内容価値があるならば、なぜそこから50年に一つでいいから古典が生れないのか。


【『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)】

おテレビ様と日本人

2010-01-07

草創期のジュンク堂は会議をしなかった


 実は、こういう定例会議は、「ジュンク堂」では、ほとんどすることはない。そう決めたのには訳がある。

 父が健在の頃の「ブックローン」では、毎日のように会議が行われていた。そこでは役職がものをいっていた。急成長した会社にありがちな、上にへつらい、下には偉ぶるという風潮が蔓延していた。

 ぺえぺえの恭孝さんに対しては、きつい言葉を放つのだが、兄の俊彰氏に対してはお追従をいう。そんな社員の態度に嫌気がさしていた。


【「書店革命に挑む不思議な魅力の人」高橋三千綱〈たかはし・みちづな〉】

腐臭を放つ時代に反逆した雷電為右衛門


 今の課題図書。飯嶋和一は最も好きな作家の一人だ。雄勁(ゆうけい)な文章が清冽な人々を描き、縁(えにし)が交錯する様を劇的に描写する。巻半ばから私は泣けて泣けて仕方がなかった。江戸天明期、諸藩によって召し抱えられていた相撲界は腐敗していた。言うならば江戸時代の劫濁(こうじょく)が極まった時代でもあった。ここに化け物みたいな若者が曙光の如く登場した。雷電為右衛門(らいでん・ためえもん)その人である。土俵では阿修羅と化す雷電であったが、貧困に喘ぐ人々を勇気づけ、励ます姿は神さながらであった。


 青年部諸君に以下の一文を贈る――


 長いこと自分が探し求めてきた者にやっと出会えたような気がしていた。まず、何より土俵においてどんな妥協もしない、正に真剣で渡りあうような最強の力士を養成する必要があった。

 しかし、「拵え相撲」が横行し、星の貸借や売買が行われ、それによって均衡が保たれている現在では、それに妥協せず真の勝負をいどむ若い相撲人が出現すれば、腐敗した連中によって徹底的に痛めつけられ潰されることも目に見えていた。そんな妥協のない力士を世に出す時には、すでにその時点で、誰よりも抜きん出た無双の力を備えていなくてはならない。たとえ、腐敗しきった者たちが総がかりでも、それをはねのけ、有無を言わせず逆にたたき潰すだけの圧倒的な力量を備えていなくてはならなかった。いろいろ目にしたが、自分を超える可能を持った者は見当たらなかった。ただ、おそらくそれを成しとげられる者は、これまでの力士とはまるで違った相撲を取るに違いないといった予だけはうすうす谷風は抱いていた。

 あの者は得体の知れない、底無しの力をじさせた。長くせり出した顎と張り出したエラ、馬のような長い顔に眉も目尻も細く下がった呑気な顔をし、一見はただ馬鹿大きいだけで人のいい百姓家の小倅のように見えるが、圧力をかけ痛めつければつけるほど、その眠たげな顔の下から全く別の顔が立ち現れる。あの身体の奥底に小さな火種がかくれ潜んでいて、それに火がつくと全身に燃え広がった火が、相手を焼き尽くすか、己れを滅ぼすかの選択を迫って、襲いかかってくる。もはや相撲などと呼べるものではなくなってしまう危険さえ秘めている。しかも通常、人は興奮しきってしまえば、身体がこわばり、直線的な硬い動きばかりになるのに対して、あの化け物はむしろ自在に、己れの志を超えた軟らかな粘っこい体の動きをし始める。

 何の情実もさし挟まず、何の妥協も土俵内には持ち込まぬ、虎のように相撲(すま)う力士。今、何より必要なのはそんな力士だった。あの化け物ならやれるかも知れない。


【『雷電本紀』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1994年/河出文庫、1996年/小学館文庫、2005年)】

雷電本紀 雷電本紀 (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-01-06

日蓮の身長


 さてこれらの像(7回忌に造立した池上本門寺安置の等身大の木像、玉沢妙法寺所蔵の説法図、中山浄光院所蔵の水鏡御影)から推測し得る聖人の体躯は、骨格はたくましく肉付もよい方で、身の丈は1.8メートル(6尺)前後のがっちりした身体の持主のようである。この体躯が忍重畳した生涯を耐えぬき、晩年には全国的な飢饉、災害流行病の中、しかも深山での不十分な食糧、栄養、医療の困、さらに湿潤、寒冷の環境の生活に対応し得たのであろう。


【『日蓮とその弟子』宮崎英修〈みやざき・えいしゅう〉(毎日新聞社、1971年/平楽寺書店、1997年)】

日蓮とその弟子

2010-01-05

摂受・折伏に関する考察


 摂受(しょうじゅ)とは摂引容受(しょういんようじゅ)のことで、折伏(しゃくぶく)とは破折屈服の義である。


 殆どの日蓮門下が「対話の方法論」と誤解しているが、実はそうではない。つまり、優しく諭(さと)すような話し方が摂受で、大きなで相手をやっつけることが折伏なのではない。


 摂受折伏とは「対話の本質論」であり、そこには「社会との関わり方」が示されている。


 要はこういうことだ。像法時代の教者は国家というパトロンを必要とした。あるいはそうではないにしても、国家に迎合する中で研鑚が進められた。ひょっとしたら、アショーカ王(阿育)あたりが、そうした流れを作るきっかけになったのかもしれない。


 最澄伝教大師)や空海(弘法大師)が唐に渡って学んだのは、鎮護国家を目的とした教であった。最澄は国費で、まだが知られていなかった空海は私費で渡航している。ただ、いずれにしても遣唐使団の一員である以上は国家の庇護を受けていたと見るのが妥当であろう。


 つまり摂受とは、国家や社会という枠組みの中で展開されるの広がりを表していると考えられる。


 それに対して折伏とは、こうした枠組みに文字通り反逆することだ。国家にも、主人にも、親にも従わない生き方を日蓮は明言している。これを「反逆」と呼ばずして何と呼ぶことができようか。ただし、国家転覆を図した破壊活動を日蓮が示唆した形跡はない。ここに絶妙なバランス覚が窺える。時代や社会からはみ出ることなくして変革を起こすことはできない。


 古来、人間社会はヒエラルキーによって構成されており、いかなる社会も教育というのもとで子供達を「社会の枠組み」に従わせてきた。文化、伝統、風習の一切がこれを目的にしている。クリシュナムルティはこれを「条件づけ」と喝破した。


 例えばこうだ。私が小学校に上がるか上がらないくらいかの頃である。家族でデパートへ行き、食事をすることになった。当時、デパートで食事をすることは贅沢(ぜいたく)の部類に入った。ショーウィンドウに並ぶメニューの模型を前にして母は「好きなものを注文しなさい」と言った。私はおずおずと「これ」と指差してピザを選んだ。すかさず母は言った。「せっかくデパートへ来たのにそんなものを食べてはいけない」と。幼い私は、「好きなもの」と言われた場合は、TPOを弁え、大人が納得するものを選ばなくてはいけないことを学んだ。これが条件づけである。


 ほとんど理解力がない小学生に対して学校(=大人)は、助け合い、協力、団結といった概を刷り込もうとたくらむ。「自由になることが勉強の目的だ」とは決して教えない。このため、一方では個尊重を唱えながら、本当に個的な人物は「変な奴」という烙印(らくいん)を押される。「あいつは皆と一緒にならない」→「あいつは自分勝手だ」→「あいつは仲間ではない」という論法がまかり通ってしまうのだ。


 こうした背景もあって、親という親は子供がドロップアウトすることを極端に回避しようとする。例えば学校を中途退学した高校生がいたとしよう。この瞬間、高校からのドロップアウト=人生の落伍者というレッテルが社会によって貼りつけられる。本当は様々な事情があって、高校を辞めただけの10代の少年に過ぎないにもかかわらず。


 このようにして、「落伍」という恐怖でもって社会は形成されている。ここにおいて自由と幸福は、ヒエラルキーの上部に移動することを味しているのだ。


 人間を知らない内に束縛してやまない伝統・文化・風習に対して、断固として「ノー!」を突きつけるのが折伏である。私の見解では、末法とは非人間化が進行した時代であり、組織化され、高度なまでに情報化された社会を示しているとう。つまり本未有善という機根は、条件づけに支配された時代に生まれてきた人々の情況を示唆しているのだ。


 これはまだまだ勉強不足であるが、末法とは「国家が民衆を隷属させる時代」と言ってもよいのではないだろうか。日蓮が過去世の物語に仮託したのは、この事実であったと私は考えている。


 折伏とは生命をありとあらゆる呪縛から解き放つ叫びに他ならない。布教の目的が教団の拡張にある限り、日蓮が唱えた折伏精神を知ることはできない。魂の鉄鎖を断ち切った人のみが、折伏を実践できる人なのだ。

現代人の不幸


 幸福について考えないことは今日の人間の特徴である。現代における倫理の混乱は種々に論じられているが、倫理の本から幸福論が喪失したということはこの混乱を代表する事実である。新たに幸福論が設定されるまでは倫理の混乱は救われないであろう。

 幸福について考えることはすでに一つの、恐らく最大の、不幸の兆しであるといわれるかも知れない。健全な胃をもっている者が胃の存在をじないように、幸福である者は幸福について考えないといわれるであろう。しかしながら今日の人間は果して幸福であるために幸福について考えないのであるか。むしろ我々の時代は幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのようにじられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自識の過剰にしむともいわれている。その極めて自識的な人間が幸福については殆ど考えないのである。これが現代の精神的状況の格であり、これが現代人の不幸を特徴附けている。


【『人生論ノート』三木清(創元社、1941年/新潮文庫、1954年)】

人生論ノート (新潮文庫)

2010-01-04

教育の目的は「人間の開花」にある


 これらの学校(※インド、イギリス、アメリカの各校)は、人間全体を培うことに関をもたなくてはなりません。その教育センターは、生徒と教育者とが自然に開花するように、手助けしなくてはなりません。

〈開花〉というのは、本当に大切なことです。そうでなければ、教育は経歴やある種の職を目的とした機械的な過程になってしまいます。現在あるような社会では、経歴と職は避けられないものです。もし私たちがそのことばかりを強調しますと、開花する自由がしだいに衰えてしまいます。

 試験やよい学位を得ることを、私たちはあまりに強調しすぎています。私たちの学校が設立された主な目的はそうではありません。だからといって、私たちの学校の生徒が学問的に劣るということではありません。反対に、生徒のみならず教師も開花することで、経歴と職とが、その正しい場所を与えられるのです。私たちが生きている社会や文化は、生徒が仕事や物質的安定を目指すように促します。これはあらゆる社会のもつ絶え間ないプレッシャーです。経歴が第一で、他のことはすべて二の次なのです。つまり、お金が第一で、日常生活の入り組んだ事がらは二の次です。

 私たちは、この順番を逆にしようとしています。なぜなら、人間はお金だけでは幸せではありえないからです。お金が人生で支配的な要因になってしまえば、日常の活動がアンバランスになります。ですから、できることならすべての教育者たちにこのことを真剣に理解していただき、その味するところを十分にわかっていただきたいのです。教育者がこのことの重要を理解して、自分自身の人生において経歴に適切な場所を与えるならば、両親や社会によって「経歴をもつことがもっとも重要なことだ」と強いられている生徒を、助けてあげることができるでしょう。

 ですから最初の手紙でこの点を強調して、これらの学校においてはどんな時でも〈全体的な人間〉を培うような生きかたを支持したいといます。


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】

学校への手紙

2010-01-03

政治からうける惨事


 同じ惨事でも、火事や圧死ということになれば、私たちの視覚に強く訴えてくるため、そこからうける印象も、ひときわ痛切だからである。ところが、政治からうける惨事のほうは、眼に見えないだけ、印象も弱いが、同時にいっそう危険でもある。与党幹部が、選挙法を改正したところで、首相や院外団が棍棒や刀をもって、私たちの家にのりこんでくるわけではない。だが、知らない間にきまった法律や協定一本で、明日にも私たちの土地が召し上げられたり、一家が路頭に迷ったりすることは周知のとおりである。


【『政治を考える指標』辻清明(岩波新書、1960年)】


政治を考える指標

2010-01-02

斧不一からの質問状


 研鑚板でやっているのだが、あまり反応がよろしくないので公募することにした。我こそは、という勇者は回答を私宛てに送ってくれ給え。秀逸なものについては紹介するので、必ずハンドルを記してもらいたい。で、ここ最近、深刻な相談が寄せられることもないので、新たなカテゴリとして立ち上げることにした。私は死ぬまで発起衆(ほっきしゅ)でありたい。


【問い1】今現在、自分自身に課している研鑚は何か? 具体的に答えなさい。

【問い2】今、読んでいる本は何か? 内容を簡単にまとめて書きなさい。

【問い3】組織内における手なタイプを記しなさい。複数回答可。

【問い4】自分自身の一凶を書きなさい。

【問い5】好きなテレビ番組を一つだけ挙げるとすれば? その理由も明記せよ。

【問い6】に掛けている師の指導を記しなさい。

【問い7】一番大切にしている御聖訓を記しなさい。

【問い8】消費税増税以外で税収入を増やす具体案を書きなさい。

【問い9】超高齢社会における介護のあり方は、具体的にどうあるべきか?

【問い10】もし、自分が総理大臣になったら、何をするか? 複数回答可。

【問い11】もし100億円あったら、何に使うか? 複数回答可。

【問い12】今まで観た映画で最も動した作品を挙げなさい。

【問い13】無人島に流され前に、一冊だけ本の持参が認められた。さて、何を選ぶ? 複数冊作品可。

【問い14】知らない組織へ行って御書講義をする自信はあるか? 予される自己採点を100点満点で答えなさい。

【問い15】座談会で話をする際、3回以上皆を笑わせることはできるか?

【問い16】泣きながら話をしたことはあるか? その時のシチュエーションも書きなさい。「愛の告白」は対象外とする。

【問い17】男は美人を、女はハンサムを定義しなさい。

【問い18】現在、値上がりしているものは何か? また、その理由も答えなさい。

【問い19】直接聞いたことのある悲惨な戦争体験を書きなさい。

【問い20】広布第一章で活躍した学会幹部の前を3人書きなさい。

【問い21】奴隷にないものは何?

【問い22】「ブッダ」という言葉の味を自分の言葉で簡潔に記しなさい。

【問い23】世界には様々な問題があるが、最大の問題は何であると考えるか? その理由も記しなさい。

【問い24】知っている「生活の知恵」とも言うべき工夫を書きなさい。複数回答可。

《解答例》切れ味の悪くなったハサミは、アルミホイルをジョキジョキ切ると、切れ味が復活する。

【問い25】あなたがセミナーの講師をすることになりました。テーマは自由。さて、どういった内容にするか? タイトルと内容の要約を書きなさい。

【問い26】あなたの宝物を書きなさい。複数回答可。

【問い27】あなたが最も厳しく先輩から叱られた内容を書きなさい。

【問い28】実際に対話をしたことのある他宗の前を書きなさい。

【問い29】30歳になろうとしている学会二世が、どうしても折伏できません。考えられる課題は何か?

【問い30】ズバリ、「悟り」とは何か? 一言で答えなさい。

【問い31】諸行無常と諸法無我と諸法実相の関連を述べなさい。

【問い32】アインシュタインの相対理論を簡潔に説明しなさい。

【問い33】「生まれ変わりを説く宗教オカルトである」という指摘があるが、これに対する見解を述べよ。

【問い34】創価学会全体の運動は今後どうあるべきか? 要点のみ記せ。

【問い35】幽霊はいるのか? 理由も明記せよ。

【問い36】ルワンダでは1994年に100日間で100万人のツチ族が殺戮された。これらの人々にはどのような宿命があったと考えるか?

【問い37】「あったらいいな、こんな人材グループ」――三つ以上記しなさい。ありきたりなのはダメ。

【問い38】好きな作家は誰? 複数回答可。

【問い39】好きな画家は誰? これを答えない者は次の質問に進むことを禁ずる。

【問い40】お年寄りと話す際に掛けていることを書きなさい。複数回答可。

【問い41】自分の勤行を100点満点で採点しなさい。採点基準は、姿勢・の響き・発音・リズム・スピード・祈り・グルーヴなど。

【問い42】典型的な不良少年の中等部員がいる。どんな激励をする?

【問い43】病院へお見舞いに行った際、気をつけていることは何?

【問い44】教が受けたバラモン教からの影響を記しなさい。複数回答可。既出のものは不可。

【問い45】東洋広布と世界広布との違いを論じなさい。

【問い46】オバマ新大統領に何を期待する?

【問い47】初めての家庭訪問で玄関に入った。そこでわかることはどんなこと?

【問い48】今、最も勉強したいテーマは何?

【問い49】ゲーデルの不完全定理は、法にも当てはまると考えるか?

【問い50】釈尊神通力をどう考えるか?

【問い51】釈尊の死因は食あたりであると考えられている(きのこ料理と豚肉の二説あり)。では、「未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という」(287頁)という御文をどのように考えるか?

【問い52】釈尊もイエスにも妙な誕生伝説がある。釈尊は、摩耶夫人の右脇腹が生まれ、直ちに天地を指差し「天上天下唯我独尊」と語り、イエスは聖母マリア処女懐胎したことになっている。こうした伝説が作成され、伝えられた背景をどう考えるか?

 以下の画像がそれ。まるで、『サタデーナイト・フィーバー』をわせるポーズだ(笑)。

 http://www.geocities.jp/princegifu/sample189.htm

【問い53】釈尊が否定した祈祷を、なぜ大聖人は採用したのか?

【問い54】自分の親は2人、親の親(じいさん、ばあさん)は4人、そのまた親は8人と、先祖にさかのぼるほど人数が増える。しかし実際は、数十世代をさかのぼっても、そんなに人口が多いはずがない。では、どこでどうなったと考えられるか?

【問い55】ビッグバン理論について、法からの見解を述べよ。

【問い56】世界から飢餓がなくならないのは、どういった理由によるものと考えるか? また、その解決方法を三つ以上記しなさい。

【問い57】信仰という次元以外で絶対なるものは存在するのか? 存在するとすれば、それは何であると考えるか? 理由も記せ。

【問い58】「永遠」の中味を具体的かつ数学的に述べよ。

【問い59】大聖人とピュタゴラスは同じ立場なのか、それとも違うのか?

 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20090327/p1

【問い60】「戒」「律」「法」の違いは何か?

【問い61】ビッグバンに関連して、「時間の始まり」はあると考えるか? その場合、無始無終という概はどうなるのか?

【問い62】知・情・を指導者論から述べよ。

【問い63】創価学会が出現するまで、日蓮法が広まらなかった理由を具体的に記せ。

【問い64】学会活動のどんな場面で「権威に従った」とじるか具体的に述べよ。

【問い65】どんな時に「恐怖」をじるか? また、最近じた「恐怖」はどのようなものか?

【問い66】「組織」と「自由」について簡潔に述べよ。

【問い67】「」と「自由」について簡潔に述べよ。

【問い68】初めて会った人から、「なぜ、私が座談会へ行かなければならないのですか?」と言われました。さて、何と答える?

【問い69】「学級崩壊」の原因は何か? また、三段階でその経緯を記せ。

【問い70】「読む」という営みの味は?

【問い71】「洗脳」に対する考えを述べよ。

【問い72】P・F・ドラッカーによれば、13世紀には「宗教人」なる概の崩壊があり、16世紀には「知人」なる概が崩壊した。そして20世紀から21世紀にかけて「経済人」という概が崩壊しつつある。では、次の新しい時代に登場するのは「何人」と予するか? ドラッカーは、現在の社会から隠遁している人物の中に存在すると指摘している。

【問い73】「像」あるいは「仮」と、「体験」との関係を述べよ。

【問い74】「役職の違い」は何を示しているか? 「責任範囲」という答えは不可。

【問い75】「境涯」と「役職」に関連はあるのか、ないのか?

【問い76】好きな日本の現役政治家を挙げよ。

【問い77】共産党員の学会員がいてもいいかどうか? その理由も記せ。

【問い78】世襲について、どう考えるか? 具体的な功罪を述べよ。

【問い79】「智第一の舎利弗すら尚機を知らず」(438頁)、「身子(=舎利弗)が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり」(232頁)、「例せば身子は阿羅漢なれども瞋恚のけしきあり、畢陵は見を断ぜしかども慢の形みゆ、陀は婬欲を断じても女人に交るあり、煩悩を断じたれども余残あり何に況や凡夫にをいてをや」(885頁)――十大弟子の中にあって智第一とされながらも、典では舎利弗の限界が示されている。これを「知の限界」と言い換えてもよいだろう。ところが法華経に至ると、一転してまず最初に舎利弗が成道している。つまり、爾前教と法華経において「智=知」の捉え方が反転しているようにもわれる。これらをどのように考えるか?

【問い80】「立正安国論」において体制転覆や破壊活動、及びテロリズムが説かれていないのはなぜか? 鎌倉時代武家政治の幕明けである。武家政治とは軍事体制を味する。日本は鎌倉時代以降、室町時代〜南北時代を経て戦国時代(1467-1573)に突入している。かような時代であれば、我が身を守るために暴力を振るわざるを得ない状況が存在したことだろう。とすれば、弁慶みたいな僧兵もいて不議ではなかったとうのだがどうか?

【問い81】教団という枠組みを保持しながら、世界広布は可能か?

【問い82】実社会の中で「権力と戦う」とは、どういった局面が定できるか? できるだけ具体的に書きなさい。

【問い83】「一念三千を識らざる者には大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(「観心本尊抄」254頁)――「一念三千を識らざる者」と「末代幼稚」の味を自分の言葉で記しなさい。

【問い84】脳科学の世界では「人間には自由がない」とされている。これについて、どう考えるか?

【問い85】人は生まれながらにして、文化や伝統などによって様々な「条件づけ」がなされている。悪しき条件づけの最たるものは、何であると考えるか? 複数回答可。

【問い86】信の厚薄は何をもって計ることができるか? 索不要。即答せよ。

【問い87】教育に理は必要か?

【問い88】二並座は何を味しているのか?

【問い89】人々や世界を分断・分離を促す要因を挙げよ。

【問い90】「私」を構成しているものは何か?

【問い91】夢をよく見るか?

【問い92】なぜ、舎利弗と目連は釈尊よりも先に亡くなったのか?

【問い93】祈りは願望や欲望で構わないのか?

【問い94】日蓮が天台よりも伝教を評価する理由はどのようなものと考えられるか?

【問い95】ブッダの悟りと日蓮の悟りには相違があるのか?

【問い96】五逆罪は、父・母・阿羅漢以外の殺害を容認していることにならないか?

【問い97】破和合僧は団結を乱される側の責任を問題視していないが、これについてどううか?

【問い98】組織における競争原理を打開する具体的な方途を述べよ。

【問い99】会合で自由な語らいができない理由は何か?

【問い100】教義が進化することはあり得るか? あり得るとすれば、どのような条件が考えられるか?

『社会と宗教』〜組織論


 ユマニテの「〈社会と宗教〉組織論・宗教組織の二面性」を読んでじたことを記す。勝手ながら、同ページから引用させていただいた。私は未読。


 ついこの間に出たような覚があるが、何と四半世紀も前であった。1985年の発行というと、ちょうど全国で文化祭運動が繰り広げられていた頃だ。青・男は太田・浅見の黄金時代。


 1990年から2001年にかけて世界の構造は劇的に変わった。まず、金融・経済のグローバル化によって政府が国内経済をコントロールできなくなった。これはどの国でも一緒だ。このため、どこかの国で不安要素が表面化すると、たちまち世界中に波及するようになってしまった。そして、欧米が支配しやすい仕組みになっている。


 日本ではバブル経済が弾け、それまで国家を支える最大のインフラとして機能していた「会社」が、リストラと称して社員の首を切りまくった。それ以降、終身雇用という概を失った国民は今日に至るまで不安を抱えながら生活している。


 こうした背景があって、組織という組織が金属疲労を見せ始めたのだ。これは覚えておくように。


 先生は組織の功罪を挙げた上で、組織を肯定する論調。これに対してウィルソンは同を示す。


池田●しかし、それ(※教が組織化をも包含していた)にもかかわらず、組織がその本来の精神のもとに運用されるということは、きわめてしいことでした。なぜなら、組織には権力と利益、誉が付随し、組織における高い地位は、本来は精神的に優れた人に与えられなければならないにもかかわらず、権力欲や利欲が強く、狡知(こうち)に長(た)けた人物がこれを奪い取る事態が、しだいに多くなったからです。本来の、崇高な精神を後世に伝えるための組織が、逆に、醜い欲望を醸成する場となり、修行者のから、崇高な精神を駆逐(くちく)する働きをするものとなっていったことも、認めなければなりません。

 現代において、宗教団体は、組織なくしては存続も発達もありえないわけですから、組織における幹部はもとより、会員の間にも、高度な精神と献身とが、過去のいかなる時代にもまして、ますます要請されるわけです。(「ユマニテ」より拝借)


【『社会と宗教』ブライアン・ウィルソン池田大作(講談社、1985年/聖教文庫、1996年)以下同】


 要は、「何を組織するか」に尽きる。宗門問題から既に20年が経過しようとしている今、学会精神は薄れるばかりだ。昨今は「信強盛」という言葉も死語となりつつある。かような時代にあって、先生が懸している組織悪が横行するのは避けいことだろう。


ウィルソン● このため、ある一点を越えると、商社に要求されるような現代組織の形態へと宗教が合理化されることは、決してありえなくなります。また、そうした合理化は、政治、裁判等の事項、あるいは教育方式や医療福祉方式にさえある程度は適用できるわけですが、宗教にとっては、その程度の合理化すら不可能になるのです。

 このように、宗教が組織化されうる適正な度合いというものには、絶えざる解消不能の緊張がつきまといます。もちろん、この緊張については、同一の宗教運動の中にあっても、グループが違えば、じ方にも差が生じます。自分たちが携わっている特殊な活動の質上、精神的体験の本質に最大の力点を置こうとする人たちがいる一方で、また、精神が強調されすぎれば組織にとって最善とわれることが実行できなくなる恐れがあると、折にふれてずる人たちもいることでしょう。このバランスは、多くの場合、微妙なものです。


「絶えざる解消不能の緊張」と来たもんだよ。絶妙な表現だね。よっ、ウィルソンの旦那! と援を送りたくなってくらあ(笑)。


 ウィルソンは精神に傾き過ぎて運動を損なう場合があることを指摘しているが、学会においてはこれが逆転している。


 以下は私の個人的な考えである(←いつもの逃げ口上)。学会組織の行き詰まりは、運動しかないところに起因している。長期間にわたって戦い続けてきた人々は疲労困憊(こんぱい)し、少子化によって世代交代も上手くいっていない現状がある。その上、活動が完全に会合型となってしまっているため、一人ひとりの悩みに手が入らない。しかもその会合が形式化しており、会員が自由に発言できる場がどこにもない有り様だ。このため人材とは「何も考えないで、ひたすら結果を出すこと」を味するようになっている。


 つまり、バランスを正常に保とうとする作用がどこにも働いていない。いや、そんなレベルじゃないな。バランスを考えることすら出来なくなっているようにう。


 宗教組織に求められるのは教育機能であろう。例えば草創期にあって、学会に入ったおかげで読み書きできるようになった人々は多かった。これ自体凄いことだ。では今、どうだろうね? 「学会に入ると頭がよくなる」「学会に入ると格がよくなる」などと世間で噂されているだろうか? まったく聞いた例(ためし)がないよ(笑)。それどころか、10年くらいやっていると、どんどん格が悪くなっているような気がする。


 運動=行学ではない。そこを真剣に考えることだ。

社会と宗教(上) 社会と宗教(中) 社会と宗教(下)

自民党は参院選後に消滅する


「民主70・自民31 民主党完全政権」――。日新聞の『アエラ』最新号が、来年夏の参院選を大胆予測している。自民党の「31」は、2年前の安倍政権の大敗北「37」以下ということになるが、それもうなずける。

 もはや自民党は組織の体をなさなくなっている。すでに田村耕太郎、長谷川大紋と参院議員2人が離党。参院選前の「集団離党」まで囁かれる始末だ。とても参院選を戦える状況じゃない。

「候補者が集まらないから、情けないことに、山崎拓や片山虎之助といった落選議員を比例簿に並べざるを得ない状況です。しかし、彼らを出馬させたら、さらに票が逃げていくのは目に見えている。深刻なのは、支持団体がどんどん離れていること。予算編成で自民党の支持団体である『全国土地改良事団体連合会』の予算が半減されたことが決定的だった。あれで支持団体が震え上がった。参院選で自民党のために動く界団体は数えるほどしかないでしょう」(政界事情通)

 民主党政権に失望した有権者も、自民党ではなく、棄権に回るか、「みんなの党」に流れるとみられている。自民党が勝利する要素は見当たらない。体力も人気も2年前以下なのだ。

 自民党は、参院選で与党を過半数割れさせ、衆参の「ねじれ」を生じさせることで、反転攻勢しようと最後の望みをつないでいる。それだけに、参院選で敗北したら、消滅に向かうしかない。

「2010年は自民党が解体・消滅する一年になるとう。恐らく、参院選敗北後の総裁選をきっかけに分裂するのではないか。新党を結党する集団、みんなの党と合流するグループ、自民党に残る議員と3分割するかもしれません。だいたい、自民党は党再生のためには『真正保守』を掲げることが必要だなどと主張しているが、方向違いもいいところです。イデオロギー政党になったら、支持が広がらず、せいぜい数人の少数政党になるだけです」(政治評論家有馬晴海氏)

 馬糞の川流れの運命だ。


日刊ゲンダイ/2009-12-28

ライオンは百獣の王ではない


 動物はDNAに支配されているものとっていたが、そうではなかった。動画は「ライオンvsバッファローvsワニ」の壮絶なバトル。目を覆うことなく最後までご覧いただきたい。


 ライオンは百獣の王ではない。それは水流の動きの内で、比較的弱小な他の波たちを打ち倒すより高い波にしか過ぎない。


【『宗教の理論』ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄訳(人文書院、1985年/ちくま学芸文庫、2002年)】


宗教の理論 (ちくま学芸文庫)


D

2010-01-01

孤独の安らぎ


 あのガイドが言っていたとおり、山登りには遅すぎる季節だった。しかしなぜか気にはならなかった。自分はひとりきりで、ふたたび山の上にいる。孤独がどんなに安らぎを与えるものか、わたしは忘れていた。脚に、肺に、昔の力がよみがえる。冷たい風が全身を打ちすえる。55歳のわたしは、いまにも歓をあげそうだった。喧騒もストレスも、何百万もの人々のうごめきも消えた。光も、味気ない都会の匂いも消えた。あんなにも長い間、あんなものに耐えていた自分は、気が狂っていたにちがいない。


【『鳥 デュ・モーリア傑作集』ダフネ・デュ・モーリア/務台夏子〈むたい・なつこ〉(創元推理文庫、2000年)】


鳥―デュ・モーリア傑作集 (創元推理文庫)

『新・人間革命』「未来」の章


 昨年の1118日から「未来」の章が始まった。札幌の創価幼稚園が描かれている。まるで、昨年亡くなった父の誕生日(1122日、生きていれば70歳になっていた)を祝って下さるかの如く――。(入会は昭和38年1118日)


 我が家の長女と四男は創価幼稚園の門をくぐった。長女は車で1時間以上の道のりを毎日父に送ってもらい、四男は親戚の家に下宿させられた。自分や子供を犠牲にするだけのいが父にはあったのだろう。何となくわかるような気がする。


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 写真の右中ほどに映っているのは父の肘(ひじ)である。


 お父さん、よかったね。先生、ありがとうございました。涙――。

新年


 年は新たになったものの、そこには変わらぬ自分がいた。

 そうであってはならない。


 家の大掃除は済んだが、掃除組織掃除は何ひとつしていない。

 そうであってはならない。


 新年、明けましておめでとうございます――。