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2010-02-28

小沢氏、創価学会幹部と会談=参院選後の連携にらみか


 民主党の小沢一郎幹事長が26日、公明党の支持母体である創価学会の幹部と都内で会談していたことが28日、関係者の話で分かった。民主、公明両党が接近し始めた中での小沢氏と学会幹部の会談だけに、夏の参院選後の連携を探る動きとして憶測を呼びそうだ。

 昨年8月の衆院選後、小沢氏と学会幹部の会談が明らかになったのは初めて。会談には、民主党の輿石東参院議員会長が同席した。


時事通信 2010-02-28

操作


 外科手術の操作を施された事物の世代のために、すべてが犠牲にならねばならない。生産もそうだ。大地が生産し、労働が富を創造する時代(大地と労働の、あの婚約時代)は終わった。いまでは、資本が大地と労働に【生産させる】のだ。労働は、もはや行為ではなくて操作となる。消費は、もはや財の単純な享受ではなくて、ひとびとに享受させる操作、記号化されたモノを差異のスケールの上でモデル化し、スライドさせる操作となる。

 コミュニケーションは、何かについて語ることではなくて、語らせる操作となり、情報も、知ることではなくて、知らせる操作となる。「させる(フエール)」という助動詞は、そこでは単純な行為ではなくて、操作が問題となっていることを示している。商業的な、あるいは政治的な宣伝の場合も、信じることではなくて、信じこませることが問題となる。参加は、活動的で自発的な社会的形態ではなくて、つねにある種の仕掛けや陰謀に誘いこまれることであり、「活気あふれる」とかその他の類似した表現同様、じっさいにはひとびとを動かすことなのである。

 今日では、意思自体が、意思のモデルによって、意思をもたせる操作(積極的あるいは否定的な説得)によって、メディア化されている。


【『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール/塚原史〈つかはら・ふみ〉訳(紀伊國屋書店、1991年)】


「此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり」(「兄弟抄」1081頁)と。「第六天の魔王の所領」とは一切が政治化してゆくことであり、「魔王の眷属」とは民衆に服従傾向が強いことを示したものだと思う。そして、これこそが高度情報化社会の本質なのだ。

透きとおった悪

2010-02-27

我々の関心と無関心


 創価学会とは我々学会員のことであり、我々を離れて創価学会は存在しない。つまり我々の関心と無関心は、創価学会の関心と無関心と言い換えることができる。我々は何に対して関心を抱いているだろうか? 胸に手を当ててよく考えてほしい。それは選挙であり、新聞啓蒙であり、会合の参加者数であり、諸々の目標に掲げた数字を達成することである。


 我々は平和に対して関心がない。だから平和提言も読まない。既成事実をつくるために読むことはあっても、心の底から震えるような感動を覚える人はほぼ皆無だ。口では取ってつけたように「平和」を唱えながら、組織内の競争に身をやつしているのが我々の実態である。


 21世紀に入り、9.11テロ以降、アフガニスタン紛争、イラク戦争と暴力が大手を振って世界を闊歩した。我々は何かしただろうか? 何もしていない。語り合うことすらなかった。忙しくてそれどころではなかったのだ。


 我々は「人間主義」という言葉を好む。傲慢を絵に描いたような幹部までもが人間主義を口にする。人間主義は我々の大好物なのだ。とはいっても、決して人間主義に関心を抱いているわけではない。単なる枕詞(まくらことば)であり、合言葉みたいなものだ。


 このようにして組織は、虚勢を張り合うだけの場と化しつつある。師弟という言葉すら変質してしまい、忠誠心を競い合う様相を呈しているありさまだ。


 皆、疲れている。疲れ果てている。疲れた心身を引きずるようにして、迷いを抱えながら歩いている。


 先日、近所に住むおばあさんがやってきた。「お話がしたいので、内に来てほしい」と言う。この方は統監のない学会員だった。引っ越してきた際に、公明党のポスターを貼ってあった我が家を訪れ、「信心しているんですけど、亭主が猛反対のため活動はできません」と語っていた。


 家に上がって話を聴いたところ、ご主人が救急車で運ばれて入院したという。「あなたから信心の話が聞きたくってね」と顔をほころばせていた。開口一番に尋ねてきたのは「会長先生はお元気?」という一言であった。


 両親と共に入会。結婚後、御本尊を風呂場の薪(まき)と一緒に燃やされてしまった。新しい御本尊を下付してもらったものの、一度も御安置したことはない。毎晩、布団に入ってから心の中で5分から10分ほど題目を唱えている。子供はいるが誰一人信心していない。「今までずっと心配で心配でどうしようもなかったんですけど、私が死んだら御本尊様をどうすればいいんですか?」──。既に、万一の時は親戚の学会員に送り届けるように子供に言ってある、という話だったので、それで構わないと答えた。


「でもね、死んだ後のことを今から心配するよりも、生きている今のことを心配するべきですよ。今、大変な状況の中で自分の心が御本尊に向かっているという事実の方が大事なんです。自由に活動したいな、って思ってるでしょう? それで活動できたら幸せかっていうと、そんな簡単なもんじゃありません。活動していたって不幸な人もいるしね。人を羨む根性があれば、自分を腐らせることになってしまう。お母さんね、30年以上もそうやって頑張ってきたんだから、そのこと自体凄いことですよ」と激励した。「何にも心配することはありません。今まで通りでいいんですよ」と最後に言っておいた。


 たった20分ほどの会話であったが、心は確かに通い合った。


 色々な学会員がいる。色々な学会員がいていい。だが組織はそれを認めない。組織の指示・命令・打ち出しを忠実にこなす「戦う学会員」しか評価しない。


 他人をコントロールしようとする命を、仏法では第六天の魔王と説いている。組織を跳梁(ちょうりょう)する天子魔と戦う人が真の人材である。


 我々の関心が人間に向けられた時、広宣流布は実現する。

因果と選択


 人間の行動が因果関係に規定されるなら、そもそも行動に選択の余地はない。したがって、行動の責任を問われる筋はない。みずから行動を決定して、はじめて人は自由行為者である。ところが、人間は偶然と必要の申し子であって、何に生まれるかも自分では選べない。だとすれば、いっさいの行動は責任外である。


【『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ/池央耿〈いけ・ひろあき〉訳(みすず書房、2009年)】

わらの犬――地球に君臨する人間

2010-02-26

認知症の見当識障害


 見当識障害についても同様である。見当識の原語はオリエンテーションであり、オリエンテーリングも同じ語源である。痴呆の見当識障害は、時間、空間、人物の順に障害が進行するのが原則である。つまり、まず今がどのような季節であり、時間であり、曜日であるのかがわからなくなる。次いで、自分のいる場所がわからなくなる。さらに痴呆が深まると、身近な人さえだれであるかわからなくなる。


【『痴呆を生きるということ』小澤勲(岩波新書、2003年)】

痴呆を生きるということ (岩波新書)

2010-02-25

貨幣経済が自然を破壊する


「紙幣発行が何をもたらしたのか? 一つの実例が、ビンスヴァンガーの著書に出ています。たしかロシアのバイカル湖だったと思いますが、その湖畔の人々は紙幣がその地方に導入されるまではよい生活を送っていたというのです。日により漁の成果は異なるものの、魚を採(ママ)り自宅や近所の人々の食卓に供していました。毎日売れるだけの量を採っていたのです。それが今日ではバイカル湖の、いわば最後の一匹まで採り尽くされてしまいました。どうしてそうなったかというと、ある日、紙幣が導入されたからです。それといっしょに銀行のローンもやってきて、漁師たちは、むろんローンでもっと大きな船を買い、さらに効果が高い漁法を採用しました。冷凍倉庫が建てられ、採った魚はもっと遠くまで運搬できるようになりました。そのために対岸の漁師たちも競って、さらに大きな船を買い、さらに効果が高い漁法を使い、魚を早く、たくさん採ることに努めたのです。ローンを利子つきで返すためだけでも、そうせざるをえませんでした。そのため、今日では湖に魚がいなくなりました。競争に勝つためには、相手より、より早く、より多く魚を採らなくてはなりません。しかし、湖は誰のものでもありませんから、魚が一匹もいなくなっても、誰も責任を感じません。これは一例に過ぎませんが、近代経済、なかでも貨幣経済が自然資源と調和していないことがわかります」


【『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳〈かわむら・あつのり〉、グループ現代(NHK出版、2000年)】

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社プラスアルファ文庫)

2010-02-24

高知白バイ衝突事故


D


 高知県の公明党議員は何かしたのだろうか?


 法治国家というのは一つの幻想に過ぎず、証拠さえ揃えれば誰でも犯罪者に仕立てることのできる制度である。実際は証拠さえ不要だ。自白や心証で有罪が確定するケースもある。厳密に言えば日本に三権分立は存在せず、国家に不利な判決を下した裁判官は左遷(させん)させられている。交通事故に関する裁判の問題については、柳原三佳著『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』でも詳しく紹介されている。


 疑問が不満となり、不満から怒りが生じると暴力の温床が形成される。テレビ番組やネット上における暴力性がそれを示している。行き場のない怒りが社会の片隅で乱反射して増幅される。冤罪(えんざい)は、警察と司法による暴力といえよう。一つの冤罪判決が国民全員に心理的な重圧を加える。このプレッシャーは日常のストレスと結びついて、黒い炎を点火する。このようにして人々は生け贄(にえ)を待望するのだ。「叩いても構わない」とゴーサインが出るや否や、メディアスクラムの集中砲火が待ち受ける。


 我々は、関東大震災の際に「鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」という流言を信じた人々と何ら変わるところがない。


民、信なくば立たず」と孔子は言った。とすれば、この国は既に滅んでいるのだろう。片岡晴彦さんは昨日出所した

あの時、バスは止まっていた  高知「白バイ衝突死」の闇

常に死とともに生きる


 もしお疲れでないなら、一緒に話し合いたいことがもっとあるのです。

 死とは何かという複雑な問題について話し合いたいのです。――世界中の人間は、肌色や国家、人種、宗教の別を問わず、なぜ死を恐れるのかということです。死のあらゆる意味を見つけ出そうとたいそう真剣な意図をもつ人たちは、それに伴う恐怖だけでなく、終わるということは何かということ――すべてのものの終了、所有しているものの終了、すべての記憶の終了、すべての執着の終了、すべての楽しい、または不幸せな習癖の終了、これらすべてを探究しなくてはなりません。死とは何かということではなく、既知のものの終了とは何かということを探究すべきなのです。なぜなら、われわれの心や頭脳は常に既知のものの中で機能し、挑戦されると、つまり既知のものが終わり死が来ると、すっかり恐れおののき、縮みあがってしまうからです。

 ですから、生きているあいだにそれを終わらせること――自殺をするのではなく、そんなことを話してはいません――執着を終わらせること、たとえば、仕事に対する執着、隣人や家族や、想念や信念や主義を終了させ、もし神をもっているなら神を終了させ、すべての既知のものを全否定することは、はたして可能でしょうか? なぜならそれが死の本質だからです。既知のものの終了が死なのです。常に死とともに生きることができるでしょうか? 私の話していることをおわかりいただけますか? 元気にあふれ、エネルギーに満ち、気魄が充実して生きていると同時に、集積したものを常に終了させ、あらゆる記憶を常に終了させて生きなさい。これにはたいへんな注意力、気づき、エネルギーが必要です。ひとたびそれを知覚するなら、それは流れゆく水であふれた川のようになります。(ロンドンのバービカン音楽堂での講話)


【『クリシュナムルティ・開いた扉』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1990年)】


クリシュナムルティ・開いた扉

2010-02-23

奴隷


 自由でないのに、自分は自由だと思っているものほど奴隷(どれい)になっているものはない。(「親和力」第二部第五章から)


【『ゲーテ格言集』ゲーテ/高橋健二編訳(新潮文庫、1952年)】

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

2010-02-22

信仰に貫かれたバッハの生き方


 バッハを知れば知るほど、私には、バッハは深く宗教的な人間であると同時に、狭い意味での宗教を超えた人だ、という印象が強くなってきている。大切なのは、バッハが何を信じたかという信仰の内容ではなく、信仰に貫かれたバッハの生き方、精神の方向性なのである。


【『J・S・バッハ』礒山雅〈いそやま・ただし〉(講談社現代新書、1990年)】

J・S・バッハ (講談社現代新書)

2010-02-21

瞑想とは思考の沈黙である


 瞑想は新たなるものの不断の開示である。新たなるものは反復的な過去を超越したものである。瞑想とはこの反復に終止符を打つことである。瞑想がもたらす死は、新たなるものの永生である。新たなるものは思考の領域にはなく、瞑想とは思考の沈黙である。

 瞑想とは何かを成就することでも、まぼろしを見ることでもなく、感覚を刺激することでもない。それは抑える間もなく勢いよく流れて、氾濫する川のようなものである。瞑想は音のない音楽であり、決して使い馴らしたりできるものではない。それはそもそものはじめから観察者の存在しない沈黙のことである。


 太陽はまだ昇っておらず、木々の間から明けの明星が見えた。あたりには名状しがたい沈黙が漂っていた。それは音と音、調べと調べの間の沈黙ではなく、およそ理由など持たない沈黙。この世のはじまりのときにあったに違いないような沈黙であった。その沈黙は峡谷と丘全体を満たしていた。

 互いに呼びかわす大ふくろうも、その沈黙を乱してはいなかった。三日月に向かって吠えるどこか遠くの犬も、この無限の広がりの一部であった。あたりは一面露にぬれ、丘の上に太陽が昇るにつれて、きらきらと色とりどりに焼けの光を映し出していった。

 ジャカランダの優美な葉群はずっしりと露にたわみ、朝の水浴びにやってきた鳥たちは羽ばたきして葉の上の露をいっぱいに受けていた。とりわけからすは、枝から枝に飛び移って頭を葉の間に押しこみ、羽をばたつかせ、念入りに羽毛を整えていた。6羽ほどのからすが大きな枝に固まっていた。その他にも枝のそこここでたくさんの鳥が朝の水浴びをしていた。

 この沈黙はさらに広がり、丘を越えていったようだった。こどもたちのいつもの叫び声や笑い声が聞こえはじめ、村は目を覚ましはじめた。


【『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(平河出版社、1982年/サンマーク文庫、1998年)】


「祈り」が何らかの「成就」を目指していれば、そこに燃え盛っているのは「欲望」であろう。「煩悩障と申すは貪瞋癡等によりて障碍(しょうげ)出来すべし」(「兄弟抄」1088頁)。このため菩薩四弘誓願には煩悩無辺誓願断という誓いが立てられている。欲望は心を翻弄(ほんろう)する。パチンコに興じている親が、真夏の駐車場に置き去りにされた幼児の存在を忘れてしまう。いくばくかの儲(もう)けのために、幼い命は灼熱地獄の中で息絶える。か細い声は車の硬い窓ガラスに阻まれ、パチンコ店の騒音の前ではあまりにも無力であった。幼子の最後に吐いた息の音(ね)を思わずにはいられない。


二乗と申す者は鹿苑(ろくおん)にして見思を断じていまだ塵沙無明をば断ぜざる者が我は已に煩悩を尽したり無余に入りて灰身滅智の者となれり、灰身なれば即身にあらず滅智なれば成仏の義なし」(「太田殿女房御返事」1005頁)。灰身(けしん)とは「役に立たない」ことであり、滅智とは「人間から遠ざかった」意味であろう。二乗のゆえに灰身滅智するのではない。灰身滅智した者が二乗なのだ。すなわち自己の悟りに安住する者こそが二乗なのだ。彼等は最後までエゴイズムに支配されていた。


 欲望とは所有である。何かを欲しい、手に入れたいと思った時、そこに「私」が立ち現われてくる。つまり、「私」とは欲望である。「私の祈り」は「煩悩の薪(たきぎ)」ではなく「煩悩の炎」である。己心を観じることがなければ、己心に背を向ける行為となってしまう。たとえ欲望が満たされたとしても、欲望に衝き動かされる自身の生命は決して変わることがない。


 十界を欲望という次元で見つめれば、地獄から仏界へと向かう過程は「欲望の抽象度」が上がっていることに気づく。夜の闇が深まるように深々(しんしん)と祈れば、フッと心が軽くなる瞬間がある。その時、欲望まみれで祈っている自分の姿が見える。「何やってんだ俺は……」と気づくと、御本尊がくっきりと見えてくる。ここにおいて我々は、「ありのままの現実」を受け容れることが可能となる。


クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 (mind books)

2010-02-20

誤字


「間違って覚えていてしかも、それが間違いだとその人だけが気づいていない字」、これが「誤字」なんです。


『言語表現法講義』加藤典洋(岩波書店、1996年)


 さながら我見の如し。


言語表現法講義 (岩波テキストブックス)

2010-02-19

参院選、公明が埼玉を最重点選挙区に


 公明党は今夏の参院選に向け、埼玉選挙区(改選定数3)を最重点選挙区と位置づけ、井上幹事長を責任者とする方針を決めた。

 比例選では、現職4人、新人3人の計7人を「重点候補」とし、候補の個人名で投票を呼びかける。

 公明党東京、大阪、埼玉の3選挙区で候補を擁立し、2007年の参院選で、現職が落選した埼玉が最も情勢が厳しいと分析しており「総力を挙げて、埼玉に力を入れる」(山口代表)考えだ。先の衆院選後に発足した山口新体制では、初の本格的な国政選挙となり落選者を出すわけにはいかず、選挙対策の中心となる井上幹事長が埼玉選挙区の「陣頭指揮」を執る。支持母体の創価学会も、次世代のリーダー候補と目される谷川佳樹副会長が責任者として支える手厚い体制だ。

 このほか、神奈川でも候補擁立論がくすぶるが、山口代表はこれ以上、選挙区で候補の擁立をしない考えを示している。神奈川では「自民党と一緒に保守系無所属候補を支援することを模索している」(党関係者)状況だ。


読売新聞 2010-02-14

公明・みんなの党、政策協議へ…選挙協力も?


 公明党の井上幹事長とみんなの党の江田幹事長は18日、国会内で会談し、両党による政策協議を開始することで一致した。

 今夏の参院選での選挙協力など、本格的な関係強化につながる可能性もある。

 会談は公明党側が呼びかけた。両幹事長は、1.企業・団体献金禁止、2.道州制の導入、3.公務員制度改革――などについて、具体策の検討が必要だとの認識で一致。両党の政策責任者を窓口に、随時意見交換することにした。個別政策で合意できれば、国会対応などで共同歩調を取る考えだ。

 政策協議には民主、自民の2大政党間での埋没を避け、連携して存在感をアピールする狙いがある。


読売新聞 2010-02-19

戦争は人間の魂を殺す


 男が言うには、戦争に行って生きて帰ってきた人間の魂は皆死んでしまっており、その魂の死を断固として拒んだ勇敢な人間たちは皆肉体が死んでしまったのだそうだ。つまり戦争というものは行けば誰一人として生きて帰らないのであり、男もまたフィリピンの密林の中で魂を失った、人間の抜け殻なのだと言う。


【『増大派に告ぐ』小田雅久仁〈おだ・まさくに〉(2009年)】


増大派に告ぐ

2010-02-18

銃弾が食い込んだままの教科書


 ヨルダン川西岸のジェニンでは、国連パレスチナ民救済事業機関(UNRWA)が運営する女子小学校を訪ねました。3月4日からの5日間におよぶ侵攻で、戦車によって爆撃を受け、校庭も校舎も銃弾の跡で穴だらけでした。

 ある女の子が、私にノートを見せてくれました。

 彼女のノートは、銃弾を受け、ビリビリに切り裂かれていました。そしてその裂け目の間には、まだ弾丸がくいこんだままでした。

 彼らは、授業中の小学校を銃撃したのです。たくさんの子どもたちがケガをしましたが、病院に運ぶこともイスラエル兵は阻み、助けに入ろうとする者を次々に撃っていきました。

 この日、UNRWAのジェネラルディレクターが駆けつけてキャンプに入ろうとしましたが、イスラエル兵はそれも拒みました。


【『「パレスチナが見たい」』森沢典子〈もりさわ・のりこ〉(TBSブリタニカ、2002年)】

パレスチナが見たい

2010-02-17

権勢と地位への願望


 今日はクリシュナムルティの命日である(1986年逝去)。


 われわれは、権力者、指導者を賞揚し、尊敬する。なぜならわれわれの中に、権勢と地位への同じ切望、支配し、命令しようとする同じ願望があるからである。指導者を生み出すのは、あらゆる個人である。指導者が作り出されるのは、万人の混乱、羨望、野心からなのであり、そして指導者に従うことは、自分自身の要求、衝動、欲求不満に従うことなのだ。指導者も追従者もともに、人間の悲嘆と混乱に責任がある。


【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より

2010-02-16

王地とは


 わが国の仏教は、よく言えば在家主義であるが、悪く言えば俗世間依存主義、つまり、世俗の権力の統制のもとに育ち、そのことを基本的に甘受してきたといったていの仏教であった。もちろん、出家とは、出世間とは、そもそも僧とは、ということを正面に据えて真剣勝負を挑んだ人びとはたくさんいた。そして、そういう人びとが往々にしてぶち当たったのが、「王地」「王土」という壁であった。

「王地」というのは、特に奈良、平安時代に培われた考え方である。つまり、律令制にあっては、原則として個人が私有する土地はない。建前としては、全国土は国有地であり、したがって天皇の領地である。男であろうが女であろうが、身分が高かろうが低かろうが、日本の国土に住む者は、すべて天皇の大御心(おおみこころ)によって住まわせていただいているのであるというのが、この「王地」ということばに盛りこまれた意味である。


【『日本奇僧伝』宮元啓一(東京書籍、1985年/ちくま学芸文庫、1998年)】

日本奇僧伝 (ちくま学芸文庫)

2010-02-15

呪術的思考


 いまひとつ、この種の(強迫)神経症にかかる人の典型的な特徴として、精神医学者が「呪術的思考」と呼んでいる性癖があげられる。呪術的思考はさまざまなかたちをとるものであるが、基本的には、自分の考えがそのまま物事を引き起こす原因になると信じることである。


【『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学M・スコット・ペック/森英明訳(草思社、1996年)】


 相関関係因果関係は異なる。これを無理やりこじつけることを「擬似相関」という。新薬の臨床実験などで横行している手口だ。

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

2010-02-14

ジャイナ教の不殺生戒


 一般的にジャイナ教徒は農業を営まない。ジャイナ教徒は農業がジャイナ教の中心的原理である非暴力の実践に反すると考えている。彼らにとって、耕作のためとはいえ動物を使うことは暴力の一種である。土地を耕すときに昆虫を傷つける可能性もある。ジャイナ教徒は、蜂(はち)から食べ物を奪うという理由で蜂蜜(はちみつ)を用いるのも避ける。また、絹や皮の使用も生き物への暴力を伴うので望ましくない。


【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール/尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】

君あり、故に我あり―依存の宣言 (講談社学術文庫)

2010-02-13

「カイゼン」の目的を見誤ったトヨタ

 現場の知恵に耳を傾けていれば、トラブルは未然に防ぐことが可能だ。しかしながら現実は、現場の知恵が幹部の悪知恵に負けてしまう。

構造と機能の分離


 心身論を考えるときに、もっと身近で、かつ重要な例がある。それは死体である。なにはともあれ、解剖学者としては、死体はもっとも身近だと言わざるを得ない。死体があるからこそ、ヒトは素朴に、身体と魂の分離を信じたのであろう。これを生物学の文脈で言えば、構造と機能の分離ということになる。死体では、肝、腎、脳といった構造は残存しているが、もはや機能はない。

 このことから、説得力が強く、かつ非常に長期にわたって存在する、大きな誤解が生じた。それは、構造と機能の分離が「対象において存在する」という信念である。すでに述べたように、私の意見では、構造と機能は、われわれの「脳において」分離する。「対象において」その分離が存在するのではない。


【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】


 とすれば五陰世間において色(しき)は構造で、受・想・行・識は機能と考えられる。死体の存在=死の存在ではない。生の果てに死があると思い込むことが分離を生む。とは言うものの凡夫は生死の皮相的な現象にとらわれてしまう。これを「生死果縛」(1403頁)と名づける。仏法は「出離生死」の教えを説いた。生死不二と覚知すれば、生死即涅槃となる。地球には昼と夜とが同時に存在する。しかも、昼と夜は瞬間瞬間入れ替わっているのだ。死を思い、死を憂え、死に迷う人々は多い。死んだ後のことよりも、生を思い、生を堪能し、生を味わうべきだろう。妙とは具足・円満の義であるが、中々理解しい。

唯脳論 唯脳論 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-02-12

31歳で死んでいった医師


 僕のような若輩(じゃくはい)にすべてを委(ゆだ)ね、僕を信じて、命絶えて去っていった。それらの人々の供養(くよう)のために、今、僕は自分の生命を焼香(しょうこう)するように燃焼しているのかもしれない。


【『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清(祥伝社ノンブック、1981年/〈新版〉祥伝社、2005年)】

飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―若き医師が死の直前まで綴った愛の手記

2010-02-11

自由意志と運命について


 西洋の哲学的なテーマの一つに「自由意志」(あるいは自由意思。または決定論)がある。「果たして人間に自由な意志は存在するのか?」という疑問が投げかけられているのだ。エ? 何の疑問もないでしょ? 食べたい時に好きなものを食べることができるし、行きたい場所があればいつでも自由に行ける。ま、不自由してるのは彼女くらいなもんかな――と思ったそこの男子部! 君は甘い。甘過ぎる。大甘野郎だ。


 我々日本人は文明開化以降、自動的に西洋文化を崇(あが)める態度が身についてしまった。日本は明らかに後(おく)れていた。古来、時代を画するイノベーション技術革新)は戦争によって生まれた。300年もの間、鎖国をしてきた日本には大きな戦闘状態がなかった。このため、伝来した後で鉄砲を廃止するという稀有(けう)な歴史を持っている。新しい武器を捨てて、古い武器を採用したのは人類史始まって以来の出来事だろう。


 明治期にあって、日本は追いつけ追い越せと言わんばかりに次々と西洋の技術を導入した。しかし、キリスト教を理解することはなかった。そして我々は、いまだに「神が支配する世界」を理解していないのだ。


キリスト教は運命論で、仏教は宿命論」とはよく耳にするところだ。言葉の受け売りがまかり通ってしまっているので、少しばかり吟味してみよう。キリスト教における運命とは、神が天地創造をした時、既にそのようなシナリオが書かれていたという意味である。つまり、全部最初っから決まっているということだ。ここに、自由意志が問われる所以(ゆえん)がある。なぜなら、自由意志は神の意志を否定することになりかねないからだ。勝手に付け足されたセリフ、シナリオ通りに演じない俳優、暴れ出すエキストラ……って感じだろうか。


 では、宿命論=因果論はどうだろうか? 過去の因が現在の果を決定するならば、それは運命論と何ら変わるところがない。人間は過去に支配されているというロジックが共通している。悲惨な事態の原因は「神のシナリオ」か「自分の過去」に帰せられる。未来はどこまで行っても過去の延長線上にしか存在しない。よくなろうが悪くなろうが、その原因は過去にあるのだ。


 元々因果論というのはバラモン教(古代ヒンドゥー教)の教えであった。カースト制度をつくり上げたバラモン階級が、カースト制度を正当化するためにひねり出した教義だった。「今世で奴隷に生まれたのは、お前さんの過去世の行いが悪かったからだよ」ってな論法。


 輪廻(りんね/生まれ変わり)とは「苦しみが果てしなく続くこと」を意味した。ブッダは「輪廻からの脱却」を説いた。それは「生まれ変わらないこと」であった。このため、仏の別名を「善逝」(ぜんぜい)という。「善く逝く」とは「帰って来ないこと」である。


 話を元に戻そう。我々が普通に考える自由意志は科学の世界においても否定されつつある。トール・ノーレットランダーシュによれば、人間が意識を決定する0.35秒前に脳は動き始めているという(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』)。また別の研究によれば、ヒルが這(は)って逃げるか、泳いで逃げるかという選択を決めている神経が既に判明している(『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二)。


 では何が、我々の選択を決定しているのだろうか? それは「脳内の電気信号のゆらぎ」であった(前掲池谷本)。

 実は選択そのものにさしたる根拠はない。根拠は選択した後で付与されているのだ(『人間 この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるかトーマス・ギロビッチ)。そして認知バイアスによって、自分に都合のいい情報の取捨選択が行われるのだ。


 自由意志を取り巻く問題は、かように奥が深いのだ。


 私が言いたいことはこうだ。例えば十字路に立っていたとしよう。東西南北どこへ行くのも自由である。この時我々はどのような判断をするだろうか? ほぼ全員がいずれかの道を歩むことだろう。よく考えて欲しい。その道は誰かが作った道路であり、多くの人々が歩んだ道である。


 今求められているのは、道からはみ出すタイプや、突然穴を掘り出すような類いの青年である。


 この項続く――

ユーザーイリュージョン―意識という幻想 進化しすぎた脳 (ブルーバックス) 人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

心の傷


 バブル全盛時の光景。


『最近思うんですよ。みんな、補償金だの、立退き料だの、法外なお金もらって、本当に幸福になったんだろうかってね。たとえ願ってもないようなお金もらって、ここで暮らしてたボロ長屋よりずっと良いマンションに移ったとしても、それで本当に幸福になれたんだろうかって。皮肉とか、そんなんじゃなくて、ほんとに幸福で暮らしてたらそれでいいんですよ。初めの頃は、私もいろいろ思いましたがね。今は本当に幸せで暮らしてくれたらいいな、って。でも、出て行く時、こっそりね。何も言わず、出て行かなくちゃならなかった。それはきっと心に傷を持ってしまったからだろうって、苦しんでるんじゃないかってね。初めのうちはいいかもしれないけど、長い間には……。何十年と、ここで貧乏暮らししながらでも、人に後ろめたいことなど、全くなくて暮らして来たんですからね。まして隣近所では。考えてみれば、自分の土地や住む権利や、それを売るのはそれぞれの勝手なのに、まるで夜逃げ同然にいなくなってしまう。そうさせてしまう、あの連中のやり方がね、私に意地を張らせているんですよ。戸別に、陰でこそこそ交渉して、他には言うなよとか、あんたの所だけ倍出すとか、みんなをバラバラにしておいて、みんなの心を何十年とやって来た人間を、お互い疑わざるをえない所へ追い込んどいて、誠心誠意の交渉やって来たなんて、冗談じゃないですよ。だから、いつか、ふっと思う日が来るんじゃないかって、みんながね。ここで暮らしていた頃を。まだ都電が走ってた頃、夏は縁台だしてヘボ将棋さしたり、花電車とか香水電車とか、いろいろ走ったんですよ。……祭りとか。

 本当は、貧乏でもここで暮らしてた方が良かった、なんて思う日が来るんじゃないかってね、そう思うとたまらなくなるんですよ』


【『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1989年/リバイバル版 小学館、2000年/小学館文庫、2003年)】

汝ふたたび故郷へ帰れず リバイバル版 汝ふたたび故郷へ帰れず (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-02-10

思考は過去である


 思考は、これまであったものの反応、記憶の反応である、違うだろうか? 記憶は、伝統、経験であり、そして新しい体験へのその反応は、過去の結果である。それゆえ、経験は常に、過去の強化なのだ。精神は、過去の、時間の結果である。思考は、多くの昨日の産物なのだ。思考がそれ自身を変えようとし、これ、またはそれになろう、またはなるまいと努めるとき、それは単に、異なった名前の下でそれ自身を永続させるだけである。既知なるものの産物なので、思考は決して未知なるものを体験することはできない。時間の結果なので、それは決して時間を超越したもの、永遠なるもの、を理解することはできない。真なるものがあるためには、思考はやまねばならない。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より

2010-02-09

戸田先生の悟達


 ご自身の悟達後の境涯について、戸田先生は、ある人に、こうも語っておられた。


次の50年へ! 2010-02-06


「ある人」とは辻武寿(つじ・たけひさ)さんである。

教条主義


 科学的な証拠が自分たちの聖書の理解に反するとき、彼らは証拠がまちがっていると考える――聖書の解釈がまちがっているかもしれない、ではなく。


【『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット/尾之上俊彦、飯泉恵美子、福田実訳(ハヤカワ文庫、2007年)】

黒体と量子猫〈1〉ワンダフルな物理史 古典篇 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ) 黒体と量子猫〈2〉ワンダフルな物理史 現代篇 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

2010-02-08

ツイッターの凄さ


 最近ツイッターを始めたのだが、この二人の呟きが凄い。ツイッターが政治の流れを変え得る可能性を示している。

信仰は奪えない


 21世紀になっても尚、スーダンには奴隷が存在する。意外と知られていないが、北アフリカイスラム圏である。メンデ・ナーゼルは12歳から約10年間にわたって奴隷にさせられた。晴れて自由の身となったのは、実に2000年9月11日のことであった。


 ラハブが入り口から顔をのぞかせた。

「ふうん」ラハブの顔に軽蔑(けいべつ)するような表情が浮かんだ。「わたしたちの真似をするつもり? おまえみたいな人間に礼拝をする資格があると思ってるの? おまえみたいな黒人が? え?」

 わたしは黙ってうつむいた。でも、心のなかで、こう言い返してやった。

「わたしが今日、お祈りを始めたとでも思ってるの? 生まれたときからずっとやってきたのよ。あなたは、わたしからお父さんやお母さんや故郷を奪うことはできても、わたしの信仰心だけは奪えない。わたしを殺さない限りは」


【『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス:真喜志順子〈まきし・よりこ〉訳(ソニー・マガジンズ、2004年/ヴィレッジブックス、2006年)】

メンデ―奴隷にされた少女 (ヴィレッジブックス N ナ 1-1)

2010-02-07

4〜5年おきに新しい知識を仕入れなければ時代遅れとなる


 組織は、製品、サービス、プロセス、技能、人間関係、社会関係、さらには組織自らについてさえ、確立されたもの、習慣化されたもの、馴染みのもの、心地よいものを体系的に廃棄する仕組みをもたなければならない。要するに、組織は、絶えざる変化を求めて組織されなければならない。組織の機能とは、知識を適用することである。知識の特質は、それが急速に、今日の当然が明日の不条理となるところにある。

 新しい組織社会では、知識を有するあらゆる者が、4〜5年おきに新しい知識を仕入れなければならない。さもなければ時代遅れとなる。このことは、知識に対して最大の影響を与える変化が、その知識の領域の外で起こるようになっていることからも、重大な意味をもつ。


【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー/上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))

2010-02-06

平和提言を深読みする


 私が違和感を覚えたのは以下の箇所だ――


 加島祥造氏が、あるインタビューで語っていた言葉が印象に残っています。「ヒア・ナウ(今ここ)だけが本当の現実なんだ」「このヒア・ナウに熱心ならいい。老い込んだ気持ちでいるなら若くても年寄りだよ」(「日本経済新聞」昨年10月29日付夕刊)と。そして、豊かさや幸福を“外部”にのみ求める現代文明に対し、真の豊かさは「自分の中の潜在能力の豊かさに気づくこと」と氏はいいます。


第35回SGIの日記念提言「新たなる価値創造の時代へ」


 加島祥造(かじま・しょうぞう)なる人物を私は寡聞(かぶん)にして知らなかった。で、調べてみたところ、次のような著作があった――


タオ―老子 (ちくま文庫) 『求めない』 加島祥造 伊那谷の老子 (朝日文庫)


 英訳道教老子荘子)を現代語自由詩の形で翻訳している人物だ。潮出版社版の『スカラムーシュ』を翻訳しているので、何らかの「付き合い」はあるのかもしれない。


 提言におけるこれら数行のテキストが、もしもジョン・グレイ著『わらの犬 地球に君臨する人間』(みすず書房、2009年)を視野に入れたものだとすれば、恐るべき深慮遠謀である。ただ、そうであったとしても評価が二つに分かれることは避けられない。


 私が先生の傍にいれば、岡田英弘著『世界史の誕生』と、石弘之、湯浅赳男、安田喜憲著『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』の視点を採用するよう、迷わず進言する。

「なんとなく無信仰」という軟弱な態度


 何と創価学会はおろか、日蓮正宗までが取り上げられている(笑)。


 ちなみに、この「なんとなく無信仰がふつう」という(日本人の)感覚は、元を辿(たど)っていくと明治政府の政策に当たります。「外国からプレッシャーかかってるから信仰の自由は容認しないとなあ」「でも、できれば天皇だけ崇拝して欲しいなあ」という板ばさみの中で試行錯誤していくうちに、「信仰の自由は認めるけど、特定宗教を信仰せずに天皇だけ崇拝してるのがふつうだよね?」という感覚ができあがり、それが第二次世界大戦後に「天皇崇拝」の部分が抜け落ちて、今までなんとなく続いているわけです。

 ですが、そんな「なんとなく無信仰」という軟弱な態度が、いざという時にどれほどの意味を持つものでしょうか? 死に直面した時、「なんとなく無信仰」を貫き、粛々と死を受け入れる人間がどれほどいるでしょう? 多くの人は、必死に自分の人生の意味を捜し求め、死後の世界を想うことでしょう。その時に宗教が一つの選択肢となるのです。


【『完全教祖マニュアル』架神恭介〈かがみ・きょうすけ〉、辰巳一世〈たつみ・いっせい〉(ちくま新書、2009年)】

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

2010-02-05

あなたが世界だ


 あなたと世界とは、二つの違った実体ではありません。あなたが世界なのです。考えとしてではなく、実際にそうなのです……世界があなたなのだから、あなた自身が変容すれば、世の中の変容も可能になるのです。質問者は、搾取が一向に止まないところを見れば、私の言っていることはまったく無駄だと言いたいのです。そうでしょうか? 私は真理を指さしながら、宣伝的なことはいっさいせずに世界中をまわっています。宣伝は偽りです。ある考えを普及させることはできても、真理を普及させるわけにはゆきません。私は真理を指さしながら歩きまわりますが、それを認めるか認めないかは、あなた次第なのです。ひとりの人が世界を変えるわけにはゆきませんが、あなたと私が一緒になれば世界を変えられるのです。あなたと私は、何が真理なのかを見出さなくてはなりません。世の中の苦しみ、惨めさを溶かしさるのは真理だからです。(ラージャマンディでの講話、1949年11月末、12月初め)


【『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)】

2010-02-04

追加


 2010年8月分に『石原吉郎詩文集』を追加。やっと増刷された。

聖書の後加文


 4世紀の「ヴァティカン写本」。余白(一段と二段の間)に註が書き込まれている。中世の書記が、テキストを改変した先人に対して毒づく内容。「阿呆かお前は! 元のままにしておけ、勝手に変えるな!」。


【『捏造された聖書』バート・D・アーマン/松田和也訳(柏書房、2006年)】

捏造された聖書

2010-02-03

「冬が来た」


 きつぱりと冬が来た

 八つ手の白い花も消え

 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた


 きりきりともみ込むような冬が来た

 人にいやがられる冬

 草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た


 冬よ

 僕に来い、僕に来い

 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ


 しみ透れ、つきぬけ

 火事を出せ、雪で埋めろ

 刃物のやうな冬が来た


【『高村光太郎詩集』高村光太郎(岩波文庫、1981年)】

高村光太郎詩集 (岩波文庫)

透きとおった悪


 私が「柔らかなファシズム」と呼んでいるものを、ジャン・ボードリヤールは「透きとおった悪」と言っているのだろうか? そうだとしたら、話が合いそうだ。

2010-02-02

公明、太田前代表擁立見送り検討 参院選戦術転換


 公明党が、夏の参院選比例代表からの出馬を決定していた太田昭宏前代表(64)の擁立を見送る方向で検討していることが2日分かった。党関係者が明らかにした。

 太田氏の出馬については党内や支持母体の創価学会内に、世代交代に逆行すると疑問視する声があった。公明党は参院選でいったん撤退を決めた埼玉選挙区からの候補者擁立を決定。比例代表でも全国を8程度の独自ブロックに分け、それぞれに重点候補を振り分けるなど、戦術の見直しを進めており、その一環とみられる。

 太田氏は昨年の衆院選で東京12区から出馬し落選。参院選比例代表で返り咲きを目指していた。


47NEWS 2010-02-02

史実と伝承


 そこでふつうは、まず、その人物について言及している資料から、さまざまな傍証を考慮しながら史実を抽出することになる。これはまことにその通りでなければならないわけで、後世の熱烈な信奉者の手になる捏造(ねつぞう)や神話化を、そのまま鵜呑(うの)みにしているようでは、もちろん話にならない。

 しかし、ここには一つの大きな落とし穴がある。それは、その人物が古い時代の人であればあるほど、また、世俗的な権力の中枢から遠い所に位置する人であればあるほど、確かな証拠に乏しくなり、厳密な史実というものにあまりにこだわりすぎりると、その人物像は見る影もなく痩(や)せ細ってしまうということである。また、それほどでなくとも、その人物の魅力が大幅に失われてしまうことは間違いない。


【『日本奇僧伝』宮元啓一(東京書籍、1985年/ちくま学芸文庫、1998年)】

日本奇僧伝 (ちくま学芸文庫)

2010-02-01

石川知裕関連情報


 民主党の石川知裕議員が逮捕され、苛酷な取り調べを受けている。今日のニュースによれば、賢察は4日に起訴する予定。毎日新聞の世論調査では、石川議員起訴なら、小沢氏「辞任を」76%、内閣支持50%という具合だ。自民・公明は起訴後に石川議員の辞職勧告決議案を提出するという。


 では、石川知裕関連情報を――


月刊『創』3月号「ナショナリズムという病理・石川知裕衆議院議員の逮捕 取り調べの可視化を急げ」佐藤優


〈翌14日の取り調べについての話は、15日に聞いた。「熾烈だった」と石川氏は言っていた。午後1時半に銀座某所で検察側と待ち合わせ、そこから検察側が用意した車に乗せられ、検察庁で取り調べを受けた。取り調べでは、「僕を小沢先生から切り離そうとして、さまざまな揺さぶりをかけてきた」と石川氏は述べた。検察官は、「君は小沢先生に忠誠を誓っているが、小沢先生の方はどうかな。小沢側は君を切っているぞ。君は小沢事務所では冷や飯を食わされていたんだね。人生をやり直した方がいいよ。政治家をやめるんだ」とまで言ったそうだ。取り調べは午後2時前から10時頃まで行われたという。以下、取り調べに関する石川氏と筆者のやりとりの一部を再現する。

石川「佐藤さん、頭が朦朧として、時間の感覚もなくなってしまいました。もう政治家をやめてもいいと口走ってしまいました」(泣きながらの発言)

佐藤「国会議員に当選するのもたいへんなんだよ。あなたは、十勝(北海道11区)の有権者の代表として国会に送り出されたんだ。その責任があるよ。検察官が国会議員をやめさせることはできない。これは民主主義の根本原理だよ」

石川「理屈ではわかっているんです。しかし、取調室のあの空間では、検事に引きずられてしまうんですよ」

佐藤「わかるよ。僕自身、特捜に逮捕され、取り調べ受けた経験があるからよくわかる。検察官は悪い奴らじゃない」

石川「そうなんです。怒鳴られた後、やさしい言葉をかけられると、この人はいい人だと思ってしまうんです」

佐藤「取調室の中は、人間と人間の真剣勝負の場だ。検察官は彼らの立場から、石川さんの将来を真面目に考えている。特に担当の検察官は、検察庁の内部では、石川さんの罪の負担が軽くなるように、あなたを守るべく本気で頑張っている。しかし、それはあなたを釜ゆで、ノコギリ引きにはしないで、絞首刑で楽にさせてあげるということが大前提なんだよ。政治家としての石川知裕を『殺す』ことが検察官の仕事なんだ」


ムネオ日記 2010-01-26


 更に昨日は、石川事務所の女性秘書を午後1時から10時半まで事情聴取している。小さな子どもがいるから早く帰してやってくれと言っても、検察は帰さなかった。まさに拷問的取り調べだと弁護士は怒っていた。


ムネオ日記 2010-01-27

 石川議員の女性秘書を10時間も「監禁」した検察官の名前は民野健治という。

生きる執念


「フツウは、死にそうな体験を何度もすると、何があってもニコニコ笑った“おばあちゃん”みたいな、人にやさしく、あんまり欲もなく、不平不満も言わず、みたいな、そういう人物像を思い浮かべますよね。

 でも、シカノさんの場合、何度も死ぬ思いをしてきたにもかかわらず、いまだにギラギラして脂(あぶら)っこいですよね。あれは――なんなんでしょうかね(笑)。オレとか、ワタナベさんより、100倍くらいは生命力が強いんじゃないですか」

 私は斉藤と顔を見合わせて笑った。とても愉快だったのだ。


【『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史〈わたなべ・かずふみ〉(北海道新聞社、2003年)】

こんな夜更けにバナナかよ