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2010-05-31

年齢と共に消え失せたもの


 何かが自分を変えてしまった。現在に至るまでの間に、少しずつ何かが加わって行った。加わったものは分別だろうか、生きることの技術だろうか、生活力といったものだったろうか。消えたものは若さの持つ無鉄砲だった、がむしゃらな信念だった。自分への誇りだった。いや消え失(う)せたものは沢山あった。加わったものの少さに較(くら)べれば。


【『忘却の河』福永武彦(新潮社、1964年/新潮文庫、1969年)】

忘却の河 (新潮文庫)

2010-05-30

集団行動は個人の逃避である


 私たちは自分のまわりに混乱、不幸、ぶつかり合う願望を見、そしてこうした混沌とした世界の現実に気づいて、真に思慮深くて真摯な人々──絵空事をもてあそんでいる人々ではなく、本当に真剣な人々──は、当然ながら行動という問題を考究することの大切さがわかるでしょう。集団行動があり、また個人行動があります。そして集団行動は一個の抽象物、個人にとって好都合の逃避となっています。つまり、この混乱、たえず起こっているこの不幸、この災いは集団行動によって何とか変えることのできる事態であり、それによって秩序を回復できると思うことによって、個人は無責任になるのです。集団というものは、間違いなく虚構の実体です。集団とは、あなたでありそして私なのです。あなたと私が真の行動というものを関係性において理解しないときにのみ、私たちは集団と呼ばれる抽象物に頼り、それによって自分の行動において無責任になるのです。行動を改善するため、私たちは指導者や、あるいは組織的な団体行動に頼ります。私たちが指導者に行動上の指示を仰ぐとき、私たちは常に、自分自身の問題、不幸を超克するのを助けてくれると思われる人を選びます。が、私たちは自分の混乱から指導者を選ぶので、指導者自身もまた混乱しているのです。私たちは、私たち自身に似ていない指導者を選びません。選べないのです。私たちは、私たちと同様に混乱した指導者しか選べないのです。それゆえ、そのような指導者、教導者、およびいわゆる霊的(宗教的)なグルは、私たちを常により一層の混乱、より一層の不幸へと導くのです。私たちが選ぶものは私たち自身の混乱に由来しているので、私たちが指導者に従うとき、私たちはたんに自分自身の混乱した自己投影物に従っているだけなのです。それゆえ、そのような行動は、直接的結果をもたらすかもしれませんが、結局は常により一層の災いに帰着するのです。


【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1993年)】

瞑想と自然

2010-05-29

方向の違い


 これが従因至果と従果向因の違いである。


 リンダの顔がこわばる。額に深い溝ができる。「光には速度がある。暗闇にも速度があるはずよ。相反するものは、それが進む方向以外のあらゆるものを共有する」

 私にはそれが理解できない。私は待つ。

「プラスの数とマイナスの数は方向を除いては同じものよ」とリンダはゆっくりと続ける。「大きいと小さいは二つとも大きさだけれども、方向はちがう。〈なになにへ〉と〈なになにから〉は同じ道だけれども、方向はちがう。だから光と闇も反対のものだけれども、方向が同じなら同じようなものよ」彼女はとつぜん両腕を投げ出す。「あたしが天文学が好きなのは」と彼女は言う。「あそこにはとてもたくさんのものがある、たくさんの星がある、たくさんの距離がある。なにもかもいっしょに、有から無へ、無から有へ」


【『くらやみの速さはどれくらい』エリザベス・ムーン/小尾芙佐〈おび・ふさ〉訳(早川書房、2004年/ハヤカワ文庫、2008年)】

くらやみの速さはどれくらい (海外SFノヴェルズ) くらやみの速さはどれくらい (ハヤカワ文庫 SF ム 3-4)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-05-28

人類は戦いを繰り返す


 フョードル・ドストエフスキーは、過去に関する研究から、ある単純な教訓を引き出した。


 彼らは戦い、戦い、戦いを繰り返す。今も戦う。昔も戦った。これからも戦うだろう。世界の歴史は何とでも表現できるが、ただ一つだけ、世界の歴史が道理にかなっている、と言うことだけはできない。


【『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン/水谷淳訳(ハヤカワ文庫、2009年/『歴史の方程式 科学は大事件を予知できるか』早川書房、2003年を改題)】

歴史は「べき乗則」で動く――種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

2010-05-27

今日飢えて死ぬよりは、明日病気で死ぬほうがましだ


 映画『スラムドッグ$ミリオネア』の原作。インドの現役外交官が書いた傑作小説。


「ねえ、これが私の仕事なの。趣味でやってるんじゃないのよ。これで私と家族が食べていくだけのお金が稼げる。もし私がこれをやっていなかったら、家族はもっと前に飢え死にしてたわ。私たち売春婦だってエイズのことぐらい知ってるわよ。でも今日飢えて死ぬよりは、明日病気で死ぬほうがましでしょ」


【『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ/子安亜弥〈こやす・あや〉訳(ランダムハウス講談社、2006年/ランダムハウス講談社文庫、2009年)】


ぼくと1ルピーの神様 ぼくと1ルピーの神様 (ランダムハウス講談社文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-05-26

集団の共同幻想


 いかなる集団であれ、集団の文化、道徳、理想、規範、風俗、常識、制度など、そのほかいっさいのものが幻想の産物である。ある集団のなかで現実と見なされているものすら、幻想に過ぎないのであって、ある集団における冷静な現実主義者は、別の集団では熱にうかされた妄想狂の範疇に入れられるかもしれない。集団というものが何らかの合理的基盤の上に立っていると考えるのは大いなる誤りであり、集団は、何らかの不幸な条件のもとでたまたま狂うことがあるというのではなく、また、基本的なところはまともであるが表面の末梢的な点でときに狂っているというのではなく、集団が集団であるかぎりにおいて、本質的に狂っているのである。

 集団の共同幻想が幻想であることに気づかないのは、その共同幻想におのれの私的幻想を共同化している者、すなわちその集団の成員のみである。われわれにとって、われわれが所属している集団以外の集団は必然的に変な、狂ったものに見える。もっとも、個人が自分の心の奥底をめったには明かさず、日常生活においては一般に通用する外面を身につけ、装っているのと同じように、集団も他の集団に変に思われそうな面を普通は隠しているから、このことは必ずしも明らかではないが、何らかの機会に集団の本音とか実態とかが明るみに出れば、その集団の成員以外の者は、しばしば唖然とする。

 どのような集団においても、ほかでは決して通用しそうにないことが多かれ少なかれ、常識とか慣例として通用している。どうしてそんな馬鹿げた、ひどい、とんでもないことがまかり通っているのだろう、馬鹿ばかりそろっているわけでもあるまいに、押しとどめる人はいなかったのだろうかと、はたの者には不思議だが、集団のなかにいる者にはわからない。

 集団の共同幻想は決して成員たちの賢明な側面を共同化したものではなく、平均的なところを共同化したものですらなく、しばしばもっとも狂った幻想的な側面を共同化したものであり、したがって、暴徒や群衆の場合は言うに及ばず、一見合理的な目的のために合理的に組織されているように見える集団の場合でも、集団は、つねに、そのなかの賢明な個人よりはもちろん、平均的な個人よりも愚かである。「三人寄れば文殊の知恵」という諺があるが、一人の場合よりも三人が賢明な行動ができるのは、むしろ例外的であり、その三人がいかなる意味において同じ集団に所属しておらず、同じ幻想を共有していない場合に限られる。集団は、指導者がいて指導者に指導されるが、集団のなかの賢明な個人が指導者に選ばれると思うのはあまりにも素朴に過ぎる。ヒトラーやスターリンやチャーチルの例を持ち出すまでもなく、指導者になるのは、集団というものの構造上必然的に、知的にも道徳的にもその他の面でも、そのなかの平均以下の個人である。偉大な指導者というのは、つねに神話である。例外はない。集団が「偉大な指導者」を見出したという幻想に囚われていた時期は、その集団がもっとも破壊的な愚行に走っていた時期であることがあとからわかる。


【『続 ものぐさ精神分析』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、1982年/『二番煎じ ものぐさ精神分析』青土社、1978年と『出がらし ものぐさ精神分析』青土社、1980年で構成)】

ものぐさ精神分析 (中公文庫) 続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

2010-05-24

多様性と共通性


 地球上にはいろいろの生物がいますが、今までの研究の結果、生物には、「多様性」と「共通性」という、まったく相反する性質があることがわかってきました。


【『DNAがわかる本』中内光昭(岩波ジュニア新書、1997年)】


DNAがわかる本 (岩波ジュニア新書)

2010-05-23

種脱相対

 種脱相対とはブッダの悟りを否定したものではない。ブッダと日蓮の悟りに違いがあるなら、真理が二つ存在することになってしまう。すなわち種脱相対とは、教団の政治性や運動性によって教条化、形式化する思考・意識・心理を相対化しているのだろう。本迹相対が理と事を比較しているわけだから、思想や修行において正しい方向性を堅持したとしても、種脱相対という壁が立ちはだかっている。脱益(だっちゃく)とは政治化した思考回路、形骸化した組織、固定化した観念などによって人間を差別する一切の行為を意味する。もう少し具体的に言おう。役職は過去の功績であり、教学は知識であり、指導は技術である。組織内の序列は「人々を比較する眼差し」に貫かれている。


 ここで振り出しに戻ろう。そもそも五重の相対とは五段階の比較を経て真理をまさぐる知的アプローチといってよい。因果という物語に支配された我々の思考は、ここに時間的経過を想定してしまう。つまり、修行や研鑚を【経る】ことで悟りに近づくことができると錯覚してしまうのだ。しかしそうではない。内外相対を打ち破った瞬間に種脱相対の地平に辿り着くのが真の智慧である。悟りに時間は存在しない。悟りは一瞬である。ゆえに悟りとは光なのだ。

自民党の本音


 いずれも田原総一朗のツイッターより――


 自民党の幹部に鳩山さんの普天間の矛盾、小沢さんの金疑惑をなぜもっと激しく攻撃しないのかと聞いた。実は、攻撃して鳩山さんや小沢さんが辞めたら困る、二人がこのままで参議院選挙に突っ込んでほしい、そうすれば自民党は勝てる、だから静かにしてるんだ、と答えた。


 民主党の幹部達に、なぜ小沢おろしをやらないのかと聞いた。小沢おろしをやって降りなかったら、昨年の麻生降ろしのニの舞えになってしまう、だからやらない、と答えた。メディアでは全然報じられないが、政治の本音とはこんなものなのか。

宗教は軌道に乗ると硬直化する


【コラム】宗教の硬直化

 宗教は軌道に乗ると硬直化します。そして、硬直化すると「基本に返ろうぜ!」という人が現れ、別の一派を作ります。しかし、それもそのうち硬直化します。この繰り返しは様々な伝統宗教で見られてきたことです。

 なぜ、宗教は硬直化するのでしょうか? それは宗教が組織化するからです。元々、宗教というのは個人の霊的体験がベースになっています。霊的な体験をした一人一人がまず先にあり、それが集まったのが教団だったわけです。しかし、教団が軌道に乗って大きくなってくると、今度は逆に個人の霊的体験を危険視し始めるようになります。指導者の言うことを聞かなくなったりしますからね。

 つまり、教団というのは本来、「個人の霊的体験」という本質を包む外殻だったのですが、この外殻が、本質である「個人の霊的体験」を押し出そうとし始めるわけです。すると、教団にがんじがらめにされて、「個人の霊的体験」が失われていきます。宗教活動が儀式化すると言い換えても良いでしょう。


【『完全教祖マニュアル』架神恭介〈かがみ・きょうすけ〉、辰巳一世〈たつみ・いっせい〉(ちくま新書、2009年)】

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

2010-05-22

父逝きて一年


 本日、父の命日。今年の春は寒い日が続いたので、厚田の桜がちょうど満開になっていることだろう。悲しみもなく、胸に去来するものもなし。ただ、生命と生命とが重なるように振動しているのを感じる。帰郷した際、父が面倒を見続けたKさん宅を訪問。懇談、激励。

因果の否定

 因果の否定は具体的に従因至果から従果向因という方向性を生み出した。劇的なパラダイムシフトは、ニュートン力学を葬ったアインシュタイン相対性理論を彷彿(ほうふつ)とさせる。日蓮がサンスクリット語を読めたことを踏まえると、大乗仏教成立の背景も見抜いていたことだろう。教義は絶対性を志向する。そしてその絶対性が強化されればされるほど人々を束縛してしまう。教義は理屈であるがゆえに思考の範疇(はんちゅう)を超えることはない。日蓮は絶対性を止揚することで、絶対性を葬ったのだろう。なぜなら、教義が絶対と化せば生命尊厳が二義的なレベルに堕してしまうからだ。ブッダ日蓮が説いたのは「生の絶対性」であって、「教義の絶対性」ではないと思う。

世界中で暗躍するエコノミック・ヒットマン


 先進国の銀行が信用創造を行い、創出されたマネーを掻き集めるというのが資本主義システムだ。西水美恵子の『国をつくるという仕事』が世界銀行の表の顔を描いているのに対し、こちらは裏の顔を暴いている。


 私が何を求められているか、クローディンは歯に衣着せず語った。私の仕事は「世界各国の指導者たちを、アメリカの商業的利益を促進する巨大なネットワークにとりこむこと」。それによって「最終的には、そうした指導者たちは負債という罠に絡めとられて、忠誠を約束せざるをえなくなる。そうしておけば、必要なときにいつでも彼らを利用できる──政治的、経済的、あるいは軍事的な必要を満たすために。それとひきかえに彼らは、工業団地や発電所や空港を国民に提供することで、元首としての地盤を固められる。そして、アメリカのエンジニアリング会社や建設会社は莫大な利益を得られる」と。


【『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス/古草秀子〈ふるくさ・ひでこ〉訳(東洋経済新報社、2007年)】

エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ

2010-05-21

しなやかな知性


 高橋源一郎の本に全文が紹介されていた。彼女はこの序文を書いた10ヶ月後に亡くなった。スーザン・ソンタグの遺言と言っていいだろう。真の強さとは、しなやかさであり柔軟さであることが理解できる。


 序


 若い読者へのアドバイス……

(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)


 人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。

 検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。

 本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。

 言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。

 言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。

 自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。

 動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。

 この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。

 暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。

 少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を【もたず】、冷蔵庫と電話のある住居を【もたない】でこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことの【ない】、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。

 自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。

 恐れないことはしいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。

 自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。

 他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません──女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。

 傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。

 傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしてください。

 良心の領界を守ってください……。


 2004年2月


  スーザン・ソンタグ


【『良心の領界』スーザン・ソンタグ/木幡和枝〈こばた・かずえ〉訳(NTT出版、2004年)】

良心の領界 13日間で「名文」を書けるようになる方法

2010-05-20

思い出づくり


 日本人ワーカーの「良い体験をさせてもらいました」、「良い思い出になりました」──などちう常套句はなじめなかった。素直に受け取れば良かろうが、何だか倒錯したものを感じ、共感できなかったのである。私たちは何も思い出作りや悟りを開くために生きているのではない。それは天与の任務に忠を尽くし、文字通り我を忘れて打ち込んで必死で生きた後に、褒美として、結果的に得られるものである。


【『医者、用水路を拓く アフガンの大地から世界の虚構に挑む』中村哲〈なかむら・てつ〉(石風社、2007年)】

医者、用水路を拓く―アフガンの大地から世界の虚構に挑む

2010-05-16

公明党との連携もあり得る〜民主党・渡部氏


「大きく負けた時は、公明党さんと国のためにしっかり頑張ろうと、話をしなくちゃならないな」――主党・渡部恒三元最高顧問は15日、次期参議院議員選挙で与党が過半数割れした場合、公明党との連携もあり得るとの考えを示した。

 また、小沢幹事長について、「ポストに何でこんなにこだわっているのかわからない」と述べ、幹事長を辞任すべきとの考えをあらためて強調した。


日テレNews24 2010-05-15

2010-05-15

父の一周忌


 本日、父の一周忌と納骨を行う。厚田墓苑にて。親類三十数名にて滞りなく終了。北海道はまだ寒くて、桜がやっとほころび始めたところであった。やたらと金が掛かった上、骨壷まで取り替えさせられる。「形を変えた寺」といってよし。合同法要司会者は傲慢な口調でへりくだるところがなく、導師の勤行は弱々しい限りであった。墓苑内にある厚田亭という売店もどことなく不透明なものを感じさせる。実に後味の悪い一周忌となった。気の短い父が化けて出てきそうだ。

2010-05-14

吉田松陰の自己中心性


 さきに述べたように、現実感覚の不全が、外的自己から切り離された内的自己の宿命であるが、松陰の思想と行動は、現実感覚の不全、それに由来する主観主義、精神主義、非合理主義、自己中心性の典型的な例である。松陰にとっては、自己の主観的誠意だけが問題で、誠意をもって解けば通じると信じているふしがあり、同志を批判して言った「其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」という有名な言葉に示されているように、実際的効果は眼中にない。これは、同じ目標をめざして革命なり改革なりをやろうとしている同志にとっては実に迷惑千万な話で、松陰が多くの同志に見捨てられ、孤立していったのは当然である。これを、松陰の純粋さ、人の好さと見る者もいるが、それは、そう見る者が松陰と同じように小児的、自己中心的であるからそう見えるのであって、たぶん、その人自身、自分のことを純粋で人が好い(あるいは少なくとも、そういう面がある)と思っているのであろうが、わたしに言わせれば、これは自閉的自己満足以外の何ものでもなく、実際的効果を眼中におかないのは、おのれの無能、無力を暗々裡に知っているので、その面で自分を評価してもらいたくないからにほかならない。それは一種の無意識的ずるさである。また、自分のある感情なり意志なりを自分で「誠意」と判定するには、相当の得手勝手さが必要である。そしてその上さらに、その得手勝手さを得手勝手さと自覚していないことが必要である。

 これもまた自己中心性の然らしむるところだが、相手のおかれている立場というものにまったく無理解、無感覚なのが松陰の特徴で、アメリカへの密航を企てて失敗した場合にせよ、幕府と重要で困な交渉を進める任務を課せられているペリーの立場をまったく無視している。相手の立場を無視して相手を説得できるわけはない。ペリーに拒絶されたのは当たり前であった。松陰は、事前に同志からその計画のずさんさを指摘されてとめられたにもかかわらず、ふり切って決行しており、また、のちにこの事件を回顧して書いた『回顧録』のなかで、逮捕されるとき、役人に、本来なら護送のかごには囚人の名札をつけるのだが、特別の配慮をもって名札をつけずにおいてやるからありがたく思えと言われて、「姑息の事捧腹に堪えず。且つ此の行我れ万死自ら栄とす、姓名を以て人に誇示するの意あり、姓名を榜せざる如きは我が意に非ず」と、かえって失望しており、松陰の意図は、計画の実現よりもむしろ、自己顕示にあったと思われる。その上、自首して逮捕された際、松陰は、象山が送ってくれた詩を軽率にも携えていて役人に見つかり、そのためいたずらに象山をも獄につながせる結果を招いており、革命の同志としてもつには、実に頼りない人物である。何か事を成そうとする仲間にとって、悪意なく、ただその軽率さによって無自覚的に利敵行為をする味方ほど危険な存在はない。


【『ものぐさ精神分析』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(青土社、1977年/中公文庫、1996年)】

ものぐさ精神分析 (中公文庫) 続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

2010-05-13

人間当たり前の仕事


 細川のいうに「ドウしても政府においてただ捨てて置くという理屈はないのだから、政府から君が国家に尽した功労を誉めるようにしなければならぬ」と言うから、私は自分の説を主張して「誉めるの誉められぬのと全体ソリャ何のことだ、人間が当り前の仕事をしているに何も不思議はない、車屋は車を挽(ひ)き豆腐屋は豆腐を拵(こしら)えて書生は書を読むというのは人間当り前の仕事をしているのだ、その仕事をしているのを政府が誉めるというなら、まず隣の豆腐屋から誉めて貰わなければならぬ、ソンナことは一切止(よ)しなさい」と言って断ったことがある。


【『新訂 福翁自伝』福沢諭吉(岩波文庫、1978年)】

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

『憚(はばか)りながら』後藤忠政(宝島社、2010年)


 著者は武闘派暴力団後藤組の元組長で現在は天台宗の坊主。以前、公明党藤井富雄元都議との関係が報じられたことがある。15日発売。


憚(はばか)りながら


 あの男(※山崎正友)がすべて仕切っていて、池田ともサシで話し合えるぐらいの実力は持ってたんだ。実際、俺にも「親分のことは池田会長に伝えてあります。池田会長も『くれぐれもよろしく』と言ってました」と言ってたんだから。

増刷『中央公論』2010年4月号


 やっと増刷された。中央公論新社ってのは商売が下手だね。


中央公論 2010年 04月号 [雑誌]

2010-05-09

悪書は精神の毒薬


 悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。

 良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。(「読書について」)


【『読書について』ショウペンハウエル/斎藤忍随〈さいとう・にんずい〉訳(岩波文庫、1960年)】

読書について 他二篇 (岩波文庫)

2010-05-08

600万ヒット達成


 メールで教えてもらって知った次第である。最近、境涯とは感受性であると思うようになった。何が心に引っ掛かるのか? なぜそこに興味や関心を抱くのか? 如是我聞とは求道の姿勢もさることながら、人々が関心を抱いている問題に仏が応答した姿をも表しているように感じる。だから、アンテナの低い鈍感な人はダメだ。凡庸な精神から洞察力は生まれない。心の揺れを敏感にキャッチしながら、その動きを静かに見つめれば、自分の進むべき方向が開けてくる。

唱題行と悟りについて


 やはり何かを感じたら、直ぐに書かないといけませんな。数ヶ月前に読んだテキストだが、温めようと思いながらも結果的に冷めてしまった(笑)。


 日蓮は建長5年に唱題行という新しい修行方法を人々に勧め始めたということは、確実であろうが、その唱題行にどのような宗教的意義があるかを、どのように人々に説明したかは、検討の余地がある。

 法然は、称名念仏だけで極楽往生ができる(専修)と主張し、他の修行方法は末法においては無効である(排他)と主張した。しかし、これは伝統的な天台教学における、称名念仏は機根の低い衆生の低級な修行方法であり、それだけでは往生できないし、ましてやそれ以上の高級な修行方法が無効であるなどということはないという解釈を真っ向から批判したものであった。そのために、異端、邪説として天台宗から批判され、廷からも弾圧された。

 日蓮の真筆や真筆曾存、直弟子写本の文献では、唱題行には不堕三悪道功徳はあるが、六道輪廻を越えるには一分の悟りが必要であるということを述べている。これは唱題行の功徳は、伝統的な天台教学の枠内に収まっていることを、日蓮が認めていることでもある。

 しかし本覚思想文献には、×●『一念三千法門』(×=天台宗批判をしているテキスト、●=本覚思想が濃厚なテキスト)のように、唱題だけで本覚の仏が現れる=成仏する、しかも今生、一生という短い期間で成仏が可能だとする専修思想があり、また、天台宗の観念観法は末法においては唱題より劣るという思想を主張しているが、これは、唱題行以外は末法では無効であるという排他思想に発展する可能性を示している。

 日蓮が法然と同様に専修、排他思想を持ち、天台宗の枠外で、活動したと解釈するならば、初期本覚思想文献が日蓮の著作であると認めてもよいだろう。しかし、日蓮が天台宗の学僧としての立場を対外的には取り続けたとするならば(少なくとも『立正安国論』は天台宗の学僧の立場から主張されていると見てよいだろう)、もし万一、本覚思想文献を他の学僧に閲覧可能な形で表明したならば、日蓮はその二重基準を他の学僧から責められたであろう。

 唯一、初期本覚思想文献を日蓮の著作とする道は、日蓮は多くの弟子達には天台宗の学僧としての立場から、不堕三悪道の功徳がある唱題行を勧め、ごく一部の弟子にのみ、本覚思想により成仏の直道としての唱題行を勧めたという二重基準を持つ秘密主義者日蓮という解釈しか残されていないと思われる。


「『守護国家論』について(1)」宮田幸一


「健全な懐疑」は迷いではない。それは悟りへの扉である。単純な確信は複雑な問題の前に呆気(あっけ)なく崩れ去ることが多い。


 六道輪廻とは本来、バラモン教(古代ヒンドゥー教)の教えでカースト制度を維持するために編み出された詐欺的教義であった。つまりバラモン階級が「お前が奴隷の家に生まれたのは過去世の行いが悪かったからであり、私がバラモンの家に生まれたのは過去世の行いがよかった証拠だ」という論法になる。


 かくの如き奴隷支配の論理をブッダ「空」なる思想で打ち破った。そこには差別の解消と輪廻の超克とがあった。


 仏は苦悩に喘ぐ民衆の生命に感応して現れる。ブッダとは覚者(かくしゃ/目覚めた人)の謂いであり、仏とは悟った人の異名である。その一方で民衆が求めているのは「悟り」ではなく「幸福」となっている現実がある。


 古来、いつの時代にあっても民は愚かであった。階級を支える土台の役目を担わされてきた。虐げられる中で誰もが「幸せになりたい」と願うことは当然のなりゆきといえる。だがその「幸せ」とは多くの場合、「現状からの逃避」であったことだろう。


 仏が悟ったのは真理である。その真理を伝えるには機根を調(ととの)える必要があった。よくよく吟味すれば、「幸せになれる」という言葉には邪(よこしま)な響きがある。「この壷を買えば絶対幸せになれますよ」。


 幸不幸とは概念であり、社会という集団の中に現れる差別相を基準にしている。調機調養(じょうきじょうよう)とは「幸不幸の基準を転換すること」であったのだろう。人生において目指すべきは「安穏」(御書検索:77件)ではなく「成仏」(御書検索:393件)なのだ。


 即身成仏という思想は空海(弘法大師)が編み出したもので、ここから日本仏教における本覚思想が生まれた。しかしながら日蓮が説いた即身成仏、速疾頓成(そくしつとんじょう)、当位即妙、凡夫即極は一念三千から展開しているように思われる。つまり、「仏に成る」から「内在する仏の生命を成(ひら)く」という新しい視点が与えられている。


 信仰とはおしなべて、何かを信じることである。信じる対象は異なっていても、信じるという心理的次元は一緒だ。日蓮は「而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり」(「開目抄」215頁)と指摘しているが、では本尊とは何なのかが問われなければならない。


 戸田城聖は獄中において無量義経に説かれる「三十四の非ず」という一文を身読し、「仏とは生命なり」と開悟した。出獄して自宅へ戻るなり、安置した御本尊をしげしげと見つめ、「確かにこの通りだ」と呟(つぶや)く。とすれば、「本尊とは生命」である。


 日蓮が一幅の曼荼羅に認(したた)めたのは縁起という生命の構図であり、生そのものであったと私は考える。原始仏教の最後の教えが「依法不依人」であったことを踏まえると納得できる。


 何も考えずに行躰即信心を鵜呑みにすると、悪しきプラグマティズムに陥る危険性がある。


 何だかまとまりがつかなくなってきた(笑)。今日はここまで。

破壊と光


「どこかへ行って、小さな家を建て、窓に花を飾り、玄関の前に庭を作って、神を讃え、感謝を捧げて、汚い世界には背を向けていればいいのだろうか? 世を捨てることは、裏切りではないのか? 逃亡では? 破壊のあとに光が来るというなら耐えられる。若き精神は、廃墟から光に向かって舞い上がっていくのだ。だが、破壊と光が同時に存在するというのは矛盾だ。僕はちっぽけで弱いが、正しいことをしたいのだ。」(※ハンス・ショル


【『「白バラ」尋問調書 『白バラの祈り』資料集』フレート・ブライナースドルファー編/石田勇治、田中美由紀訳(未來社、2007年)】

「白バラ」尋問調書―『白バラの祈り』資料集

2010-05-07

公明、自民と関係修復へ 参院選比例票にらみ


 公明党が冷え込んでいた自民党との関係修復に動きだした。近づく参院選の一部選挙区での協力と引き換えに、比例票を上積みしたいとの思惑からだ。新党ブームに埋没しかねないとの危機感も後押しする。

 公明党の井上義久幹事長らは6日夜、自民党の大島理森幹事長と二階俊博前選対局長を都内の料理店に招待。話題は鳩山政権の迷走ぶりや後半国会の展望から、参院選の取り組みに及び、選挙協力についても「あうんの呼吸でいこう」との認識で一致した。公明側出席者は「こういう会合は非常に大事だ。またやりたい」と満足げ。審議拒否に走る自民党を批判し、子ども手当法案採決に賛成するなど「自民離れ、民主接近」を強めてきた従来の姿勢と雲泥の差だ。

 背景には、鳩山政権の長引く政治とカネ問題や内閣支持率急落で、民主党との連携が支持者の理解を得にくくなったとの現場レベルの事情がある。公明党幹部は「民主党の候補者は支援しない」と言い切る。

 公明党は支持母体の創価学会組織票を武器に他党の選挙区候補を支援し、比例票をもらう“票の交換”作戦を得意とする。一時は勢いを増す「みんなの党」との連携も模索したが不調で、相手先として最後に残ったのが自民党というわけだ。


共同通信 2010-05-07

仮性痴呆


 精神的な機能にも廃用症候群はある。「精神性廃用症候群」といって、知的な刺激が少ないと精神的な活動が次第に低下するのである。感情の動きも鈍くなり、周囲に対する関心が薄れてくる。このような精神的機能の低下が合わさると「仮性痴呆」といって、一見ぼけたように見える。


【『リハビリテーション 新しい生き方を創る医学』上田敏(講談社ブルーバックス、1996年)】


 これを防ぐには声掛けしかない。またADL日常生活動作)における食事、立位、座位が重要で、姿勢を変えるだけでも脳に刺激を与えることができる。

リハビリテーション―新しい生き方を創る医学 (ブルーバックス)

2010-05-06

仏師の無名性


 片桐の話が実に興味深い。大乗仏教の形成にも同じ思いがあったことだろう。その後はいつもの通り。テンションの高さだけで盛り上げるやついいちろうの腕がお見事。まるで通販番組。

真理は空間にも時間にも縛られない


 日本語初のDVDブック。クリシュナムルティは90歳で亡くなるまで、世界を股にかけて講話をし続けた。20世紀を代表する聖人は国連や各大学、そして核兵器開発の総本山であるロスアラモス研究所にも招かれた。しかし彼は、晩年に至るまで民衆の中に分け入り、少年少女とも忌憚(きたん)なく語り合った。


 あらゆる宗教は常にこう言ってきました。あるのは自分たちの道、自分たちの救世主、自分たちの方式、自分たちの信条、自分たちの儀式だけであり、それらによってのみ私たちは救済されるでしょうと。それがあらゆる宗教の唱える決まり文句だったのです。が、もう何年も前のことですが、たまたま私は真理に至る道はないと言明したのです。まさにそのとおりだからです。真理へと至る道はないのです。彼らによれば真理は固定した地点にあり、そしてもしそうなら、真理に至る道を好きなだけ持つことができるでしょう。が、もしもそれが固定した地点にはなく〔空間的に縛られておらず〕、生きているもの、動いているもの、運動体であり、また、ある意味で時間的にも縛られていなければ、話は違ってきます。そうであれば、当然ながらそれに至る道はないからです。しかし、私たちはそのような危険なものの見方を望みません。私たちはあらゆるものが固定していること、最終的であることを望むのです。

 では人間が自分自身の中に深い変容をもたらすとはどういう意味か、それを調べてみましょう。私たちは根源的な心理的革命、深い、永続的な、取り消すことができない変化あるいは変容をもたらすことが可能かどうか尋ねているのです。人は限定され、抑圧された、偏狭個人として生きてきたので、自分も他の人々と同じく人類であるという真理を理解するのが非常に困なのです。あなたの中に人間の全体があるのです。つまり、あなたは一人の人間として世界の部分なのです。あなたは世界なのです。それは観念でも、理性によって知的にまとめあげられ、ええ、そのとおりですと言って同意されるべき何かでもないのです。あなたが一人の人間として全人類を代表しているというのは、正真正銘の真実なのです。あなたは苦しみ、心配し、不確かで、混乱し、惨めで、怯え、傷つきます。そして、あらゆる人間はこういったすべてを抱えているのです。ですから、あなたの意識は人類の意識なのです。

 さて、悲しみを終わらせることはできるでしょうか? もしもある人の中で悲しみを終わらせられれば、それは全人類の意識に影響を及ぼすのです。なぜなら、彼は全人類の代表だからです。私たちが今話していることを鵜呑みにしないでください。どうか自分自身で見出し、試してみてください。そのためにはあなたは、観察すべき自由でなければなりません。いかなる願望や切望も交えず、いかなる圧力にもさらされずに観察してみなければならないのです。ちょうど美しい花を観察するように。


【『変化への挑戦 クリシュナムルティの生涯と教え』J・クリシュナムルティ/柳川晃緒〈やながわ・あきお〉訳、大野純一監訳(コスモス・ライブラリー、2008年)】

英和対訳 変化への挑戦―クリシュナムルティの生涯と教え

2010-05-05

虚空会


 部屋の整理をしていたところ、亡くなった後輩からの年賀状を見つけた。「皆様の祈りのおかげで一命は取り留めました。本当に感謝しています」と書かれていた。それから14ヶ月後に彼は32歳で逝った。ヒロシ君の亡き骸(がら)に接した時、私は泣いた。実の父親が死んだ時にさえ泣かなかったこの私がだ。だが、悲しかったから泣いたわけではない。荘厳な顔(かんばせ)がそれまでの激闘を物語っていた。「小野さん、僕は勝ちましたよ」と誇らしげですらあった。私は冷たくなった額に手を当て、「ご苦労さん、よく頑張ったな」と言った。


 初めて会った時、ヒロシ君は小学校5年生だった。彼が男子部となってから、何度となく座談会を頼まれたが、何だかんだと理由をつけて私は一度も行かなかった。地区部長が私の先輩で、とてもじゃないがこの人の前で話すことが躊躇(ためら)われた。ヒロシ君にとっては優しい地区部長であったが、私にとっては鬼よりも恐ろしい先輩だった。この人と並べば悪魔だって恵比須顔に見えるほどだ。


 青年部を卒業した私はそこの地区部長となった。不思議なものである。振り返ってみれば、わずか一年半しか一緒に戦っていない。しかしながら、寝食を共にするほどの一体感があった。私は既に壮年部となっていたので、さほど厳しくやったつもりはなかった。それでも、ヒロシ君が区男幹で活動報告した際、「地区部長は本当に厳しくて……」と泣きながら発表していたことを別の後輩から聞かされた。私が八王子へ引っ越してからも、折に触れて我が家を訪れていた。


 今まで何人もの後輩を喪ってきたが、私は彼等との思い出を振り返ることが殆どない。なぜなら、彼等は私の胸の中で生き続けているからだ。己心に彼等を浮かべつつ、彼等の生命の波動が私を包む時、そこに虚空会は実在する。彼岸とはあの世のことではない。それは目に見えぬ冥(くら)い世界ではあるが現在の中にあるのだ。


 目に見える世界は移ろい、変化してやまない。そうであるがゆえに仮諦(けたい)という。生老病死、成住壊空は変化相という事実であって実在ではない。実在は虚空会にある。現実世界の霊前会(りょうぜんえ)において生死が不二となることは決してない。虚空会においてのみそれが可能となる。


 素粒子の大きさで我々の肉体を見れば、すかすかの隙間(すきま)だらけで網のような代物である。血液や脳味噌も同様だ。細胞分裂によって網は緩やかに切れたりつながったりを繰り返す。こうなると網というよりは、蜘蛛の巣みたいなものと考えた方がいいだろう。あるいは巨大な綿あめ。そこにどういうわけだか、「私」が浮いているのだ。実体は蜘蛛の巣であるにもかかわらず自我が形成されている。素粒子の世界から考えると、五蘊仮和合(ごおんけわごう)は得心がゆく。


 哲学宗教は「自我の存在」にまつわる物語である。「私」とは何なのか? 「私」はどこから生まれ、どこへ行くのか? 本当の「私」はどこにいるのか? 「私」の死は何を意味するのか?


 これを超克したのがブッダの空観(くうがん)であった。それを象徴的に表現したのが虚空会であるというのが私の考えだ。ヒロシ君からの年賀状の文字を指でなぞりながら、そんなことを思った。

チェチェン紛争の実体

 チェチェン側の死者のほとんどは、ロシア軍による無差別爆撃の犠牲者です。さらに、ロシア連邦軍の「ゲリラ掃討作戦」の名の下に、住民が突然自宅からロシア連邦軍に連行され、そのまま行方不明になったり、死体で発見されたりするケースが多発しています。行方不明になったチェチェン人男性は2000人にも達するといいます。(中略)

 2002年6月には、チャンカラという町のロシア軍駐屯地付近で、地中から50人ほどのチェチェン人の遺体が発見されました。遺体は、目をえぐり取られ、耳をそがれ、手足や性器を切断されていました。

 チェチェンゲリラの情報を集めるため、ロシア連邦軍の兵士が、一般市民を拷問することは日常茶飯事となっています。


【『そうだったのか! 現代史 パート2』池上彰(ホーム社、2003年/集英社文庫、2008年)】

そうだったのか!現代史 (集英社文庫) そうだったのか!現代史〈パート2〉 (集英社文庫)

2010-05-04

完全に民主的な選挙方式は存在しない


司会者●投票方式に応じて異なるタイプの候補者が選ばれるなどとは、これまで考えたこともありませんでしたが……。


会社員●なんだか民主主義の根底が揺るがされているような気がしますね……。


理経済学者●実は、事態はもっと深刻なのです。というのは、完全に民主的な社会的決定方式は、存在しないからです! この事実は、1951年にコロンビア大学の数理経済学者ケネス・アロウの証明した「不可能性定理」によって明らかになりました。


【『理性の限界 不可能性・確定性・不完全性』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、2008年)】

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

2010-05-03

統治される国民


 日本の知的営みは、時の権力者の意向によって、指導・監査あるいは禁止されたりしてきた。日本の司法に対する概念や社会における法律の地位・扱いは、統治者の都合のよいように変えられ、彼ら自身の振る舞いや統治方法に決定的な影響を与えることはなかった。したがって、集団生活、会社・集団への忠誠、協調的な傾向、個人主義の欠如、なきに等しい訴訟闘争など、日本の社会や文化の典型的な側面とされている事柄は、究極的には、政治的方策に起因するものであり、政治的な目的のために維持されているのである。

“多元的国家論”のモデルとなった国ぐにの権力者と異なり、日本の権力保持者は組織的に権力を行使する。その方法と目的を、有権者は究極的になんら制御(コントロール)できないのである。


【『日本/権力構造の謎』カレル・ヴァン・ウォルフレン/篠原勝訳(早川書房、1990年/ハヤカワ文庫、1994年)】

日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF) 日本 権力構造の謎〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

2010-05-02

ベトナム戦争の諸法実相


「ベトナム戦争でアメリカは勝てない」

 私が最初にそう思ったのは、高校生のときでした。

 新聞に掲載された一枚の写真を見たのがきっかけです。ベトナム戦争が激化していた頃の、ある日のことでした。稲穂が実った田んぼの真ん中を、アメリカ軍の戦車が走っている場面でした。

 稲穂は無残に倒れて、戦車の通った跡がくっきり残っています。

 このアメリカ人たちには、米に対するアジア人の思いは理解できない、私はそう感じたのです。

 アメリカ人にとって、田んぼに広がる稲穂は、ただの草だったのでしょうか。見渡すかぎり平らに広がる草原だったら、戦車で草をなぎ倒すのも快感でしょう。

 しかし、それは稲でした。

 私たちアジア人がもっとも大切にしているものです。

 そんな思いを知らないまま軍隊をいくら送り込んでも、現地の人々の支持を得ることはできません。

「この戦争、結局はアメリカが負けるだろう」

 私は、そう思ったのです。


【『そうだったのか! 現代史池上彰(ホーム社、2000年/集英社文庫、2007年)】

そうだったのか!現代史 (集英社文庫) そうだったのか!現代史〈パート2〉 (集英社文庫)

2010-05-01

英知を持つ自由


 規律にしばられた精神はけっして自由な精神ではなく、そして抑圧された願望を持つ精神もまた自由ではありえない。願望の全過程を理解することによってのみ、精神は自由になることができる。規律は、つねに精神をある特定の思考や信念体系の枠内での動きに限定するのではないだろうか? そしてこのような精神には、英知を持つ自由はまったくない。規律は権威への服従をもたらす。それは役割的才能を要求する社会の枠内で機能する能力を与えはするが、しかしそれ自身の能力を持つ英知を目覚めさせることはない。記憶による以外の能力を何も培わなかった精神は、現代の電子計算機のようなものだ──驚くべき能力と正確さで機能はするが、依然として機械にすぎないのである。権威は精神をある一定の方向にそって考えるようにさせることができる。しかしある一定の方向にそって、あるいは前もって出された結論に照らして考えるように指導されることは、少しも考えないことなのだ。それはたんに人間機械のように機能することであり、そしてそれは浅薄な不満の温床となり、それとともに欲求不満やその他の不幸をもたらすのである。


【『未来の生』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1989年)】


未来の生