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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2010-05-05

虚空会


 部屋の整理をしていたところ、亡くなった後輩からの年賀状を見つけた。「皆様の祈りのおかげで一命は取り留めました。本当に感謝しています」と書かれていた。それから14ヶ月後に彼は32歳で逝った。ヒロシ君の亡き骸(がら)に接した時、私は泣いた。実の父親が死んだ時にさえ泣かなかったこの私がだ。だが、悲しかったから泣いたわけではない。荘厳な顔(かんばせ)がそれまでの激闘を物語っていた。「小野さん、僕は勝ちましたよ」と誇らしげですらあった。私は冷たくなった額に手を当て、「ご苦労さん、よく頑張ったな」と言った。


 初めて会った時、ヒロシ君は小学校5年生だった。彼が男子部となってから、何度となく座談会を頼まれたが、何だかんだと理由をつけて私は一度も行かなかった。地区部長が私の先輩で、とてもじゃないがこの人の前で話すことが躊躇(ためら)われた。ヒロシ君にとっては優しい地区部長であったが、私にとっては鬼よりも恐ろしい先輩だった。この人と並べば悪魔だって恵比須顔に見えるほどだ。


 青年部を卒業した私はそこの地区部長となった。不思議なものである。振り返ってみれば、わずか一年半しか一緒に戦っていない。しかしながら、寝食を共にするほどの一体感があった。私は既に壮年部となっていたので、さほど厳しくやったつもりはなかった。それでも、ヒロシ君が区男幹で活動報告した際、「地区部長は本当に厳しくて……」と泣きながら発表していたことを別の後輩から聞かされた。私が八王子へ引っ越してからも、折に触れて我が家を訪れていた。


 今まで何人もの後輩を喪ってきたが、私は彼等との思い出を振り返ることが殆どない。なぜなら、彼等は私の胸の中で生き続けているからだ。己心に彼等を浮かべつつ、彼等の生命の波動が私を包む時、そこに虚空会は実在する。彼岸とはあの世のことではない。それは目に見えぬ冥(くら)い世界ではあるが現在の中にあるのだ。


 目に見える世界は移ろい、変化してやまない。そうであるがゆえに仮諦(けたい)という。生老病死、成住壊空は変化相という事実であって実在ではない。実在は虚空会にある。現実世界の霊前会(りょうぜんえ)において生死が不二となることは決してない。虚空会においてのみそれが可能となる。


 素粒子の大きさで我々の肉体を見れば、すかすかの隙間(すきま)だらけで網のような代物である。血液や脳味噌も同様だ。細胞分裂によって網は緩やかに切れたりつながったりを繰り返す。こうなると網というよりは、蜘蛛の巣みたいなものと考えた方がいいだろう。あるいは巨大な綿あめ。そこにどういうわけだか、「私」が浮いているのだ。実体は蜘蛛の巣であるにもかかわらず自我が形成されている。素粒子の世界から考えると、五蘊仮和合(ごおんけわごう)は得心がゆく。


 哲学宗教は「自我の存在」にまつわる物語である。「私」とは何なのか? 「私」はどこから生まれ、どこへ行くのか? 本当の「私」はどこにいるのか? 「私」の死は何を意味するのか?


 これを超克したのがブッダの空観(くうがん)であった。それを象徴的に表現したのが虚空会であるというのが私の考えだ。ヒロシ君からの年賀状の文字を指でなぞりながら、そんなことを思った。

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