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2010-11-30

本来の仏教をどこで捉えるか


 もっとも、本来の仏教といっても、それをどこで捉えるかはなかなかに困な課題である。私はむしろ釈尊やその人より、大乗仏教の言説の中に深い宗教体験と真実とを見たいと思っており、このことは従来しばしば述べてきたところである。決して釈尊に帰れということを、何の反省もなく主張しようとは思っていない。


【『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男〈たけむら・まきお〉(大東出版社、1997年)】

仏教は本当に意味があるのか

2010-11-29

宗教改革は印刷物を用いた思想宣伝運動だった


 とりわけ宗教改革派は、活版印刷術を用いて安価で大量の宣伝パンフレットを流布させ、ひとびとの支持を獲得するとともに、自らの勢力基盤を確立した。「活版印刷術なくして宗教改革なし」といわれるゆえんである。宗教改革は、印刷物というマスメディアを用いた、歴史上最初の思想宣伝運動であった。


【『宗教改革の真実 カトリックプロテスタントの社会史』永田諒一(講談社現代新書、2004年)】


 これは誤り。印刷物を利用した思想宣伝運動の嚆矢(こうし)は『魔女に与える鉄槌』(1487年刊)であろう。

宗教改革の真実 (講談社現代新書)

2010-11-28

精神は信念によって自分自身を欺く傾向がある


 人は当然ながらすべての信念を疑うべきである。なぜなら精神は、とりわけ信念によって自分自身を欺く傾向があるからである。事実、精神の欺瞞への能力はとてつもないのである。人間は、その飽くことなき心理的安定の追及において神格を発明し、それらに不死という属性を付与したとき、もっともおのれ自身を欺いた。同様にして、人間はその肥沃な想像の土壌に霊魂の概念を育み、そして彼はおのれの発明に永遠性を与えることによって、ただちにそれを防御した。


【『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ/大野純一訳(めるくまーる、1993年)】

気づきの探究―クリシュナムルティとともに考える

2010-11-27

認知バイアス


 ある仮説や考えを好むことによって、私たちが考慮する情報の質ばかりか、量にまで影響が及ぶことがふつうである。ある好みの仮説を持っているとき、初めに手にした情報がその仮説に合致していれば、私たちはそれで満足してしまい、それ以上の情報を求めようとしないものである。ところが、初めに仮説に反するような情報に出会った場合には、より都合の良い情報を求めて情報収集を続けることになる。あるいは、初めの情報が間違っていることがわかるようなさらなる情報が求められる。「好きなところで情報収集を打ち切る」というこうした都合のいい方法を用いることにより、私たちは自分がそうであって欲しいと考えることに対する満足のいく情報を捜し出す機会を飛躍的に高めることができるのである。


【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ/守一雄、守秀子訳(新曜社、1993年)】

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

2010-11-26

不確定性原理


 この不確定性という概念は量子力学の基本的考えで、量子という言葉が生まれたのも、不確定性があったからです。

 量子というものは、これだという存在があるわけではなく、電子も量子状態ですし、素粒子も量子状態です。つまり、不確定性が働くくらい小さな存在を量子と呼ぶのです。(中略)

 これは位置と運動の関係を示しているのですが、その導くものというのは、位置が確定すると運動がわからなくなる、運動を確定すると位置がわからなくなる、つまり存在が不確定ということなのです。(中略)

 E=mc²

 アインシュタインが導いたこの式は質量と時間の関係を示すもので、物質には膨大なエネルギーがあることがわかります。

 それを逆向きに利用すれば、例えば、エネルギー加速器の中で、決められた短い時間に大きなエネルギーを当てれば、素粒子を生み出すことができるということになります。我々はなかなか認めることができないのですが、無から有が生まれるのです。

 もし、全素粒子をなくしてしまうような掃除機があって真空状態をつくったとしても、つくった瞬間に、不確定性が働いて素粒子がポンポン出てきてしまうのです。ポンポン出てきてしまうということは、そこは無ではないということです。東洋哲学ではそれを「空」と呼びます。


 この不確定性原理のおもしろいところは、存在が不確定ということがわかっただけではなく、存在そのものが有か無かも不確定だということを示している点です。

 ということは、宇宙は、最初から有でもなければ無でもないということが考えられるのではないでしょうか。素粒子が生まれるように、ただ見えなかっただけと考えることができます。


【『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(角川春樹事務所、2009年)】

苫米地英人、宇宙を語る

2010-11-25

真理を殺すことはできない


 しかし、この新しい真理(天動説)は、嘲笑をもってしても権力をもってしても、おしつぶすことはできなかった。それを承認している人も多かったのだ。だが、それをあえて声に出したのはただ一人だけだった。この新たな戦士はあの奇妙な人物、ジオルダーノ・ブルーノであった。彼は国から国へと追いまわされた。が、ついに彼は向きをかえ、ものすごい毒舌をもってその追跡者に立ち向かった。そのために彼は6年の間投獄された上で焚刑に処され、その骨灰は空に撒きちらされた。しかし、新しい真理はなお生きつづけた。真理を殺すことはできなかった。ブルーノの殉教後10年ならずして、限りない紛争と迫害とののちに、コペルニクス説の真理はガリレオの望遠鏡によって確立されたのである。

 もっとも感動的な予言の一つはここに成就されたのである。その数年前のことだが、コペルニクスの敵は彼にいった。「もしもお前の説が正しいなら、金星は月と同じように満ち欠けするであろう」と。コペルニクスは答えた。「君のいうとおりだ。私にはいうべき言葉がない。しかし神は善である。この反対に対する答を神はやがて見いだしたもうであろう」と。ガリレオの粗末な望遠鏡が金星の満ち欠けを示したときに、この神の答えは与えられたのであった。


【『科学と宗教との闘争』ホワイト/森島恒雄訳(岩波新書、1939年)】


 ホール・ケイン著『永遠の都』に登場するブルーノは多分この人物がモデルになっているのだろう。

科学と宗教との闘争

2010-11-24

雷龍王3世の言葉


 晩年の雷龍王3世が国会を叱った言葉が残る。

「わたしの行為を批判せず、わたしの誤りに対して盲目になっている」(レオ・E・ローズ、カリフォルニア大学名誉教授『ブータンの政治』山本真弓監訳、乾有恒訳、明石書店、2001年)

 この人の下で働きたい、真正面から意見して、心ゆくまで喧嘩したい、と夢みる。


【『国をつくるという仕事』西水美恵子〈にしみず・みえこ〉(英治出版、2009年)】

国をつくるという仕事

2010-11-23

スターリニズムという空気


 スターリニズムというものは、いまだに乗り越えられていないんです。それは、ロシア人にとっては、もしかしたら乗り越える必要のないものなのかもしれません。スターリニズムの問題にどうして気が付かないかというと、空気のように自然になっちゃっているからです。スターリンの物質概念であるとか経済概念であるとか言語概念というのが、ソ連においては空気のように浸透していた。スターリンの言説というのは、実はレベルが相当高いんです。そのレベルの高さというのは、理論的にどうのこうのというレベルじゃなくて、人間の深層心理まで捕え、本当にそのために命を捨てる人間を作るイデオロギー体系(世界観)を構築することができたところにある。だから多くのソ連人、ロシア人が、祖国のために、スターリンのためにと、そういったかたちで死んでいくことができたわけです。

 おそらくは、レーニン自身にトロツキー的な要素とスターリン的な要素の両方があったと思うんです。ところが、レーニンは、独特のプラグマティズムで、そこのところを曖昧にしていたわけです。彼の著作を読んでいると、何か有能な弁護士と話しているみたいです。どこに本当の考えがあるのか、なかなかわからない。


【『国家の崩壊』佐藤優〈さとう・まさる〉、宮崎学(にんげん出版、2006年)】

国家の崩壊

2010-11-22

官僚主義のなれの果て


 アイヒマンはアウシュヴィッツとマイダネック強制収容所を視察した結果、そこでの抹殺工程を考え出した人物でもあった。ただし、彼は他人が苦しむのを見て快楽を覚えるサディストではなかった。アイヒマンはほとんど事務所の中で自らの仕事に専念し、結果として数百万の人間を死に追いやったのである。一官僚として、彼は死に追いやられる人間の苦痛に対し、何の感情も想像力も有してはいなかった。彼の尋問に当たったイスラエル警察のレスから、自分の父親もまた大量殺戮の犠牲者の一人だったことを聞いて、アイヒマンは「驚愕」する。しかし、そのことに対しても、彼は部分的な責任しか認めようとはしなかった。彼自身は、レスの父親を含む数百万の人間の死に直接関与したわけではなく、単に移送したに過ぎない。それも命令によって。彼は再三にわたって、自分の責任と権限が強制収容所の入口の手前だけに限られていたことを主張した。強制労働も殺人も遺体の焼却も、彼の権限外であった。


【『アイヒマン調書』ヨッヘン・フォン・ラング編/小俣和一郎〈おまた・わいちろう〉訳(岩波書店、2009年)】


 創価大学出身の幹部がこれとよく似ている。20年ほど前は「創価大学って、学会の幹部を養成する大学なんでしょ?」と訊かれて笑い飛ばすことができたが、現在は沈黙せざるを得ない情況だ。追々書くつもりだが公明党と創価大学、そして御書の取り扱いに最大の問題があったと思われてならない。

アイヒマン調書―イスラエル警察尋問録音記録

障害者自立支援法改正に関する反対意見


 ツイッターで見逃せない意見があった。公明党関係者からの反論を望みたい。小泉政権下における介護切り捨てによって、高齢者の公明離れが一気に加速した経緯がある。私の周囲でもリハビリ民、介護民が続出した。その後、法改正をして手当てをしたが既に後の祭り。


RT @abe_tomoko: 補正予算の衆院通過後のどさくさ紛れに、自民、民主、公明の三党で障害者自立支援法の一部改正案が今日の厚労委員会で審議もなく可決予定。自己負担の軽減を図るというこの案、しかし多くの障害当事者は反対。その声も聞かず、障害者運動を分断してまで、政治は何をしようとしているのか、怒り心頭。


RT @abe_tomoko: 障害者自立支援法の改正を巡って、障害当事者の皆さんが厚生労働委員会傍聴。改正案が、自民、公明、民主の賛成多数で可決されると怒号とうめき声。何故ここまで反対するものを強行するのか。外は冷たい雨、しかしめげず主張しぬく、私たちぬきに私たちのことを決めるなと。


RT @redpig57: 障害者『自殺』支援法案が厚生労働委員会で、民主党・自民党・公明党の賛成多数で可決されたそうです。当事者がそんな内容はやめてくれと何度も何度も請願や要請しているのに!政治屋らは介護保険との統合=サービス低下を目論む財務省・厚労省キャリアたちにまんまとハメられました。

2010-11-21

生物学的に生きていることの限りない無意味さ


 私は今日も生きていた。単に生きていただけに過ぎなかったのではないだろうか。生物学的に生きていることの淋しさ。限りない無意味さ、味気無さ加減。(中村徳郎 25歳)


【『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』日本戦没学生記念会編(東大協同組合出版部、1949年/岩波文庫、1982年)】


きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫) 第二集 きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

2010-11-20

戦争中、全盲というだけで戦争に行けず「非国民」って呼ばれ、家族に対して苦労をかけて申し訳ない

 このブログの主は「結果の出せる」男である。私とは訓練を受けてきた土壌がいささか異なるが、やはり善知識に恵まれているようだ。彼の感受性と応答性から学ぶことは多い。実は同い年なんだよね(笑)。

所感


 以下、N氏の論文を読んだ際のメモより──


脱構築とは、批判をする目的で古い価値観に依拠することである。それは古い建物の上に築かれるものではなく、別の構造物であらねばならない。また脱構築は、情報の共有化=コミュニケーションの変化に伴って行われる。時代の変化とはコミュニケーションの様相が変わることを意味する。


◎あらゆる集団は、大きな共同体に対するアンチテーゼとして存在する。社会の矛盾・理不尽を集団内の人間関係や理想によって解消しようとする。だがコミュニティは矛盾の数だけ重層化・細分化せざるを得ない。このため集団という集団は必ず重層構造となる。


◎一個の人間も共同体である。左脳と右脳、上半身と下半身、手と足、理性と感情、運動と熱、意識と無意識、善と悪、神と悪魔、光と闇などによる共同体である。「私」はひとつのものではない。事実として分裂している。


◎救われる者が救う者になった時に必要とされる対象は「救いを待つ人々」である。救い−救われという関係性において対話は成立しない。既に階級構造をはらんでいるからだ。ゆえに救う側の意識は、神やグル(導師)との距離関係に比例して強くなる。見事な階層だ。


【ツイッターより転載】

2010-11-19

2010-11-18

論文


 N氏の論文を読む。内容的にはどうってことのない代物だ。ただし、これが知的生産者としての決意表明であれば評価は劇的に高まる。責任という名の束縛がある。立場という足枷(あしかせ)も存在する。真の自由の前には強大な壁が立ちはだかっている。N氏がその壁に手を掛けたのであれば、私は触発されざるを得ない。


 というわけでブログタイトルを変更することにした(笑)。私は私の歌を歌おう。

犀の角のように歩め


 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。


【『ブッダのことば スッタニパータ中村元訳(岩波文庫、1958年)】

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

2010-11-17

物事に失敗した集団は最も邪悪な行動に走りやすい


 こう考えると、物事に失敗した集団が最も邪悪な行動に走りやすい集団だということが明らかとなる。失敗はわれわれの誇りを傷つける。また、傷を負った動物はどう猛になる。健全な有機体組織においては、失敗は内省と自己批判をうながすものとなる。ところが、邪悪な人間は自己批判に耐えることができない。したがって、邪悪な人間がなんらかのかたちで攻撃的になるのは、自分が失敗したときである。これは集団にもあてはまることである。集団が失敗し、それが集団の自己批判をうながすようなことになると、集団のプライドや凝集性が損なわれる。そのため、国を問わず時代を問わず、集団の指導者は、その集団が失敗したときには、外国人つまり「敵」にたいする憎しみをあおることによって集団の凝集性を高めようとするのがつねである。


【『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学M・スコット・ペック/森英明訳(草思社、1996年)】

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

2010-11-16

サッカー元イタリア代表ロベルト・バッジョに平和サミット賞


 12日から広島市で開かれるノーベル平和賞受賞者世界サミット(World Summit of Nobel Peace Laureates.)で、今年の「平和サミット賞」がサッカー・イタリア元代表FWのロベルト・バッジョ(Roberto Baggio)氏(43)に贈られることが決まった。

 サミット事務局によると、自宅軟禁下にあるミャンマーの民主化運動指導者、アウン・サン・スー・チー(Aung San Suu Kyi)さんの解放を求める運動や、今年起きたハイチ大地震の被災者のための募金活動など長年の多岐にわたる慈善活動が評価された。

 1993年には国際サッカー連盟(FIFA)最優秀選手にも選ばれたバッジョ氏だが、「ゴールデンボール賞(W杯の最優秀選手)よりも嬉しい。個人的に達成したことやプロとしての業績さえも、この賞に比べればかすんでしまうくらいだ」と伊ANSA通信にコメント。「平和サミット賞」の受賞は、サッカーのキャリアにおけるいかなる業績よりも嬉しいと喜びを語った。

 2004年に現役を引退したバッジョ氏は、仏教に改宗したことでも知られる。


AFP 2010-11-11

群衆の叡智


「群衆の叡智」の理論によれば、多様な人々の集団にみられる異なる意見を集めれば、ひとりの専門家に意見を聞く場合より、最良の結論に達する可能性がはるかに高い。たとえば、ある牛の体重を多様な集団に推測させれば、その平均値は実際の体重に非常に近くなる。多様なギャンブラーの集団に、たとえば大統領選挙の結果を予測させれば、その予測の平均が実際の結果になる可能性が高い。「群衆の叡智」がはたらかないのは、群衆を構成する人々がそれほど多様ではないときだ。


【『「ジャパン」はなぜ負けるのか 経済学が解明するサッカーの不条理』サイモン・クーパー、ステファン・シマンスキー/森田浩之訳(NHK出版、2010年)】

「ジャパン」はなぜ負けるのか─経済学が解明するサッカーの不条理

2010-11-15

コミュニティはアイデンティティの拠点


 血縁や地縁集団から離れ、都市社会をかたちづくる「個」となった人間は、自己実現のためにいくつもの組織体への帰属をよぎなくされる。クラブ・協会・講・組合・サロン・党・サークル・団・アソシエーション・会・ソサエティなどとさまざまに表現される結社は、そのなかで、自己と関心や利害を同じくした同志とともに、自己の目的を実現しようとする集団であり、個人が生きていくうえでもっとも重要なアイデンティティの拠点となっていった。(綾部恒雄)


【『結社のイギリス史 クラブから帝国まで』綾部恒雄〈あやべ・つねお〉監修、川北稔編(山川出版社、2005年)】

結社のイギリス史―クラブから帝国まで (結社の世界史)

2010-11-14

断念


 昨年、32歳の後輩を亡くした。転移性の癌が発見された時、医師は余命半年と告げた。だが彼は2年半生きた。訃報を伝えてくれた後輩に「仕方がないんだ」と私は言った。翌日、彼の実家を訪ね、「残念です」と私が言うなり、お父さんは「しようがないんだ」と言った。


 この話を妻にしたところ、「なぜ、そんなふうに達観できるの?」と訊いてきた。私は思わず「最初から諦めているからだ」と答えた。この瞬間、断念の意味を悟った。だから自分の父親が倒れた時も敢えて長命を祈ることはなかった。ひたすら父子と生まれた意味を思った。


 生きる気力を奪うのが病魔の病魔たる所以であろう。後輩も私の父も亡くなった。だが決して病魔に敗れた姿ではなかった。壮絶な格闘を終えた二人は死して尚、微笑を湛えていた。人は死んでも笑うことができるのだ。死は一定(いちじょう)である。誰も避けられない。問題は早い遅いではなく死に方だ。


 我々は必ず死ぬ。人生を明らかに見つめれば断念せざるを得ない。死という限界性を深く自覚した時、生は無限の輝きを放ち始める。必死や真剣という言葉もそれを示唆している。だからこそ人の死に遭遇すると厳粛な気持ちになるのだろう。真剣を抜け。斬るか斬られるかという緊張感の中で十全に生きよ。


【ツイッターより転載】

無料で容量5GBの同期フォルダー

 一々ファイルをアップロードする必要がない。ソフトをダウンロードすればフォルダーと同期。つまり自動バックアップ。私が使用しているのはテキストファイルなので十分な容量だ。尚、登録後、妙な画面が出る場合がある。更に確認メールが届くのに結構時間を要した。気長に待つこと。

内面の心理的な依存


 現在、自由というようなものはないし、私たちはそれがどのようなものかも知りません。自由にはなりたいけれども、気づいてみると、教師、親、弁護士、警察官、軍人、政治家、実業家と、あらゆる人がおのおのの小さな片隅で、その自由を阻むことをしています。自由であるとは単に好きなことをしたり、自分を縛る外の環境を離れるだけではなく、依存の問題全体を理解することなのです。依存とは何か、知っていますか。君たちは親に依存しているのでしょう。先生に依存して、コックさんや、郵便屋さん、牛乳を届けてくれる人に依存しています。このような依存はかなり簡単に理解できるのです。しかし、自由になる前に理解しなくてはならない、はるかに深い種類の依存があるのです。つまり、自分の幸せのための、他の人に対する依存です。自分の幸せのために誰かに依存するとはどういうことか、知っていますか。それほどに人を縛るのは他の人への単なる物理的な依存ではなくて、いわゆる幸せを招来するための、内面の心理的な依存です。というのは、誰かにそのような依存をしているときには、奴隷になってゆくからです。年をとるなかで、親や妻や夫や導師(グル)、ある考えに情緒的に依存しているなら、すでに束縛が始まっているのです。私たちのほとんどは、特に若いときには自由になりたいと思うけれども、このことを理解していないのです。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-11-13

過去の経験は「解釈学的経験」として存在する


 しかし、記憶の中にあるのは解釈学的変形を受けた過去の経験だけである。それが知覚的現在でないことはもちろん、知覚的現在と比較して模写の善し悪しを云々できるようなものでもないことは明らかであろう。当の知覚的現在はすでに存在しない以上、模写や比較という捜査はそもそも意味をなさないからである。想起とは「しかじかであった」ことを今現在思い出すことであり、思い出された事柄のみが「過去の経験」と呼ばれるのである。それゆえ、過去の経験は、常に記憶の中に「解釈学的経験」として存在するほかない。われわれは過ぎ去った知覚的体験そのものについて語っているのではなく、想起された解釈学的経験について過去形という言語形式を通じて語っているのである。「知覚的体験」を「解釈学的経験」へと変容させるこのような解釈学的変形の操作こそ、「物語る」という原初的な言語行為、すなわち「物語行為」を支える基盤にほかならない。

 人間の経験は、一方では身体的習慣や儀式として伝承され、また他方では「物語」として蓄積され語り伝えられる。人間が「物語る動物」であるということは、それが無慈悲な時間の流れを「物語る」ことによってせき止め、記憶と歴史(共同体の記憶)の厚みの中で自己確認(identify)を行ないつつ生きている動物であるということを意味している。無常迅速な時の移ろいの中で解体する自己に抵抗するためにこそ、われわれは多種多様な経験を記憶にとどめ、それらを時間空間的に整序することによってさまざまな物語を紡ぎ出すのである。記憶の女神ムネーモショネーがゼウスと交わって9人のムーサを、とりわけ叙事詩の女神カリオペーと歴史の女神クレイオーを生んだと考えた古代のギリシア人たちは、まさにその間の機微を知悉していたと言うべきであろう。

 しかしながら、現代においては、人間の「物語る」能力は著しく衰退しているように見える。かつては寝物語に枕辺で子供たちに「語り」聞かせるものであった昔話やお伽噺も、今では豪華な絵本を前に「読み」聞かせるものとなっている。炉端で自己の来歴と経験を虚実とりまぜながら物語ってきた老人たちは、すでに核家族の中にはその居場所を持たない。伝承され語り伝えられるべき経験は、今日では実用的な「情報」と化して書棚やフロッピー・ディスクの中に小ぢんまりと納まっている。現代における「物語る欲望」は、あたかもゴシップジャーナリズムの占有物であるかのようである。


【『物語の哲学』野家啓一〈のえ・けいいち〉(岩波書店、1996年/岩波現代文庫、2005年)】

物語の哲学 (岩波現代文庫)

2010-11-12

内外相対


 内面のものを熱望する者は

 すでに偉大で富んでいる。(「エピメニデスの目ざめ」1814年、から)


【『ゲーテ格言集』ゲーテ/高橋健二編訳(新潮文庫、1952年)】

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

2010-11-11

自分で考える


 一つの対象を知るとか、一つの問題を解くとかいうことは、それをすでにできあがっている知識の体系に入れることであると一般には考えられておりますし、また事実それで問題の解決がなされることもありますが、しかし真に具体的な問題は、一つ一つ独特なものであります。厳密に申しますなら、少なくとも現実の問題においては、一つとして全く同じ問題はないはずであります。したがってそれは既成のパターンに入れることでは、十分な解決とはなりません。またすでにできあがっているパターンにははいらないからこそ、問題なのであります。したがってその問題を具体的に解くためには、(中略)自分でその枠なり、入れものなりをつくらなければなりません。考えるとは、できあがったパターンにそれを適用することではなく、パターンそのものをつくるということでなければなりません。一言で申しますと、考えるとは自分で考えるということでなければならないのであります。


【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年/第三文明レグルス文庫、1991年)】

「自分で考える」ということ

2010-11-10

R・バッジョ氏に平和サミット賞授与 飢餓撲滅など訴え


 12〜14日に広島市で開かれる「ノーベル平和賞受賞者世界サミット」事務局(本部・ローマ)は8日、今年の平和サミット賞をイタリアの元サッカー選手、ロベルト・バッジョ氏(43)に授与すると発表した。

 バッジョ氏は現役時代は「イタリアの至宝」と称され、華麗なプレースタイルから「ファンタジスタ」として世界的なスーパースターだった。現役時代から慈善活動にも積極的に取り組み、2002年から国連食糧農業機関(FAO)の親善大使として、貧困と飢餓撲滅を訴えてきた。

 04年の引退後は、ミャンマー(ビルマ)の民主化運動指導者で自宅軟禁中のアウン・サン・スー・チーさんの解放運動支援のほか、08年5月にサイクロンで大きな被害を受けたミャンマー、今年1月に大地震に見舞われたハイチなどの被災地に何度も足を運び、支援活動をサポートしてきた。

 平和サミット賞はこれまでロックバンド「U2」のボーカル、ボノ氏や俳優のジョージ・クルーニー氏らが受賞している。広島市でのサミットには、ダライ・ラマ14世ノーベル平和賞の歴代受賞者や受賞団体が参加し、核兵器廃絶に向けた最終宣言を発表する。


asahi.com 2010-11-08

保守的本能とそれに由来する保守的理論は、迷信によってさらに強化される


 普通の人の心の世界は、自分が文句なしに容認し固く執着している信念から成り立っている。このなじみ深い世界の既成の秩序を覆(くつがえ)すようなものに対しては、普通の人は本能的に敵意をもつものである。自分のもっている信仰の一部分と矛盾するような新しい思想は、その人の頭脳の組替えを要求する。ところがこれは骨の折れる仕事であって、脳エネルギーの苦しい消耗が強要される。その人と、その仲間の大衆にとっては、新しい思想や、既成の信仰・制度に疑惑を投げかけるような意見は不愉快であり、だからそれは彼らには有害な意見に見えるのである。

 単なる精神的なものぐさに原因する嫌悪感は、積極的な恐怖心によってさらに増大する。そして保守的本能は、社会機構をも少しでも改変すると社会のよって立つ基盤が危うくなるとの保守的理論へと硬化する。国家の安寧(あんねい)は強固な安定と伝統・制度の変わりない維持とに依存するものだという信仰を人々が放棄しはじめたのは、ようやく最近のことである。その信仰がなお行なわれているところでは、新奇な意見は厄介視されるばかりでなく、危険視される。公認の原則について「何故に」とか「何のために」というような面倒な疑問を発するような人間は、有害な人物だとみなされるのである。

 保守的本能とそれに由来する保守的理論とは、迷信によってさらに強化される。慣習と見解の全部を包含する社会機構が、もしも宗教的信仰と密接に結びつき、神の比護のもとにあると考えられているような場合には、社会秩序を批判することは涜神(とくしん)を意味し、また宗教的信仰を批判することは超自然的神々の怒りに対する直接の挑戦となる。

 新しい観念を敵視する保守的精神を生み出す心理的動機は、既成の秩序やその土台となっている観念を維持するのに利害を共にする階級、カースト、祭司というような、地域社会の有力な諸階層の積極的な反対運動によってさらに強化される。


【『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ/森島恒雄訳(岩波新書、1951年)】

思想の自由の歴史

2010-11-09

公明、補正予算に反対へ 政権失態で方針転換


 公明党は9日、2010年度補正予算案への対応について、当初の賛成方針を転換し反対する方向で最終調整に入った。小沢一郎民主党元代表の「政治とカネ」問題に対しての菅直人首相の指導力不足や、中国漁船衝突映像流出事件など相次ぐ政権の「失態」を受け「菅政権に協力しても支持者の理解は得られない。状況は変わった」(幹部)との判断に傾いた。

 首相はねじれ国会打開のため公明党との部分連合を視野に公明党へ秋波を送ってきた。しかし党幹部は「補正への反対は政権に距離を置くことと同じ意味だ」と明言、首相の政権運営に痛撃となりそうだ。菅内閣の支持率共同通信社世論調査で発足以来最低の32.7%に急落したことも影響したとみられる。

 ただ公明党内には景気への悪影響を懸念する観点から、早期成立に協力するべきだとの賛成意見も残っており、近く中央幹事会で最終判断する。

 これに関連し、山口那津男代表は9日の記者会見で「菅政権は政治とカネの問題で積極的な対応が取れていない。外交で失態を重ね世論から厳しい評価を突き付けられている」と指摘した。


47NEWS 2010-11-09


「支持者の理解は得られない」──ここでいう支持者とは俺のことではなさそうだな(笑)。あ、信濃町ってことか。小沢問題以降、公明党は世論に迎合するのみで具体的な政治メッセージを全く発信していない。完全黙秘。共産党と公明党が国民政党になれないのは多様な意見がないため。

諸々の従属の中に大きな危険がある


752 従属することない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執着していて、輪廻を超えることがない。


753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は従属することなく、執着することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。


【『ブッダのことば スッタニパータ中村元訳(岩波文庫、1958年)】

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

都合の悪いことは消去されてきた


 あらゆる勝者の歴史がそうであるように、教義の純粋化を進めるプロセスでそのために都合の悪いことは消去されてきたに違いないからです。


【『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト2345新書、2010年)】

なぜ、脳は神を創ったのか? (フォレスト2545新書)

2010-11-08

ルネサンスの残酷ぶり


 この迷信と残虐の魔女旋風が、中世前期の暗黒時代においてではなく、合理主義とヒューマニズムの旗色あざやかなルネサンスの最盛期において吹きまくったということ、しかもこの旋風の目の中に立ってこれを煽りたてた人たちが、無知蒙昧な町民百姓ではなく、歴代の法皇、国王、貴族、当代一流の大学者、裁判官、文化人であったということ、そしていまひとつ、魔女は久遠の昔から、どこの世界にもいたにもかかわらず、このように教会や国家その他の公的権威と権力とが全国的に網の目を張りめぐらしこの上なく組織的な魔女裁判によって魔女狩りが行なわれたのはキリスト教国以外にはなく、かつ、この時期(1600年をピークとする前後3〜4世紀)に限られていたということ、――これはきわめて特徴的な事実ではあるまいか。

 魔女裁判の本質は、結局、この「地域」と「時期」との関連の中にある。


【『魔女狩り』森島恒雄(岩波新書、1970年)】

魔女狩り (岩波新書)

2010-11-07

ツイッター名言


 孤独になることと、批判の体裁をとった中傷に耳を傾けない強靭さがなければ、今の時代は何もつとまらんさ。


@naoki_ma

ダウン症の天才指揮者


 舟舟君も、「千手観音」で一躍有名となった中国障害者芸術団の一員である。父親がチェロ奏者で幼い頃から楽団と接し、見よう見まねで指揮を覚えた。こちらが多分最初の指揮と思われる。何度も指揮棒で譜面代を叩き、指揮を執ろうとする意志が明らかだ。それまで周囲の人々はただ音楽に合わせているのだろうという認識だった。現在は世界各地を飛び回り、60以上の楽団にタクトを振るってきた。


権威の一般定義


 したがって、

     【権威の一般定義】

を探すことにしよう。

 権威は、運動、変化、行為(現実的な、あるいは少なくとも可能な行為)があるところにのみ、存在する。権威は、権威を代表する(権威を「受肉する」、権威を実現する、権威を行使する)物または人の動きに応じて「反応する」、すなわち、変化することができるものに対してのみ、存在する。そして自明のことだが、権威は、変化を被る者にではなく変化を引き起こす者に属する。つまり、権威は、本質的に【能動的】であって受動的ではない。

 したがって、あらゆる権威の現実的な「担い手」は必然的に、語の厳密で強い意味において【行為者】、すなわち、【自由】であり【意識的】であると見なされる行為者であると言えよう(だから、それは神的存在や人間的存在であっても、けっして動物としての動物やそれに類似したものではない)。


 注記。たしかに権威的行為は必ずしも【自発的】ではない。他人の命令を実行しながら権威をもつことは可能だからである。だが、権威を帯びた行為者は、この命令を【理解】し、その命令を【自由に】受け入れると見なされている。指導者の言葉を伝える蓄音器は、それ自体ではいかなる権威ももたない。


 したがって、権威を帯びる存在は必然的に【行為者】であり、権威的行為はつねに真の【行為】(意識的で自由な行為)である。


【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ/今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】

権威の概念 (叢書・ウニベルシタス)

2010-11-06

コリントの信徒への手紙


「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」。『コリントの信徒への手紙 1』(5:12)。しかし、これがあらゆる宗教において機能不全となっている。


@ujikenorio

大日本帝国は軍国主義のためではなく官僚主義のために滅んだ


 わたしがかねてから主張しているように、大東亜戦争における日本軍の惨敗の原因は、物量の差ではなく(物量の差のために敗れたというのは軍部官僚の卑怯な逃げ口上である。軍部官僚が言葉の真の意味での軍人の名に値しないのは、その卑怯さからも明らかである。物量の差のために必然的に敗れるのであれば、そのような戦〈いくさ〉はしなければよかったのである。それに、ミッドウェイ海戦のように、物量的にアメリカ軍より優位にあったときも日本軍は惨敗している)、ましてや兵士たちの戦意や勇気の不足ではなかった(歴史上、この前の戦争における日本兵ほど身を犠牲にして懸命に戦った兵士がほかにいたであろうか)。

 最大の敗因は全体的戦略の欠落と個々の作戦のまずさであり、それは軍部官僚の責任なのである。

 そして、この点が重要なのであるが、軍部官僚の失敗は軍人であるがゆえの失敗ではなく、官僚であるがゆえの失敗であった。大日本帝国は軍国主義のためではなく、いわば官僚主義のために滅んだのである。軍国主義のためではなく、官僚主義のために310万の日本人と1000万以上(推定)のアジア人が死んだのである。

 もし当時の日本を支配していたのが、軍部官僚ではなく、政治の延長として軍事力を用いる非官僚的な軍国主義者、すなわち、彼我の軍事力のバランスを冷静に検討し、作戦の合理性を重視する軍国主義者であったとすれば、日本は戦争に突入していなかったかもしれないし、突入しても傷の浅いところで早目に切りあげていたかもしれない。

 戦後のわれわれはその点を見ず、単純に軍人に任せたのがよくなかったと考え、軍というものに病的な恐怖反応を示し、一部の者は、軍隊かどうか疑わしい自衛隊がいささかの発言権を持つのさえ恐れるが、それは敵を取り違えているのであって、真に恐れなければならないのは官僚なのである。


【『歴史を精神分析する』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、2007年/新書館、1997年『官僚病の起源』を改題)】

官僚病の起源 歴史を精神分析する (中公文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-11-05

権威の従属に伴う責任感の消失


 ミルグラム実験は私が生まれた年(1963年)に行われている。また、本書の改行位置の誤りを私が指摘し、新しい版は手直しされている(笑)。

 服従的な被験者でいちばん多い調整は、自分が自分の行動に責任がないと考えることだ。あらゆる主導権を、正当な権威である実験者に委ねることで、自分は責任から逃れられる。自分自身を、道徳的に責任のある形で動いている人物としてではなく、外部の権威の代理人として動いている存在として見るようになる。実験後のインタビューで、なぜ電撃を続けたかと尋ねられた被験者の典型的な答えは「自発的にはそんなことはしなかっただろう。単に言われた通りにやっただけだ」というものだった。実験者の権威にあらがえなかったかれらは、すべての責任を実験者に負わせる。ニュルンベルク裁判の弁護発言として何度も何度もきかれた「自分の義務を果たしていただけ」という昔ながらの話だ。だがこれは、その場しのぎの薄っぺらい言い逃れだと思ってはいけない。むしろこれは、権威構造の中で従属的な立場に固定された大多数にとって、根本的な思考様式なのだ。責任感の消失は、権威への従属にともなう最も重要な帰結である。


【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム山形浩生〈やまがた・ひろお〉訳(河出書房新社、2008年/同社岸田秀訳、1975年)】

服従の心理 (河出文庫)

2010-11-04

すべての記録が同じ作り話を記すことになれば、その嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう


 党は、オセアニアは過去一度としてユーラシアと同盟を結んでいないと言っている。しかし彼、ウィンストン・スミスは知っている、オセアニアはわずか4年前にはユーラシアと同盟関係にあったのだ。だが、その知識はどこに存在するというのか。彼の意識の中にだけ存在するのであって、それもじきに抹消されてしまうに違いない。そして他の誰もが党の押し付ける嘘を受け入れることになれば――すべての記録が同じ作り話を記すことになれば――その嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンは言う、“過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする”と。それなのに、過去は、変更可能な性質を帯びているにもかかわらず、これまで変更されたことなどない、というわけだ。現在真実であるものは永遠の昔から真実である、というわけだ。実に単純なこと。必要なのは自分の記憶を打ち負かし、その勝利を際限(さいげん)なく続けることだ。それが〈現実コントロール〉と呼ばれているものであり、ニュースピークで言う〈二重思考〉なのだ。


【『一九八四年』ジョージ・オーウェル/高橋和久訳(ハヤカワ文庫、2009年)】

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

2010-11-03

なぜ?矢野絢也元委員長に叙勲…いぶかる公明党


 秋の叙勲で、政界引退後の評論活動を巡って公明党や支持母体の創価学会と対立した元同党委員長の矢野絢也氏が旭日大綬章を受章したことに、同党内では政府・民主党の意図をいぶかしむ声が上がっている。

 衆参の多数派が異なる「ねじれ国会」を乗り切るため、公明党に秋波を送ってきた姿勢と矛盾していると映るからだ。

 矢野氏の受章に関し、公明党創価学会には「意識していないが、愉快ではない」(創価学会幹部)と不快感が広がっている。同党議員は引退後、叙勲を辞退するのが通例で、1996年に旭日大綬章を受章した元委員長の竹入義勝氏も、引退後に公明党創価学会と対立した経緯がある。

 菅首相が繰り返し、法案審議などで協力を呼びかけてきただけに、同党内には「あえて協力しにくくなる状況を作っている」と戸惑う声や、「ゆさぶりだ」との見方が交錯している。矢野氏は67年初当選、93年の引退まで連続9回当選した。


YOMIURI ONLINE 2010-11-03


「意識していないが」だと? 紙上座談会であれだけ叩いておきながら? どうやら歴史の改竄は健忘症から始まるようだ。

権威主義の最大の問題


 権威主義の最大の問題は、最終的にそれが非倫理的な行動や、リスクの高い行動を無理強いすることである。身内の論理と社会の倫理が食い違うとき、身内の病んだ倫理を教条とすることを要求する。そして、個人の良心の発揮を妨げる機能を果たす。


【『権威主義の正体』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2005年)】

権威主義の正体 PHP新書 330

2010-11-02

一通のハガキ


 この一通のハガキから「ファイト!」という名曲が生まれた。「闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう」──。



Singles 2000 歌旅-中島みゆきコンサートツアー2007- [DVD]

(※左がCD、右がDVD)

内なる同調性と外なる同調性


 集団に対する問題提起などが困で、結果的に「無責任の構造」に陥ることになる要因の一つは、同調という社会心理学的現象である。

 同調は、二つの形で影響を与える。私はそれを「内なる同調性」「外なる同調性」と呼んでいる。

「内なる同調性」は、私たち一人一人の心に内在する同調性の問題として影響を与える。私たちは、ふだん自分が了解している程度以上に同調的なのである。

「外なる同調性」は、世間全般が、同調を規範としてもっていることである。とくに日本社会は同調の規範度が高いと考えられる。私たちがなにかの問題提起の必要を感じるとき、それが、正しいことであっても、非同調的な行動であるがゆえに、罪悪感のような感情に襲われることがある。


【『無責任の構造』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))

2010-11-01

権威に従うことは楽ちん


「人は権威に従うことが大好き」ではちょっと語弊がありますので、これをもう少し正確に言うならば、「権威に従うことを学びながら育っていくのが人間」ということです。つまり、人というものは常にその場における権威を見定め、それに服従しながら人生のステージを歩んでいく、そういうものなのです。

 たとえば、幼児は親に従った方が安全に健康に成長できますし、学生は教師に、労働者は上司に従った方が社会的に有利なポジションを得やすくなるからです。こうして人は「権威に従いながら」生きていくことを学びます。そして、それが「社会に適応する」ということでもあるのです。


【『完全教祖マニュアル』架神恭介〈かがみ・きょうすけ〉、辰巳一世〈たつみ・いっせい〉(ちくま新書、2009年)以下同】


 権威に従うというのは楽ちんなことなのです。

完全教祖マニュアル (ちくま新書)