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2010-12-31

2010年を振り返る


 と思ったが、そんな暇はない(笑)。ただ前へ進むのみ。今年読んだ本は143冊。テレビは一度も見ず。懐疑が達観へと結実した年であった。同じレベルの人物がいないので中々苦しいところだが、単独でも登らねばならぬ。自由とは離れることだ。欲望から離れ、自分からも離れる。苦を見下ろし、楽を踏みつけながら前へ進もう。それでは皆さん、よいお年を。

善性は自由の中でのみ開花する


〈善性〉は自由のなかでのみ開花することができます。どのようなかたちであっても、説得の土壌や強制のもとでは花開くことはありません。またそれは報酬の結果でもありません。どのような種類のものであっても、模倣や適合があるとしたら、善性は姿を現わしません。また当然のことですが、恐怖のあるところにも、それは存在できません。善性は行動にあらわれますが、その行動は感受性に基づいています。この善性は、行為にもあらわれます。

 思考の動き全体は、善ではありません。思考はとても複雑ですが、理解されなくてはなりません。その理解こそが、思考にそれ自体の限界を自覚させるのです。

 善にはどのような対立もありません。たいていの意図は善を〈悪〉や〈悪事〉に対立するものと考えています。またあらゆる文化においても、歴史的にずっと、善性は粗暴さとは別の面だと思われてきました。ですから人は〈善〉であろうとして、いつも〈悪〉と戦ってきました。しかしどんなかたちであっても、暴力や争いのあるところでは、善が生まれることはありえません。


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


 君たちの信心は取引に過ぎない。これだけやったのだから、これくらいのお返しはあって当然だろうと考えている。少しは下劣な自分に気づいたらどうなんだ?

学校への手紙

2010-12-30

勝利からは怨みが起る


201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗を捨てて、安らぎに帰した人は、安らかに臥す(ダンマパダ)

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

安定志向は〈私〉に執着する


K――そのように、人間は生物的、物質的安定よりも心理的安定の方により重きを置いてきたのです。


B――しかし、なぜ彼がそのように自らを欺くのかがはっきりしませんね。


K――自らを欺いてきたのは、いったいなぜでしょうか。


S――イメージ、力。


K――いや、それよりずっと根深いのです。なぜ人間は心理的安定に重きを置いてきたのでしょうか。


S――われわれは、それが安定のあり場所だと考えているようです。


K――いや、それをさらに調べてごらんなさい。〈私〉が最も重要です。


S――なるほど。それは同じことです。


K――いや、〈私〉です。私の地位、私の幸福、私の金銭、私の家、私の妻――〈私〉です。


B――〈私〉。そうです。そして各々が、自分は全体の精髄(エッセンス)だと感じているのではないでしょうか。〈私〉が、まさに全体の精髄なのです。もし〈私〉がなくなったら、あとは無意味になってしまうだろうと感ずることでしょう。


K――それが、要点のすべてです。〈私〉は私に完全な安定を与えてくれるのです。心理的に。


B――それが最も重要に思われるのです。もちろん。


S――最も重要なのです。


B――そうです。人々は、もし自分がみじめなら、全世界が無意味だと言うのです。違いますか。


S――それだけではありません。〈私〉が最も重要なら、私はみじめです。


K――いや。〈私〉のなかに最大の安定がある、とわれわれは思いこんでいるのです。


S――たしかに、それがわれわれの考え方です。


K――いや、われわれの考えていることではなく、事実そうなのです。


B――事実そうだとは、どういう意味ですか。


K――それがいま世界で起こっていることだからです。


B――それが、まさに起こっていることです。しかしそれは思い違いです。


K――そのことはあとで触れるでしょう。


S――それは良い着眼点だと思います。たしかに、〈私〉【こそ】が重要だということ――私はこの把握の仕方が気に入りました――。これは事実そのとおりです。それが万事です。


K――心理的に。


B――心理的に。


S――心理的に。


K――〈私〉、私の国、私の神、私の家。


S――あなたの言わんとするところがわかりました。


【『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ/大野純一、聖真一郎〈ひじり・しんいちろう〉(平河出版社、1986年)】


生の全体性

2010-12-29

瞑想と祈り


 これに関連して、声を出して数える場合と、声を出さない場合とでは、脳の活動に違いがあるかどうかを調べる実験も行なわれている。実験の結果、声が出ている場合には、主として運動野の活動が増大し、声が出ていない場合には、注意連合野の活動が増大していることが明らかになった。前者の結果は、舌、唇、口の運動を反映していると考えられ、注意連合野の活動が高まるのは、運動をともなわずに精神を集中させているときであることが分かる。

 注意連合野が各種のスピリチュアル体験に重要な関与をしていることは、多くの研究者によって指摘されている。複数の脳画像研究により、一定の瞑想状態にある人々の脳では、注意連合野の活動が高まっていることが確認されている。その他の研究からも、被験者がさまざまな方法で注意を持続させているとき、脳電図(EEG)に記録される前頭葉の電気的活動に変化が見られることや、その変化は、座禅をしている人々で特に大きいことなどが分かっている。


【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース/茂木健一郎訳(PHP研究所、2003年)】


 日蓮はなぜ瞑想ではなく唱題行を説いたのか? これも手が入っていない研究分野である。経典の採用と合わせて思索が必要。また、誦(じゅ)の題目が予想以上に重要なのかもしれない。

脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス

2010-12-28

インド人学生自殺 ズボン脱がされ、あだ名は「ビンラディン」 親友が“いじめ”証言

 ま、学会組織もこんな感じだわな。もちろん学会本部も同様。社会で問題を起こした人を自主退会させるような団体は宗教に非ず。巨大な組織が二重の社会を形成しているのが現実だ。

『AERA』2011年1月3・10日合併増大号


 まったり左翼系雑誌『AERA』の創価学会批判記事は底の浅いものが多く、政治的な撹乱(かくらん)を目論んでいると思われる。その意味では「アンチ創価プロパガンダ」というレベルにすぎないわけだが、何も知らない読者は鵜呑みにしてしまうことだろう。ここが情報戦の厄介なところだ。批判という次元では『Foresight(フォーサイト)』の方がはるかに手強い。どんな組織であれ、組織にとって都合の悪い情報は伏せるものだ。そこに敗因が生じる。

組織はコミュニティを超越する


 しかしそれにもかかわらず、組織自体はコミュニティに埋没することを許されない。コミュニティの目的に従属することを許されない。組織はコミュニティを超越する。組織を規定するものは、組織がその中において機能を果たすべきコミュニティではなく、機能そのものである。


【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー/上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】


 わかるかな? わかんねーだろーなー(松鶴家千とせ)。

プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))

2010-12-27

小林秀雄


 いずれにせよ、小林秀雄は、自分にとってそれほど近しい人でも、アクチュアルな人でもなかった。「過去の人」だと思っていた。

 それが、テープを聴いて変わった。「現代思想について」や、「信ずることと考えること」といった講演を聴くに至って、一気に、小林秀雄は、私にとって最も近しい人になった。「同志」と勝手に思いこむような存在になった。夜の道の暗闇(くらやみ)を歩きながら、車を運転しながら、繰り返し繰り返し聴いた。聴く度に、小林の言っていることが、心の奥底に染(し)みこんでいった。予想もしない出会いだった。思いもしない場所で生涯の恋人に出会ったかのようだった。

 なぜ、小林の講演が、私にとってそれほど衝撃だったのか?

 語り口が志ん生だった。甲高い声。早口。情熱。私は勝手に、イマイマしそうな口調で喋(しゃべ)る、気むずかしい老人を想像していた。テープに記録された講演の様子は、予想と全く異なるものだった。

 語りの文体が、ラフだった。小林が書き遺(のこ)した文章は、文句の付けようがないほど練り上げられた、隙(すき)のないものである。しかし、テープの中の小林は、むしろ即興的で、荒削りだった。聴いていると、まるで酔っぱらいと居酒屋で議論しているような気分になった。その無頼と言っても良い人柄に、私は強く惹(ひ)かれた。


【『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)】

脳と仮想 (新潮文庫) 信ずることと考えること―講義・質疑応答 (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 2巻)

佛とは人非人の意


 こうした姿勢をもっともよく表すことばに「捨」(しゃ/ウペッカー、ウペークシャー)というものがあります。「無関心」という意味です。したがって、それは、「非人情」ということでもあるのです。釈迦はいいます。親や妻や子や朋友になずむな、と。

「仏」(正字で「佛」)という漢訳後は、「ブッダ」の音を写すために、漢訳にさいして新たに作字されたものです。しかし、じつは、音が写されているだけでなく、巧みに意味もそこに盛り込まれているのです。

 人偏はもちろん「人」のことです。「弗」というのは「非」と同義です。したがって、漢訳者たちは、目覚めた人、ブッダを、つまりは釈迦を「人に非(あら)ず」と解釈したのです。漢訳者たちは、「超人」という意味をまず第一に考えたのでしょうが、それだけではなく、「人でなし」「非人情」という意味をも考えたに違いありません。


【『仏教の謎を解く』宮元啓一(鈴木出版、2005年)】


 仏教が西洋でニヒリズムと受け止められたことには、また別な理由がある。後日、紹介する予定。尚、宮元の考えでは「人非人」となっているが、私の解釈では「非ずの人」と読む。ブッダは既成概念、社会通念を徹底的に批判し抜いた人であったからだ。

仏教の謎を解く

プロフィール画像の変更


 やっと変えることができた。管理画面→プロフィール→一行プロフィール・写真・メールアドレス・自己紹介→プロフィール写真、という手順。プロフィールアイコンを変えただけでは反映されない。


 月のウサギが見えるかな? そう。私は卯年だ(笑)。

2010-12-26

平沢進


 commercial(宣伝)ではなく、commission(手数料)でもなく、command(命令)でもなく、comment(論評)でもなく、commitment(誓約)でもなく、commodity(商品)でもなく、commonweal(社会福祉)でもなく、communication(コミュニケーション)を追求する人物と見た。


 インターネットについてもその可能性に反応しており、「インタラクティブ・ライブ」と題されたスタイルのライブを敢行。会場に仕掛けられた様々なインターフェースによって観客の行動がライブの進行に影響を及ぼす仕組みになっており、それらの現象に応じて演奏される楽曲や展開に変化が起こってゆく、アクトと観客の双方向性を重視した内容となっている。更に、インターネットを通じてライブの進行度や会場の音声をリアルタイムで配信しており、会場に足を運ばなかったリスナーも「在宅オーディエンス」として、単に会場の様子を知るだけの存在ではなく、ライブ用に特設されたWEBサイト上で、ライブの進行に何らかの干渉を可能とするなど様々な試みが行われた。これらが評価され、2001年に「インタラクティブ・ライブ・ショウ 2000 賢者のプロペラ」が、(財)デジタルコンテンツ協会と経済産業省の共催する「デジタルコンテンツグランプリ2001」において、経済産業大臣賞及びエンターテイメント部門最優秀賞を受賞している。


Wikipedia



BLUE LIMBO

祈りの効用


 人類の歴史の中でいろいろな宗教が生まれましたが、どの宗教でも祈りの儀式があるのは、宗教の枠を超えて、祈りの効用が人類に普遍的に意識されていたからに違いありません。あるいは、宗教そのものが祈りの効用を利用したともいえる面があります。教義だけで人を救済することは、いかなる宗教でもできなかったはずです。


【『人は何のために「祈る」のか 生命の遺伝子はその声を聴いている』村上和雄、棚次正和〈たなつぐ・まさかず〉(祥伝社、2008年)】


 著名な分子生物学者が書いた「祈り」本。批判力を培うためには格好のテキストだ。鵜呑みにする人は盲信、狂信の傾向を免れない。どの教団にいようとも。あらゆる角度から徹底的に誤りを指摘できる人のみが宗教の功罪を知る人であろう。ポイントは反証可能性だ。

人は何のために「祈る」のか 人は何のために「祈る」のか 生命の遺伝子はその声を聴いている (祥伝社黄金文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-12-25

斧の刃


 そのとき君は斧の刃に

 もたれていた

 あるいはこういっても

 いいだろう 斧が

 君の背にもたれていたと

 斧の刃にこそふさわしい

 盾のようなその背を

 斧よりほかの だれが

 そのように愛しただろうか(「コーカサスの商業」)


【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】


 私がこよなく愛する詩のひとつ。謳(うた)われたのは鹿野武一だろう。私は鹿野ように生きたい。本日、ブログ開始から9年目を迎えた。

内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史


内なるシベリヤ抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史

2010-12-24

私の中に仏がある


 私の中に仏がある。よく見てごらん。「私」「仏」。ホラ(笑)。漢字ってえのあ、よくできているね。

解脱と救済〜密教との関連性


三枝●むしろ仏教自身が、解脱ひとすじの宗教でも、また救済ひとすじの宗教でもない。いわば解脱と救済という二つのテーマを持っていた。そのテーマを追っていって最後に密教がその二つについてある解決をあたえて、そこでもう終り、すでにすべて解決してしまったと安堵しちゃった時に、全部密教で片づいたとしてしまえば、ずっとそのまま、移り伝わるでしょう。しかし、その中から、またあるインパクトがあふれ出て、その中で解脱のほうに重点を置くと、たとえば、禅になるし、救済のほうに傾けば、浄土真宗のようなものになる、両方一緒にすると、日本の密教のようなかたちになる。そういうものが、日本では混在してあります。インドの場合には、そういう三つの姿のあとは、活力がうすれて行き場が無くなったように見えます。


【『仏教と精神分析』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉、岸田秀〈きしだ・しゅう〉(小学館、1982年/第三文明レグルス文庫、1997年)】

仏教と精神分析 (レグルス文庫)

2010-12-23

軍隊と変化


「軍隊は変わる必要があります」

「軍は変化が大きらいなんだ」


【『前夜』リー・チャイルド/小林宏明訳(講談社文庫、2009年)】

前夜(上) (講談社文庫) 前夜(下) (講談社文庫)

2010-12-22

「如説修行抄」は偽書なのか?

 私はミスター如説修行抄である。私以上に詳しい人を見たことがない。「御書に関するFAQ」で紹介した通りだ。ま、どこを質問されても大体答えることができる。


 今成氏の説を初めて知ったのは一年ほど前のこと。その瞬間「ああ、そうかもな」と思った。


 お断りしておくが、私は上記のリンク先も一瞥しただけで、きちんと読んでいない。もちろん今成氏が説く摂受本懐論には異議がある。っていうか、アプローチの仕方が拙いと思う。二者択一を強いる手法は、まるで誘拐犯の脅し文句みたいだ。「金を用意できなければ娘の命はないものと思え」。


 私が「偽書かもな」と思ったのは全く別の理由だ。実は数年前からモヤモヤと考えていた。仏が「拷問に耐えて殉教せよ」と門下に促すことがあるだろうか? 「縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切り」という極端な例えが門下に通用したのだろうか?


 この御書は「人人御中へ」となっており、末尾にはわざわざ「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候」と念を押している。


 迫害が必至であった一部の弟子に宛てたものであれば、それほど神経質になる必要はないかもしれない。


 だが私は、やはり日蓮が「死を促す」とは思えないのだ。真蹟に「死身弘法」という言葉は一箇所あるだけだ。


 どうせ中途半端な人生を送るなら、死と向き合えという姿勢はあってもおかしくない。人生の主導権を握ることは自由につながっているからだ。しかし「思想に殉じる」という概念は近代以降のものだろう。


 私が異臭を感じてならないのは、この御書が教団内の権力者にとって都合のいい内容になっているためだ。さしずめ「妙法の自爆テロ」「広布の過激派」といったところ。


 ファナティックな仏なんて、いるはずがないよ。

一生成仏


 真蹟に「一生成仏」という言葉は一つもない。これですっきりした。

仙谷氏らの交代要求 公明・山口代表


 公明党山口那津男代表は22日の記者会見で、参院で問責決議を受けた仙谷由人官房長官馬淵澄夫国土交通相が職にとどまる限り、1月召集の通常国会の審議に応じられないとの考えを示し、仙谷氏らの交代を要求した。

 同時に、小沢一郎民主党元代表の証人喚問には、衆院予算委員会理事会などでの全会一致の合意が必要との認識を強調した。

 仙谷氏らに関しては「政治的な重みを考慮すれば、仙谷、馬淵両氏が出席する審議に応じられない。通常国会で審議を進めたいならば、辞めてもらうのが原則だ」と指摘した。


47NEWS 2010-12-22


 弱小政党はこんな形でしか存在感をアピールすることができない。太田が落選してリリーフみたいな格好で就任した代表だから仕方がないか。世論に迎合し、学会本部の顔色を窺うようなのは政治家になるべきでない。安全保障や経済については沈黙を保っている。


 どう考えても政治とカネより集団的自衛権の方が重要だと思うが。政治とカネ、キャンキャン、ワンワン。大人の癖に幼稚園なみじゃ。(牧村しのぶ


 まったく同感だ。ひょっとしたら、公明党もアメリカの意向を汲んでいるのかもね。するってえと、秋谷・市川両氏はお役ご免ってことか。

ジャイナ教裸行派の禁欲


「これらの原則は二つの方法で実践することができる」と導師はいった。「僧侶と尼僧はより厳格に原則に従う。例えば僧侶は食物を育てたり料理したりしない。我々は足以外の交通手段を用いない。船さえも使わない。もし川に橋がなければ、対岸へは行かない。我々はお金には触れない。蝋燭(ろうそく)や電気も使わないし、火も焚(た)かない。我々は日の光によってすべてを行い、夜は闇(やみ)の中で詠唱し瞑想する。僧侶は最小限の物質的資源しか使用しない」

「服さえ着ない僧侶もいます」と私はいった。

「そう、そのとおりだ。彼らは『ディガンバラ(裸行派)』の僧侶たちだ」と導師は述べた。「彼らは托鉢僧(たくはつそう)として両手のひらを用い、自分の行く道や体から虫を払うための孔雀(くじゃく)の羽のほうきと、水を飲むための木の椀以外は何も持たない。しかし、我々、『シュヴェーターンバラ(白衣派)』はそこまで極端ではない。我々は縫っていない布を二反、毛布を二枚、三つの托鉢鉢と数冊の教義書を用いる」


【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール/尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】


 本部職員は裸行派で修行し直してくるべきだ。

君あり、故に我あり―依存の宣言 (講談社学術文庫)

2010-12-21

民族という概念


 民族という概念そのものは18世紀の西欧の発明であり、これは「血と土」を意味するドイツ語のBlud und Borden(ブルート・ウント・ボーデン)およびVolk(フォルク)「民」からきている。これを明治前期に民族と造語した。現代中国語の民族(ミンズー)は、明治中期に日本から輸出された熟字である。それ以前の中国語にはなかった。昔から日本は原料加工製品輸出がうまかったのである。

 こうして幻の「日本民族」はできた。さて植民地ができると、そこに住む新日本人たちは、一体何になるのか? これにかかわり、「国体の本義」を考える人たちは悩んだ。研究者たちも迷った。喜田定吉(きた・さだきち)の著作を読むと、当時の知識人の困惑が掌にとるようだ。結局、ラ・フランス・メトロポリテーヌ(内地フランス)とラ・フランス・ドウトル・メール(外地フランス)というフランス型の植民地支配方式でごかました。ドイツ語の「血」の語源をここで落としたのであった。

単一民族」幻想は成立したのだが、実は「血」を語ると、それ以前から不都合な部分があったからである。沖縄の人たちと、北海道のアイヌなどの先住民たち、あるいは小笠原の人々の存在だった。

 フランス型植民地支配方式とは、つまり「内地日本(人)」が、「外地日本(人)」(この場合は、鮮半島、台湾、樺太(現サハリン))を統治指導する、という考え方である。昭和になって、ついでに中国もまとめて指導してやろうじゃないか、というのが、いわゆる「大東亜共栄圏」論、「八紘一宇」論だ。この「八紘一宇」論が、実はそのまま現在の「大東亜戦争=アジア解放戦争」論に繋がっている。

「八紘一宇」論とは、つまり、わたしの言う「日本型中華思想」である。中華が蕃(蛮)を救済し、指導してやる、と言うのである。


【『無境界の人』森巣博〈もりす・ひろし〉(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】


 これまた既に紹介済みのテキスト。民族性とは何らかの利益を共有するコミュニティによる排外主義のことであろう。宗教的価値観で悪を設定し、特定の集団を攻撃している以上、「創価学会という民族」が形成される可能性がある。集団は必ずヒエラルキー構造を形成しており、そこに暴力性が潜んでいる。自由と規律という矛盾を解消することは至である。プラグマティックな観点から組織が生まれたとすれば、広宣流布プロパガンダとなることを避けられない。そして外へと向かう運動性が、組織内部を弱体化させる根本原因となるのだ。集団に内在する本質的な問題を解消するブッダの行為が「出家」である。ところが日蓮は勇んで政治にコミットした。宗教社会学を踏まえると、鎌倉時代の世俗化を明らかにする必要がある。

無境界の人 (集英社文庫)

2010-12-20

悪質なコメント 175.28.139.177


Network Information: [ネットワーク情報]

a. [IPネットワークアドレス] 175.28.139.0/24

b. [ネットワーク名] QTNET-BBIQ

f. [組織名] 九州通信ネットワーク株式会社

g. [Organization] Kyushu Telecommunication Network Co., Inc.

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p. [ネームサーバ] dns1.bbiq.jp

[割当年月日] 2010/02/15

[返却年月日]

[最終更新] 2010/02/15 12:32:03(JST)

周囲の人数が増えるほど同調圧力は高まる


 実験をやってみると、驚くほど多くの人が、サクラの影響を受け、正しくない線分を答えることがわかった。この実験では、なんと35パーセントの誤答率を記録している。単独回答ならば、誤答率は5パーセントの課題である。

 実験中の被験者の様子の記述が残されている。その典型的な様子は次のようなものである。

 最初のサクラが間違えたとき、被験者は「バカな奴だ」という感じで笑っている。サクラの2人目くらいまでは、笑ったりそっくりかえったりしているが、3人目くらいから、まず、目を凝らしてカードを凝視する。それから、課題の内容を確かめようとするように、他の「被験者」(サクラ)の顔を見たり、実験者に、こと問いたげ(ママ)な視線を送ったりする。4人目、5人目では、あきらかに不安な表情や苛立ちを様子に表す。そして自分の番となると、サクラたちと同じ答えをするようになるのである。


【『無責任の構造』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))

2010-12-19

問われる公明・山口氏の指導力 フラつく発言につのる不満 党内事情は?


 公明党山口那津男代表の指導力に対し、支持母体の創価学会などで不満が募りつつある。もともと「民主党寄り」とされる山口氏は14〜17日の中国訪問中に菅直人首相との融和路線をほのめかし、軌道修正を迫られた。公明党にとって来春の統一地方選は負けられない戦い。山口氏の揺れる発言の裏に苦しい党の運営事情が垣間見える。(赤地真志帆、佐々木美恵)


「先の臨時国会が終わった後も問責決議の効果は残る。対象となった閣僚が(辞職せず)開き直るならば毅然(きぜん)として厳しく対応していかねばいけない」


 18日、公明党本部で記者会見を開いた山口氏はいつになく厳しい表情で菅政権を批判した。


 これには事情があった。記者会見直前に出席した全国県代表懇談会で、地方組織幹部らの冷ややかな視線を感じ取ったからだ。


 山口氏は中国訪問中、同行記者団に「来年の通常国会で臨時国会と必ずしも同じ対応をするわけではない」と発言。これでは先の臨時国会で参院の問責決議を受けた仙谷由人官房長官らの続投を暗に認めたと受けとめられても仕方がない。直後から学会幹部らの不満が噴き出した。


 最大の理由は統一地方選だ。公明党にとって創価学会信者と地方自治体のパイプ役となる地方議員の存在は極めて大きい。来春の統一地方選には1589人の公認候補を擁立、さらに90人以上の上積みを目指している。過去2回の統一選は候補全員の当選を達成しており、今回も「完勝」が絶対的な目標なのだ。


 それだけに内閣支持率2割と低迷し、夏の参院選後の選挙戦で連戦連敗を続ける菅政権にすり寄ることは「自殺行為に近い話」(参院幹部)。創価学会地方幹部も「菅政権である限り、公明党と民主党政権の連携はありえない」と断じる。つまり地方で支持を広げるには国政は野党に徹するしかないわけだ。


 ところが、東京大卒で弁護士出身の山口氏は理論家だけに理屈抜きの勝負にはなかなか挑めない。リベラル色も強く、かねて自民党よりも民主党にシンパシーを感じてきただけに、自民党も「山口氏はいつもフラフラしている」(参院幹部)と不信感を募らせる。


 公明党ベテランはため息まじりにこう解説した。


「山口氏は緻密なシミュレーションをする人だが、方向を定めず、あらゆる可能性を計算するから発言がややこしくなる。代表の発言は重いんだからもっと政局観を磨いてほしい」


産経ニュース 2010-12-19

2010-12-18

未来の苦を償う


 兄弟のように仲良くしている先輩の娘が病気になった。血球貪食症候群という病だ。知らせてくれた際に「八王子方面の学会員からレバレッジ10倍の祈りを送ってもらいたい」と真剣な口調で言われた。すかさず「よしきた、合点承知」と応じた。


 1週間ほど経過してやっと高熱が下がった。「一時は覚悟した」と先輩は語った。同居している義父が葬儀の準備をしていた、とも。いまだ予断を許さない状況ではあるが、取り敢えず脳へのダメージは防ぐことができた。


 過酷な現実に遭遇し無力感を思い知らされた時、人は祈る。その祈りは届かない。なぜなら単なる欲望に過ぎないからだ。もう一歩静かに祈り抜くと自分のエゴが浮き上がり、更に祈りが深まった瞬間、本有の病(※真蹟にこの言葉はない)と達観できる。本有は因果の解体である。


 然りと雖も宿縁の催す所、又今生に慈悲の薫ずる所、存の外に貧道に値遇して改悔を発起する故に、未来の苦を償ひ、現在に軽瘡出現せるか。


【太田入道殿御返事、1011頁、真蹟


 日蓮はこの御書の前半で「此れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」という涅槃経を示した上で、このように結論している。「軽瘡」とは軽いできもののことか。


 つまり、借金を返済している(過去の業)ではなく、先行投資(未来の苦)をしているというのだ。何と見事な発想の転換であろう。時間軸を引っくり返し、病気と健康を反転させて一念の変革を促している。


 高度に発達した情報化社会は取捨選択した情報に振り回される。特に病の場合それが顕著で、ネットや書籍で調べれば調べるほど「治らない」根拠が積み上げられてゆく。こうして脳内には「治らない」という情報回路が形成される。


 ここで見逃すことができないのは「病即消滅 不老不死」という経文を紹介してはいるが、日蓮自身の言葉で「治る」とも「治らない」とも書かれていない事実である。ここにこそ仏法の真髄がある。

 所詮、将来とは過去の裏返しに過ぎない。もっと簡単に言おう。将来は「全員が死ぬ」のだ。ゆえに病気が治ったらどんな人生を送ろうかと空想に耽(ふけ)るよりも、今をどう生きるかが大事の中の大事となる。病とは「大いなる問い」そのものであろう。


 この手紙を「書は言を尽くさず。言は心を尽くさず。事々見参の時を期せん。恐恐」と締め括っている。仏法は経文や教義の中に存在するわけではない。人間と人間が向かい合い、生命と生命が交流する中で仏法は脈動するのだ。これが縁起であり、マンダラに認(したた)められた世界だ。

判断が欺く


 感覚は欺(あざむ)かない。判断が欺くのだ。(「格言と反省」から)


【『ゲーテ格言集』ゲーテ/高橋健二編訳(新潮文庫、1952年)】


 アントニオ・R・ダマシオのソマティック・マーカー仮説はこれを証明したものといえる。思考の優位性が感覚を殺してしまうのだ。人間に自由意志がない以上、理由(理屈)は必ず後付けとなる。このため人は、自分が信じるものを補強する情報を鵜呑みにして拡大解釈を加え、否定的な情報は遮断する傾向が強い。例えばトヨタ自動車を購入した人は、日産の素晴らしいニュースを必ず過小評価する。

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

2010-12-17

相補性とは


司会者●その相補的解釈というのは、どのようなものなのでしょうか?


相補主義者●デンマークのニールス・ボーアの導いた概念で、「コペンハーゲン解釈」などとも呼ばれています。ボーアは、1927年に「量子の要請と原子理論の最近の発展」という講演を行い、その中で、古典物理学では説明のできない量子論の指し示した新しい概念を「相補性」と名づけました。相補性とは、相反する二つの概念が互いに補い合うことによって、一つの新たな概念を形成するという考え方です。

 たとえば、電子は「波」であると同時に「粒子」であり、古典物理学のように一方の概念に還元できるものではありません。不確定性原理が示している粒子の「位置」と「運動量」も、相補性の関係にあります。ボーアは、相補性を表すシンボルとして、「陰」と「陽」という対立の相互作用によって、世界を解釈する中国の陰陽思想を取り入れました。

 私は、人間と自然の関係や、物質と精神の関係も、相補的に結びついていると考えています。一方が他方を定めるのではなく、双方が互いに補い合わなければ、すべてを理解することはできないのです。


【『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、2008年)】


 生命は十界であり、十如是であり、三世間でもある。これが一念三千の相補性だ。思想的には仏法と科学の相補性が待たれる。コペンハーゲン解釈は、我々の目に映る世界だけが世界の全てではないことを明らかにした。

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

2010-12-16

漫画と都条例 「過激」に乗じて規制か


 子供にどんな漫画がよいか、どんな情報が役に立つかは、多様な情報に触れる中で家庭や地域社会が学ばせ、子供自身が学ぶことだ。戦前の言論統制が、わかりやすい漫画本などの規制から始まったという歴史にも思いを致す必要がある。


 一部の漫画に対する素朴な嫌悪感が、最も大切な自由を差し出すことにならないとは限らない。


北海道新聞 社説 2010-12-15


 都議会公明党は条例に賛成した。どうやら宗教政党は「信教の自由」以外には興味がないようだ。政治理念なき姿勢が、宗教的信念の欠落を雄弁に物語っている。公明党は完全に存在意義を失ったと思う。最終的に自民党福祉派か民主党福祉派を目指しているようにしか見えない。

奴隷制度の恐ろしさ


 あらゆる奴隷たちが、必ずしも同じ経験をもっていたわけではなかった。なかには、あまりにも奴隷らしくなってしまっていたので、奴隷制度が終わったとき、悲しんだものもいた。


【『奴隷とは』ジュリアス・レスター/木島始、黄寅秀〈ファンインスウ〉訳(岩波新書、1970年)】

奴隷とは

2010-12-15

讃仏乗〜大乗仏教運動


 しかし、供養というのは、本来、大切なお方、それも生身(しょうじん)のお方に向けられるものでした。ここに大きなジレンマが生じます。

 西暦紀元前3世紀以降になりますと、仏塔崇拝はどんどんと熱を帯び、いよいよ隆盛に向かうようになります。仏塔には、在家信者のなかでその能力に長けた人が出てきて、釈迦の生前、あるいは釈迦の前生にまで及ぶ偉業を、感動的に語るようになりました。釈迦という仏を徹底的に讃え上げたのです。

 こうした、釈迦という仏を熱狂的に讃える運動のことを、讃仏乗(さんぶつじょう/讃仏運動)といいます。釈迦の偉業とその教えをわかりやすく感動的に説く人は、半ばプロフェッショナルな人となっていきました。その中心的な働きをする人を法師といいます。

 と、このように、仏を称賛し、熱心に供養する運動の熱が高まったすえに、それまでの出家至上主義を批判するかたちで、新しい、むしろ在家信者が大々的に救済される仏教を提唱する運動が現れてきました。これを大乗仏教運動といいます。


【『仏教の謎を解く』宮元啓一(鈴木出版、2005年)】

仏教の謎を解く

2010-12-14

小沢一郎と米国


 以下、孫崎享氏のツイートより──


小沢氏と米国1:世界での指導者、極めて強固な米国の協力者が米国から外され転落するケース多々。イランのパーレビ国王、イラクのサダムフセイン、韓国の朴大統領、南ベトナムのゴ・ディンディエム大統領。彼等に共通するのは米国が一時期極めて重用、重要視するのでまさか自分を切ることはないとの


小沢氏と米国2:小沢氏1990年初頭日本の湾岸戦争資金提供の責任者。日本政治小沢氏中心に展開。当時米国と最も密接な関係2:追い落としの共通点は実行者はその国の人間。これに米国排除を希望していることを伝達。この実施者は多くの場合米国の支援の下時期指導者になると判断(これはしばしば


小沢氏と米国3:本人の思い込みの時あり)。追い落としが明確な形で残っているのは南ベトナムのゴ・ディンディエム大統領のケース。マクナマラ国防長官が詳細に記載、3米国小沢氏切りは幾つかのシグナル。西松事件、米国国防省サイトなど。一番最近は2月2日キャンベル国務次官


小沢氏と米国4:小沢氏と会談、22日韓国との会談で現民主党(小沢・鳩山)批判し岡田、菅とディールと発言(ウィキリークス)。では米国にとり何が問題だったか。2005年以降米国日本積極展開。多分小沢氏健在であったら出来なかったこと(辺野古移転の決定。尖閣諸島での中国漁船拿捕、沖縄


小沢氏と米国5:知事選挙の結果。アフガニスタンへの医務官派遣。防衛大綱の見直し、思いやり予算の現状額延長、有事への鮮半島参加方針の打ち出し)、これを見れば小沢切りの意義が如何に大きいか解る。戦後安全保障政策で米国政策丸呑み以外の日本の指導者ほとんど存在せず。米国の指示と異なる


小沢氏と米国6:場合、ほとんど日本政治の表舞台から撤退。重要なのは工作に日本人(政治家)関与。それだけに怖さ認識。極端に米国より。それが現、菅−岡田−前原ライン、そして他の現執行部周辺(動き漏れ聞く)であろう。残念ながら日本政治、指導者決定では米国隷属体制堅持。今最も強く出た時期


小沢氏と米国7:米国歴史学者スターン「人間の行動を実験するわけに行かない。歴史こそ実験室といえる。歴史だけが人間、社会の行動の広範な証拠を提供してくれる」、清水幾太郎氏「過去は過去のゆえに問題となるのではなく,私たちが生きる現在にとっての意味ゆえに問題となる」


 そして先ほどのツイート──


民主党内に「ナベツネ前原首相に向け動いている」との噂。岡田さん、心中穏やかでないだろう。小沢潰しが米国至上指示だと思ってこんなに頑張っているのに。


 小沢問題に関して公明党は世論に迎合する格好で、政治とカネの問題を追求してきた経緯がある。小沢と話がついたからこそ、秋谷前会長の姿が衛星放送に映るようになった。その前には現会長がメイン会場でこてんぱんにされた。シナリオはどこかで変更されたのだろう。


 大体さ、公明党が政治とカネの問題を言うなら、創価学会員に陣中見舞いを要求したり、政治資金集めの本を売るべきではないだろう。政治とカネが本当に問題であれば、金額の多寡は関係ないはずだ。公明新聞だって宗教組織に依存しているじゃないか。で、配達しているのも創価学会員だぞ。


 そもそも創価学会組織内で、たまたま選ばれたような連中が一端(いっぱし)の政治家を気取っているのがおかしい。お前らは、「出ろ」って言われたから出たような連中なんだよ。一人じゃ何もできねえクセしやがって、一丁前の口を利くんじゃねえってんだ。

誰も行ったことのないところ


 クライミングの新の技術とは生き延びることだ。それが最もしくなるのは、従来行動の限度と考えられていたところまで到達してしまい、さらにもう一度踏み出そうとするときである。だれも行ったことのないところ、だれも行きたいと思わないところ――あるいは自分がしようとすることをだれも理解してくれなようなところへ乗り出すときである。そういった未知の領域では、感覚と経験は「踏みならされた」世界で得られるよりもはるかに強烈である。(ラインホルト・メスナー『生還 八千メートル峰全十四座』)


【『ビヨンド・リスク 世界のクライマー17人が語る冒険の思想』ニコラス・オコネル/手塚勲訳(山と溪谷社、1996年)】


 既に紹介済みのテキストであるが再度掲載しておく。ま、記事の量が多いので、まともに読んでいる人も少ないだろうからね。


「よく、そんなレベルの低いところで戦っていられるな」──これは私の口癖の一つである。組織が隊列であるとすれば、当然、役職やキャリアに応じて踏んでおくべき段階がある。


 正論や批判というものは言葉だけだと誰が言っても大した変わりがない。言葉の裏側にどのような根拠があるのか、言葉と言葉の間でいかなる苦労を引き受けているかは、人によって決定的に異なる。


 境涯とは「わかるか、わからないか」である。わからない人は死ぬまでわからない。


 私の経験からいえば、人材と呼べるメンバーは100人に1人いるかいないかである。2〜3年かけて育つのが数名いるが即戦力にはならない。男子部の分区で1000人いたとすると、10人の人材がいれば引っ張っていける。この10人が、次の10人を育てれば100人。力量があれば30人くらいの面倒はみることができる。それ以上は時間的に無理だ。


 日常の活動で苦労している人、理不尽な仕打ちに耐えることが信心であると錯覚している人、悪い幹部がいながら見て見ぬ振りをする人にとって、私の文章は何の参考にもならない。


 生きる姿勢、人生の態度において最も大切なことは何か? それは「問う」ことである。そして本物の問いには、答えが自(おの)ずから含まれている。数多くの問題に対処してきて、やっとそんなことがわかるようになった。


 誰も行ったことのないところへ足を運ぶ人は孤独だ。その孤独をひたすら楽しめばいい。

ビヨンド・リスク―世界のクライマー17人が語る冒険の思想

2010-12-13

コメントについて


 誤解、曲解を元にして、何の根拠も示さず断定的な印象を書いた者については、今後スパムとして扱うので注意されたし。異論・反論は歓迎するが、コメント欄ではやり取りが埋もれてしまうので、ブログを立ち上げてトラックバックを送信してもらいたい。で、当たり前の話ではあるが、レベルの低いのはご勘弁。

何でみんな神様の意思に反することをしてるの?

 2ちゃんねるのまとめサイト。書き込みをしたのは何と92歳のご老人。巧みな物語性が味わい深い。特定の宗教ではなく、宗教性を追求することが正しい。そうでなければ対話が成立しないからだ。これが真の権実相対だ。

勇敢な兵隊なんか要らない


料理人●食い意地は張った奴だが、なぜ駄目な大将なんだ?


肝っ玉おっ母●勇敢な兵隊が必要だと言ったろ、それだからさ。もし大将がいい作戦の計画持っていりゃあ、勇敢な兵隊なんか要らない。並の兵隊でたくさんじゃないか? こうやたらと手柄立てる奴が要るっていうのはどっかがおかしいよ。(「肝っ玉おっ母とその子供たち」)


【『ブレヒトの写針詩』岩淵達治編訳(みすず書房、2002年)】

ブレヒトの写針詩 (大人の本棚)

2010-12-12

急性期のリハビリは危険


 早期リハビリテーションと称して急性期に早期起立や早期歩行を求めると、脳の自然回復を遅らせる可能性がある。さらに、早期起立や早期歩行は「痙性(spasticity)」という異常な緊張感を増悪させる主原因となる。痙性がどれほど患者の動きを制限するか、また一度発現するとその異常な筋緊張の制御がどれほど困であるかは、臨床で働くセラピストなら誰もが知っているはずである。


【『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三〈みやもと・しょうぞう〉(春秋社、2006年)】


 いつの頃からかリハビリは早ければ早い方がよい、という神話ができてしまった。この指摘が広く認知されているのかどうかはわからない。専門性の高い世界ほど情報の流通が鈍い傾向がある。リスクを回避するためだ。当然、医師が避けたリスクは患者に付け替えられることになる。これがゲーム理論だ。


 常識を鵜呑みする人々が「誤った常識」を支え続ける。信じる自由よりも、疑う自由の方が重い。

リハビリテーション・ルネサンス―心と脳と身体の回復、認知運動療法の挑戦

2010-12-11

三国四師


 三国四師を脱構築の観点から学問的に証明した人は、多分まだいない。

本因とは


 本因とは感受性のことである。感受性に応じて人間が形成される。これが感応妙だ。

創価学会テレビCMが、キー局でも「解禁」?

 以前から書いている通り、私は宗教団体の広告には反対だ。宣伝は教団の宗教性を否定するものだと思う。特に公共の電波は税金が投入されているので、政教一致と受け取られかねない。

スピリチュアリズムの否定


 根本的な問題は、今の世の中がスピリチュアルなものに対して肯定的に動いているということです。21世紀はスピリチュアルに対して否定的に動かなければいけません。しかし現実には、どうしてもスピリチュアルにはまっていく人がいます。


【『スピリチュアリズム』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(にんげん出版、2007年)】


 一応私の手の内は全部さらしているつもりだ。読むべき人が読めばわかる仕掛けとなっている。


 コメント欄を再び開いたのは、ウェブ上における学会員のレベルを判断するためであって他意はない。一瞥してわかるのは、制度宗教に特有な依存心の強さ、思考範囲の狭さ、自己完結していない物語性が顕著だ。多分、彼らは死ぬまで凡庸の海を漂うことだろう。同じ失敗を何度も何度も繰り返しているうちに、「失敗する傾向性」が盤石になってゆく。


 いくらヒントを出しても、わかる人がいないようなので一歩踏み込むことにしよう。


 まず苫米地英人であるが、私は彼の著作を好んで読んでいるが、その人格を信頼したことはただの一度もない。にもかかわらず、抽象度の高い視点から科学と宗教とを結ぶ思考は群を抜いている。既成宗教が手をつけていない問題に次々とアプローチしている。


 本書は江原啓之〈えはら・ひろゆき〉を批判した内容であるが、苫米地のいうスピリチュアリズムは世界標準と考えてよい。


 スピリチュアリズムはマルクス主義に対抗する形で高まったムーブメントだった。つまりキリスト教を真ん中にして左に唯物論、右に唯心論ってわけだ。二元論が拡張されたと考えることも可能であると思う。


 心理学の分野ではフロイト、ユング、マズローなどによってトランスパーソナル心理学を開拓した。これもスピリチュアリズムの系譜に連なっている。文学ではエマソンソローホイットマンなど。


 スピリチュアリズムに刻印されている霊性=神秘とは、飽くまでもキリスト思想から見た立場であることを踏まえるべきだ。神秘は神様の専売特許ってわけだよ。


 とするとマルクス主義への対抗というよりは、教会に対する反動であったのかもしれない。


 フランスを中心とするヨーロッパ世界で最も受け入れられた仏教思想は禅の思想である。『存在と時間』を著したハイデガーは、道元の『正法眼蔵』で既に自分の哲学が説かれていたことを知って驚嘆した。


 時間がなくなってきた。結論を急ごう。


 なぜヨーロッパでは禅の思想以外は受け入れられないのか? それはマントラ(呪文および真言)を唱える宗教はスピリチュアリズムそのものであるからだ。鎌倉仏教はいずれも最澄や空海の系譜に連なっており、密教化を避けることができなかった。このため鎌倉仏教は仏教に非ず、という主張は今もなお根強い。


 因果とは物語性のことではあるまい。起承転結という時間性を有するのであれば、因果倶時は成立し得ない。因果から物語性を引きずり出して、縁起に置き換える必要がある。


 スピリチュアリズム一つとってみても、ここまで説明を要する。「一を見て十を知る」には十の知識と感受性が必要だ。青年は徹底して学べ。中高年は去ってよし(笑)。

スピリチュアリズム

2010-12-10

赤方偏移


 そのため、大部分の銀河が赤方偏移を示しているとわかったときには、びっくりしてしまった。ほとんどすべての銀河がわれわれから遠ざかっているとは! だが、もっと驚くべきことがあった。それは1929年に明らかにされたハッブルの発見である。銀河の赤方偏移の大きさすら無秩序ではなく、その銀河とわれわれの距離に正比例している。言いかえると、銀河は遠ければ遠いほど、それだけ速く遠ざかっているというのだ! これは、宇宙がそれまでだれもが考えていたような静的なものではなく、膨張していることを意味する。銀河どうしの間の距離はたえず大きくなっているのである。


【『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング/林一〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、1989年/ハヤカワ文庫、1995年)】


 救急車が通り過ぎるとドップラー効果によって低い音になる。近づくと周波数が高くなり、遠ざかると周波数が低くなることで起こる現象だ。同様に地球から遠くにある星ほどスペクトルが赤方向にずれる。これを赤方偏移という。米国の天文学者エドウィン・ハッブルが発見した。地球から遠ざかる速度と距離が正比例していることはハッブルの法則として知られる。一般相対性理論からは膨張(あるいは収縮)する宇宙像という結論が導かれるが、アインシュタイン自身は静的な宇宙モデルを想定し、わざわざ宇宙定数を導入した。後年「生涯で最大の過ち」と悔やんだ。しかしながら宇宙定数は近年、再評価されている。


 これを逆算すると宇宙の誕生になる、という立場がビッグバン理論である。因みに、チャンドラ・ウィックラマシンゲは定常宇宙論を唱えたフレッド・ホイルの弟子。既に量子力学の台頭によって定常宇宙論を唱える科学者は少ない。


 赤方偏移は人間にも当てはまると私は考える。自分よりもレベルの高い人はどんどん成長し、レベルの低い人はますます凡庸になっている。3倍速とストップモーションほどの違いだ。


 知識の枝は一定の時を経て一気に伸びる。教学試験の時しか勉強していないような連中は、子供騙しみたいな話しかできない。


 既に教学は破綻し、会則は教義に格上げされている。知的反乱が起こらないのが不思議だ。混乱すら起こっていない有り様である。


 座敷犬みたいな人生を送るな。幸福ではなく自由を目指せ。

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-12-09

同調圧力


 最初の2回のテストでは、ほかのメンバーは正しい答えを言って、特に何事もなく進む。3回目では、3番目の線が正しいものなので、被験者はそう言おうと待ち構えている。ところが最初の被験者(※サクラ)は「(※長さが同じなのは)1番目の線です」と答える。そして二人目も「1番目の線です」と言う。ほかの参加者(※全員がサクラ)も「1番目の線です」と答える。回答が進むにつれ、真の被験者は何かが変だと考えるようになる。自分の番になったときには、その被験者は、自分の判断を信じるか、それとも意見が一致しているほあのメンバーの答えにあわせるかを今すぐ決めないといけないという困った状態に陥っていることに気づくのである。驚いたことに、だいたい13の試行において、真の被験者は、実験的に作り出されたいつわりの多数派に合わせた回答をしたのである。(ソロモン・アッシュの「同調行動の実験」)


【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス/野島久男、藍澤美紀訳(誠信書房、2008年)】


 同調圧力という言葉は既に広く知られているが、具体的な裏付けを知る人はあまりいないだろう。社会心理学は杜撰(ずさん)な実験も多いが、真摯な研究のデータは思わぬ角度から人間を照射して我々をたじろがせる。元々心理学は反証可能性に乏しいため学問と見なされていなかった。占いもどき、スピリチュアル系の心理学を学問の領域に高めたのがアッシュとミルグラムである。


 道徳が力を持たないのは、現実と乖離(かいり)した理想を持ち出して「かくあるべし」「かくあらねばならぬ」というスローガンにとどまっているためだ。標語は死んでいる。私が小学生の時、「廊下を走らないようにしましょう」と書かれたポスターを目にしたのは、常に全力疾走している時だった。


 価値観が多様化してくると精神論は通用しない。「昔はそれで通用したんでしょうけど、今はそういう時代じゃないんですよね」。ま、私の場合、無理矢理通用させてしまうけどね。


 社会心理学は人間と社会に対する科学的アプローチの道を拓いた。


 ではなぜ同調圧力に多くの人々が屈してしまうのか? それはコミュニティに隷属することが進化的に優位だからだ。昔の農業や現代のサラリーマンの立場で考えるとわかりやすい。内なる良心の声に従うよりも、食べることの方が大切ってわけ。いじめに加担したり傍観するのも同じ原理だ。つまり保身という態度には一定の合理性があると考えられる。


 根本的な解決は簡単だ。コミュニティ形成のあり方を変えればよい。その前提は競争と比較から離れることだ。これ以外に人類が次のステップへ飛躍する道はない。

服従実験とは何だったのか―スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産

2010-12-08

理性主義と神秘主義


 人間は、何を、どこまで、どのようにして知ることができるのだろうか。おそらく、これが、人間が言語を用いるようになって以来、最も長く考え続けられている認識論の問題だろう。すべての過去の学問的研究は成果は、この問題に対する無数の解答例とみなすこともできる。これらの解答例を『西洋哲学史』で分析したラッセルは、結果的に、認識論に対する人間の姿勢を、「理性主義」と「神秘主義」に大別している。つまり、すべてを「理性」によって解明しようとする立場と、何らかの理性を超えた「神秘」を認める立場である。


【『ゲーデル哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、1999年)】

ゲーデルの哲学―不完全性定理と神の存在論 (講談社現代新書)

2010-12-07

悪いものを吐き出す能力と感性


 悪いものを食べるとカラダは素直に反応して吐き出します。自分に合わないものを見極めるのは、このように悪いものを吐き出す能力と感性があればいいのです。運をつくるのは、素直な感性をベースにした正しい選択と修正の積み重ねなのです。


【『運に選ばれる人 選ばれない人』桜井章一(東洋経済新報社、2004年/講談社+α文庫、2007年)】


 今時は毒饅頭(まんじゅう)を皿ごと平らげて、「薬だ」と言い張るような連中が多いですな(ニヤリ)。

運に選ばれる人 選ばれない人 運に選ばれる人  選ばれない人 (講談社+α文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-12-06

「空」とは否定作業によって自己が新しくよみがえるというプロセスの原動力


 神、世界、肉体そして言語の存在を否定していった果てに何が残るのかを、竜樹も彼の後継者たちも明確に言い残してはいない。「まったき無」なるものがそもそもありえるのか否かも定かではない。というよりも、空の思想はその「まったき無」がどのようなものであるかを、正面から問題にしたことはない。重要なのは、否定作業の続く中で、「まったき無」に至る前のもろもろの否定の段階において、その都度新しい自己のよみがえりが可能なことである。

「空」とはこのように、否定作業によって自己が新しくよみがえるというプロセスの原動力である。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社学術文庫、2003年)】

空の思想史―原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)

2010-12-05

「信じること」と「知ること」は違う


 ある命題を「知」というならば、世界に起こるすべての場合において、それが真でなくてはならない。「電話番号を教えてくれた人は私が一番信頼している人だから、繋がらなくても正しいはずだ」と主張したところで、何の説得力も持たない。要するに「信じること」と「知ること」とは違うのである。ある事件の犯人を、あらゆる状況証拠から、犯人であると信じるに足る要件が整っていたとしても、もしその人が真犯人でなかったら、犯人を知っているとはいえないのと同様だ。命題が真でなければ、「知っている」とはいえないのである。正しいと「信じている」にすぎない。

 ここまで理解させたあと、この命題を麻原教祖に置き換えて考えさせてみた。麻原教祖はすばらしい人格者で、信じるに足る人間で、行動にはまったく悪意がなかったのかもしれない。だから彼に教えられた教義という名の携帯電話の番号が、間違っていたと非されても、番号を聞き間違えたかもしれないし、麻原教祖が言い間違えていたかもしれないし、電話するときにかけ間違えていたかもしれない。しかしその過程がどうであれ、思っていた番号が間違っていたなら、それは知るとはいわない。そういうことは哲学では、知識とはいわないのだよ、と彼女に説明した。

 もちろん、このような単純な比喩を使ったわけではないのだが、単純化すれば、このような論理的トラップを、知識、認識、霊魂の存在、輪廻カルマといった話題について、いくつも仕掛けたのである。


【『洗脳原論』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(春秋社、2000年)】

洗脳原論

2010-12-04

感受性


 最初に何を感じたかで全ては決まる。人と出会い、本を開き、名も知らぬ花をふと見つめた瞬間に心の弦(いと)が弾かれることがある。時にその余韻が何年も響き渡り、自分の運命を大きく変えることも決して珍しいことではあるまい。


 凡庸な人は心の琴線が針金みたいになっていて、どれほど素晴らしい出会いがあっても共鳴することがない。感じる力がないゆえ、応じる力は眠ったままだ。


「打てば響く」という言葉があるが、我々は日々の生活の中でさまざまな物事から「打たれている」といっていいだろう。忙しさにかまけて礼儀を欠いたり、配慮に気づかなかったり、誠意を見逃すことも多い。


 一人の人と出会う、一冊の本を開くといったところで、こちらの感受性次第で開いてゆくことも閉ざしてゆくことも可能だ。


 もちろんセンスや才能も大切である。感覚的な次元は言葉で教えることができないからだ。しかし我々はスポーツや芸術の世界で生きているわけではない。


「どんなに教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものがわからないから」(フジ子・ヘミング


 結局、感受性は同苦に行き着く。見知らぬ他人の苦しみに打ち震える感受性があるかどうか。人生の深さはここで決まる。


 正義も感受性から生まれる。ただし、体制に額づくことを私は正義とは呼ばない。

深く熱烈な感情


 君たちは、私たちのどれほど多くが何事にも深い感情を持たないのか、気づいたことがありますか。君たちは、ただ何かを好きでないためではなく、あることをしたくないという深い熱烈な感情を持っているために、先生や親に反抗したことがありますか。何かのことで深く、熱烈に感じるならば、君たちは、この感情こそが、ふしぎな具合に生に新しい秩序をもたらすことに気づくでしょう。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-12-03

異なる見解を引き出す


 ドラッカーGMの最高レベルの会議で、CEOのスローンが、「それではこの決定に関しては、意見が完全に一致していると了解してよろしいか?」と聞き、全員がうなずいたとき、「それでは、この問題について、異なる見解を引き出し、この決定がいかなる意味をもつか、もっとよく理解するための時間が必要と思われるので、決定を次回まで延期したい」というのを目にした。


【『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』上田惇生〈うえだ・あつお〉(ダイヤモンド社、2006年)】

ドラッカー入門―万人のための帝王学を求めて

2010-12-02

観ることは止まることである


 観ることは止まることである。これ止観の謂われか。ハイデガーは存在論から時間を捉え直し、過去−現在−未来という固定的な時間観に一撃を与えた。20世紀哲学最大の衝撃といわれた『存在と時間』(1927年)が未完に終わっている事実からも、どれほど巨大なテーマか理解できよう。一方、科学の世界ではアルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論をもって、空間と時間が絶対的なものではなく、観測者の位置(速度)によって異なる事実を明らかにした。時速50kmで車に乗っているとしよう。自動車内部からは時速50kmのスピードで風景が後ろへ走り去ってゆく。この時、自分は止まっているのだ。速度を観測できるのは、外で立ち止まっている人に限られる。時速20kmで走っている自転車から見れば、自動車のスピードは30kmとなる。


 ここで問題となるのは一念三千と一生成仏との整合性である。なぜなら一生にも相対性があるからだ。3歳で亡くなる子もいれば、100歳で死ぬ人もいる。両者を一生成仏という言葉で括れるはずがないのだ。ここで愚かな連中は『人間革命』第3巻に書かれた和泉さんの体験を引き合いに出すことだろう。お前らは、死ぬまで他人の体験を語りながら自分の人生を置き去りにするがいい。


 子が亡くなった事実を親がどう解釈するかということは全くの別問題だ。私は「物語」の話をしているわけではない。


 コンピュータの誕生によって学問の分野は飛躍的な前進を遂げた。膨大なデータを収集し、アルゴリズムを加え、演算を施し、情報を処理する。チューリングマシンの概念が発表されたのは1936年のこと。コンピュータの発達によって複雑系という分野も生まれた。


 既に因果という概念が揺らいでいるのだ。それにしては危機感を抱いている人が見当たらない(笑)。


 一生成仏は日蓮が与える立場で説いた可能性は否定できない。だがそれでは調機調養以下のレベルに堕してしまう。当然、「即」の飛翔性も失われる。


 三国四師って眉唾じゃないのか? と思っていたのだが、今調べたところ「顕仏未来記」は真蹟曽存だった。実は個人的に最澄(伝教)が好きじゃないのだ(笑)。


 とすると、ブッダ−天台−最澄−日蓮脱構築が行われてきたという意味になろう。真理は一つであるが表現は異なる。なぜ異なるのか? 社会と時代の様相が変化しているからだ。つまり時代と社会によって、脳の回路が違っているのだ。


 日蓮が自らを含めて三国四師を高らかに宣言したのは、流刑地の佐渡においてであった。社会で広く認知され、成功を収めてからのことではない。


 観心本尊を見つけた人っている? 私はまだだ。

存在と時間〈1〉 (中公クラシックス) 存在と時間II (中公クラシックスW29) 存在と時間〈3〉 (中公クラシックス) 「相対性理論」を楽しむ本―よくわかるアインシュタインの不思議な世界 (PHP文庫)

提婆達多の真実


 通説によれば、釈迦を殺そうとした悪人デーヴァダッタは、最後には、生きながら火焔に包まれて、「無間地獄」へ落ちて行ったとされていますが、釈迦の没後900年頃、経典を求めてインドにおもむいた法顕(340?-420?)が、その見聞録(『法顕伝』)の中で、調達(デーヴァダッタ)派の仏教僧団がネパール地方にあったと述べており、また、玄奘(600-664)も、その著『大唐西域記』の中で、ベンガル地方に提婆達多派の仏教僧団があったと述べていますから、釈迦の没後の後継者争いに敗れたデーヴァダッタが、彼の僧団をひきいて辺境の地に逃れ、バラモン階級出身者の手にその主導権がにぎられた中央の『正統派仏教僧団』からの激しい迫害と常に闘いながら、かなり長年月の間、生きながらえて、強烈な感化を及ぼしたことも、充分に考えられるのであります。そして、この釈迦の正統な後継者と称する中央の仏教僧団への反抗が、釈迦への反感や軽侮を産み出したようであり、大乗仏教で、釈迦の在世中に直接釈迦から説教を聞いた弟子たちが「声聞」(sravaka シュラヴァカ)――釈迦の声を聞いた者――と軽侮されて、最下位に置かれ、誰の声も聞かずに、独自の方法でさとった者たちが「独覚」(pratyekabuddha プライエティカブッダ)と呼ばれて、その上に位置し、更に、その上に、仏陀の声を聞いてさとりを求める者としての「菩薩」が置かれているのもそのためであると推定されます。


【『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士〈ほり・けんじ〉(第三文明レグルス文庫、1973年)】

仏教とキリスト教 イエスは釈迦である

2010-12-01

あからさまな金持ち優遇税制


 かつて19区分、最高税率で75%もあった所得税の累進課税の仕組みは、1980年代半ばから緩和され続け、99年からの8年間はわずか4区分、最高税率37%という状況に至った。年間所得が100億円の人と1800万円の人の税率は同じであり、1000万円に満たない人ともあまり変わらないという、あからさまな金持ち優遇税制だ。

 表には含まれていないが、この間には住民税の累進課税も大幅に緩和された。14区分だったものが89年までに3区分(5%、10%、13%)となり、2007年にはこれも廃止されて一律10%の完全フラット化。年間所得100億円の人も100万円そこそこの人も、課される税率は同じだというのが現状なのである。

 かくて所得税の所得再分配機能は消失し、1991年度のピーク時には26兆7000億円あった税収も2009年度は12兆8000億円へと半減した。偶然ではもちろんない。

 財界の主導で進められた規制緩和構造改革の、これも一環だった。


【『消費税のカラクリ』斎藤貴男(講談社現代新書、2010年)】

消費税のカラクリ (講談社現代新書)

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