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2010-12-21

民族という概念


 民族という概念そのものは18世紀の西欧の発明であり、これは「血と土」を意味するドイツ語のBlud und Borden(ブルート・ウント・ボーデン)およびVolk(フォルク)「民」からきている。これを明治前期に民族と造語した。現代中国語の民族(ミンズー)は、明治中期に日本から輸出された熟字である。それ以前の中国語にはなかった。昔から日本は原料加工製品輸出がうまかったのである。

 こうして幻の「日本民族」はできた。さて植民地ができると、そこに住む新日本人たちは、一体何になるのか? これにかかわり、「国体の本義」を考える人たちは悩んだ。研究者たちも迷った。喜田定吉(きた・さだきち)の著作を読むと、当時の知識人の困惑が掌にとるようだ。結局、ラ・フランス・メトロポリテーヌ(内地フランス)とラ・フランス・ドウトル・メール(外地フランス)というフランス型の植民地支配方式でごかました。ドイツ語の「血」の語源をここで落としたのであった。

単一民族」幻想は成立したのだが、実は「血」を語ると、それ以前から不都合な部分があったからである。沖縄の人たちと、北海道のアイヌなどの先住民たち、あるいは小笠原の人々の存在だった。

 フランス型植民地支配方式とは、つまり「内地日本(人)」が、「外地日本(人)」(この場合は、鮮半島、台湾、樺太(現サハリン))を統治指導する、という考え方である。昭和になって、ついでに中国もまとめて指導してやろうじゃないか、というのが、いわゆる「大東亜共栄圏」論、「八紘一宇」論だ。この「八紘一宇」論が、実はそのまま現在の「大東亜戦争=アジア解放戦争」論に繋がっている。

「八紘一宇」論とは、つまり、わたしの言う「日本型中華思想」である。中華が蕃(蛮)を救済し、指導してやる、と言うのである。


【『無境界の人』森巣博〈もりす・ひろし〉(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】


 これまた既に紹介済みのテキスト。民族性とは何らかの利益を共有するコミュニティによる排外主義のことであろう。宗教的価値観で悪を設定し、特定の集団を攻撃している以上、「創価学会という民族」が形成される可能性がある。集団は必ずヒエラルキー構造を形成しており、そこに暴力性が潜んでいる。自由と規律という矛盾を解消することは至である。プラグマティックな観点から組織が生まれたとすれば、広宣流布プロパガンダとなることを避けられない。そして外へと向かう運動性が、組織内部を弱体化させる根本原因となるのだ。集団に内在する本質的な問題を解消するブッダの行為が「出家」である。ところが日蓮は勇んで政治にコミットした。宗教社会学を踏まえると、鎌倉時代の世俗化を明らかにする必要がある。

無境界の人 (集英社文庫)

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