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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2011-02-07

因果律


 時間論から考えると因果律は過去が現在を支配していることになる。過去(原因)→現在(結果)という図式だ。とすれば、たとえ決意しようが妥協しようが、それ自体が過去に依拠していることになる。ここにおいて宿命論はキリスト教の運命論と完全に同じ内容と化す。神様が決めるか、自分の行為が決めるかの相違だけであって、決定論であることに変わりがない。


 真蹟因果倶時という言葉は見当たらない。


 蓮華と申す華は菓と花と同時也。


【「上野尼御前御返事」真蹟


 これは因果倶時と捉えて構わないだろう。


 本門にいたりて、始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぶ。爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶて、本門十界の因果をとき顕す。此れ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。


【「開目抄真蹟


 これは思想におけるパラダイムシフトを示したものと考えることも可能だ。因果倶時は因果の否定である。従果向因(因果倶時)と従因至果(因果異時)とはベクトルが正反対となる。時間軸を逆転させることで久遠元初は尽未来際へと開かれるのだ。

 始成正覚とは過去である。過去を打ち破ることで久遠実成が顕れる。この久遠とは過去のことではなくして本来の意であり、過去の業を払拭した生命状態を指す。つまり本来の存在が瞬間瞬間湧き出る状態といえよう。


 法華経湧出品において、ブッダが大地を蹴って地湧の菩薩が陸続と登場した。この瞬間ブッダは過去から解き放たれたのだ。そして六万恒河沙の勇壮な菩薩たちは「我が生命力」を表している。


 過去の延長線上に現在を捉えるのではなく、未来のために現在を犠牲にするのでもなく、現在という一瞬の中に永遠を見出す姿勢が問われている。これが因果倶時である。

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