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2011-03-31

『知事抹殺 つくられた福島県汚職事件』佐藤栄佐久(平凡社、2009年)


知事抹殺 つくられた福島県汚職事件


 東京一極集中に異議を唱え、原発問題、道州制などに関して政府の方針と真っ向から対立、「闘う知事」として名を馳せ、県内で圧倒的支持を得た。第5期18年目の2006年9月、県発注のダム工事をめぐる汚職事件で追及を受け、知事辞職、その後逮捕される。08年8月、第一審で有罪判決を受けるが、控訴


「佐藤栄佐久氏が県知事を続けていれば、今回の原発事故は起こっただろうか?」という声が澎湃(ほうはい)と起こっている。

写真は嘘をつかなくても、嘘つきが写真を撮ることは可能だ


「写真はとりわけ写実性が強く、ほかの表現形式にはない固有の魅力がある。そのため、一般の人たちはつい、写真が必ず事実を写しとっているものと信じ込んでしまう。もちろん、私たちは写真に対する信頼が、激しく揺らいでいることを承知している。というのは、写真は嘘をつかなくても、嘘つきが写真を撮ることは可能だからだ。だからこそ、私たちは真実を明らかにするうえで、カメラを悪用しないよう責任を持たねばならない」(※写真家ルイス・W・ハインが1909年に語った言葉)


【『地球のハローワーク』フェルディナンド・プロッツマン/関利枝子、伯耆友子、岡田凛、小林洋子訳(日経ナショナルジオグラフィック社、2009年)】


地球のハローワーク

2011-03-30

イブーカ(忘れてはならない)!


 わたしは忘れない!

 イブーカ(忘れてはならない)!


 彼らのどよめきがわたしを追いかける。わたしは目を閉じる。わたしも話さなくてはいけない。書かなくてはいけない。思い出さなくてはいけない。たとえこれが最後かもしれなくても……。またいつか、という希望を抱き、解放を願い、わたしの大切な人たちの生が永遠に刻まれることを願いながら、あの人たちが忘れ去られないようにするために、無為無策を通そうとする力に対抗し、無関心を決め込もうとする協定に対抗するのだ。もう一度、ツチ族の地獄をたどり直すのだ。もう一度、思い出すのだ。わたしは忘れない。


 イブーカ(忘れてはならない)!


【『山刀で切り裂かれて』アニック・カイテジ/浅田仁子訳(アスコム、2007年)】

山刀で切り裂かれて ルワンダ大虐殺で地獄を見た少女の告白

2011-03-29

福島第1原発事故、昨年議員が同様な事故の可能性警告


 日本共産党の吉井英勝衆院議員が2010年5月に開催された衆院経済産業委員会で、自然災害により原発のバックアップ・システムが崩壊し、炉心溶融につながる可能性を指摘したが、これに対し、経済産業省原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は、そのような事態は実質的には起きないとの認識を示していたことが分かった。


ウォール・ストリート・ジャーナル 日本版


 反原発の流れで、統一地方選は左向きの風が吹きそうだ。

法はたんなる思想ではなくて、生きた力である


 法の目標は平和であり、それに達する手段は闘争である。法が不法からの侵害にそなえなければならないかぎり――しかもこのことはこの世のあるかぎり続くであろう――、法は闘争なしではすまない。法の生命は闘争である。それは、国民の、国家権力の、階級の、個人の闘争である。

 世界中のいっさいの法は闘いとられたものであり、すべての重要な法規は、まずこれを否定する者の手から奪いとらねばならなかった。国民の権利であれ、個人権利であれ、およそいっさいの権利の前提は、いつなんどきでもそれを主張する用意があるということである。法はたんなる思想ではなくて、生きた力である。だから、正義の女神は、一方の手には権利をはかるはかりをもち、他方の手には権利を主張するための剣を握っているのである。はかりのない剣は裸の暴力であり、剣のないはかりは法の無力を意味する。はかりと剣は相互依存し、正義の女神の剣をふるう力と、そのはかりをあつかう技術とが均衡するところにのみ、完全な法律状態が存在する。

 法は不断の努力である。しかも、たんに国家権力の努力であるだけでなく、すべての国民の努力である。法の生命の全体を一望のもとに見渡せば、われわれの眼前には、すべての国民の休むことのない競争と奮闘の情景がくりひろげられている。その光景は、すべての国民が経済的な、および精神的な生産の分野でくりひろげているものと同じである。自分の権利を主張しなければならない立場に立たされた者は、だれしもこの国民的作業に参加し、それぞれのもつ小さな力を、この世で法理念の実現にふりむけるものである。


【『権利のための闘争』イェーリング/小林孝輔、広沢民生訳(日本評論社、1978年)】

権利のための闘争 (岩波文庫)

(※村上淳一訳)

2011-03-28

枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない


 およそこういう風で、外に出てもまた内にいても、乱暴もすれば議論もする。ソレゆえ一寸(ちょいと)と一目(いちもく)見たところでは──今までの話だけを聞いたところでは、如何にも学問どころのことではなく、ただワイワイしていたのかと人が思うでありましょうが、そこの一段に至っては決してそうではない。学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政3年の3月、熱病を煩(わずろ)うて幸いに全快に及んだが、病中は括枕(くくりまくら)で、座蒲団が何かを括って枕にしていたが、追々元の体に回復して来たところで、ただの枕をしてみたいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居していたので、兄の家来が一人あるその家来に、ただの枕をしてみたいから持って来いと言ったが、枕がない、どんなに捜してもないと言うので、不図(ふと)思い付いた。これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時は何時(なんどき)でも構わぬ、殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻(しき)りに書を読んでいる。読書に草臥(くたび)れ眠くなって来れば、机の上に突っ臥(ぷ)して眠るか、あるいは床の間の床側(とこぶち)を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて「なるほど枕はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気が付きました。これでも大抵趣がわかりましょう。これは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上に為(し)ようはないというほどに勉強していました。


【『新訂 福翁自伝』福沢諭吉/富田正文校訂(岩波文庫、1978年)】

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

2011-03-27

諸々の経験を交換する能力


 まっとうに何かを語ることのできる人に出会うことは、だんだん稀になってゆく。物語を求める声が高まるたびに、その周囲にはしきりに困惑の気配が広がってゆく。それはまるで、よもや手離すことなぞありえぬと思われていた財産、確実な中でも最も確実とされていたものが、僕らの手から奪われていくかのようだ。つまりそれは、諸々の経験を交換する能力のことだ。(ベンヤミン)


【『物語の哲学』野家啓一〈のえ・けいいち〉(岩波書店、1996年/岩波現代文庫、2005年)】

物語の哲学 (岩波現代文庫)

2011-03-26

石原慎太郎という人物


 東京都知事選で公明党が支援するのはこういう人物だ。東京の創価学会員が置かれた情況は「権実雑乱」そのものだ。


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依報と正報


 我々はみな、ひとりひとりが、自分が自分のあり方として想像したもの、そして相手から想像されたものとして存在している。回想の中で記憶はふたつの異なる道筋をたどる。ひとつは他者が想像したものに合わせて人生がかたちづくられるとき、もうひとつは自由に自分の姿を決められるはるかに個人的な時間だ。


【『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ/柳下毅一郎〈やなした・きいちろう〉訳(WAVE出版、2003年)】

ジェノサイドの丘〈新装版〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

2011-03-25

斎藤秀三郎は時間に厳格だった


 宮城の中で打たれた空砲は、その周辺一帯に鳴り響いた。

「ドーン」という正午を報せる音がすると、斎藤家の書生たちは客人の応対中であろうと、飯炊きの途中であろうと、秀三郎の著書の検印を捺している最中であろうと、すべての仕事を放り出して、いっせいに屋敷のなかに備えつけてある時計に向かって走り出すのだった。そして自分の受け持ちの時計という時計の針を合わせた。秀三郎は時間に厳格だった。

 正則英語学校でも、どんなに講義が途中であろうと秀三郎は板書の手を止め、終業のベルと共に教室を出るのである。家路の途中に床屋に寄っても、何分で刈るように申しつけると、たとえ散髪が途中でも帰ってしまうという徹底ぶりだった。

 津田塾大学の前身である女子英語塾がすぐ近くにあったが、番町で市街電車を降りた英語塾の学生たちは、斎藤家の玄関にある正確無比な大時計で時刻を合わせたという。


【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年/新潮文庫、2002年)】


 カントといい勝負。

嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2011-03-24

きょう告示 都議会民主は渡辺氏 自公は石原氏 支援鮮明に

東京創価学会員に天が下った」としか言いようがない。池田会長のことを「悪しき天才、偉大な俗物」(1999年)と揶揄した人物に投票しろというのだから。政治的優位性を保つためには清濁併せ呑む必要がある──そんな学会本部の思惑が透けてみえる。東京のメンバーは忍辱の鎧を着用した上で煮え湯を飲まされそうだ。ま、信仰の次元からすれば内部被曝同然だと思うが。幸か不幸か私は忍辱の鎧をクリーニングに出しているので着ることができない(笑)。

隠しきれない差別意識


 遠足の子供たちが、お行儀よく整列していることなど、まずありません。駅の通路に広がって、駅構内をを我が物顔で占領しているので、白い杖を持った僕は、子供たちの中に入り込んでしまうことがよくあります。

 子供たちはといえば、突然自分たちの領土に侵入してきた僕のことをものともしないのですが、さすがに引率の先生が注意をします。普通の先生は、「はーい、みんな右に寄りなさい」と通路を空けるように促してくれるのですが、5人に1人は、堂々とこう付け加えるのです。

「みんな何してるの! その人をじろじろ見てはいけません。じろじろ見てはいけません」

 あれほど悲しい瞬間はありません。僕は目が見えないだけで、耳はちゃんと聞こえているのです。僕は汚いものなのでしょうか。目を背けなければならない対象だとでもいうのでしょうか。


 障害のある子供とそうでない子供が別々に教育されている今の日本では、遠足でたまたま目が見えない人と遭遇したことは、障害者を理解するための教育の、またとないチャンスだといえるでしょう。

 世の中にはいろいろな人が共に生きている、中には目が見えない人もいること、そして街で目が不自由な人を見かけたらどんなふうに接したらよいかということを、身をもって教えるための恰好(かっこう)の経験です。

「はーい、みんなよく見て覚えてくださいね。もしも街で目が見えない人が困っていたら、こうやって肘(ひじ)に触ってもらって誘導してあげましょう」

 と、先生自らが率先してお手本を示すことだってできるのです。僕は、そのためなら喜んで実験台になります。


【『怒りの川田さん 全盲だから見えた日本のリアル』川田隆一〈かわだ・りゅういち〉(オクムラ書店、2006年)】

怒りの川田さん―全盲だから見えた日本のリアル

2011-03-23

立正安国論における国の字(くにがまえ+民)

  • くにがまえ+民=56ヶ所
  • くにがまえ+玉=11ヶ所
  • くにがまえ+或=4ヶ所
  • くにがまえ+王=1ヶ所
  • 合計=72ヶ所

 以上は山中講一郎氏による。

人間が抱える問題は必ず社会性をもつ


 アリストテレスが述べたように、「人間は社会的動物」である。完全に孤立して、一人で生きていくことができる人間はいない。だから、人間が抱える問題は、必ず社会性をもつ。しかし、新自由主義的傾向が強まった、現在の日本社会では、一人一人が原子(アトム)のように分断されてしまい、社会的連帯のイメージが湧かなくなってしまっている。もっと簡易な表現をすると、ほんとうに腹を割って話をすることができる友だちを作りにくくなっている。


【『インテリジェンス人生相談 社会編』佐藤優〈さとう・まさる〉(扶桑社、2009年)】

インテリジェンス人生相談 [個人編] インテリジェンス人生相談 [社会編]

2011-03-22

現在がマイナスであれば


 現在がマイナスであれば、幸福は未来のプラスの中にしかない。貧しさが不幸であるならば金持ちになる必要が生じる。病気が不幸であるならば病没した人々は救われない。とすると、実は「現在をマイナス」と感じる自分の価値観に本質的な不幸があることが見えてくる。「貧しくたっていいじゃないか」「病気のままでいいんだよ」と、みつをが言ったかどうかは不明だが。悟りとは現在をゼロと達観することである。仏に過不足はない。

自分という座標


佐治●われわれが迷子になるときになぜ不安になるのかというと、自分の位置づけがわからなくなるからですよね。窓際族なんてまさにそれでしょう。その人の位置づけをわからなくさせるってことだから。


【『「わかる」ことは「かわる」こと』佐治晴夫〈さじ・はるお〉、養老孟司〈ようろう・たけし〉(河出書房新社、2004年)】

「わかる」ことは「かわる」こと

2011-03-21

宙ぶらりん


 あたしたちはみんな宙ぶらりんだ、宙ぶらりんのまま生きているのだ、と彼女は考えた。生きることも出来ず死ぬことも出来ず、惰性のように毎日を送っているのだ。いつかは何とかなるだろうと、それだけを信じて。時計の針が反対の方向に動いていることにも気がつかずに。


【『忘却の河』福永武彦(新潮社、1964年/新潮文庫、1969年)】

忘却の河 (新潮文庫)

2011-03-20

続かない理由


 続かないのは「変わらない」からだ。

【福島原発災害】東京消防庁会見 第3号機ミッション成功


 現場で身体を張って戦う人々の真剣さに涙を禁じ得ない。そして今も尚、原発で被曝しながら作業する東電の下請けの人々がいる。


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民族という現象


 民族という現象は実に厄介です。誰にでも眼、鼻、口、耳があるように、民族的帰属があると考えるのが常識になっていますが、このような常識は、たかだか150年か200年くらいの歴史しかないのです。アーネスト・ゲルナーたちの研究(※『民族とナショナリズム』岩波書店、1983年)の結果では、民族というものが近代的な現象であると、はっきりとした結論が出ています。民族的伝統と見られているものの大半が過去百数十年の間に「創られた伝統」に過ぎないのです。


【『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優〈さとう・まさる〉(扶桑社、2009年)】

インテリジェンス人生相談 [個人編]

2011-03-19

停電時の思索


 昨日、起きると停電していた。我が家では初めてのこと。水も出なかった。手も足も出ない。猫の手も借りられない。だが、これは不便といったレベルで被災地の酷烈な情況を思わずにはいられなかった。出勤前にメモ書きしたものをアップしておく。

  • ウェブにおける匿名性の問題。
  • 自由な意見→匿名の方が有利。
  • 実名主義は無責任や罪をするところに目的があると考えられる。
  • 実名主義は、悪意を個人の内部に閉じ込める作用として働く。
  • それを我々は自律・責任・節度と呼ぶ。
  • 果たしてどうなのか?
  • 意見集約を目指すのであれば敬語は邪魔だ。
  • 英語を採用している日本企業を見よ。
  • コミュニケーションは動作・表情、声、文字でしか行うことができない。
  • 動作・表情(相)、声(性)、文字(体)と考えれば、文字に優位性がある。
  • マンダラは「文字即実相」と。
  • しかしながら文字が実相のはずがない。
  • これは権実を正す土俵づくりと考えるべきだろう。
  • 人々の思考・感情は反射と考えられる。化学反応。
  • この様相は十界として捉えることが可能だ。
  • 化学反応の断面図が十如是
  • 空間軸から見るのが三世間。
  • 仏(悟り)を目指すのではなくして「成(ひら)く」という志向性が十界互具。
  • 万人に地獄と仏が同居する。理の一念三千
  • 立場(環境)で捉えるのが十界。世法。
  • 本質(境涯)で見るのが十界互具。仏法
  • 「ひらく」「開く」「拓く」「啓く」。
  • 生命の扉が開いた時、何が訪れるのか?
  • 本来ありのままの世界が如実知見される。
  • そんなものが幸福といえるのか?
  • 御意。
  • 世界や自分を「ありのまま」に認識できないところに不幸の根源がある。
  • 贅沢な暮らし、名誉ある地位、他人の上に君臨、美と力への憧れ──これを幸福だと錯覚している人は多い。
  • 幸福とは自由のこと。自由とは解放のこと。
  • 欲望という鎖、思考というコンクリート自我という束縛からの解放を目指せ。
  • 「人はなぜ生きるのか?」「私は何のために生きるのか?」──この疑問は不幸に由来している。
  • ただ生きる、ありのままに生きる、ただ枝を伸ばし、ありのままに花を咲かせる。
  • 生きるとはそういうことだ。
  • 桜梅桃李なれば、今この瞬間の自分を信ずることだ。未来の自分ではなく。
  • 欲望は生命に空いた穴だ。
  • 穴が満たされると、別の穴が口を開ける。
  • 穴に絆創膏を貼ってもダメだ。穴自体を防がなければ。
  • 川はいくつもの支流から成る。
  • 中央の流れは速く、岸部近くは澱(よど)んでいる。
  • 水中の上下でも異なることだろう。
  • 川の本質は流れではなく落差である。
  • つまり空から降ってくる雨と川は同じだ。
  • 雨の一生、川の一生、海の一生がある。
  • 海(相)、川(性)、雨(体)
  • 物質(相)、液体・気体(性)、原子・素粒子・超ひも(体)
  • 世界(相)、関係性(性)、生命(体)

2011-03-18

東京電力の隠蔽体質


 同社(※東京電力)は1971年に福島で最初の原発を稼動させて以来36年、これまで大小幾多の事故を起こしながら、小規模であれば「軽微で安全性に問題なし」、放射能を漏らしても「人体に影響なし」を繰り返し、重大事故は隠してきた。それによって官僚同様、自らの無謬性を保つことに腐心してきた。しかし、2002年には炉心隔壁ひび割れという重大な事故を隠してきたことが発覚。当時の首脳陣が一斉に退陣を余儀なくされるという、企業としては大きな打撃を受けた。


【『暗黒の帝国』恩田勝亘〈おんだ・かつのぶ〉(七つ森書館、2007年)】


 東日本大震災で被災された方々に対し心よりお見舞い申し上げます。また、数多くの悲報に謹んで哀悼の意を表するものであります。


 無謬(むびゅう)とは誤りのないことを意味するが、これが前提になってしまうと「誤り」そのものを認めない体質となる。


 例えば文部科学省の統計では、20002004年の5年間で子供の「いじめを主たる理由とする自殺件数」は0件となっている。もちろん真っ赤な嘘だ。しかしながら歴史というものは事実よりも記録の方が重い。書かれなかった歴史は存在しない。歴史とは記録の異名なのだ。


 嘘、偽、虚、詐、欺の文字が巣くい始めると組織は腐ってゆく。異臭を感じるのは最初だけだ。その時、直ぐさま誰かが行動を起こせば自浄作用が働く。時間が経てば経つほど異臭は気にならなくなる。


 既に官僚という言葉が腐敗を意味するようになってしまった。仕官することは経済的な安泰を指し、そこには損得の物差ししかない。


 東京電力は省庁に匹敵する大企業で官僚主義に毒されている。福島第1原発の事故があっても尚、傲(おご)りから抜け出せずにいる。


 自負が慢心に変質し、誇りが独善に変貌する。そもそも危険がないのであれば原子力発電所は東京につくるべきだろう。


 日本経団連の米倉弘昌会長が福島第1原発の事故について「1000年に1度の津波に耐えているのは素晴らしいこと。原子力行政はもっと胸を張るべきだ」と述べた(北海道新聞)。


 この国のエリートたちは庶民を虫けら同然に思っているようだ。

東京電力・帝国の暗黒

考えるヒント 5

 これ以降にも興味のある方はリンク先から過去記事をたどっていただきたい。尚、氏家さんは「@」なしのツイートも多いので、日にちの部分をクリックすると全て表示される。特にテーマを決めてやり取りしたものではないので散漫な印象は拭えないが、私にとってはたいへん刺激的な意見交換となった。やはり「知は力」である。

2011-03-17

みんなで分け合えば、できること

 買い占めを行っている連中は恥を知れ! こういった連中がファシズムを力強く支えるのだ。

「最悪なら東日本つぶれる」=専門家自任、笹森氏に明かす−菅首相


「最悪の事態になったときは東日本がつぶれることも想定しなければならない」。菅直人首相は16日夜、東京電力福島第1原発の事故をめぐり、首相官邸で会った笹森清内閣特別顧問にこう語った。放射性物質の飛散により、広大な地域でさまざまな影響が出かねないとの危機意識を示したとみられる。

 笹森氏によると、首相は「僕はものすごく原子力に詳しいんだ」と専門家を自任。東電の対応について「そういうこと(最悪の事態)に対する危機感が非常に薄い」と批判し、「この問題に詳しいので、余計に危機感を持って対応してほしいということで(15日早に)東電に乗り込んだ」と続けた。


時事ドットコム 2011-03-16


 コメンテーター転職した模様。

2011-03-16

ツイッターとSkype


 救助活動はまだまだ長期戦を強いられることだろう。一段落してからで構わないから、日本政府はツイッター社とSkype社に対して何らかの謝意を示すべきだ。

未曾有の震災が暴いた未曾有の「原発無責任体制」


 不調だとか働かないとかいうのは、結果であって原因ではない。日本中に不安を撒き散らしている炉心溶融事故の原因について、当事者は語らず、メディアは聞かず、規制当局は糺さない。このもたれあいが日本の原子力が抱える最大の不安要因ではないか。


塩谷喜雄

上杉隆−TBSラジオ

 上杉隆は降板させられた。官邸がいかに情報を遮断してきたかを暴露。記者クラブは誰一人として東電批判を行わず。必聴。

2011-03-15

2011-03-14

2011-03-13

東日本巨大地震の規模、M9.0に上方修正


 気象庁は13日、当初マグニチュード(M)8.8と発表した東日本巨大地震の規模について、M9.0に上方修正した。エネルギーは2倍になる。

 1960年に起きたチリ地震(M9.5)、64年アラスカ地震(M9.2)などに次ぎ5番目に大きな地震となる。


YOMIURI ONLINE 2011-03-13

大震災、死者・不明2500人以上に

 東北・関東大地震とそれに伴う大津波や火災による死者は1100人を超え、行方不明の方も含めると2500人以上にのぼっています。また、宮城県の南三陸町ではおよそ1万人の住民の安否がわかっていません。

2011-03-12

2011-03-11

地震情報

 東京でも震度5。固定電話携帯電話も不通。宮城、岩手は震度6強。

 東京は震度6弱。

 最新情報については、ツイッターが一番速い。

  • 速報:宮城県警によると、けが人が多数出ている。

 ツイッターの見方がわからない人は私のツイートを見よ。

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3月11日地震 東京都スーパー店内の様子

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感情は理性よりレベルの低い心的作用なのか?


 人間が生み出してきた多種多様な文化において、われわれ人間の理性と感情が、それぞれどれだけ貢献してきたかを分けて説明することなどできるはずもない。しかし、理性は人間に特有の心的作用であるのに対して、感情はそうではない。そのためか、われわれは心のどこかで感情を理性よりレベルの低い心的作用と見ているかもしれない。実際、現代の社会において、理性的であることが非されることはまずないが、感情的であることはしばしば非の対象になる。よく言われる「理性的であれ」ということは、「感情を排除せよ」と同義である。


【『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳(ちくま学芸文庫、2010年/『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題、講談社、2000年)】


 ダマシオはソマティック・マーカー仮説の提唱者である。身体感覚+感情が脳に危険回避を促すという考え方だ。

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

2011-03-10

考えるヒント 3

小野●立ち往生中(笑)。神って遠すぎるんですよね。遠すぎて見えない。見えないというのは目隠しした状態と一緒です。だから聖書に反する科学的発見には目をつぶってしまったのでしょう。 RT @ujikenorio: 隔絶構造は、質の悪い善悪二元論へと展開しますから


氏家●私も立ち往生中です。といいますか未だに色々と整理できていません。ただ物事を絶対化させない翠点(※萃点とも)としての神(等々)という視点は必要なのかなあとは思ってしまいます、キリスト者ではないにもかかわらず(苦笑) RT @fuitsuono 神って遠すぎるんですよね。遠すぎて見えない。


小野●ニュートンが空間内の絶対位置にとどめを刺し、アインシュタインが絶対時間を葬ってしまったわけです。ブッダ縁起によって相対性を示しながらも、関係性を現すことで相対化を防いだと思います。 RT @ujikenorio: 思想の構造としては隔絶構造は、おっしゃるとおり解体


氏家●縁起の有無は大きいです。基仏を比較した場合、明らかに縁起を説く仏教にアドバンテージがあります。だから逆に神という構造が相対性を保証していたのではないかと推察されます。その解体が、関係世界の可視化をもたらしたけれども使い方を学んでいなかった……。


氏家●レヴィ=ストロース構造主義をもって、縁起に代換させようとする発想もあるのですが、これは牽強付会ですよね。


小野●彼らにとってはどこまで行っても人間は「裁かれる存在」のような気がします。だから異国を裁き、征服できたのでしょう。 RT @ujikenorio: 宗教改革・市民革命・科学革命のあと、キリスト教は「公共性」を消失し、個人の内面の事象へと限定


氏家●ただ議論の白黒をはっきりつけようとする態度には敬意を抱きます。中古天台本覚の全肯定にはない魅力を感じます。もちろん白黒イズムはですが(苦笑 RT @fuitsuono: 彼らにとってはどこまで行っても人間は「裁かれる存在」のような気がします。だから異国を裁き、征服できた


小野●最終的には言葉、つまり情報に収斂(しゅうれん)されます。キリスト教は聖書に拘泥し、仏教は言語道断心行所滅と。 RT @ujikenorio: アドルノはあまり趣味ではないのですが物象化を問題視、首肯。人間、神、社会、その他もろもろに関して「それを物として扱う」というのには閉口です。


氏家●仏教学者と話していて笑い話になりますが、基は旧約新約だけでいいよねと、言われますよ、仏は八万法蔵だから、と。 RT @fuitsuono: 最終的には言葉、つまり情報に収斂されます。キリスト教は聖書に拘泥し、仏教は言語道断心行所滅と。


氏家●ただ、根本となるテクストは限定されているがゆえに、「どう読むのか」という理解をめぐる解釈学はヨーロッパで発展したのも事実。聖書の解釈から教会法の解釈、一般法の解釈へと進み、近代にいたってから哲学的解釈学へと発展する。儒学的訓詁学が形骸化していったのとは対象的。


氏家●余談ですが、近代化された視線では評判の悪い朱子ですが、朱子そのものは千年にわたり構築された儒学の形式主義、公定解釈をぶっ壊したという意味では怖るべき人物。ここ50年来、儒学の再生がハーバードなんかで試みられていますが、新しい光を仰ぎ見るような気がします。


小野●これは多分姿勢の問題ではなく、脳の機能なんでしょうね。言葉を生み、生んだ言葉に縛られるというのは。 RT @ujikenorio: 自分は概念化の二律背反と読んでいます。 RT @fuitsuono 信仰と理論は人間を束縛することも、自由にすることも可能


小野●西洋哲学は神と人間との間に横たわる「矛盾」を解こうとして形而上へ向かいますが、ブッダ的世界観は縁起で閉じているので連環してます。西洋の建物が天を目指して尖塔形になってますが、天井に神という穴が空いているような感じ。 RT @ujikenorio: レヴィ=ストロースの構造主義


氏家●時間論で対象的に現れてきますよね。始めから終わりへ向けた一本線、円環的な時間論。 ただ、この時間論の見直しがバチカンの天文台を中心にはじまっているそうです。ただいずれにしても、形而上学は一つの暴力であることは間違いありません RT @fuitsuono: 西洋哲学は神


氏家●科学の精神との宗教の関係での自分自身への宿題のひとつ。近代科学はキリスト教の文化(対決)の中で誕生した経緯がある。そして西洋以上に合理主義と言われた儒教の大地からは近代科学は出てこなかった。この辺をたしかヴェーバーが言及していたと思います。ちとひもとく必要あり。


小野●ウーーーム、立ち往生の度合いが3倍くらいに(笑)。やはり日本人の穢(けが)れとキリスト者の罪の意識には彼我の差を感じます。


氏家●ただ、どうしようもない「日本的なるもの」に対してキリスト教はひとつの挑戦にはなると思います。 RT @fuitsuono: ウーーーム、立ち往生の度合いが3倍くらいに(笑)。やはり日本人の穢れとキリスト者の罪の意識には彼我の差を感じます。


小野●拝見しました。しいッスね(笑)。私は西谷に近い認識です。抑圧に対する反動が分裂症的に噴出したと。プロテスタントの方が魔女狩りに熱心だった事実がそれを示していると思います。 RT @ujikenorio: PDF「吉満義彦の人間主義論」http://ow.ly/d/5y6

独占と支配を求める「共同体」が不可避的に陥る悲劇


 映画『ゴッドファーザー PartIII』のレビュー。


 コルレオーネ・ファミリーの悲劇は、権力の必然であり、独占と支配を求める「共同体」が不可避的に陥る悲劇である。アメリカが「脱工業化」するにつれて統合力を失ったように、コルレオーネ・ファミリーも、その「事業」が文化や情報や金融に移行するにつれて、統合力を失っていった。脱工業化とは、統合ですべてをあやつる「父親」的なシステムの終わりの兆候であり、その先には、近代的な意味での(つまりわたしたちが知っている意味での)「国家」や「家庭」は存在しない。80年代になって、ソ連や東ヨーロッパで起こったことも、こうした一種の「脱工業化」の過程であったが、90年代になって、それを阻止する動きが目立ってきた。


【『シネマ・ポリティカ 粉川哲夫映画批評集成』粉川哲夫〈こがわ・てつお〉(作品社、1993年)】


シネマ・ポリティカ 粉川哲夫映画批評集成

2011-03-09

考えるヒント 2

氏家●思想の構造としては隔絶構造は、おっしゃるとおり解体されてしまったと思います。またキリスト教の問題ではありませんが、隔絶構造は善悪二元論へと安易に展開してしまいます。その意味では座標の相対化は必然であったと思います。 RT @fuitsuono: 近代の歴史は「隔絶構造」を解体


氏家●隔絶構造は、質の悪い善悪二元論へと展開しますから、通俗的ですが十字軍、異端の問題、カトリックプロテスタントの対立、植民地主義……。時系列で追うと構造の解体自体は進むのですが、根っこの部分は変わっていない。ここに自分は悩んでいるところなんです。


氏家●ひとつは、キリスト教に由来する人間観の問題になりますし、ひとつは解体後の指導理念の欠如という所でしょうか。前者は一慨には言えませんが、砂漠の宗教とは基本的にイエスかノーかです。ものごとを単純化するのに容易です。イエスかノーかという問題は他者に向るのではなく自己へ向けるべきですが。


氏家●後者は相対化された後の問題です。「天に届いた」ことは本来責任を随伴するはずです。その受容に問題があった。それなら「天に届かず」でいた方がむしろよかったのか! なんて思ったりもします。その辺が近代化に対する懐疑になってしまう。もちろん産湯を捨てると同時に赤子を流すことはできませんが。


氏家●相対化は必然的に「人間」の「神化」を約束したはずなんです。しかし「神化」される人間とされない人間の二項対立は残されたまま。そこにどう挑戦していくかが試されているんだと思います。


氏家●宗教改革・市民革命・科学革命のあと、キリスト教は「公共性」を消失し、個人の内面の事象へと限定されます。以前は宗教が公共性を代表しておりましたが、ではその後で、そこで他者とどう関係を結んでいくか(公共)。考察が欠如された場合悲劇が招来されやすくなるのかなあ、と。可能性はあったはず。


氏家●その辺をスルーしてしまうと、安易な人間の「神化」を招く。アドルノの有名な言葉、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(渡辺祐邦・三原弟平訳「文化批判と社会」、『プリズメン 文化批判と社会』ちくま学芸文庫、1996年)を待つまでもありません。


小野●これはしいところですね。なぜなら信仰と理論は人間を束縛することも、自由にすることも可能なためです。ポストモダンよりも、信仰的価値観の道理化が必要な気がします。 RT @ujikenorio: 信仰で天にいたるのでなく、窮理で目指す道が出てくる。


氏家●途中なのですが、これはおっしゃる通りです。自分は概念化の二律背反と読んでいます。言説化こそ排他性に他なりません。しかし言説化しないことには認識も不可能。両極に偏らない選択を選択する勇気が肝要かと。  RT  @fuitsuono 信仰と理論は人間を束縛することも、自由にすることも可能


氏家●信仰と理論の問題に関してはまさにプロクルステスのベッドです。だからこそ、他者への回路をどう開くかが吟味されなければならない。ポストモダンは他者を同化する暴力性を批判した。しかし暴力性の発動は不可避。だからこそ自覚の問題になってしまう点をふまえて暴力を持つ言語を運用しないといけない。


氏家●あらっぽい言い方ですが、結局のところ、キリスト教も、仏教も、イスラームも、メインストリームと離れたところの、啓かれた個々人がそれをそれとしてたらしめているのだろうなあとは、宗教学、なかんづくキリスト教学をやっていて、思う次第です。

ある事柄を善と思うこと自体が洗脳されている結果だと考えるべき


 大体、善だといわれている事柄自体が社会的判断である以上、その時々の権力者側から与えられたものであり、ある事柄を善と思うこと自体が洗脳されている結果だと考えるべきだろう。北鮮や戦前の日本がいい例だ。朱子学や儒教的な善の概念が、誇張されて専制君主への帰依を善としていたことは記憶に新しい。身近な例では、ダム開発や干潟の開発が善なのか悪なのかといった判断も、まず自分をあらゆる既存の価値観から自由にしてみないと誤るだろう。イスラム世界での善が、キリスト教世界の一部では悪であるといわれていることも同様だ。


【『洗脳護身術 日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(三才ブックス、2003年)】

洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放

2011-03-08

考えるヒント 1


 ツイッターでの氏家法雄さん(神学研究者)との対話を保存しておく。


氏家アカデミズムの世界で「大乗非仏説」を革命のテーゼとして唱道したのは村上専精先生だが、何がしかのルサンチマンがあるのではないかと思ってしまう。同道で後学になる姉崎正治先生は、事実としての大乗非仏説は認めるが、事実を超えた地平を模索している。そこにヒントがあるとは思うけど、時間が無い。


氏家●姉崎正治先生は、空仮中の三諦の理論から、史的仏陀、真理としての仏陀、展開としての仏陀(報身)を博士論文ベルリン大学……だったと思う)は『現身仏と法身仏』(邦訳)。原始仏典に即して論じた。牽強付会の感もあるが、父、子、聖霊の展開にもいっていのアナロジーはあるのだろうと思ってしまう。


小野●空=言葉、仮=生身、中=理論、でどうでしょうか? 理論は理屈ではなく真理の意味で。情報(空)、事実(仮)、現象(中)といってもいいかもしれません。 RT @ujikenorio: 空仮中の三諦の理論


氏家●仏教は三諦を最終的には言語道断と言いますが、どこまでも言語にこだわる意味では、空=言葉示すことは可能だと思います。言葉を排斥しつつ最後まで言葉を使うのは他の宗教に見られない現象。 RT @fuitsuono: 空=言葉、仮=生身、中=理論、でどうでしょうか?


小野●言語が構築する世界は概念である。言語の限界性を断った地平にあるのは、奈落か天空か? それとも宇宙を構成している光と闇か? ブッダは人の道を説き、その道を破壊した。否定されたのは「道への執着」であった。 RT @ujikenorio: 仏教は三諦を最終的には言語道断と言いいますが…


氏家●神の啓示は歴史的事件としてのイエス・キリストの出来事の1回性にしかないし、神の言葉にしか存在しない。それがいろんなところでワサワサ出てくるのはどうなんだよ、って主張です。


小野●これは再現性の否定なんですかね? それとも天地創造とリンクしているんですかね? RT @ujikenorio: 神の啓示は歴史的事件としてのイエス・キリストの出来事の1回性にしかないし、神の言葉にしか存在しない。(カール・バルトの考え)


氏家●一服したら戻るので終業後TLに流しますが、再現可能性の否定というよりも再現可能性の限定と言った方が良いかもしれません。簡単に国家や人間が代弁しないようにというところでしょうか。 RT @fuitsuono これは再現性の否定なんですかね? それとも天地創造とリンクしているんですかね?


氏家●バルトに於ける排他的唯一性の主張とはキリスト教そのものに向けられた即自的であり、原理主義とかのそれは、キリスト教とそれ以外の宗教における対他的なものです。ですからバルトは諸宗教とキリスト教の関係というものよりも、現在のキリスト教はいかがなものかと常に問い続けたわけです。


氏家●と……書きつゝ、錯綜してきたので、また改めます。いずれにしても、神−人「隔絶」構造を否定せず、救いの可能性をどこに見出して行くのか。それはキリスト教が人間の宗教として存在できるかどうかの一つの大きな分岐点になっているとはおもいます。


氏家●はっきりいえば、バルトを読まざるをえないのは、彼が泥水をきちんと飲んでいるという一点です。言葉の迫力がある。好き嫌いは別にしても迫力がある。この強さは、宗教を文化的現象に還元しようとしてしまうサロン風論者には見受けられない点だからです。


小野●これは天文学・物理学・歴史地理学・数学などの発達後も変わらないのでしょうか? 個人的な見解ですが、どうしても「天に手が届かなかった時代」の教えに見えてしまいます。 RT @ujikenorio: いずれにしても、神−人「隔絶」構造を否定せず


氏家●中々しいのですが、隔絶構造故にイエス・キリストの存在が要請されます。全人類の罪をイエスが一身に背負って神に贖うという救いのストーリーが成立しますから前提としては必要なのかな、と。 RT @fuitsuono: どうしても「天に手が届かなかった時代」の教えに見えてしまいます。


小野●近代の歴史は「隔絶構造」を解体してきたと思います。まず16世紀の二大事件、マゼランの世界一周で対蹠面説(たいせきめんせつ/※地球の裏側にも人間が存在するという説)が証明され、コペルニクス地動説で座標軸が相対化されたといえるでしょう。 RT @ujikenorio: 隔絶構造故にイエス・キリストの存在が要請されます。


氏家●神と人との対峙だけで済むとユダヤ教の現況。ただユダヤ教でも神と人をつなぐ・和解させる救い主が来るべき将来に現れることを想定しますが、それがイエスではないという向き合い方です。


氏家●で。ただ、これは私の個人的な考え方かもしれませんが、「天に届かない」という意味では、どこまでも被造物。しかしイエス・キリストへの信仰によって救いが可能になるのだとすれば、それによって「天に届く」ことは可能なのかなあ、とは思います。


氏家●「天に手が届くようになった」背景には宗教改革と世俗化の影響が一番大きいのかなと思います。前者によって宗教対立のトリガーが引かれ諦めが出る、ドイツでは領邦教会主義(領主の信仰が民の信仰)になり、言い方が悪いですが、信仰がスカスカになってしまいます(そのアンチの運動も起こりますが)。


氏家●ある意味では、これも私見かもしれませんが、寺請制度と同じような現象が、不幸にも進行するなかで、ドイツのプロテスタンティズムは、信仰がすべて個人に還元されてしまい、社会との関係を喪失します。その結果、世俗化が加速されてしまう。信仰で天にいたるのでなく、窮理で目指す道が出てくる。


氏家●その意味ではドイツとフランスの宗教と社会の分離、宗教の個人の内面への還元というのは少し筋道がちがうのかもしれません。ただ面白いのは、それと平行しつつ、ニュートンなんかは、学を究めることで神の摂理が明らかになるという筋道も立てますので、。


氏家●ただ、大乗仏教のような自助自力という意味での方向性は、キリスト教の救いの物語の都合上、立てにくいとは思うのですが可能性はあるのかなあとは、思います。通俗議論ですが、近代の世俗化のなかで、神から切り離された人間自身が神となってしまい問題を引き起す。


氏家●という意味では、キリスト教のそうした構造が人間に有限性を自覚させてくれる契機を与えてくれるのかなあとは思います。そこから無限への跳躍は可能だとは思います。しかしその跳躍はどこまでもその人自身の問題にもなりますが。


氏家●ただ、こうした発想をするのは、自分の思想的な根っこにある部分かもしれない言語が不鮮明なところに由来するのですが、どうしても有限の方ばかり見てしまいます。


氏家●拙論の初校PDFで恐縮ですが、近代における神と人との関係について少し言及したことがあるので乗せておきます。「吉満義彦の人間主義論──近代批判とその思想的根拠(1)」、『東洋哲学研究所紀要』第24号、2008年12月、東洋哲学研究所。 http://ow.ly/d/5y6


小野●アインシュタイン相対性理論と、ゲーデルの不完全性定理によって「天に届いてしまった」というのが私の考えです。個人的には西洋を理解するための教養としてキリスト教を学ぶ必要性は感じてます。 RT @ujikenorio: 「天に届かない」という意味では、どこまでも被造物。

東京都知事選について

  • Arisanのノート

 ゲーム理論で考えるとこうなる。創価学会に「謀」(はかりごと)を知る人ありやなしや。実は最後の参謀ともいうべき人物は山崎正友であった。後に功罪が明らかとなるわけだが、これ以降参謀の存在は不要となった。大綱(たいこう)なき網目(もうもく)。活動は専門性を帯び、部門事に責任者が任命された。教宣部、広宣部をつくることで結果的に「牙を抜かれたリーダー」が続出した。

絶対に自分自身と妥協しない


 絶対に自分自身と妥協しないことを決意しなければいけない。

 では己れに妥協しないとはどういうことか。

 ──私はこう考える。人間は生きる瞬間、瞬間、自分の進んでいく道を選ぶ。そのとき、いつでも、まずいと判断するほう、危険なほうに賭けることだ。極端ないい方をすれば、己れを滅びに導く、というより死に直面させるような方向、黒い道を選ぶのだ。

 逆説のようだが、しかし、これは信念であり、私の生き方のスジである。


【『呪術誕生』岡本太郎(みすず書房、1998年)】

岡本太郎の本〈1〉呪術誕生

2011-03-07

組織的な判断や指令を優先する信仰実践の毎日


【ほうれんそうの原則】──報告、連絡、相談を縮めたものである。自分の行為は全て上司に報告し、信徒どうし連絡を密に行い、事後判断の必要がある場面では全て相談する。統一教会の信徒は自己の裁量で行動することは殆どなく、組織的な判断や指令を優先する信仰実践の毎日である。これは行動のコントロールである。(※統一教会のコントロール法)


【『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』櫻井義秀〈さくらい・よしひで〉(新潮選書、2009年)】

霊と金―スピリチュアル・ビジネスの構造 (新潮新書)

2011-03-06

救急救命士が違法点滴 心肺停止でない患者に

 2リットルもの出血があり、救命処置を施したが違法行為に該当するという。被害者がいないのに法律が犯罪者をつくる。制定法、規則、戒律は魂を失えば「人間を裁く道具」にしかならない。プロクルステスのベッドのように。そして法律はいつの時代も権力者の恣意に基づいて解釈される。


 この記事を読む限りでは、点滴と救命の因果関係が定かではない。判断がしいのは、「点滴をしなかった場合」の状態が確認できないためだ。問題の根っこは、システムが人の命を救う方向へ動かないところにある。


 色々な意見が紹介されているが、「だったら、お前が責任を取れるのか?」と言ってやりたい。医師という職業は裁判官と似ており、彼らは過去の症例と確率を知っているだけにすぎない。一定のパターンを記憶しているだけの話。

建設と破壊


「建設に従事しない男は、破壊を仕事にすることになる」


【『華氏451度』レイ・ブラッドベリ/宇野利泰訳(早川書房、1964年/ハヤカワ文庫、1975年)】


華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

2011-03-05

麻薬抗争の町の女子大生警察署長、米国に亡命

 何らかの暴力やプレッシャーにさらされている人は、とっとと逃げるべきだ。判断力のない人は体力を奪われて、逃げるに逃げられなくなる。

ドルの垂れ流し


 誰でも基軸通貨(ドル)は欲しい。だからドルを増発して世界にばらまいても、ある程度は許される。しかし、アメリカはその許容限度を超えてドルを世界に垂れ流しにしてきた。ドルをアメリカに還流させなければ、ドルの価値は暴落する。そこで、アメリカは国内に証券・不動産市場、そしてさまざまな先物市場をつくって、流出ドルを還流させてきた。つまり、それで金融偏重の経済になってしまったわけだね。このことが分からないと、今、アメリカが置かれている立場が理解できない。


【『ドンと来い! 大恐慌』藤井厳喜〈ふじい・げんき〉(ジョルダンブックス、2009年)】

ドンと来い!大恐慌 (ジョルダンブックス)

2011-03-04

コンフォートゾーン


「コンフォートゾーン」という言葉があります。

 自分のセルフイメージ(自己像、つまり自分自身についてどのようにとらえているか)が居心地よく感じる領域です。このコンフォートゾーンに、人間の一生というのは非常に大きく左右されます。

 それは、個々人の能力、ビジネスチャンス、資金力がかすんで見えるほど大きな影響力を持ちます。コンフォートゾーンに比べれば、これらの影響は微々たるものです。


【『1年で10億つくる! 不動産投資の破壊的成功法』金森重樹〈かなもり・しげき〉(ダイヤモンド社、2005年)】


1年で10億つくる!不動産投資の破壊的成功法

2011-03-03

真の威厳


 威厳(ディグニティ)は非常に稀なものです。尊敬を受ける役職(オフィス)または地位(ポジション)は威厳を与えます。それはコートを着るようなものです。コート、衣装、地位(ポスト)は威厳を与えます。肩書または地位は威厳を与えます。が、人間からこれらのものを剥ぎ取ってごらんなさい。そうすれば、ごくわずかの人しか〈無〉(ナッシング)としてあることの内面的自由とともに生まれるあの威厳を持っていないことがわかるでしょう。何か(サムシング/ひとかどの人間)であることが人間が切望していることであり、そしてその何かが彼に社会的に尊敬すべき地位を与えるのです。彼をある種のカテゴリーに当てはめてみてください──利口、富裕、聖者、物理学者といった。が、もし彼が社会に認められたカテゴリーに当てはまらなければ、彼は半端物または変わり者扱いされます。威厳は装ったり、培ったりできないものです。そして威厳があることを意識することは自分自身を意識することであり、それはちっぽけなことです。無であることはまさにその自意識から自由であることです。特定の状態ではないこと、あるいはそれに陥っていないことが真の威厳です。それを取り去ることはできません。常にそれはあるのです。


【『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2005年)】


しなやかに生きるために―若い女性への手紙

2011-03-02

自分という境界の曖昧さ


「非自己」を「自己」から厳密に識別し、「非自己」の侵入から「自己」を守る「免疫」。個体の生存のために進化が作り出した、巧妙な戦略と体制。「免疫オーケストラ」と呼ばれるほどの優れた内部調節システム。充足したネットワーク。そこに発動される「自己」を守るための「免疫の戦い(インミューン・ウォー)」。などと美化されてきた「免疫」が、前章で述べたように、実は曖昧さと冗長さに特徴づけられる分子群によって運営される、混沌の王国であったとは。

 しかも、この王国の境界は明確でなく、神経系や内分泌系ともつながっている。免疫系を本当に特徴づける独自の反応様式は存在しない。免疫細胞は、体内のどんな細胞とも区別できないようなやり方で、刺激があれば反応し、増殖し、分泌する。


【『免疫の意味論』多田富雄(青土社、1993年)】


 五蘊仮和合(ごうんけわごう)の身体ですら、境界はこれほど曖昧なのだ。目に見えぬ自我は所有物にまで拡張する傾向が強いので、もっとわかりにくい。アレルギーを始めとする自己免疫疾患は、外部から侵入した異物を攻撃する機能が自分に向けられる状態となる。いわば肉体における統合失調症といってよい。病が象徴するのは不調和である。

免疫の意味論

私の好きな言葉


 ただ独り、不確かな道を歩め。(エリアス・カネッティ


 水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。(ブッダ

2011-03-01

歴史をつくるのは誰か?


「歴史とは偉人たちの伝記である」と初めて言ったのは、イギリスの有名な歴史学者トーマス・カーライルである。そのように考える歴史学者にとって、第二次世界大戦を引き起こしたのはアドルフ・ヒトラーであり、冷戦を終わらせたのはミハイル・ゴルバチョフであり、インドの独立を勝ち取ったのはマハトマ・ガンジーである。これが、歴史の「偉人理論」だ。この考え方は、特別な人間は歴史の本流の外に位置し、「その偉大さの力で」自分の意志を歴史に刻みこむ、というものである。

 このような歴史解釈の方法は、過去をある意味単純にとらえているために、確かに説得力をもっている。もしヒトラーの邪悪さが第二次世界大戦の根本原因だというなら、我々はなぜそれが起こり、誰に責任を押しつけたらよいかを知ることができる。もし誰かがヒトラーを赤ん坊のうちに絞め殺していたとしたら、戦争は起こらず、数え切れない命が救われていたかもしれない。このような見方を取れば、歴史は単純なものであり、歴史学者は、何人かの主役たちの行動を追いかけ、他のことを無視してしまえばいいことになる。

 しかし多くの歴史学者はそうは考えておらず、このような考え方は歴史の動きを異様な形で模倣(もほう)したにすぎないととらえている。アクトン卿は1863年に次のように記している。「歴史に対する見方のなかで、個人の性格に対する興味以上に、誤りと偏見を生み出すものはない」。カーもまた、歴史の「偉人理論」を、「子供じみたもの」で「歴史に対する施策の初歩的段階」に特徴的なものだとして斥けている。


 共産主義をカール・マルクスの「創作物」と決めつけてしまうのは、その起源と特徴を分析することより安易であり、ボルシェビキ革命の原因をニコライ2世の愚かさやダッチメタルに帰してしまうことは、その深遠な社会的原因を探ることより安易である。そして今世紀の二度の大戦をウィルヘルム2世やヒトラーの個人的邪悪さの結果としてしまうのは、その原因を国際関係システムの根深い崩壊に求めるよりも安易なことである。


 カーは、歴史において真に重要な力は社会的な動きの力であり、たとえそれが個人によって引き起こされたものであっても、それが大勢の人間を巻き込むからこそ重要なのだと考えていた。彼は、「歴史はかなりの程度、数の問題だ」と結論づけている。


【『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン/水谷淳訳(ハヤカワ文庫、2009年/『歴史の方程式 科学は大事件を予知できるか』早川書房、2003年を改題)】


 歴史年表は権力者の手によって綴られている。あなたの祖母や私の父がそこに登場することは決してない。創価学会の歴史が三代会長のみの事跡で綴られるとすれば、宗教性の意味はリーダーシップであり組織拡張が正義になることだろう。


 マーク・ブキャナンは歴史を「べき乗則」で捉え、複雑系で読み解こうとしている。


 例えばナシを壁にぶつけたとしよう。粉々になったナシの断片は明らかに大きなものよりも小さなものの方が多い。実は規則性があって、重さが2倍になるごとに、破片の数は約6分の1になるという。つまり、どの大きさの断片から見ても同じ重さの破片一つに対して、その半分の重さの破片は約6個存在することになる。


 おわかりだろうか? 断片がどんなスケールであろうと「同じ世界」が見えているのだ。世界はフラクタル図形を描いている可能性がある。多数の段階からなる組織もまたフラクタルであるといってよい。


 結構、小しい本なのだが、知的スリルは群を抜いている。


 話を簡単にしよう。ここに水という世界がある。鍋という宇宙によって形成されている(笑)。水世界を支えているのは、もちろんガスレンジだ。そこへ神である私がガスレンジのスイッチを入れる。水世界は熱せられる。人々(水分子のことね)の動きは活発になる。時間の経過と共に人々の運動は激しさを増す。


 そして水世界に21世紀が訪れた(人間世界の21分)。一人のリーダーが水世界を牽引(けんいん)し飛び立った。するとどうだろう。陸続とリーダーの後を追うように、鍋宇宙から彼岸へと去っていった。彼らは全く新しい時代と世界を築いた。


 ま、単なる沸騰の物語のわけだが(笑)、最初の水蒸気に注目するのが文学系物語思考で、熱力学的な圧力に注目するのが科学的分析思考といえる。


 つまり権力者やリーダー(あるいはヒーロー)という存在は象徴にすぎず、時代や社会を構成している人々の熱力学が歴史をつくっているのではなかろうか、ってな話だ。


 よく考えてみよう。歴史とは、歴史家が自分の好きなトピックを集めて勝手な物語を創作する作業だ。近代における戦争は国家元首同士の喧嘩ではない。そこには必ず国民の合意が形成されている。国民が戦争の被害者であるとする考え方は極めて無責任であろう。


 であるからして、歴史が変わる時には重要な出来事が同時に発生する。これは「対話で拓く」ような代物ではなくして、機根によって必然的に決定される。


 民の苦しみに応じて仏が出現するとすれば、困な時代になるほど賢人が現れることだろう。平和な時代には、ひたすら知的作業を推進するのが正しいあり方だと思う。

歴史は「べき乗則」で動く――種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ) 歴史とは何か (岩波新書)

ブラックホールという現象


 ブラックホールという現象について考えてみよう。星が崩壊し、全体がきわめて小さな球形の領域へ圧縮されたとき、ブラックホールは誕生する。ブラックホールは周囲の時空を著しく歪め、ある程度以上近づいたものはどんなものでも――光さえも――その重力から逃れることはできない。その限界は、事象の地平線と呼ばれている。事象の地平線を越えてブラックホールへ落ちていく物体は、中心へ近づくにつれてどんどん強まっていく潮汐力の餌食となってしまう。

 ブラックホールの中心は、特異点と呼ばれる。そこは、質量密度も無限大だし、大きさも無限大に小さいのだ。ここで問が出てくる。ブラックホールはきわめて重いので、一般相対論の原理を適用すべきなのか、あるいは特異点はきわめて小さいので、量子力学の原理を使うべきなのか? ブラックホール自体が、きわめて重いと同時にとても小さい、パラドックス的存在なのだ。このことは、宇宙の起源を説明するビッグバン理論にも大きな影を落としている。


【『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット/尾之上俊彦、飯泉恵美子、福田実訳(ハヤカワ文庫、2007年)】

黒体と量子猫〈1〉ワンダフルな物理史 古典篇 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ) 黒体と量子猫〈2〉ワンダフルな物理史 現代篇 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)