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2011-08-31

あなたの性格タイプは? 16種類であなたの性格を診断します! 16類型性格診断

 私はENTJ型だった。「他人・自分に関わらず批判するとなると、舌鋒鋭く、容赦なく、厳しく全力で完膚なきまでに叩きのめします」だって。当たっているよ(笑)。

ドイツZDF-Frontal21 福島原発事故、その後(日本語字幕) 拡散希望!!

D


 原発から60km離れた伊達市のシイタケからは、1kgあたり7000ベクレルの汚染が測定された。基準値は500ベクレルである。「もはや食べ物ではなくて放射性廃棄物です」。

マズローの欲求段階説


 アメリカの心理学者アブラハム・マズローはマズローは、人間の基本的欲求を低次から、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求に分類した。マズローの欲求段階説、または自己実現理論と呼ばれる。


 巨大組織の強みは、社会化された組織内で万能感を与えることが可能なためだろう。欲求段階説は明らかに社会システムの高次化を示している。で、じゃあ社会はどこから出てくるかといえば、脳に決まっている。つまり脳内のネットワーク構造が外部に溢れ出した姿として社会はあるのだ。


 個人的に自己実現理論は反吐(へど)が出るほど嫌いである。現在の自己が「実現されていない」前提となっているからだ。自分を貶(おとし)めるところから始まる理論は、権力者にとって都合のいい方向へと働く。


 結局マズローは人々を駆り立てる方向を規定したようにも思える。

完全なる人間―魂のめざすもの

思想はエネルギーである


 思想はエネルギーである。言語で考えているため、自分の思想は、自分の考えている特定の言語にのっとった制限や規則で構造化されている。声に出して自分の思想を表現するとき、音波を作り出している。それもエネルギーの形だ。音は声帯が作用して発せられ、声色は自分のメッセージの内容で構造化されている。マイクロ波はエネルギーである。電話の音声がマイクロ波によって中継されているが、その伝達するメッセージを示すために、マイクロ波のエネルギーは構造化されていなければならない。レーザー光線はエネルギーである。今までにレーザー光線を用いたショーや、レーザー芸術の公演を見た経験がないだろうか。そのとき目にしているのは、純粋なエネルギーが、その芸術家の創造的願望を反映した形を描いているものなのである。


【『ゾーン 「勝つ」相場心理学入門』マーク・ダグラス/世良敬明〈せら・たかあき〉訳(パンローリング2002年)】


ゾーン ― 相場心理学入門

2011-08-30

『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』植木雅俊訳(岩波書店、2011年)


梵漢和対照・現代語訳 維摩経


 維摩経は、人間生活におけるとらわれを捨て、世俗の生活(在家)のなかに仏教の理想を実現することの意味を説いた初期大乗仏典の代表的傑作である。本書は、「空」という大乗仏教思想の核心をドラマ仕立てで説く根本経典の、正確かつ平易な現代語訳。前世紀末に見つかった20世紀仏教学史上最大の発見と称されるサンスクリット原典に依拠し、梵文と漢訳(書下し)を併記。詳細な注解を付す決定版。

稽首


 史蘇〈しそ〉だけが端重(たんちょう)としていた。かれは杯を乾し、天子にたいする礼容とおなじように拝稽首(はいけいしゅ)した。拝は両手を組む礼で、稽首は地に頭をつける礼である。その二つを同時におこなう礼は、もっとも重いものである。


【『重耳』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1993年/講談社文庫、1996年)】


「稽首妙法蓮華経」(「法蓮抄」真蹟曽存)と。

重耳(上) (講談社文庫) 重耳(中) (講談社文庫) 重耳(下) (講談社文庫)

2011-08-29

戦いは即決即断が鉄則


 戦いというものは、早く決断し、早く行動することが鉄則である。たとえその決断が誤っているものであっても、ためらっているよりも、かならず良い結果を得る。


【『重耳』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1993年/講談社文庫、1996年)】

重耳(上) (講談社文庫) 重耳(中) (講談社文庫) 重耳(下) (講談社文庫)

2011-08-28

仏教はもっともドグマから遠い教え


 私は、インドのインディラ・ガンジー首相がお亡くなりになる2週間ほど前に何度かお会いしました。ちょうどその時、「仏教および国民文化に関する第1回会議」("The First International Conference of Buddhism and National Cultures")というのが開かれていたのです。この会議を開いたことが、ある意味でガンジー首相の最後の仕事になったといってもいいと思います。ガンジーさんがなぜそういうことを思いついたか、インド政府が国費を支出してそのようなことを行なったのはなぜかというと、開会式の中でこういうことをいっていました。

「今の世界は非常に危険な状態にある。文明は進歩したけれども、精神面ではいろいろとちぐはぐなことが起こっている。今度もしも戦争が起きたなら、勝利者もいないし、敗北者もいない。これをどうして防いだらよいか。そのためには高貴なる精神を必要とする。過去の世界の生んだ偉大な精神的指導者の教えに耳を傾けるべきである」

 そこでまずブッダ仏陀)をあげます。それからマハーヴィーラをあげます。これはジャイナ教開祖です。それから3番目にあげたのがナーナタです。シク教の開祖です。次にマホメット、イエス・キリスト、孔子、老子、こういう人の名をあげました。世界の多くの人々が奉じ、耳を傾けている教えというわけです。

 そして、

「こういう人々の教えに耳を傾けるべきであるけれども、とくに仏教はリースト・ドグマティックである」

 つまり、仏教は、教義をたてに人を縛ることがもっとも少ない。

「だから私はその精神を明らかにするためにこの会議を開く」

 といっていました。


【『ブッダ入門』中村元〈なかむら・はじめ〉(春秋社、1991年)】

ブッダ入門

2011-08-27

不快な症状は脳が発したSOSのサイン


 頭が痛い、肩がこる、冷える、肌が荒れる、生理不順など、病名がつくほどではないけれど、どうにかしたい不快な症状……これらはすべて脳から発せられるSOSのサインだと思ってください。不調が生じるのは、脳が「ここを見て!」と声を上げているのです。このサインを軽視してはいけません。放っておくと症状はどんどんエスカレートして、取り返しがつかないほど進んでしまいます。

 そこで、ツボです。サインを敏感に察知する方法として、ツボはとてもいいのです。脳には体中の情報が集まっていますが、脳は神経とつながっており、神経は、体中のたくさんのツボとつながっているのです。


【『一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本』加藤雅俊(高橋書店、2008年)】


一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本

2011-08-26

ソマリアとメキシコ


 創価学会としてソマリアとメキシコに何かできないものだろうか? 世界からは完全に放置されている。下の動画は閲覧注意のこと。


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(※ソマリアでは)女たちがレイプされている。また生きるために身体を売って子供たちの食料を手に入れている。国内では盗賊やイスラム過激派が女たちを狙い、ケニア側の国境ではケニア軍が女たちを狙い、キャンプでは同国人が女たちを襲う。


Darkness of ASIA

脳を育むためには皮膚に直接刺激を与えるとよい


 この結果はそのまま人の赤ん坊にもあてはまる。

 新生児の皮膚は全体の20%の重さを有し、2500平方センチもの面積を占めている。また「皮膚は露出した脳である」といわれるように、体性感覚(触覚と温痛覚)は視覚や嗅覚とは異なり直接脳を刺激していることになる。

 たとえば、視覚の場合、外側膝状体(がいそくしつじょうたい)でモノの色やパターンの情報が処理されてから、視覚野(第一次視覚野から第三次視覚野まである)に情報が送られて初めて視覚が生まれる。それに比べると皮膚の情報は単純な経路で脳に届き、はるかに大きな面積を刺激することになるのである。

 だからこそ、脳を育むためには、皮膚に直接刺激を与えるとよいのだといえるのである。


【『子供の「脳」は肌にある』山口創〈やまぐち・はじめ〉(光文社新書、2004年)】

子供の「脳」は肌にある (光文社新書)

2011-08-25

間違った同意と黙従


 間違った同意と黙従が凡庸さを生み出すのです。が、もし精神の真の反抗と、愛情と理解を持とうとする大いなる願いがあれば、その時には凡庸な精神を克服することができるのです。精神を大いなる反抗の状態に導くことがあらゆる人の義務だと、私には思われます。なぜなら、その時には本当の理解力が生み出されるからです。理解することなくいつも私の言うことに同意する人々よりはむしろ、私が言うすべてに異論を唱え、理解すべく精進する人々を私は持ちたい。


【『白い炎 クリシュナムルティ初期トーク集』J.クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2003年)】


白い炎―クリシュナムルティ初期トーク集

2011-08-24

凡庸な心は決して反逆しない


 凡庸な心は、決して反逆しない。それは政府に、両親の権威に服従する。一方、真実を求めている者は、本質的に世間体や利欲や権力を求める野心に基づく社会に対して、反逆している。彼は社会と衝突しないが、社会は彼と衝突している。社会は決して彼を受け入れたがらない。

  ――クリシュナムルティ@Masa6204

穢れの概念こそ差別思想の根源


 死の世界が穢れているという思想は、中国の道教の影響からきたもののようです。日本の神道は、道教の影響を強く受けていますから、それゆえに、死の世界が穢れの世界であるという考えが根を張っているのでしょう。実際、神道では塩をまくことが重要なお払いの儀式であると位置づけられて、穢れの概念が塩をまくという行為に直結しているわけです。

 この穢れの概念こそが差別思想の根源であり、私たちから自由を奪う洗脳に道具にほかなりません。単純化していえば、支配階級は、誰が一番クリーンであり、誰が一番穢れているかという恣意的な判断基準を私たちに押しつけ、階層をつくり、私たちをそのなかに閉じ込めたわけです。


【『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(ビジネス社、2008年)】

洗脳支配ー日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて

2011-08-23

教義と政治


 面白いページを見つけた。

 ベストアンサー以外は創価学会員が答えたものと思われる。「一般会員の知識では致し方ない」と広宣部経験者のため息が聞こえてきそうだ。問題は一般と非一般とが存在する事実だ。つまり教義の次元において裏と表があると言ってよい。


 元々日蓮正宗ルールに基づいてプレーしてきた過去が弱点となっているわけだが、いまだに払拭できていない事柄が多い。


 学会員宗教的信念は「学会本部が決めたことは正しい」という代物で、党の方針に額づく共産党員と何ひとつ変わるところがない。

 創価学会の教義を決めるのは会長であることが会則に明記されている。

 教義変更が学術的根拠に基づいて行われることは、まずないと考えていい。そもそも創価学会内において学術的研究がなされていないからだ。とすると教義が変わるのは、「何らかの組織的な事情」によるものと想定される。すなわち教義変更は政治決定においてなされるということがわかる。


 このため多くの学会員の思考回路は、「本部認定のお墨付きがない研究は謗法」という単細胞レベルにまで堕しているありさまだ。

 上記ブログ記事はパブロフの犬そのものであり、旧ソ連の密告的要素すら感じられる。記事タイトルからして思想的格闘がないのは明らかだ。馬鹿丸出しを絵に描いたような浅ましい姿だ。愚かな民衆ほど手に負えないものはない。


 結局のところ、学術的視点を欠いた功徳路線=プラグマティズムが自縄自縛と化しているのだ。尚、教学の諸問題については宮田幸一さんが丁寧な論文を書いている。

 私が書いたものは以下。

 最後に今日のツイートを紹介しておく。


 主義・主張を盛り込んだ情報は必ずプロパガンダ化する。政治家、営業マン、宗教者の言動が軽いのはそのためだ。彼らは自ら進んで「手先」となる。


日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実 日蓮正宗の神話

法華仏教研究会

 過去の日蓮主義の例を挙げるまでもなく、現在においても、最も果敢に折伏を実践し、好戦的であると目されている、日蓮正宗、創価学会顕正会の対立は、目的(正義)のためには手段を選ばないという方向へエスカレートする危うさを孕んでいました。それが日蓮教団の宿命なのかも知れませんが、私は敢えて、「慈悲を説く宗教が、人を憎んではいけない」「人間を救うべき宗教が、宗教戦争によって人間を不幸にしてはいけない」と訴えたいと思います。(発起人代表 花野充道


 山中講一郎さんが寄稿している。

浅薄で意思を持たない追従者の群れ


 ゲーテドイツ人ユダヤ人やギリシャ人と同様に悲劇の民と呼んでいるが、今やドイツ人はあたかも浅薄で意思を持たない追従者の群れのようだ。内面の奥底から骨の髄まで吸い取られ、自分自身の核となるものを奪われて、甘んじて破滅へと追い立てられゆく群れだ。見かけはそうだが、実は違う。実は、偽りの姿をとってゆっくりと忍び寄る組織的な暴力に無理強いされ、一人一人が精神の独房に閉じ込められてしまった。そして、そこに縛り上げられて横たわった時初めて、おのれの身の破滅に気づいたのだ。(※白バラのビラI)


【『「白バラ」尋問調書 『白バラの祈り』資料集』フレート・ブライナースドルファー編/石田勇治、田中美由紀訳(未來社、2007年)】

「白バラ」尋問調書―『白バラの祈り』資料集

2011-08-22

国会議員の2割が世襲議員、上場企業の2割が世襲社長


 読売新聞の調べでは、2002年12月の時点で、国会議員の2割がいわゆる世襲議員でした。毎日新聞の2000年調査によりますと、全国の都道府県議会議員では14%、政令指定市議会では13%が、親子代々、もしくは親子三代にわたって議員をしているのです。東京、大阪、名古屋、千葉などの都市部では、この割合は国会議員と同等の20%台に跳ね上がります。

 世襲はなにも、政治家だけにかぎりません。通産省(現・経済産業省)の『総合経営力指標 製造業編・小売業編』で、企業の社長の実態も明らかになります。平成6年、一部上場、二部上場の488社中、二代目社長は111人。23%が世襲社長だったのです。


【『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ(イースト・プレス、2004年/ちくま文庫、2007年)】


 今時は本部職員も世襲化しており、代々坊主も顔負けだ。

反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)

2011-08-21

いじめから助けてくれた子のことを話したい

 山形県内でのいじめ援助交際を強要している。いじめを支えているのは、クズみたいな教師と愚かな親だ。

教会への拒否反応


 石原はクリスチャンとして死を迎えたが、教会という集団にも拒否反応を持っていて、急死の1か月ほど前の安西均との対談「背後から見たキリスト」で、こんな発言をしている。

「教会というのは、ひとつの集団ですね。ぼくはシベリヤから帰って来たときに、徹底的に集団から離れるという、そういう姿勢ができちゃったものですから、教会という集団にどうしても属せないものがあるんですね。特にみんなが立ちあがって主の祈りなんかする時は恥ずかしくてね、讃美歌うたってる時も、途中でやめちゃうことがあるんですよ」


【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】


 日本から見捨てられたシベリア抑留者の眼には、集団の欺瞞がありありと見えていたのだろう。そして今、シベリア抑留者と全く同じように、福島の人々が見捨てられている。

内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史


内なるシベリヤ抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史

2011-08-20

ネアンデルタール人の介護


 北イラクのシャニダール洞窟で発掘された化石はネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)のイメージを大きく変えた。見つかった大人の化石は、生まれつき右腕が萎縮する病気にかかっていたことを示していた。研究者は、右腕が不自由なまま比較的高齢(35〜40歳)まで生きていられたのは、仲間に助けてもらっていたからだと考えた。そこには助け合い、介護の始まりが見て取れたのだ。「野蛮人」というレッテルを張り替えるには格好の素材だった。


【『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠(講談社現代新書、2005年)】

人類進化の700万年―書き換えられる「ヒトの起源」 (講談社現代新書)

2011-08-19

「原発推進論者」の大誤報を打った「ガセネタ屋」の読解能力


 名誉棄損裁判でたびたび敗訴を繰り返し(すでに6件の敗訴が確定)、“事実を書けないジャーナリスト”として定評のある乙骨某が、池田名誉会長のことを「原発推進論者」などと誹謗中傷し、その根拠として、アーノルド・トインビーとの対談集『二十一世紀への対話』(1975年発刊)を挙げていることは知っている人は知っている。だが、肝心のその対談集を手にとってみると、そこに記述されている名誉会長の発言は、「原子力の平和利用」を条件付きで認めるというその時点における立場の表明にすぎず、それだけで「原発推進論者」などと断定することには無理があることを当コラムでは指摘した。


 ところが、それから6年後の81年には、名誉会長は米国スリーマイル島の原発事故(79年)などをへて、「核エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとい平和利用であっても、即時に中止すべきであると考えます」(『大白蓮華1981年3月号、64ページ)との考えを表明していたことがこのほど明らかとなった。


 上記の乙骨某は、「スリーマイル島の原発事故やチェルノブイリ原発事故、さらには東海村JOCの臨界事故などを目の当たりにしても、池田氏は原発容認の姿勢を変えなかったのである」(フォーラム21・6月号)などと勝手に書き飛ばしていたが、まったくの事実誤認、あるいは《誤報》であったことが明らかである。


 もともと“事実を書けないジャーナリスト”なので、致し方ない面もあるだろう。これらの文章の存在にもかかわらず、「原発推進論者」などと書けるのは乙骨某だけだ。以下は月刊誌『大白蓮華』に掲載された該当部分だが、こうした意見表明が公明党の政策に現実的に反映されなかったのは、また別の問題といわざるをえない。


 とくに核エネルギーの問題は、たんに資源の有限性というだけにとどまらず、たとえ、資源は残されていっても、消費した結果として生ずる廃棄物が人類の生存を危うくしてしまう場合ですから、なおさら深刻です。石油資源の場合も、その使用済みの廃棄物質が大気や水を汚染しますが、核エネルギーの場合は、その何倍も大きな危険性を含んでいます。


 私は、資源全般の消費に対する考え方の転換が全人類に徹底されなければならないと訴えるとともに、とくに核エネルギーの問題は、過去に人類がぶつかってきたいかなる問題とも質を異にしていることに気づくべきだと言いたいのです。つまり、蓄積されている量がある限界まで達しなければ無害か、有害であっても致命的ではないのが、核以外の物質の汚染でした。ところが、核エネルギーの廃棄物の場合は、それがどんなに少量であろうと、必ず致命的な害を及ぼすのです。


 その意味で、核エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとい平和利用であっても、即時に中止すべきであると考えます。そして、もし、絶対的で、永久的に安全な廃棄物の処理法が発見されれば、そのときはじめて利用を再開してもよいと思います。しかし、それまでは、全面的に中止し、危険な廃棄物を生じないエネルギー資源の開発、循環可能で枯渇の恐れのないエネルギー資源の開発に、現代科学の総力を傾注して取り組むべきであると思うのです。(連載3「闇は暁を求めて〜現代の危機に対する西洋と東洋の対話」)


柳原滋雄コラム日記 2011-08-16

出家したブッダは文化の中心地に向かっていった


 釈尊は29歳で出家したと伝えられているが、出家してからまっすぐに、当時東インドの最強の国であったマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)に向かっている。それは、その都が当時インドの商業や文化だけでなく、学問や宗教の一大中心地だったからであろう。釈尊は出家したからといって、すぐに山林にひきこもって瞑想したわけではなく、むしろその逆であって、まず正しい宗教的な真理、哲学的な智見を求めて、文化の中心に向かっていったのである。


【『仏教への道』松本史朗〈まつもと・しろう〉(東京選書、1993年)】


仏教への道 (東書選書)

2011-08-18

「池田名誉会長は原発推進派」というレッテルについて


 創価学会の池田名誉会長が歴史学者のアーノルド・トインビーと対談した『二十一世紀への対話』が発刊されたのは1975年3月。その中に「原子力の平和利用」という項目があって、ここでの名誉会長による発言内容が、ネット世論の一部などで「原発推進派だった」などのレッテルばりにつながっているようだ。


 一読すると、「原子力の平和利用」と題する項目に「原子力発電」という文字はまったくなく、原子力の平和利用を条件つきで容認するといった主張にすぎない。具体的には、「原子力が、新たな、将来性あるエネルギー源として平和的に利用されることは、喜ばしいことだと思います」、さらに「石油、石炭に代わる動力源として、大いに期待できる」「原子力の平和利用それ自体には異存はない」といった3カ所。


 問題は、アンチ創価学会の人間が引用するのはここまでで、実際はこの項目に掲載されている文章には、次のような《前提条件》が明確に書かれている(アンチはこの部分を意図的にか取り上げないことがある)。


 すなわち、「よく知られているように、原子力は非常に危険な、諸刃の剣ともいうべきもの」、さらに「取り扱い上の問題、燃料廃棄の問題など、石油、石炭とは比較にならないほど多くの未解決の問題点を抱えています」「その困、障害を除去するために、今後、非常な研究と努力とが必要とされるでしょう」といった部分である。


 これらを総合的に読めば、手放しで「原子力の平和利用」を容認しているわけではなく、むしろ多くの前提条件が将来的にクリアされることを前提にして、「平和利用」への期待を述べていることが明らかである。


 冒頭の書籍が世に出た1975年といえば、日本では原子力発電が実用化されてからすでに10年近くがすぎており、この段階ではまだ世界でも大きな事故は起きていなかった。


 一方、米国スリーマイル島の原発事故が起きたのはそれから4年後の79年3月。それ以降の記述では、「原子力エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとえ平和利用であっても、慎重に考慮すべき」(『闇は暁を求めて』81年)、「今日の石油に代わるエネルギー源として、原子力に期待することはしい」(『二十一世紀への警鐘』84年)など、池田名誉会長の主張のトーンが明確に変化したことは、意味のないことではない。


 当初から、原子力は「非常に危険な、諸刃の剣」との認識をもちつつも、それを平和的に活用することへの期待を述べた段階と、それはまったくしいと認識が変化した段階との違いと思われる。前提条件として当時挙げられていた「燃料廃棄の問題」も、いまもってまったく解決されていない。よく言われる「トイレのないマンションに住んでいるようなもの」との状態は、何も変わっていないのだ。


 結論として、池田名誉会長が、原子力発電を推進すべきと積極的に述べたことは、以上の記述を見る限りでは、一度もない。当初の記述は、化石燃料にかわる新たなエネルギー源として期待できると述べたレベルにとどまり、しかも早い段階で、その考えを実態に合わせて修正している。


 そうした思考を現実政治のなかでどのように位置づけ取り入れたか、あるいは逆だったかは、むしろ公明党サイドの問題であろう。付け加えておけば、ソ連の原子力発電なら天まで持ち上げ、米国の原発導入には反対などというご都合主義的な主張と比べれば、よほど道理にかなっており、自然であったことは間違いない。


柳原滋雄コラム日記 2011-08-10

『SGIと世界宗教の誕生 アメリカ人ジャーナリストが見た創価学会』クラーク・ストランド/今井真理子訳(第三文明社、2011年)


SGIと世界宗教の誕生―アメリカ人ジャーナリストが見た創価学会


 なぜ創価学会が世界宗教になりえたのか――。創立から80年の歴史をふまえ、アメリカの仏教誌『トライシクル』元編集長がその本質に迫る。

御影に関して


 私が東洋哲学研究所の学術大会で牧口常三郎について発表し、御影本尊論に言及したとき、出席していた篠原誠に、戸田城聖が御影本尊について何か言ってなかったかと質問したことがあった。すると彼は、池袋の寺院で戸田が住職も同席して青年部の幹部と懇談していた折、戸田が「創価学会の本尊には本当に功徳がある。」という話を強調していたので、創価学会の本尊も日蓮正宗の本尊も同じなのに不思議なことを言うなと思って、篠原がどういう意味かと尋ねたところ、住職に向かって、戸田は「お前のところの本尊はよく見えないじゃないか」と日蓮御影の陰になって、曼荼羅本尊が見えないことを指摘し、後に寺院から日蓮御影が撤去されたというエピソードを紹介してくれた。このエピソードは、戸田城聖日蓮御影を本尊とすることに対して無知だったわけではなく、否定的見解を持っていたことを示していると私は考えている。


漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」を検討する 1


 この話は私も篠原誠参議から直接聞いている。「お前」と言われたのは常在寺の細井氏(後の日達)である。つまり日蓮正宗では御本尊の前に御影(みえい)を安置していたのだ。


【追記】読者からの情報によれば、妙蓮寺では長らく御影像のみを安置していたそうだ。住職は「御本尊は御影像の中に入れてある。マンダラだと誰もありがたがらないから、中に入れておけば御影像を拝むとき自動的に拝んでくれる」と説明したという。

「宗」という概念は「学派」


 次に注意すべきは、「宗」という概念である。今日、われわれは何々宗というと、仏教内において教理・信仰を異にし、独立した組織をもつ集団を考えるが、南都六宗の「宗」はむしろ学派、あるいは一寺院内に諸宗が同居して研鑚にはげむ様は、今日の大学における学部あるいは学科のようなものと考えたほうがよい。当時の記録によると、各宗はそれぞれ寺院内で独立した研究所をもち、そこには図書が備えられ、また各宗に縁の深い仏菩薩や祖師をまつった厨子(ずし)が置かれていたという。


【『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』末木文美士〈すえき・ふみひこ〉(新潮社、1992年/新潮文庫、1996年)】


 学派は学問的見解の相違であるが、宗派は所属教団の違いでしかない。つまり宗派が説く正義とは「立場」に基づくものであって思想とは関係がない。もう少し踏み込むと、宗派の実体は「タブーの共有」に他ならない。

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

2011-08-17

ガンディーは常に権力者であった


 パンディタ(学者)、博士、サー(卿)、シェイク(長)と呼ばれる知識階級が主導権を握る組織には、彼は興味がなかった。ガンジーは、民衆の代弁者で、民衆の名において話し、民衆のために活動することを望んだ。彼は民衆派であったけれども、本当の意味で民衆的な、民主主義的組織は作らず、自分の事業の継続にあたってはいつも、みずからが権力を持っていた。


【『ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ/今枝由郎訳(白水社文庫クセジュ、2002年)】

ガンジーの実像 (文庫クセジュ)

2011-08-16

ビビアーナとコンドルカンキ


 達雄さんから教えてもらったアルゼンチンのグループ。ちなみに学会員ではない。民音公演で何度か来日しているそうだ。

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歴史のある文明は、地中海文明と中国文明だけである


 歴史という文化は、地中海世界と中国世界だけに、それぞれ独立に発生したものである。本来、歴史のある文明は、地中海文明と中国文明だけである。それ以外の文明に歴史がある場合は、歴史のある文明から分かれて独立した文明の場合か、すでに歴史のある文明に対抗する歴史のない文明が、歴史のある文明から歴史文化を借用した場合だけである。

 たとえば日本文明には、668年の建国の当初から立派な歴史があるが、これは歴史のある中国文明から分かれて独立したものだからである。

 またチベット文明は、歴史のないインド文明から分かれたにもかかわらず、建国の王ソンツェンガンポの治世の635年からあとの毎年の事件を記録した『編年紀』が残っており、立派に歴史がある。これはチベットが、唐帝国の対抗文明であり、唐帝国が歴史のある中国文明だったからである。

 イスラム文明には、最初から歴史という文化要素があるけれども、これは本当はおかしい。アッラーが唯一の全知全能の神で、宇宙の間のあらゆる出来事はアッラーのはかり知れない意志だけによって決定されるとすれば、一つ一つの事件はすべて単独の偶発であり、事件と事件の間の関連を論理によってたどろうなどというのは、アッラーを恐れざる不敬の企てだ、ということになって、歴史の叙述そのものが成り立たなくなってしまう。(中略)

 しかし、もっと大きな理由は、イスラム文明が、歴史のある地中海文明の対抗文明として、ローマ帝国のすぐ隣りに発生したことである。地中海文明の宗教の一つであるユダヤ教は、ムハンマドの生まれた6世紀の時代のアラビア半島にも広がっていた。ムハンマド自身もその影響を受けて、最初はユダヤ教の聖地であるイェルサレムの神殿址に向かって毎日の礼拝を行っていた。


【『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】

世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫)

2011-08-15

会いたい、聞きたい イタコ訪れる被災者たち


 東日本大震災で肉親などを失った被災者が、死者の霊を呼び出してその意思を告げるというイタコの口寄せを依頼する例が目立っている。青森県むつ市の恐山などで遺族の思いを聞くと、親しい関係を突然断ち切られた喪失感を埋めたいという思いが強いようだ。(以下略)


asahi.com 2011-08-15


 物語の需要と供給。

緑の革命は失敗であった


 いまでは、緑の革命は失敗であったと認識されています。それは、伝統的な農業における食料生産のコントロールを、農民の手から多国籍企業の手に移す、アグリビジネスモデルを広げるためのプロジェクトであったといます。

 ゲイツらのグループは、「アフリカの緑の革命のための連合」にも投資していますが、これもアフリカの伝統的農業を、近代化農業のシステムに移行させるためのもので、「緑の革命」と同じ道をたどるのではないかと危惧されます。


【『自殺する種子 アグロバイオ企業が食を支配する』安田節子(平凡社新書、2009年)】


 公明党はTPPに賛成することだろう。日米安保は反対から容認へと立場を変え、湾岸戦争自衛隊派遣を支持してきた過去を踏まえれば明らかだ。


 民主党が政権をとっても何ひとつ変わらないことに疑問を抱いている国民は多い。鳩山、小沢を葬ったのはアメリカのカート・キャンベル国務次官補だった。沖縄の米軍基地問題の処し方が気に食わなかったためだ。


 つまり、この国はGHQが去った後もアメリカに隷属する構造が確立されているわけだ。アメリカは官僚メディアを完全にコントロールしている。終戦時に渡米していた日本人スパイは、罪を咎(とが)められることなく各新聞社へと送り込まれた。


 読売新聞のオーナーだった正力松太郎には「ポダム」というCIAコードネームまでつけられていた。


 ということは、「アメリカが認めてくれる範囲でしか広宣流布はやりません」と宣言したも同然だ。イスラエルに対して創価学会沈黙を保っているのはその証拠といえる。


 アメリカのモンサント社は、「自殺する種」を作る多国籍企業だ。強い農薬に耐性をもつ遺伝子組み換え作物を世界に広め、最終的には種苗(しゅびょう)の銀行をつくることを目論んでいる。自殺する種は翌年実らないため農家は借金漬けとなる。実際にインドではモンサント社の世界戦略によって、30分に1人の割合で農民が自殺をしている。


 スワミナサン対談の検証が必要だ。

自殺する種子―アグロバイオ企業が食を支配する (平凡社新書) 「緑の革命」と「心の革命」

2011-08-14

tumblrが面白い

 アカウントは随分前に取ったのだが、ずっと放置したままだった。数年前はサーバー落ちが酷かったのだ。で、復活させたところ、面白くてやめられない止まらない状態だ。tumblr三昧といってもいいほど。で、気づいたのだが、Gmailやfacebookのアカウントが既にネット上の身分証明書のように機能している。画像保存はflickrとpicasaの併用で完璧。flickrに登録している人はワンクリックでtumblrに画像がアップできる。写真の情報圧縮度はテレビの比ではない。シナプスが次々と発火して連想の地平を照らす。刺激が強すぎて怖いくらいだ。

「いったい、神はどこにおられるのだ」


 3人の死刑囚は、いっしょにそれぞれの椅子にのぼった。3人の首は同時に絞索の輪のなかに入れられた。

「自由万歳!」と、二人の大人は叫んだ。

 子どもはというと、黙っていた。

「神さまはどこだ、どこにおられるのだ。」私のうしろでだれかがそう尋ねた。

 収容所長の合図で三つの椅子が倒された。

 全収容所に絶対の沈黙。地平線には、太陽が沈みかけていた。

「脱帽!」と、収容所長がどなった。その声は嗄れていた。私たちはというと涙を流していた。

「着帽!」

 ついで行進が始まった。二人の大人はもう生きてはいなかった。脹れあがり、蒼みがかって、彼らの舌はだらりと垂れていた。しかし3番めの綱はじっとしてはいなかった――子どもはごく軽いので、まだ生きていたのである……。

 30分あまりというもの、彼は私たちの目のもとで臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死のあいだで闘っていたのである。そして私たちは、彼をまっこうからみつめねばならなかった。私が彼のまえを通ったとき、彼はまだ生きていた。彼の舌はまだ赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。

 私のうしろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。

「いったい、神はどこにおられるのだ。」

 そして私は、私の心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。

「どこだって。ここにおられる――ここに、この絞首台に吊るされておられる……。」

 その晩、スープは屍体の味がした。


【『夜』エリ・ヴィーゼル/村上光彦訳(みすず書房、1995年/新版、2010年)】

夜 [新版]

2011-08-13

中国・貴州省で暴動、「城管」の暴力がきっかけ


 11日午後、中国・貴州(Guizhou)省で暴動が発生し、数千人が路上に出て翌日未明まで車両の破壊や放火などを行った。国営新華社(Xinhua)通信が12日、報じた。この暴動で警察官10人が負傷した。

 国営ラジオ放送CNRのウェブサイトによると、暴徒はトラックで幹線道路を封鎖したという。

 新華社によると、「城管」と呼ばれる路上の取り締まりを担当する機関の職員が、違法駐輪したとして女性から自転車を押収しようとした際に、この女性に暴力を振るったことが暴動のきっかけだったという。

 中国版ツイッター「新浪微博(Sina Weibo)」では12日、この暴動についてのコメントは遮断されている。


暴動を引き起こす「城管」


 城管の職員は、市民に過度な暴力を振るうと批判されることが多く、多くの中国人に嫌われている。近年の暴動には城管職員の行為がきっかけになったものも多い。

 前月にも中国南部の都市で、城管職員が足の不自由な果物売りの男性を殴ったことをきっかけに数百人規模の暴動が起きている。違法駐車したとして荷車を押収されたことに抗議していたというこの男性は、殴られた際のけががもとで死亡した。


AFP 2011-08-12


 官僚が横柄になると暴動が起こる。作用と反作用の力学だ。

国家の実体は官僚


佐藤●私はナショナリズム病理を発症させる上でいちばん大きな役割を果しているのが官僚だと考えます。なぜなら、“国家の実体は官僚”だからです。


【『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』佐藤優魚住昭日新聞社、2006年/日文庫、2010年)】


 創価学会の実体は本部職員と考えることは可能か? トップダウン組織の本質は指示機能である。ゆえに妥当だろう。

ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき (朝日文庫)

2011-08-12

ノリエガ元将軍を母国パナマに引き渡しへ 仏首相決定


 フランスのフィヨン首相が7月初め、資金洗浄の罪で禁錮刑に服していたパナマのマヌエル・ノリエガ元将軍(77)の身柄を同国に引き渡す決定をしたことが明らかになった。AFP通信が3日伝えた。弁護側も受け入れる方針で、引き渡し時期を調整している。

 パナマの独裁的指導者だったノリエガ元将軍は1989年、米国の軍事侵攻に伴い失脚。翌年、米国司法当局に麻薬取引などの罪で逮捕され、禁錮刑を受けて約20年間にわたり収監された。一方、フランスでは資金洗浄の罪で被告不在のまま有罪判決を受け、2010年に米国からフランスに身柄が移された。


asahi.com 2011-08-04


 ノリエガ将軍の評価は二つに分かれる。どちらも紹介しておこう。

 霍見芳浩〈つるみ・よしひろ〉は非常に腰の強い論客だ。たぶん田原総一朗でもかなわない相手。こんな記事を書いていたとは知らなかった。

 ノリエガ将軍にかこつけて学会を批判する者は、アメリカが中南米で行ってきた分割統治の歴史も知らないのだろう。鬼の首でも取ったような態度で自分の無知をさらしている。敵失で相手教団を貶(おとし)める手法は【お互いに】やめるべきだ。議論が拙いものとなってしまうので。

信仰という言葉について


「信仰」という言葉はプロテスタントロジックである。つまり信仰≒教条という図式だ。私自身、過去に何度となく「宗教とは如説修行であり、修行なきキリスト教では救われない」と書いてきた。ところがこれは誤りであった。


 マルティン・ルターが批判したのはローマ教会のサクラメント(儀式)であった。つまりプロテスタントにおいては、修行がないというよりも修行を完全否定しているのだ。これが信仰の原義であると考えていいと思う。砂漠という不毛の大地から生まれた教えが、天を仰ぐ行為へと導く。


 そう考えると密教が仏教のサクラメント化であることに気づく。最澄・空海を祖とする日本仏教がおしなべて儀式性を帯びているのはこのためだ。


 直観が更に重大なことを告げる。多分「絶対」という概念もキリスト教に由来している。絶対とは神と聖書のことだ。これは日本語で「絶対に正しい」という絶対とはわけが違う。絶対に動かし得ないものとしての「絶対」である。


 信仰と信心は異なることを理解しよう。


 信じる人々が増えると何らかのルールが必要となってくる。これが教義であり戒律だ。現代社会においては法律として機能している。社会化・共同化という現象が、教えを矮小化し、人々の自由(=権利)を束縛する。洋の東西で一致しているのが実に不思議だ。

君は今こそ怒らねばならぬ


 君は忿怒佛のように

 今こそ

 怒らねばならぬ

 怒れ 怒れ

 怒って 怒って 地上をのたうち回れ

 虐げられた

 苦しむ衆生のために


【『わたしのリハビリ闘争』多田富雄(青土社、2007年)】

わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか

2011-08-11

恐れから不安定が生まれる


「世界が変わることを頭の中で期待しているだけでは、世界は変わらないだろう。国家やその指導者たちの間に見られる恐れ、不信、競争、不安は、我々自身の中に根ざしている。我々の生活の恐れが積もり積もって、国家的脅威や不信、国家の不統一や不安定が生まれるのだよ」

「だから、我々自身から始めないかぎり、平和は得られない。平和とは何を意味するかを理解することすら始まらないのだ」


【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール/尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】

君あり、故に我あり―依存の宣言 (講談社学術文庫)

2011-08-10

世界の宗教弾圧が増加傾向に、06〜09年調査


 米非営利調査機関ピュー・リサーチ・センター(Pew Research Center)は9日、2006〜2009年の間に宗教に関係する暴力や迫害が増加したとの調査結果を発表した。迫害の対象となるのは、主にキリスト教徒とイスラム教徒だという。

 ピュー・リサーチ・センターの「宗教と国民生活に関するピュー・フォーラム(Pew Forum on Religion and Public Life)」は、「調査の結果、(06年半ばから09年半ばまでの)3年間の調査期間中に、キリスト教徒に対する政府、もしくは社会によるハラスメントは130か国(66パーセント)、イスラム教徒に対するハラスメントは117か国(59パーセント)で確認された」と述べた。

 地域別で見ると、政府が国民の信教の自由を侵害している比率は中東と北アフリカで最も高かった。


欧州で宗教関連の社会対立が増加


 ブライアン・グリム(Brian Grim)氏率いる調査チームは、米国務省、国連(UN)、欧州連合理事会や複数の人権団体など18団体が公表した資料を細密に調査した。

 その結果、政府による宗教弾圧が最も行われているとされたのはエジプトで、以下イラン、サウジアラビア、ウズベキスタン、中国、モルディブ、マレーシア、ミャンマー、エリトリア、インドネシアが続いた。

 宗教に関連した社会的対立が最も多いとされたのはイラクで、以下インド、パキスタン、アフガニスタン、ソマリア、インドネシア、ナイジェリア、バングラデシュ、イスラエル、エジプトが続いた。

 どちらのリストにも欧州の国は上位10位にランクインしなかったが、宗教に関連した社会的対立が最も増加した10か国のうち5か国は、英国、ブルガリア、デンマーク、ロシア、スウェーデンが占めた。


仏、セルビアで制約を強化


 フランスとセルビアの政府は、宗教に対する制約を大幅に増加させた。

 フランスのニコラ・サルコジ(Nicolas Sarkozy)大統領は2009年、イスラム教徒の女性が身体を覆って着用する衣服ブルカは「フランスの価値観とは相容れない」と発言。ブルカを禁止する法案が議論されるきっかけとなった。

 セルビアでは、プロテスタント福音派のグループやエホバの証人などの少数派宗教を政府が公的に認可していないため、これらの団体は公共メディアで番組を放送する権利を奪われている。


AFP 2011-08-10

竹島問題で国際裁判所付託 韓国に提起検討 政府49年ぶり


 韓国が不法占拠している竹島の領有権問題について、政府が国際司法裁判所(ICJ)付託による解決を目指し、韓国政府への正式な提起を検討していることが9日、分かった。政府筋が明らかにした。ICJ付託の提起で竹島領有の正当性を国際社会に訴える狙いだが、韓国が付託に同意する可能性は低く、「対抗措置」への反発は必至だ。

 ICJ付託提起の検討が急浮上したのは、韓国の竹島実効支配への強硬姿勢に歯止めがかからないため。日本は昭和29年と37年に韓国側にICJへの付託を提起したことがあり、今回実現すれば49年ぶりとなる。

 竹島へは今春以降だけでも韓国の閣僚5人が訪問するなど、実効支配をエスカレート。韓国政府は竹島近くの鬱陵(ウルルン)島視察を計画した自民党議員3人の入国も不許可とした。日本政府はそのたびに抗議し、松本剛明外相は1日にも韓国の申●(=王へんに玉)秀駐日大使に12日の竹島での韓国国会「独島領土守護対策特別委員会」開催中止を申し入れたが、反発を受けただけだった。

 韓国がICJ付託を受け入れる見込みはほぼないが、政府は「正式に交渉テーブルに上げ、韓国の対応に日本がいかに怒っているかを示すことになる」(外務省幹部)としている。

 政府がICJ付託の提起を長年行わなかったのは、紛争化が日韓関係に得策ではないとの自民党政権時代からの判断があったためとされる。韓国は竹島問題を1910(明治43)年の韓国併合の過程で略奪された「歴史問題」と主張し、「領土問題はない」との立場をとる。韓国側が最も嫌がるのがICJ付託で、政府内には「韓国の反発を招くだけで逆効果だ」と懸念もある。一方、国際法へ訴える「正攻法」を封印してきたことには「日本の主張について『発言も許さない』との政治風土を韓国に定着させてしまった」(外務省幹部)との「反省」もあり、今回の検討に至った。

 松本外相は9日の参院外交防衛委員会でICJ付託を問われ、「平和的な解決のためのあらゆる手立てを取らなければならないと考えている」と述べた。


産経ニュース 2011-08-10

運の世界


 茶道で、一椀の茶に真剣に向かう人とただ形式だけをなぞって漠然と飲む人では、そこから得るものがまったく違います。椀のお茶はいってみれば運です。茶に真剣に向かう茶人が茶の空間を深く感じ取り、そこからさらに宇宙を直感するように、運に対して心を開いて感じようとする人は運の世界がどういうものかが見えてくるのです。


【『運に選ばれる人 選ばれない人』桜井章一(東洋経済新報社、2004年/講談社+α文庫、2007年)】

運に選ばれる人  選ばれない人 (講談社+α文庫)

2011-08-09

氾濫する科学情報を識別するための十カ条


 1.懐疑主義を貫き、多様な情報を収集して自分自身で判断する

 2.「○○を食べれば……」というような単純な情報は排除する

 3.「危険」「効く」など極端な情報は、まず警戒する

 4.その情報がだれを利するか、考える

 5.体験談、感情的な訴えには冷静に対処する

 6.発表された「場」に注目する。学術論文ならば、信頼性は比較的高い

 7.問題にされている「量」に注目する

 8.問題にされている事象が発生する条件、とくに人に当てはまるのかを考える

 9.他のものと比較する目を持つ

 10.新しい情報に応じて柔軟に考えを変えてゆく


【『メディアバイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀〈まつなが・わき〉(光文社新書、2007年)】

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書 (298))

2011-08-08

遺体安置1日10万円も 被災者苦しませる高額請求


 東日本大震災被災地葬儀をめぐる苦情が相次いでいる。遺体の安置が1日10万円、ドライアイス代も1万円……。高額な請求が被災者を苦しませる事例がある。犠牲者葬儀お盆前のいまも営まれており、業界団体が注意を呼びかけている。

「遺体安置料 80万円」。津波で妻(52)と母(81)を亡くした宮城県石巻市の会社員の男性(55)は請求書の数字に驚いた。

 近くの葬儀社に頼んで遺体を4日間斎場に安置した後に火葬。数日後に葬儀を済ませていた。

「なぜこんな高いのか」。男性が問い合わせると、担当者は「斎場に安置する手数料が1人1日10万円。他のご遺族も同様に払ってもらっている」と説明したという。渋々支払ったが、5月に同じ葬儀社に依頼した知人は、安置料を請求されなかったという。

「震災の混乱に乗じてふっかけられたのかも。納得いかない」と男性は憤る。安置料の相場は1日数万円とされ、県葬祭業協同組合も「一般的に安置料1日10万円は高いと思う」と言う。

 仙台市の会社役員の女性(52)は、義母(80)が4月7日の震度6強の余震で心臓病を悪化させて亡くなった。近くの寺に安置したが、市の火葬場はいっぱいで予約を取れたのは15日後。寺の出入りの葬儀社が遺体の管理をしたが、腐敗防止用のドライアイスだけで1日1万円、計15万円を請求された。

 県内の葬儀関連品卸業者によれば、ドライアイスは1回分(10キロ)が3千〜6千円程度という。女性は「高いと思ったが、異常な天災だったので仕方がない」。

 国民生活センターによると、全国の消費生活センターに寄せられた震災関連の葬儀に関する相談は3〜6月で31件。岩手、宮城、福島、茨城4県に29件が集中する。「葬儀社から高額な請求をされた」「料金が不明瞭で説明が足りない」といった内容が多い。


asahi.com 2011-08-08

見せ物としてのザ・ホロコースト


 私の両親は、死ぬまで毎日のようにそれぞれの過去を追体験していたが、晩年には、大衆向けの見せ物としてのザ・ホロコーストにまったく関心を示さなくなっていた。父の親友にアウシュヴィッツの収容所仲間がいた。買収など考えられない左翼の理想主義者で、戦後のドイツからの補償金も信念に基づいて受け取りを拒否していたのだが、最後にはイスラエルのホロコースト博物館「ヤド・ヴァシェム」の館長になった。父は心から失望し、なかなか認めようとしなかったが、最後にはこう言った――あいつもホロコースト産業に買収された、権力と金のために信念を曲げたのだ、と。ザ・ホロコーストの演出が一層ばかげた形を取るようになるにつれ、母は皮肉を込めて、「歴史など戯言だ」というヘンリー・フォードの言葉を引いた。わが家では「ホロコースト生還者」の話はどれもこれも――収容所にいた者やレジスタンスの英雄の話もすべて――特殊な、捻れた笑いの種になった。ジョン・スチュアート・ミルがはるか昔に理解したように、継続的な批判に晒されない真実は、最後には「誇張されることによって真実の効力を停止し、誤りとなる」のである。


【『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン/立木勝訳(三交社、2004年)】


 ノーマン・G・フィンケルスタインノーム・チョムスキーの弟子である。

ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち

2011-08-07

『闇は暁を求めて』の警告から30年後に福島原発事故が起こった


「当たり前」のことに今ごろ気がついたのですが、『大白蓮華』の1981年3月号で先生が警告が発されたという事実は尋常ではありません。巨大地震と津波で福島原発が水素爆発を起こしたのが、ぴったり30年後の3月なのでぞっとしています。『闇は暁を求めて』についての認識が更に大きく拡がるよう祈ります。


【ペペロンチーノさん】

人間共和


「もし、“人間共和”がいつ実を結ぶのかと聞かれたら、われわれはこう答えればよいのです。たとえば、まずあそこにひとつ、ここにひとつ、あるいはあそこの国、ここの国といったように、世界が“人間共和”をつくりあげるような下地が出てくれば、従来の世界を支配してきた権力は、こんどは“人間共和”によって支配されるようになるだろう、と」


【『永遠の都』ホール・ケイン/新庄哲夫訳(潮文学ライブラリー、2000年/白木茂訳、潮出版社、1968年)】


 神が完全に支配する西洋世界で「人間共和」を主張することは、文字通りの意味でクーデターに等しい。原著発行は1901年だから魔女狩り終焉から100年ほどしか経っていない。ドイツ最後の火刑が1749年で、ポーランド最後の魔女裁判は1793年のこと。


 何が魔女狩りを終わらせたかについては、いまだに決定的な学説がない。近代科学と言いたいところだが多分違う。私はキリスト教における「大覚醒」が魔女狩りを葬ったと考えている。つまり科学的合理性よりも、信仰に基づくプラグマティズムが人々の思考回路を変えたのだ。


 第三次大覚醒が1900年までだから、どんぴしゃりだ。ただ、ホール・ケインプロテスタントだったかどうかがわからない。


 例えるなら、中国国内で共産党批判をするようなものだ。

永遠の都〈上〉 (潮文学ライブラリー) 永遠の都〈中〉 (潮文学ライブラリー) 永遠の都〈下〉 (潮文学ライブラリー)

2011-08-06

要注意


 Shout To The Top ・ 下から上を動かそう!(南里Guy)

→twitter自己紹介サイトが「創価師弟共戦」となっていて、書き手はhobbit一派

「hobbit+創価」検索結果


 尚、twitterの背景画像に、聖教新聞代表理事の原田光治さんらしき人物が写っているが、疑似餌(ぎじえ)で学会員を釣ろうとしているのだろう。




 本人から反論があったので紹介しよう。


誤った信念は合理性の欠陥から生じる


 以上から明らかなように、多くの誤った考えはもっぱら認知的な原因によって生じてくる。つまり、情報を処理したり結論を引き出したりする能力の不完全さによると考えられる。言い替えれば、「そう思いたい」というような心理的欲求を満足させるために誤った考えを持つのではなく、得られた事実に最もうまくあてはまる結論として導き出されたものが、結果的に誤った考えとなってしまうのである。ロバート・マートンの言葉を借りれば、人々がそうした信念を持つのは「自分自身の体験からこう結論せざるを得ない」と考えるからである。誤った信念は決して非合理性が生じるのではなく、合理性の欠陥から生じるのである。


【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ/守一雄〈もり・かずお〉、守秀子訳(新曜社、1993年)】

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

2011-08-05

プロの聞き手


 臨床心理士は「人間の心は究極的にはわからない」ことをよく知っている人なのです。

 だからこそ、プロの聞き手なのです。


【『プロカウンセラーの聞く技術』東山紘久〈ひがしやま・ひろひさ〉(創元社、2000年)】

プロカウンセラーの聞く技術

2011-08-04

30年前の厳重な警告


 学会誹謗サイト「創価学会ノート」に「池田大作は原発推進派」と出ていました。心から憤慨しました。放射能汚染の深刻さへの不安が高まり「反原発」「脱原発」への風が吹くのに便乗して、中傷者たちが鬼の首を取ったように、トインビー博士との『二十一世紀への対話』の記述を引用して卑怯にも先生に「原発推進派」 のレッテルを貼っています。


 古典となったトインビー対談当時の原子力についての認識は、まだ社会一般で「核兵器」の悪に対置する「平和利用」という肯定的なものでした。しかし、その後に出たルネ・ユイグ氏との対談『闇は暁を求めて』やペッチェイ博士との対談『二十一世紀への警鐘』で、そうした認識は一変して「厳重な警告」になっております。中傷サイトが狡猾にもその事実を故意に無視している事実に、またも「レッテル貼り」によって先生をネット上で中傷しようとの薄汚い下心がありありと透けて見えます。


 福島原発の事故が起きたとき、放射能汚染や風向きがとても気になり、必死で題目をあげ始めました。しばらくすると先生がペッチェイ博士との対談『二十一世紀への警鐘』に何か書かれていたのを思い出しました。本を開くとやはり厳しい警告が書かれておりました。


 同じくユイグ対談『闇は暁を求めて』にも原発の危険への厳しい警告が2項目にわたって文明観の裏づけをもって記されておりました。昔パラパラとめくっだだけで、その後は本棚にしまったままで、原発事故が起きてから自分が本気になっているという事実に申しわけなさが込み上げてきました。


 共に25〜30年前の警告です。しかし誰が本気でこれを受け止めたのでしょうか。逆にこの30年間で人口過密で世界有数の地震国である日本に原発が54基も林立しました。この自分も、エネルギー大量消費の経済大国にどっぷり漬かっていました。


撰時抄」に「未萌を知るを聖人という」とあります。悲しいことに、「未萌を知る」師匠の警告が的中して未曽有の核災害が現出しております。放射能汚染で夥(おびただ)しい人々が故郷を奪われ、今も生命の危険に晒(さら)されています。食物の安全性への不安も広がっております。


仏法即世間」です。日本のみならず人類文明の未来にとって今現実に最大の問題の一つとなった原子力の危険について沈黙することは、仏法者としての信仰の根本に関わると思います。それは表面的な技術でない文明や生き方の問題のはずです。


 師匠は、はるか30年前、チェルノブイリ原発の事故に先立って既に「厳重な警告」を発しておりました。仏法の智慧と慈悲に根差したこの先見性と深い洞察をもつ師匠を心から誇りに思っています。今こそこれを大きく宣揚する時だと思います。


 日本が原爆の惨禍に続いて原発事故で今再び放射能の脅威に晒されていることを決して偶然とは思えません。民族の宿業 です。大聖人を迫害しぬいた日本、牧口先生獄死させた日本、池田先生を中傷し無視し続ける日本が滅ぶ法華誹謗の悪業だと言ったら「狂信的」でしょうか? 私にはそうとしか思えません。


 そんな日本に生まれたのが日蓮門下です。腹を据えてかかるべきです。仏法の目から見れば「業」は「即使命」。日本民族には自らの生命を危険に晒(さら)して原発も含む「核の脅威」を全世界に訴える 使命があります。惨憺たる被害、膨大な瓦礫の山、放射能汚染という泥沼から真に生命の尊厳に根差した新しい文明を生み出して世界に発信すること以外にその使命は考えられません。


 創価学会そのものが、池田先生が『闇は暁を求めて』や『二十一世紀への警鐘』などの著書で30年前に厳重に警告されたことを忘却の彼方に葬っているようにすら見えます。仏法の智慧と慈悲に根差した先見性と深い洞察をもつて「厳重な警告」を発した師匠を私は、心から誇りに思います。「狂信的」との誹りを恐れずに言えば、それは立正安国論での日蓮大聖人の予言的中に匹敵するとすら思いました。


 今こそこれを大きく宣揚する時だと思います。事実だけでも言及したらいいのにと思いますが、聖教新聞が師匠のこの警告に現れた「先見の明」について一行も書いていないことは、実に不思議です。団体としての学会中枢と公明党が奇妙に沈黙しています。原発をこれまで容認してきた党の沈黙が、学会そのものを呪縛しているようでます。


 核ロビーが原発推進を日本の「国体」にしてゆく過程で、先生が発した「厳しい警告」が邪魔になったのは明らかです。公明党思考停止に導き、その沈黙が学会そのものを呪縛していったことは容易に想像できます。


 師匠の「厳重な警告」が的中して既に深刻な事態になっている今、いやしくも「生命の尊厳」を党是の根本とする公明党は決して問題を避けて通れないはずです。本質を言えば、もともと妥協の世界の相対的価値に過ぎない政治が価値の絶対性を求める信仰から発する人間としての心の叫びを縛っ ているという現実について党が自覚する時です。ですから、今回の高速増殖炉「もんじゅ」への対応の変化が更なる根本的変化に繋がることを心から祈ります。


 さもなければ政治による信仰の利用と窒息です。このまま行くと「師匠の正義を宣揚する」ということを心から言える幹部はいなくなります。


 悔しいですが中傷サイトに「池田大作は原発推進派」書かれたのも、師匠の先見性を宣揚できなくなってしまった組織の裏返しの姿です。今まだ目立たない小さな中傷記述ですが、脱原発への風に煽られて放置すると今後無視できない重要さを帯びる可能性もあります。中傷ネットも国際的に繋がりますから、純粋に先生を求める海外のSGIメンバーたちをも悩ませることにもなります。


 しかし創価学会が正面から反論のために先生の「厳重な警告」を引用して師匠の先見の明を宣揚するには、革命的な勇気を要求します。これまで原発を容認し、学会を呪縛してきたた「党の沈黙」を根底から揺さぶるのみか、党に呪縛されきた「団体」としての学会の問題もあぶり出し、師匠の心という精神的価値と「タダの団体」としての面子のいずれを取るのかという選択がいやでも迫られます。私は、創価学会に恩があります。決して「タダの団体」になってほしくはありません。


 核ロビーは、国際原子力機関を通しても日本が原発推進をやめないよう必死で働きかけています。情報も制限されるでしょう。まだ放射能汚染の被害は目に見えませんが、今も放射能は漏れ続けています。低レベルの継続的被曝も健康上問題です。5年、10年、20年と時を経るに応じて明らかに健康上の重要問題として浮上します。今、事故現場で「手に負えない怪物」を実際に相手にしている最前線の「被曝労働者」の生死の実態も明るみになるはずです。余りに悲しいことなので想像するのも恐いですが、子供の白血病や甲状腺がんなどチェルノブイリと同じ状況が現出すれば、もう「風評被害」などと呑気に構える余裕のない恐ろしい状態になることが想像されます。その時は、魂の抜けた「団体」の面子は、完全に潰れているはずです。


【ペペロンチーノさん】

バラモン分類の基準


 このように、バラモン正統派の哲学が二つのグループに分けられる場合、その分類の基準、哲学的「水平」(地平)は、1.原因(因)と結果(果)の関係、および2.属性とその基体の関係である。

 つまり、原因と結果の関係をどのように考えるか、属性とその基体(実体)とがどのような関係にあると見るか、という二つの視点から考えると、二つのグループ分けの根拠が理解できるのである。


【『はじめてのインド哲学立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社現代新書、1992年)】

はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)

2011-08-03

死の因果を超克するために


 以下、twitterに書いたもの――


 小乗仏典によれば、ブッダの生存中に目連は撲殺されている。刺客が待ち伏せし、滅多打ちにしたとされる。


 死は、たとえ安楽な姿であったとしても不条理がつきまとう。余命を告げられたとしても不意打ちをくらう。死は我々の目に終焉というよりも、中断として映る。


 怪我で死ぬのと刺殺されるのと何が異なるか? 暴力という意図は何かを奪うことを意味する。ただし、それは周囲から見た場合の話だ。物語としての復讐は可能だろうが、死んでしまった人が帰ってくることはない。


 平均寿命を過ぎてから病気で死ぬという台本に反する死を、我々は受容することができない。このため、「なぜ病気になったのか?」「殺されなければならなかったのか?」と死(結果)の原因を探し回る。その代表が仏教の宿命とキリスト教の運命だ。


 本当は違う。死を原因として、そこから自分がどう出発するかが問われているのだ。「なぜ彼は死んだのか?」ではなく、「彼の死から自分はどう生きたか?」が仏法本来の因果であろう。でも大丈夫だ。必ず皆死ぬのだから(笑)。私は6人の後輩を喪ったが、「一緒に生きて一緒に死のう」としか思わない。


 自我を友人に投影してはいけません。亡き友人の生命を自分の中に引き込むのです。自我の延長線上に友人を置くのではなくして、ご友人の死の延長線上に自分の生を位置させることです。因果を逆転させるのが因果倶時であり従果向因なのです。

原発と創価学会


 ルネ・ユイグとの対談『闇は暁を求めて』については数名の方からご意見が寄せられており、記事の執筆を依頼中。


 ただ私が焦点を当てているのはそんな部分ではない。宗教団体が政治にコミットした以上、政策の判断ミスが出てくることは当然といえる。


 先日、「原発推進派の池田大作」というページを紹介した。私の意見は一つも書いていない。それでも右往左往する学会員の心理的情況は何に基づいているのだろうか?


 原発と創価学会(=公明党、※イコールと書いてしまうぞ)の構図自体は簡単なもので、日米安保とセットになっている。つまり当初反対していた日米安保を認めた瞬間から、原発問題に対して口を噤(つぐ)んだわけだ。


 もちろん、福島の原発事故は原子力行政や東京電力の企業体質に直接的な原因があるわけで、別に公明党が責任を問われるべき筋の話ではない。


 ところが平均的な学会員の反応として、「創価学会公明党も過去にはそのような判断をしたわけだが、きちんと見直す必要がある」という声が出てこない。その厚顔無恥な無反省ぶりは、ネット右翼も真っ青になるレベルだ。


 既に学会員の信仰は、師匠組織自我を投影するだけの代物と化している。私が問題にしているのはここだ。

方法論上の反省が足りない


 かつて、宗教学を専攻する先輩に、印哲は初めから仏教をよいもの、価値あるものとして扱っていて、方法論上の反省が足りない。宗教学は、まず方法論の自覚から出発するのだ、と指摘されたことがあった。以来、その言葉は、私の胸にひびいている。確かに仏教学者の大半は、仏教はよいものであることを前提として研究を進めており、その前提そのものを問い返すことは苦手である。本書において、私は、幾分このことを配慮し、最終的に仏教の意味をどこに求めるべきか、考察してみたのであった。


【『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男〈たけむら・まきお〉(大東出版社、1997年)】

仏教は本当に意味があるのか

2011-08-02

犠牲の正当化


 彼らの犠牲は、まさに犠牲として正当化された。


 その象徴がランゲマルクの戦闘だった。この前の大戦勃発の1週間後、新兵訓練所から送られたほとんど武装さえしていない数千の学徒が、大砲と機関銃が待ちうける死地へと向かわされた。

 ばかな司令官の過ちにすぎない、いかなる戦略上の意味もなかったという事実が、この戦闘の犠牲としての象徴性を高めた。意味のない犠牲を供物へと昇華することによってのみ、戦闘の不合理は合理化することができる。機械化された戦闘の孤独、犠牲の無名性、運命の恣意もまた、犠牲の正当化ゆえの目的となりうる。


【『ドラッカー名著集 9 「経済人」の終わり』P・F・ドラッカー/上田惇生〈うえだ・あつお〉訳(ダイヤモンド社、2007年/岩根忠訳、東洋経済新報社、1958年)】

ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり

2011-08-01

十不二門


 基本的なことではあるが、妙楽十不二門(じっぷにもん)の中に師弟不二はない。「師弟相対して信を取る」とは日蓮正宗の伝統である。もっといえば、師弟と口伝というのはバラモン教に由来する。

ネット上の発言の劣化について


「質のよい情報」を取り込む装置を持っている人のところには「質の良い情報」が累積し、「質の悪い情報」をスクリーニングできない人のところには「質の悪い情報」だけしか集まらない。

「情報」はその自体的な正否によってではなく、「それが誤っている蓋然性」についての適正な評価を伴う場合だけに意味がある。

 そのことを「知っている人間」と「知らない人間」の間に、急速に、不可逆的なしかたで、情報の階層差がいま進行している。


内田樹

「善悪」とは「痛み」を伴って考えるべき問題


 日本でもよく行われる水浴、水垢離(みずごり)の儀式。その背景には、非常に安易で単純な楽観主義があります。生命は本来は清らかなもの、悪業はそれにつく汚(けが)れである。したがって、水で洗い流せばよい、というのです。「お祓(はら)い=(お払い)」もそうです。埃(ほこり)を払うように、悪業を祓い清めることができるというのです。

「悪」とは、そのように単純なものでしょうか。貧困と空腹のどん底で、ストリートチルドレンがつい店先のオレンジに手を出した。もちろん、盗みは悪いことです。しかし、この場合、100パーセントの悪をこの子に負わせることができるでしょうか。その子のことを考えるとき私たちの胸は痛みます。「善悪」とは、そのような「痛み」を伴って考えるべき問題なのです。「痛み」を感じることなく、誰かを「悪」と決めつける。「痛み」を感じることなく、自分のやっていることを「善」と思う。これこそ、もっとも避けなければならない態度でしょう。全くの善もなく、全くの悪もない。ゼロと100パーセントの間に真実は漂うのです。


【『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥〈ともおか・まさや〉(第三文明社、2000年)】


 所属で善悪を判定するのが現代宗教の作法である。信徒は自動的に帰属意識を競い合う。無疑曰信の対象が組織と錯覚する者が多い。その意味で全ての信仰者は「善悪の判断を教団に委ねた人々」であるといってよい。このため学会幹部の言動はアジ演説と化している。知性、合理性よりも、いかに煽動できるかが課題となる。真の義人が声高に正義を叫ぶことはない。

ブッダは歩むブッダは語る―ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う