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2011-09-12

九識論について


 真蹟に九識という語は1ヶ所しかなく、阿摩羅識(あまらしき)に至っては1ヶ所もない。鎌倉時代唯識の議論が活発であったかどうかもわからない。


 というわけで――すまん、時間がないのだ――九識論は引っ込めるべきだと私は思う。


 Wikipediaによれば、「(※如来蔵)思想を止揚するため、天台宗華厳宗などの法性(ほっしょう)宗は、この阿摩羅識を加えて新たに九識を立てた」とのこと。


 そもそも八識に依存している点でダメだと思う。阿頼耶識(あらやしき)の向こう側に位置するのは諸法無我であろう。そこに阿摩羅識を立ててしまうと我(が)が延長されることになってしまう。


 すなわち真我(しんが)や大我(たいが)を立てることも仏法的には誤っていると思う。


「識」が認識作用を示しているのであればそれは知覚だ。つまり情報が入力される感覚器官を意味するわけだから、いくら上のレベルを設定したところで我から離れることはできない。


 これは多分、瞑想の段階を差別化したことに由来するのだろう。非想非非想処など。


 諸法実相の実相とは「我の完成」ではない。

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