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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2011-11-17

宮田論文に関する覚え書き 1

 マンダラについて調べていたところ、宮田幸一さんのページがヒットした。いやあ、たまげた。驚愕の一言に尽きる。友岡本以上の昂奮を覚えた。学問する精神を仰ぎ見る思いがする。客観性とは「情報空間を高い視点から俯瞰する」ことである(苫米地英人)。創価学会員でこれほど高い視点をもつ人物がいたとはね。


 論文は「『本尊問答抄』について」と題するもので、私が読んだのは「5」だけである。大変失礼な話で恐縮だが、私は本尊論については全く興味がないのだ。というわけで、自分の考えを整理する目的で宮田論文の覚え書きを綴ることにする。

 これは新学生同盟のメンバーとの懇談の機会であったが、西口(浩)が「純信とは何か」という質問をした中で、池田が「いろいろ創価学会に問題を感じるかもししれないが、それは皆さん方で変えていけばいい。私も戸田先生のやり方で納得できないことは変えてきた。」という趣旨の指導である(この趣旨の指導はアメリカでも行われたということをSGI-USAのメンバーから聞いたことがある)。


 論文がウェブサイトにアップされたのは2011年9月10日となっているが、いつ書かれたものかは記録されていない。


 創価学会2002年4月1日に会則を改正した。この際、三代会長を「永遠の指導者」と規定した。私は発表された当初から違和感を覚えた。「そんなことは規則で決めるようなものではない」と思った。

 私はこの会則変更は致命的な失敗だったと考えている。大体、三代会長を永遠の指導者としておきながら、教義を変更する権限は会長にあるわけだから、長い歴史の中でこの文言が削除される可能性も否定できない。そもそも「永遠」という概念そのものがキリスト教に由来するというのが私の持論だ。

 存在しない永遠を規定すれば、それは「神」を目指すことになる。つまり神格化といってよい。日興門流における偽書や後加文の類いは、全てが日蓮を神格化(本仏化)する内容となっているのも同じ手口だ。


 永遠と絶対は隣り合わせに位置する価値観である。永遠の指導者に対して「納得できないことがあってもオッケー」というスタンスが認められるのであれば、絶対性からは離れてしまう。


 たまたま信濃町を歩いていたときに、池田から声をかけられ、そのまま若手本部職員対象の御書講義に参加させていただいたことがあった。そのときの教材が『諸法実相抄』であり、たまたま戸田城聖獄中の悟達虚空会の儀式の神秘体験の話題になったとき、池田ははっきりと自分にはそんな体験はないと明言した。私はそれまで、戸田に可能であった体験ならば、自分にも体験可能かもしれないと思い、それなりに長時間の唱題をしたりして努力したこともあったのだが、池田にあっさりとそう言われ、神秘体験は成仏とは関係ないんだと私なりに納得した。(中略)宗教指導者であれば、例えば現在の幸福の科学の大川隆法霊言体験のように一般会員にはない特別な神秘的宗教体験を、自分の宗教的カリスマを飾るために主張することが通例だと思っていた私は、池田のそのような神秘的宗教体験の必要性を認めない、率直な物言いにある種感動を覚えたのも事実である。(中略)戸田城聖に関しては、「肉牙」に関する受け入れい解説などがあり、私の科学に対するそれなりの信頼感とは抵触するものがあるが、池田の公的な発言に関しては大きく違和感を持つことは少ない。


 諸法実相抄講義が聖教新聞で連載されたのは1977年(昭和52年)1月1日であるから、1976年に実際の講義は行われたのだろう。

 確かに教団として見た場合には、神秘体験を重要視しないことは社会に開かれた宗教として節度のある態度といえよう。だが宗教者としてはどうなのか?


 今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見る也。たとえば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがて見るところ各々別也。此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。(真蹟


 ブッダ以前にも「ブッダ」と呼ばれた人々が存在した。つまり宗教体験によって何らかの真理を悟った人々がいたわけだ。荒行や瞑想で空を観じたのだろう。またブッダは「阿羅漢」と呼ばれることを認めていた。十界論でいえば縁覚界だ。


 瞑想で得られる悟りにも段階がある。少なからずブッダ以前に無色界を観ずる人はいたのだろう。


 宮田論文ではこの後、価値論にも触れている。牧口価値論は極めて数学的な原理で有益だが、二つの問題を秘めている。まず一つは真理を斥(しりぞ)けてしまったことである。これによって創価学会は完全に「悟りと無縁」な教団となってしまった。もう一点は「善悪を対立概念」としたことだ。


 牧口先生は「善と正義は異なる」との卓見を示しながらも、善悪を相対的価値として捉えた。悪の反対は正義である。そして悪を規定するのもまた正義なのだ。では正義とは何か? それは集団の経済的尺度によって判断されるものだ。アメリカが掲げる正義はイラクから見れば悪そのものであるし、創価学会の正義は日蓮正宗からすれば謗法となる。


 価値論が創価学会という教団をプラグマティズムへと誘導したように思えてならない。


 この意味で、Libra君の主張する「絶対的正義」は誤っている。


 善に対立概念はない。善は誰が見ても善である。


 話を元に戻そう。既にいくつも紹介しているが、悟りといっても脳内現象である。側頭葉が激しく反応することも科学的に判明している。癲癇患者の発作や、LSDを服用した状態と酷似していることも明らかになっている。


 もしも真理や理法が存在するなら、ブッダの悟りと日蓮の悟りは全く同じものであるはずだ。そこに上下関係を持ち込んでしまえば、真理が複数存在することになる。


 創価学会の宗教的な原点が戸田先生の悟達にあるならば、やはり全会員が悟達を目指すべきだと私は考える。

暴力の様相 4


Memuna Khan, 21


 パキスタン人の女性(21歳)。これまで20回以上の整形手術を受けている。

世界は守られてきた


 こんなふうに、こんなふうにして、せかいは、いつも、まもられてきたのかもしれないね。だれもしらないところで、だれもしらないだれかが、たたかって、だから、いまも、せかいはある。そんなきがする。でも、それは、ほんとうはぼくにはむずかしくて、もう、いまかんがえたことも、ぼくはわすれる。ぼくは、みんなわすれるのだ。ぱぱ、きいちゃんはあくとたたかったんだよ、そして、そのために、ことばをおいてきたんだ。みあちゃんもあくとたたかったんだよ、そして、そのために、かおをおいてきたんだ。それから、まほさんも、あくとたたかったよ、そして、そのために、じぶんをおいてきたんだ。じゃあ、ぼくは? ぼくは、ほんとうに、あくとたたかったんだろうか? ぼくは、なにをおいてきたんだろう? わからない。それから、あくって、なんかかなしいね。それから、なんか、あくって、そんなにわるくないきがするんだよ。あくって、ほんとに、あくなのかな……。


【『「悪」と戦う』高橋源一郎(河出書房新社、2010年)】

「悪」と戦う