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2011-11-19

宮田論文に関する覚え書き 3

 少し戻ろう。


「唯だもし所あるとすれば、倫理道徳の取扱ふ所の人道即ち社会的因果の法則(道理)は現世に限られ、科学の取扱ふ所の因果の法則は各分化の現象のみに限られて居り、総合科学たる哲学と雖も現世を超越し得ざる人生観、世界観に限られて居るに対して、仏教の教へる所は、吾吾の肉眼の外に天眼、慧眼、法眼、仏眼の五智眼を以て、世間及び出世間即ち過去、現在、未来の三世に亙っての因果流転の法則を明にした所にあると思はれる」(『創価教育学体系』第2巻原著の「価値論」)


『本尊問答抄』について 5


 宗教行為における因果は証明することができない。主観であるわけだから当然だ。

 ちょっと考えればわかることだが、体験=現証であれば、いかがわしい健康食品も高価な壷を購入させられる宗教も正しいことになってしまう。「嘘も方便」とはよくいったもので、大乗仏教効用主義(プラグマティズム)を顕著に示している。


 この部分は戸田城聖補訂版の『価値論』では大幅に書き換えられて原型をとどめていない。しかし私は牧口常三郎日蓮仏法を選択した三つの理由として重要視している部分である。第一に日蓮仏法は自然科学が合理的な理論と実験証明によって成り立っているように、仏法上の議論も合理的な理論(理証)と実験的(体験的)証明(実証)さらには文献的論証(文証)によって成立していて、その点で科学的真理と仏法的真理とは類似関係にあると牧口は見なした。


 しかし実際問題として因果は物語とならざるを得ない。その帰結として牧口先生は罰論を振りかざしたのだろう。


 ここは厳密な検証が求められるところだ。現在の学会員が説くような単純な罰論であれば、他人の不幸を望むような心理情況に陥る。


 第二の議論は本尊論に関する議論であるが、牧口は信仰対象となる人格的神仏の像は、それを制作する彫刻家、絵師あるいは制作を依頼する人々が「各個人の意識の内に構成する」ものにしか過ぎないと批判する。


 これは鋭い卓見である。牧口先生が「思考の限界」を見極めていたことを窺わせる。


 第三の議論は仏法が、自然科学、道徳科学、哲学と矛盾せず、これらはすべて因果の法則を研究するという点で共通し、仏法は他の学問を包容する全体と部分という関係にあるという主張である。


「仏法は他の学問を包容する全体で、その他の学問は部分として包摂される」という文意なのだろう。これについては、強く主張する必要はないと思う。仏法は仏法、学問は学問でいい。そうでないと教義の体系化、構造化が主目的になってしまうからだ。


 その議論の特徴は、善は公益=社会全体の利益として定義され、社会によって内容が異なるという社会相対主義の主張が強くなされていることである。


 論文では国益と人類益との相克が示されているが、私は別角度から論じたい。現在、進化論的視点から宗教発生の研究がなされている。適応という観点からいえば牧口先生の指摘は正しい。宗教が淘汰されることなく現代にまで受け継がれているのは、コミュニティの結束を強め、ルールを破る行為に対するブレーキと化したと考えられる。つまり宗教を持たない集団よりも、宗教を持った集団の方が戦争に強かったと想定することが可能だ。


 しかしこれは宗教全般に対して考えられていることだ。私は、本能に基づいた文化である宗教に全く新しい生命を吹き込んだのがブッダであったと考えている。善=公益であれば、社会や時代の変遷に伴って善の価値も変化することだろう。


 戦前の創価学会が明確に反戦を訴えることがなかったのも、これが理由だと思われてならない。

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