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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2011-12-31

先入観


 何らかの信条に固くすがりついているなら、君たちはその特定の先入観や伝統によってあらゆるものを見るのです。現実との接触を持ちません。君たちは、村の女性が重い荷物を町に運んでいるのに気づいたことがありますか。それに本当に気づくとき、君はどうなり、何を感じるでしょう。それとも、これらの女性が通っていくのはしばしば見ているので、慣れてしまったためにまったく何の感情も持たないし、したがって彼女たちにはほとんど気づかないのでしょうか。そして、初めてあるものを観察するときでさえも、どうなるでしょう。先入観にしたがって見るものを自動的に解釈するでしょう。共産主義者、社会主義者、資本主義者、その他「主義者」という自分の条件づけにしたがってそれを経験するのです。ところが、これらのもののいずれでもなく、そのためにどんな観念や信念の幕をも通して見ず、実際に直かに接触するなら、そのとき君は、自分とその観察するものとの間には、なんというとてつもない関係があるのかと気づくでしょう。先入観や偏見を持たずに開いているなら、そのときは、まわりのあらゆるものがとてつもなく興味深くなり、ものすごく生き生きとしてくるでしょう。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2011-12-30

人生中盤における出会い


 我が卯年も終わろうとしている。あ、今日はオフクロの誕生日だ。妻が何かしてくれていることだろう。私は何もしない。ただ、ひっそりと感謝を捧げるのみである。


 出会いとは変化を意味する。10代から20代の多感な季節に、どれだけの人と出会うかで人生は決まる。23歳で上京した直後、独りボロアパートで影響を受けた人やお世話になった人をノートに書き出したことがあった。その時点で既に200人を超えていた。


 30代も半ばをすぎると、段々目が肥えてきて「これ」という人物に巡り会うことは極端に少なくなる。本物を知れば知るほど偽りや虚飾が見えてくるものだ。有名でも無実の人は多い。


 だから人生に対して妙な期待をすることもなくなる。期せずしてぶつかるという点で、出会いは交通事故と似ている。


 3年前にクリシュナムルティと遭遇した時の衝撃は、軽々と交通事故を超えるものであった。始めのうちは動転した。ここで地震に例えてしまうとデリカシーを欠くことになる。ウーン、そうだなー、キー操作停止……再開。それまで熱くなったり冷たくなったりしていたものが沸点に達してしまった感がある。


 とはいえ、ひょっとすると私の勘違いということもあり得る。そこでクリシュナムルティ著『子供たちとの対話 考えてごらん』を読むよう内外の知人・友人30人ほどにメールを出した。


 ところが、である。返事は一通もこなかった。頭に来たのでこちらから「オイ、読んだのか?」と問い質すと、「難しくてよくわからなかった」という答えが殆どであった。


 思い余って知人の仏教学者に頼もうかと思案した。「でも、忙しいだろうな」と躊躇した。そんな時に「翻訳家のノート」を見つけた。瞬時に「この人だ!」と確信した。私は思い立つのも早いし、行動するのも早い。メールアドレスがわからなかったので、慎重にコメントを記した。


 ブログの主(あるじ)は翻訳家の小幡照雄〈おばた・てるお〉さんだった。1〜2週間後、小幡さんはメールを下さった。それが以下の記事である。

 私の知識では追いつけなかった。プリントアウトして仕事中にも繰り返し読んだ。10回くらい読んで少しわかるようになった。「本というものは、読める人にしか読めないものだな」と教えられた。


 小幡さんは立て続けに「『生の全体性』ノート」を綴って下さった。20回に及ぶテキストが、日蓮と道元とクリシュナムルティを結ぶ高層建築に見えた。70代後半になっても尚学び続ける小幡さんの生きざまを知り、私の背筋は垂直に伸びた。


「自分の視点」を持つ人は、確固たる世界観を築いてゆくことができる。私は小幡さんからそんなメッセージを受け取った。小幡さんとは面識はないが、私にとっては恩人である。心より御礼を申し上げます。


 次に中野毅〈なかの・つよし〉氏の名前を挙げておきたい。ブログ名を「創価王道」から「斧節」に変えたのは中野論文を読んだことが契機となった。左翼系の連中は絶賛したが、論文自体はどうってことのない代物だ。


 注目すべきは踏み込んだ記述にある。その意味では宮田幸一氏からも私は影響を受けた。受けざるを得なかった。


 彼らは創価大学の教授という職にありながら、自ら「リスクを取って」いるのだ。頭を殴られた思いがした。「民間人で学識者でもない俺は一体何をしてきたのか」と。


 組織という組織は構成員にとって安全地帯となる。ところがヒエラルキーによって安全係数は異なる。では創価学会を見てみよう。副白ゆり長よりも副会長は安全な位置にいる。当然ではあるが民間人よりも本部職員は安全だ。経済的にも(笑)。そして安全に保護されている意識が強い者ほど組織に依存するのだ。


 だから臆病者はリスクを取れない。そんな連中は舗装された道路しか歩むことができないのだ。


 山中講一郎氏にしてもそうだ。彼は民間人でありながら、教学面での未踏の荒野を一人歩んでいる。


 今後、創価学会が変わり得るとすれば、その先鞭をつけたのは中野・宮田両氏であると私が断言しておこう。


 最後にもう一人。神学研究者氏家法雄〈うじけ・のりお〉さんとtwitterで意見交換ができたことは実に有益であった。彼の豊富な知識と柔軟な知性に照らされて、私の思索は一段と深まった。わずか140字のコミュニケーションが、これほどスリリングな展開になるのだから凄い。


 私にとってはいずれも不思議な出会いである。どのような立場であれ、安全な位置から安全な言葉を述べる人物は胡散臭い。鼻をつまんでも腐臭がプンプンするよ。


 私が好むのは、単独でリスクを取ることのできる勇者・冒険者に限られる。なぜなら私がそうであるからだ。

人間のものの考え方には一種の慣性が伴う


 人間のものの考え方には一種の慣性が伴うものである。いったんある考え方が行動に移されると、それに対立するいかなる証拠をつきつけられようと、その行動は動きを止めようとしない。ものの考え方を変えることには相当の努力と苦しみが伴う。これにはまず、自己不信と自己批判の姿勢を絶えず維持しつづけることが必要であり、あるいは、自分がこれまで正しいと信じてきたことが結局は正しくなかった、という苦痛を伴った認識を持つことを要求される。そのあとには混乱が生じる。これは実に不快な混乱である。もはや、正しいことと間違ったことの判断、いずれの方向に進むべきかの判断が自分にはつかないように思われる。しかし、そうした状態こそ、偏見のない開かれた心の状態であり、したがって、学習と成長のときである。混乱と困惑の流砂のなかからこそ、新たな、より優れたものの見方へと飛躍することができるのである。


【『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学M・スコット・ペック:森英明訳(草思社、1996年/草思社文庫、2011年)】

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

2011-12-29

多造教団堅固〜日蓮をゼロから捉え直せ


 書くことはいくらでもある。「無限に」といえば大法螺(おおぼら)になってしまうが、発信すべきテーマは山ほどある。ただ、このブログに関してやる気がないだけの話だ。


 五五百歳は仏法形骸化してゆく様相をものの見事に描写している。一言でいえば悟りから離れて形式化する社会構成の変化を捉えている。


 先日、「創価学会員は教団を語るのをやめて仏法を語れ」と書いた。これは学会を取り巻く情況もまったく一緒で、常に「教団を巡る」議論となっている。


 以前、日蓮系だか富士系の掲示板に書き込みをして驚いたことがある。大半の参加者が元創価学会員であった。彼らは学会員である私を不要なまでに警戒した。皆、傷ついているように見えた。「ああ、そうか」と私は得心した。彼らが行っていることは創価学会からの反動に過ぎなかった。ゴムマリが壁にぶつかった後の運動と一緒だ。


 創価学会を取り巻く言論情況は礼賛と反発の二つに分かれる。思想性は考慮されない。注目されるのは政治を中心とした運動性のみである。


 これは創価学会内部においても変わりがなく、線からはみ出る会員に対して「謗法だ」「反逆者だ」「裏切り者だ」と烙印を押すことで礼賛体制を維持している。


 右翼、左翼にも共通するのだが、イデオロギーに染まる人物は「自我の空白」を抱えていると見てよい。彼らは所属・帰属によってしか自分を確認できないのだ。党派的生きざまは楽である。考えなくてよいから。ただ旗を振り、万歳を繰り返すだけで済む。


 日蓮系教団の歴史は分裂の歴史である。宗教性、思想性を深めることよりも、同門の揚げ足取りを主要な活動としてきた。日蓮が権力者に対して振るった剣(つるぎ)を弟子たちは互いに向かって突きつけたわけだ。


 もう一つは罰という概念の問題がある。ただ、これは私の関心外のテーマだ。


 結論を述べよう。分裂を繰り返す教団が世界を救うことは常識的に考えて不可能であろう。分裂の歴史は教義解釈に誤りがある証拠であると私は考える。多造塔寺堅固ならぬ多造教団堅固(笑)。


 また和合僧とは特定の教団を意味するものではなく、民主的な人と人とのつながりを指しているのではあるまいか。


 日蓮の思想を鎌倉仏教から脱構築する必要があるように思えてならない。否、鎌倉仏教に貶(おとし)めるなと申し上げたい。


 その意味で日蓮思想を形而上学として捉えることを提案したい。っていうか、日本仏教の密教化を正当化するためには、それくらいしか方法がなさそうな気がする。


 ドイツもしくはフランスあたりの青年部から、哲学界を揺るがすような人物が出ることを期待する。

無知は無力


 学は光、無学は闇。知は力、無知は無力。

解釈


 別の遺稿の断片で、ニーチェはこう書いている。「事実などない。あるのは解釈だけだ」(『権力への意志』下巻、原佑訳〈『ニーチェ全集』第13巻、吉沢伝三郎編〉ちくま学芸文庫、1993年、27頁)。


【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】

精神の自由ということ ― 神なき時代の哲学 ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫) ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)

2011-12-28

白リン弾 1


 イスラエル軍がパレスチナを白リン弾で攻撃している。その模様をお伝えしよう。クラスター爆弾よりも残酷な被害がある。


D

業の本質


 業(ごう)の本質は認知バイアスを始めとする「脳のバイアス」である。

五逆罪に潜む生命の不平等性


 五逆罪は、父・母・阿羅漢以外の殺害を容認していることにならないか?

日蓮の反証可能性について


「智者に我義やぶられずば用いじとなり」を反証可能性とした場合、三証との位置づけはどうなるのか?


 不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る。悉達太子は人界より仏身を成ず。此れ等の現証を以て之を信ずべきなり。


 先づ唯真言法中の肝心の文あやまりなり。其の故は文証現証ある法華経即身成仏をばなきにして、文証も現証もあとかたもなき真言の経に即身成仏を立て候。


 日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。


 此れ等の文証と現証をもつてかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか、はた又法華経の名号を臨終に二反となうと云云。

本源的な問い


 宗教者に欠けているのは「本源的な問い」である。教団が最も毛嫌いするのは懐疑や不信で、教義が「考える力を奪う」機能として働くためだ。それゆえ教義は信者を奴隷化する。教義の方にはそんなつもりはないんだろうけどね。


 そこで「テーマ」というカテゴリーを設けることにした。研鑚の一助になれば幸いである。留意すべきことは、「知識を欠くと驚くこともできない」という事実である。


 例えば、「智者に我義やぶられずば用いじとなり」を反証可能性に結びつけたのは、私にとって悟りに近いのだが、これが理解できる人は一人か二人しかいないという悲しい現実がある。

 五十近くなって、やっと知識が結びついてくるようになった。これがまた実にスリリングなんだ。

エホバの証人と創価学会


Sちゃんのこと


 彼女と出会ったのは一年ほど前のことだ。たまたま入社した日に私と組むこととなった。反応がよく動きも軽快だった。そしてよく気がついた。「気がつく」ことは感受性の鋭さを示していた。客と話す時の相槌もうまかった。


 既に50年近く生きてきたが、私より気がつく人は滅多にいない。2〜3人いたかどうかって感じだ。その私が脅かされるほど彼女の感性は敏感だった。


 私は内外の友人に吹聴した。「逸材発見。凄い人材だ」と。Sちゃんが男だったら、本気で養子にしたいと思ったほどだ。滅多に人を褒めることのない私が手放しで絶賛した。皆が会いたがった。


 少したって彼女は大きな失敗をした。慌てふためき、パニック状態で「すみません!」を連発した。思わず後ろから口を抑えた。「落ち着け。後は俺がやるから大丈夫だ」。現場を離れた後も彼女は詫び続けた。私は「まだ入ったばかりなんだから、ミスするのは構わないよ。ただし同じミスはするな」と伝えた。


 まだ29歳で少しそそっかしいところもあった。同じミスを繰り返すようになった。私は普通に頭を叩き、「顔を出せ」といって頬をつねり上げた。


 一度厳しく注意した。「ハイッ、ハイッ」としっかりと返事をしていた。「以上」と私がいうと、彼女は真っ直ぐに私を見つめて「小野さん、ありがとうございました」とお辞儀をした。


 私は胸を衝かれた。まるで20代の私を見ているような錯覚に陥った。昔から態度が大きいせいもあって、私は人一倍先輩から叱られてきた。ミスター対告衆。大きな会合で「小野ぉおおおーーーっ!」とやられるたびに、全身で受けきってきた。私は必ず会合が終わると、叱ってくれた幹部の元へゆき、お礼を述べた。「先ほどはありがとうございました。申しわけありませんでした」と。


 昨年の仕事収めの日、「小野さんには何て言ったらいいかわからないくらいお世話になって、本当にありがとうございました」と神妙な顔つきで言われた。私は一言「まあね」と答えた。


 ところがSちゃんは年が明けると変わってしまった。同じ人物とは思えないほど反応が鈍くなった。ある時、「お前、何か悩み事でもあるのか?」と尋ねると、「エーーーッ、何もありませんよー」と黄色い声が返ってきた。


 私は関係各位に訂正印を申し出た。「Sちゃん逸材の件は訂正。フツーになっちまった」と。


 春になって一度話をした。「小野さんもご存じかもしれませんが、私、エホバの証人なんです」。矢継ぎ早に質(ただ)すと、14歳の時に自らの意志で洗礼を受けたという。少しばかり宗教の講義をしたのだが、如何せん彼女は知識不足だった。


 Sちゃんは以前、私に「死ぬのが怖いですか?」と訊いてきた。「怖くないといえば嘘になるだろうな。死ぬことよりも、伝えたいことを伝えずに死ぬのが怖い。若い頃に後輩を何人も喪ってきたので、彼らより長生きした俺はいつ死んでも別に構わないんだけどな」と答えた記憶がある。


「それで、ああいう話をしていたわけだな。で、お前は死ぬのが怖くないのか?」「ハイ、怖くありません。死んだら私は創世記にゆくので」――その瞬間私はSちゃんの首を絞めた。結構な力で。彼女はニコニコしながら、「怖くありません」と絞り出すような声を出した。


「お前な、この世界には生きたくても生きられない人々が山ほどいるんだよ。だから『死ぬのが怖くない』なんてことを軽々しく言っちゃいけないよ」「普段は言いませんよ。小野さんだから話したんです」


 私は言った。「創価学会もエホバも一緒だ。結局のところ『物語の装置』に過ぎないんだ。今はわからないだろうけど、よく覚えておけ」と。


 本当に伝えたいことはまだあった。私の担当は一週間後で終わる。Sちゃんと組む日はもう一回あった。ところが彼女は急病となり入院してしまうのである。


 彼女が凡庸になってしまったのは、エホバの日常に戻ったためだろう。デビューした頃は感受性を全開にしていたが、回路を元に戻したせいでエホバ以外の情報に対して鈍感となってしまったのだ。


「私が育てたいと思うような若者は創価学会にはいないな。こうなったら外で探すしかないか」――彼女と出会ったのは、ちょうどそんなふうに思っていた頃だった。しかし最終的には擦れ違ってしまった。つくづく「もったいないな」と思う。


 教団のルールが興味や関心をも左右する。回路が閉ざされてゆく人々は多いが、開いていける人は稀(まれ)だ。

2011-12-27

師弟不二と人間主義


 創価学会員が好むこれらの言葉は西洋世界に通用しない。師弟不二はグルイズムと受け止められる。そしてキリスト教世界において「人間主義」という言葉は神の否定を意味する。日本人は英語を学ぶ前にキリスト教を学ぶ必要がある。日本の外交が弱いのも、キリスト教のロジックを知らないためだろう。心の原理が違うのだ。


 宗教進化は供犠(くぎ)に始まりアブラハムの宗教に至った。人類のコミュニティを支えてきたのは宗教であった。その人類と宗教との関係性を超脱せしめたのがブッダであった。


 これはまだ断言するまでには至っていないが、大乗仏教仏法を啓典宗教化し、密教による様式化(儀式性)はヒンドゥー教への先祖返りであると私は考えている。その意味ではブッダ→小乗→大乗→日蓮という流れは、決して進化を保証したものではない。

新連載「化城の人 池田大作と創価学会の80年」佐野眞一


 今年あたりから「創価学会を取り巻くメディア情況が変わった」と思ってはいたが、決定的となった。


週刊ポスト 2012年 1/1・6合併号[雑誌]

ブログ「香風」について


 先日紹介したブログだが、URLを見て今気づいた。


 http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/


 私にストーカー行為を働いた婦人部と同じ名前であることに。同一人物かどうかは定かでないが、触らぬ神に祟りなしだ。くわばらくわばら。

徒手空拳の姿で自分の脳みそに対峙する作業


「自分の中で内部化できていないテーマは、書き起こしてみてもロクなものにならない」


小田嶋隆パソコンの電源を落として今年を振り返ってみる」以下同】


 むずかしいのは、アイデアを見つけることや、テーマを確定させることそのものではない。徒手空拳の姿で自分の脳みそに対峙する作業が、実は、やってみると一番骨の折れる作業だという、それだけの話なのだ。

地雷を踏む勇気 〜人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書) その「正義」があぶない。

2011-12-26

対告衆を変えよ


仏教者の言葉が世界に届かないのは、キリスト教を知らないため。仏法を学ぶ者は欧米人に向かって法を説け。直ちに言葉の組み立てを変えよ。
Dec 26 via KuroTwiFavoriteRetweetReply

「絶対正義」が意味するもの


反証可能性について」の続きを。Libra君への追伸である。ネット上にはまともな議論ができる人物が少ないので、ちょっとばかり丁寧に応答しよう。少なからず彼は「自分の頭」で考えることのできる人物だ。

 演繹(えんえき)的に述べよう。まず「絶対」とは神である。絶対という概念は神の座標を示すものと考えるべきである。キリスト教世界観は神の存在という前提に拠(よ)っている。そして神と相対する人間がいる。これが「個人」。


「個人」も「社会」も明治期に導入された翻訳語である。つまり明治以前の日本には「個人」も「社会」も存在しなかった。

「言葉の概念」を知る必要がある。それはこういうことだ。国民と市民と個人は違う。隣村の太郎と個人も異なる。なぜか? 背景や付随情報が違うためだ。つまり脳内のシナプスの連係が微妙に変化するのだろう。


 だから厳密にいえば前にも書いた通り、「信仰」と「信心」も別物となる。

 話を元に戻そう。神という絶対と対峙する個人は、「我思う、ゆえに我あり」と存在を許されることとなる。これが「自我」の本質である。


 蒸し返すようで恐縮だが、自我と我(が)も異なる。自我とは存在で、我とは当体・主体の意である。仏法的な視点では「媒体」的ニュアンスが強い。「現象」といってもいいだろう。


 すなわち「絶対正義」とは「自我」である。今日も冴えてるぞ(笑)。


 アインシュタインは時空が絶対ではないことを明らかにした。時間や空間は速度や重力によって歪んでいることを証明した。存在とは時空である。「私」とは私の一生と身体空間であり、これ一念三千である(三世間)。つまり自我とは時空であると考えられよう。


 ブッダは存在=我を打ち破り、諸法無我と悟った。時間軸においては諸行無常である。


 川を見る。次から次へと流れ去る水を見つめる。川はどこにあるのだろう? 川を自宅に持ち帰ることはできない。とすると川に実体はないのだろう。水が干上がれば、それは川ではない。つまり川が流れているのではなく、流れそのものが川なのだ。私の目の前にあるのは「川という現象」だ。


「私」とは「川」のようなものだ。では、この世界には何が存在するというのか? それこそが縁起である。相互性、関連性だけが実在するのだ(※関係性という言葉は人間関係を想起させるため、縁起を「相互性、関連性」としておく)。つまり日蓮の文字マンダラは人物の固有名をもって存在を表わしているわけではなく、妙法に照らされた当体として輝くのだ。マンダラの空白部分に縁起が横溢している。

 ブッダは徹底した相対主義者であった。そしてブッダが示した座標は「空」であった。神は点であるが、空はあらゆる次元へ拡がっている。

ゲーデル・タルスキーの不完全性定理


哲学史家●ゲーデルは、不完全性定理によって、論理学から全数学を導出することができないことを明らかにしましたが、さらにタルスキーは、「真理性」を対象言語内で定義できないという事実を厳密に証明しました。すなわち、「ゲーデル・タルスキーの不完全性定理」によって、ウィーン学団が理想とする普遍的言語やそれに基づく統一科学も、厳密には実現不可能であることが立証されたわけです。皮肉なことに、ウィーン学団の「論理学という武器」によって、論理実証主義の理想が破壊されたのです。


【『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、2010年)】


 以前、「試論:ゲーデルの不完全性定理と仏法」という一文を書いたが、今読むとあまりにも拙い。閃きの神が舞い降りてきたら書き直すことにしよう。

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

2011-12-25

本源的な語りと合理主義


 本源的な語りとは語りへと参入することを義務づける語りであり、語りをそもそも開始することである。それこそが合理主義が切実にもとめることがらなのであって、「耳をかたむけようとすらしないひとびと」さえも説得し、かくして理性の真の普遍性を基礎づける「力」なのである。


【レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限 下』岩波文庫、2006年、45−46頁】


Essais d’herméneutique」より転載。

反証可能性について


 次はLibra君へのご返事。

 Libra君とはそれほど親しいわけではないのだが付き合いは長い。今となっては盟友と思えるほどだ(笑)。そもそも私が「創価仏法研鑚掲示板」を設けたのは、Libra君を釣るためであった。山中講一郎氏もネットから撤退したので、2000年前後から活躍しているのは、もう彼くらいしかいない。


 ただし今回の反応についてはあまり評価できない。彼の関心が「細密な教義論争」に向かっていることを示すものであり、そこに私は何の興味も覚えない。チト失礼になるが、箇条書きで応答する。

  • ウィトゲンシュタインの言葉は文脈を知る必要がある。彼が明らかにしたのは「言葉の限界性」である。
  • 言葉の本質は翻訳機能である。
  • 経・論・釈といったところで、最終的には我々の「解釈」に委ねられる。
  • 私が書く真理とは「悟り」を意味する。
  • 日蓮の曼荼羅は霊山浄土変では?」――霊山浄土変って何? まさか「霊山浄土って変だよ」じゃないとは思うが。
  • Libra君、「日蓮の曼荼羅は霊山浄土変では?」という言説が有意味かね?
  • 「絶対的正義」は誤っている?――正義は悪と相対関係にあり、善とは異なる。
  • 絶対も正義もキリスト教の言葉だと思う。仏教的には「しょうぎ」であり、その基本は正当性ではなく正統性である。
  • 「正当な理由のない生命に対する攻撃は絶対的不正義であり、それに対する防御は絶対的正義である」――「正当な理由」を決めるのは「誰」か?
  • 相対関係に基づく以上、絶対的正義は絶対的不正義に依存せざるを得ない。

 最後に以前つぶやいた反証可能性に関するツイートを紹介して終わる。尚、反証可能性は合理性において重要な役割をもつが、複雑系には対応できない。


今日はカール・ポパーが生まれた日(1902年)。論理実証主義を批判し、反証可能性を基軸とする科学的方法を提唱した。真理は反証できない。それゆえポパーは「真理発見者」を激しく批判した。方法における科学と非科学の間に太い線を引き、マルクスやフロイトを「知的信仰である」と斥けた。
Jul 27 10 via Twit DelayFavoriteRetweetReply


反証可能性という緊張感は、安易な絶対性を斥ける。懐疑とは、真理に対する謙虚さの現れ。盲信や狂信を支えているのは、懐疑と無縁な確信。 RT @ujikenorio: K・ポパー卿が指摘する通り、どこかに「反証可能性」という余地を残していない思想というのは、哲学でも思想でもない。
Sep 28 10 via Twit DelayFavoriteRetweetReply


人文の方が必要でしょう。因果関係を証明できませんから。有り体にいえば複眼思考。 RT @enoking00: 人文でも反証可能性が問われるのか。RT @ujikenorio: 御意。反証可能性とは緊張感。そしていつ破られてもいいという覚悟。緊張と覚悟が喪失すると盲信の狂信。
Sep 29 10 via Twit DelayFavoriteRetweetReply


「智者に我義やぶられずば用いじとなり」というのがそれ。 RT @ujikenorio: 御意。反証可能性とは緊張感。そしていつ破られてもいいという覚悟。緊張と覚悟が喪失すると盲信の狂信。
Sep 30 10 via Twit DelayFavoriteRetweetReply


思想・哲学・宗教には反証可能性がない。だからこそ科学的な態度が求められるのだ。詐欺師に信頼を寄せるような間抜けが多すぎる。懐疑なき信仰が鰯の頭を拝ませるのだろう。理屈の超越はあって然るべきだが、それは個々人の内なる世界で行われるべき事柄である。
Jan 14 via Twit DelayFavoriteRetweetReply


合理性とは矛盾を解消する作業であり、ポパーが説いた反証可能性が重要な鍵となる。
Dec 24 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply

創価学会員は教団を語るのをやめて仏法を語れ

 私が書いた「内部論理」の意味がまったく伝わっていない。彼女の論法は他宗でも可能だし、共産党でも、健康食品販売でも可能である。「創価学会員は教団を語るのをやめて仏法を語れ」と申し上げておく。組織における問題や矛盾を解決できる人でなければ、私が書いていることは理解できない。上記ブログ記事は「建て前ロボット」みたいな代物であり自分の言葉が一つもない。信仰心イデオロギーに毒された結果であろう。恥ずかしげもなく綺麗事を綴る精神性が幼児性を示している。彼女(あるいは彼)が行き詰まるのは時間の問題である。実際の活動においては、年長者と話すのが苦手なことだろう。

トラックバックについて


 記事の量が多すぎるためかトラックバックが届かないことが多い。私に対するご意見をアップしたブロガーはメールで教えてもらえると助かる。ただし応答を保証するものではありません。

2011-12-24

『乱脈経理 創価学会 vs. 国税庁の暗闘ドキュメント』読了


 飼い犬に手を噛まれるレベルを超えている。喉笛を噛まれたといっていいだろう。創価学会批判の重要文献として長く読まれることになると思う。竹下(登)−矢野ルートを通じて国税庁が税務調査に手心を加えた事実は重い。宗教法人はその公益性によって税負担を軽減されているが、明白な悪用が見受けられる。


 国税庁に影響を与えたのは竹下登元首相であった。そして最大の恩人である竹下氏をまず公明党(石田幸四郎)が、そして創価学会(山崎尚見)があっさりと裏切る。また、これほどの汚れ仕事を矢野氏に押し付けておきながら、学会は矢野氏を後ろから斬りつけた。本書は公明党OBが矢野氏から強奪した「黒い手帖」を元に描かれており、第一弾という位置づけとなっている。


 典型的な因果応報であり自業自得としか言いようがない。でも、きっとこれで少しはよくなっていくと思うよ。少しはね。


乱脈経理 創価学会VS.国税庁の暗闘ドキュメント

2011-12-23

金総書記死去:北朝鮮で神秘現象? 体制への忠誠心競う


 北朝鮮で金正日(キム・ジョンイル)総書記死亡が発表されて以後、国営メディアを通じて、平壌市民らが激しく悲しんでいる様子が連日放映されている。一方、故金日成(キム・イルソン)国家主席の銅像近くでタンチョウヅルが長時間こうべを垂れたなどという「神秘現象」が各地で起きたとも報じられている。北朝鮮内では各地での金総書記が死亡した後の非日常性を強調することで体制への忠誠心の強さを競っているようだ。


 北朝鮮各地で金総書記の大型肖像画などの前に住民らが集まり、泣き続けている。首を振りながら大声で泣く人、全身を揺すりながら崩れる人、ひざまずいて地面を何度もたたいて涙を落とす人など、激しく悲しんでいる。


 94年に金主席が死亡した際も、国営メディアは住民らの号泣シーンを繰り返し放映した。90年代末に脱北した北朝鮮の元大学教員は「金主席の時はみんな本当にショックを受け、本気で泣いていた」と証言。だが金総書記に対しては「金主席に比べ忠誠度は低く、本気ではないようだ。泣かないと批判されるから泣いているだけ」と指摘する。脱北者団体代表の朴相学(パク・サンハク)さん(43)は「外では泣かないといけないが、家の中では喜んで笑いが出ている」と解説する。


 聯合ニュースによると、韓国企業の工場が入居している北朝鮮の開城(ケソン)工業団地の北朝鮮労働者たちは、死亡発表の19日には午後3時で早退したが、20日は朝から正常操業に戻っている。金総書記の葬儀などがある28、29の両日は休業となるが、それ以外の操業は通常通りの予定だという。


 一方、ラヂオプレスによると、国営朝鮮中央放送は22日朝、北朝鮮側が総書記の死亡日とする17日朝、北朝鮮が「聖地」とする白頭山(ペクトゥサン)の天池(カルデラ湖)の氷が割れて大音響で湖畔を揺り動かし、激しい吹雪が起きた、と伝えた。死亡が発表された19日には、白頭山一帯の「正日峰」上空に「見たこともない赤い夕焼け」が発生したとした。22日の労働新聞(電子版)は、21日午前8時半ごろ、平安南道(ピョンアンナムド)の弔儀式場に一つがいのヤマバトが現れ、式場に入ろうとくちばしで窓ガラスをつつき続けた――と記述した。


 東亜日報によると、脱北者団体「NK知識人連帯」の金興光(キム・フングァン)代表は、死去発表の19日に、飲酒、歌舞、旅行など不必要な移動を禁止し、敬虔(けいけん)な気持ちで追慕の雰囲気を醸成するなど5項目を住民に指示していたことを明らかにした。


毎日jp 2011-12-23

2011-12-22

2011-12-20

2011-12-18

利他という名の自己満足


 あなたは言うかも知れません。自分自身のことを考えるより、他の人を助ける方が満たされた気分になると。違いは何ですか? それは依然として自己関心です。他の人たちを助けることがあなたにより大きな満足感を与えるとすれば、あなたは自分により大きな満足を与えてくれるものに関心をもっているのです。なぜそこにイデオロギー的な観念を持ち込むのですか? どうしてこの二重思考があるのでしょう?


【『既知からの自由』J・クリシュナムルティ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2007年/『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ:十菱珠樹〈じゅうびし・たまき〉訳、霞ケ関書房、1970年の新訳版)】

既知からの自由

2011-12-17

矢野本を推す


 10月に刊行された『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』を読んでいるのだが、まあ面白い。私と同世代で青年部の中堅幹部を務めた者であれば、様々な疑念が氷解することだろう。とにかく読み物として、よくできている。矢野本については本書から入り、『闇の流れ 矢野絢也メモ』→『私が愛した池田大作 「虚飾の王」との五〇年』と進むのが望ましい。尚、『私が愛した』はまだ読んでいないので不要かも。


 ブログを持っている諸君は是非とも感想をアップしてもらいたい。ま、創価学会員でこの本をきちんと読める人は稀だと思うが。年が明けたら、私も詳細にわたって所感を綴る予定である。


乱脈経理 創価学会VS.国税庁の暗闘ドキュメント 闇の流れ 矢野絢也メモ (講談社プラスアルファ文庫) 私が愛した池田大作 「虚飾の王」との五〇年

隠蔽された不安


 このような家族が過度の愛情と関心とを交換しあうのは、実はそこに真の信頼と理解が存在しないからである。私たちは、たがいに信頼し理解しあっていない他人と向かい合って、二人の間に長時間の沈黙が続くことには耐えられない。真の沈黙はただ深い信頼と理解の存在を前提としてのみ可能である。「密着型」の家族にあっては、愛情と関心とが相互の心理的な遠さから来る不安を隠蔽するために用いられている。心理的な遠さがこのようにして心理的な近さの外見をとったとき、隠蔽された不安はやがていっそう破壊的な作用を及ぼすことになる。ここでもまた、そのような家族の中に生まれ、育ってくる幼い子供がこの破壊作用の犠牲者となる。子供は親の「愛情」によって完全に自己の立場を奪われる。ここではいわば、愛情と関心とが「暴力的」に作用する。


【『異常の構造』木村敏〈きむら・びん〉(講談社現代新書、1973年)】

異常の構造 (講談社現代新書 331)

2011-12-16

『天台本覚論』の本旨は、仏教の神道化

 本覚思想については思うところがあるのだが、時間がないのでそのうち書く予定。

誤ったメッセージ


伊勢崎●わたしが懸念しているのは、社会復帰の訓練を受けた少年兵の今後と、そうした子どもたちを取り巻くシエラレオネの次の世代です。おそらく、わたしたちは彼らに非常に誤ったメッセージを送っています。少数の人間をころすのは殺人で犯罪である。しかし、大量の人間を殺害するのは戦争犯罪であるが、戦争犯罪は大概の場合、恩赦され、恩恵まで与えられる場合があるというメッセージです。そしてこのようなメッセージは、確実にシエラレオネに広まっています。わたしはこれを非常に残念に思っています。


【『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築く』ロメオ・ダレール、伊勢崎賢治(NHK出版、2007年)】

NHK未来への提言 ロメオ・ダレール―戦禍なき時代を築く

2011-12-15

財について


 仏教では財などは捨ててしまうのだ、執着しないのだ、と教えると思われるかもしれないが、それは出家行者のための教えである。出家した人は、すべてを擲(なげう)って教団に寄付してしまう。何も持たない。その代わりに、教団が生活のすべて保障するのである。

 世俗の人のためには、反対に、現世的な財を重んじよ、と説いてある。財産は尊いものである。財を集積することは、人生の望ましい目的の一つである。

 ところで、幸福の実現のためには人々が努力しなければならないが、その一つのあり方として世俗人にとっては財の集積ということは、人生の望ましい目的の一つと考えられた。


「もしも人が適当な処(ところ)に住んで、高潔な人に親しみつかえ、正しい気持をたもち、善を行なったならば、穀物と財宝と栄誉と安楽とは、かれのもとに集まる。」(アングッタラ・ニカーヤ)


【『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元〈なかむら・はじめ〉(佼成出版、1970年)】

人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉

2011-12-14

宮田論文に関する覚え書き 12(最終回)

 私が書きたいことは既に書いてしまった。というわけで後は流すだけにしておく。


 日蓮系における根本的な問題は、題目を唱えることが瞑想なのかどうかという一点に尽きる。戸田先生が「ロンドン仏教」と一言で斥(しりぞ)けてしまったために、創価学会員の思考は停止した。例えばフランスを中心とする西洋でなぜ禅が受容されたかを考えることがなかった。


 答えは簡単だ。「拝めばいいことがある」というのはスピリチュアリズムだからだ。

 戸田先生はマンダラのことを「幸福製造機」と呼んだ。ところが会員にとっては「欲望実現装置」となってしまった。


 本尊とは何か? マンダラとは何か? そこに何が描かれているのか? 我々は一言で説明することができない。この時点で有効なキーワードとはなり得ない。個人的には「仏」も、もうダメだと思っている。実際に使用されている意味において神と変わりがないから。


 戸田先生は獄中で悟達した。小説『人間革命』によれば、釈放後自宅へ戻るなり、仏壇のマンダラを外してしげしげと見つめ、「確かにこの通りだ」と呟いたとされる。


 これが事実であるとしよう。御本尊の相貌は一般会員だって何となくわかることだろう。ま、左右の位置はともかく大体わかるはずだ。とすると、戸田先生は「何を見たのか」が重要になる。


 もう一つ不問に付されていることは、戸田先生の悟達は日蓮ブッダと同じものであったかどうかという点である。ここを吟味した人は創価学会に一人もいない。


「仏とは生命なり」――この一言自体は紛(まが)うことなき悟りである。ところが我々の反応は「ヘエー」くらいのもんだ。俺たちはどうして悟れないんだろうね?(笑)


 宮田がいう「曼荼羅正意説」が何なのか、私にはよくわかっていない。マンダラ本意説ということなのか、あるいはマンダラ出世の本懐説なのかも。


 普通に考えてみよう。日蓮の目的がマンダラのみにあったとすれば、その教えはことごとくマンダラ制作のための手段となる。だとすると日蓮は書家か美術家となりやしないか? マンダラ・アーティスト。


 マンダラに描かれているのは「壮大な縁起の世界」である。

 そしてマンダラも言葉もシンボルにすぎない。

 更に教義に関する問題がある。果たして手紙が教義なのだろうか? 「俺の手紙は教義だぜ。大事にしろよ」と日蓮が言うだろうか? 鎌倉時代にあって、自分の手紙を数百年にわたって保存することを考慮していたのだろうか?


 そして私が今、呻吟しているのは「日蓮の悟りを理解できる人物が鎌倉時代に存在したかどうか?」である。多分いなかった、と思う。だとすれば、日蓮の教えは限定的になっている可能性すら否定できない。


 大乗仏教小乗仏教よりも上、という図式も考え直したがいいよ。


 宗教共同体のあり方に応じて変化する。だから先日も少し触れたが、三国四師の本質は共同体の変化にあると考えるべきである。2000年前のインドと800年前の鎌倉時代との比較検証が重要だ。鍵となるのは国家化、労働のあり方、情報伝播のスタイルなどである。


 大乗仏教から政治性の牙をもぎ取り、ブッダが本来説いた教えに還(かえ)ることが正しいと思う。また鎌倉仏教から密教性を抜き去り、アニミズム的世界観に基づく縁起を樹立することが日本の仏教界に課せられた使命であると確信する。


 何だかまとまりを欠いてしまったが、思索の機会を与えてくださった宮田幸一氏に心より御礼申し上げる。

時間と空間の明確な違い


 ところが、全てのものが内から見えるわけではない。同時に、内からでないと見ることができないものがある。それが意識である。では“意識”とは何か――。意識とは、量ではなく質である。瞬間瞬間に、それ自体に独自の性質をもっているものである。しかもそれは、瞬間瞬間に質的に変化し、流れるものである.その質的な変化は、そこに切れ目を入れること、ができない。これが、もう一つ大事な点ではないかと思う。


 そこに、時間と空間の明確な違いがある。空間は同質的な延長であり、数が成り立つためには必要である。しかし、時間には空間がない。それを、時間があると思わせるのは、私たちの意識が覚えていて、それを知ることができるからである。そうなると、本当の時間とは意識であると言わねばならない。


 過去の意識に新しい意識が加わっていく。過去を積んでいくからこそ、時間は刻々ふくらんでいく。一瞬前と現在の瞬間とでは、すでに内容が違っている。時間が流れるとは、刻々に新たなものを見いだし、自己を転換することである。新しいものを生むことによって結局、時間とは自由である。


 では“自由”とは何か――。人間が本当の自己になることである。しかしながら、人間が真の自己になることはまれである。したがって、自由はまれである、といえる。


「ベルクソンの生命論」南山大学教授 澤瀉久敬(おもだかひさゆき)氏

2011-12-13

宮田論文に関する覚え書き 11

 日蓮信奉者の中にも智ギの『法華玄義』を参考にして『当体義抄』を作成した者は次のように述べている。


『本尊問答抄』について 5


 こういう「正確な表記」が大切である。池田vs日顕紛争以降、広宣部を設けることによって組織内の情報格差が構造化してしまった。創価学会の教学は内部論理に傾いて、外へ打って出ることが一度としてなかった。このため殆どの会員が情報弱者となり、「イワシの頭」型信仰に堕した。


 教学が教団をまとめ上げる論理であるならば、それは単なる「決まり」を意味する。本来であれば、自分の頭で考える人材が広宣部から台頭してきてもよさそうな情況だったが、如何せん彼らは副役職であった。


「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」(当体義抄)


 有名な一文であるが、一歩下がって見れば孔子の教えの焼き直しであることが窺える。

 文章の香り高さと論理の深さは一致するものではない。


 もし仏が自然科学における法則の第一発見者に近い存在だと見なされた場合、仏と法則との関係は偶然的と見なされうるであろう。


 ピュタゴラスの定理と一緒かどうかというテーマだ。

 ハァー、疲れてきた。俺にとってはどうでもいいことだ。


 日蓮系教団って、みんな正義に取りつかれて、結果的に日蓮をアジテーターに貶(おとし)めてしまってんだよ。そうだろ? よく考えてみろよ。日蓮を「単なる批判者」にしているじゃねーかよ。だからみんな、自分の正義に凝り固まって、時代を経るに連れて分裂していくんだよ。


 ブッダが下とか日蓮が上とか、そんな勉強ばっかりだろ? 死ぬまで上下関係を追及しているようなのが山ほどいるよ。「内の社長と向こうの社長とどっちが上かね?」「ま、規模からいって内の方が上だわな。海外からも顕彰されているし」――これが創価学会の立場だ。


 馬鹿馬鹿しい。まったくもって愚の骨頂だ。


 大石寺マンダラが本物とか偽物とか、そんなことはどうでもいいんだよ。そんなところに執着するから、「間違い探し」みたいな教学ばっかりになっちまう。


 所詮、「言葉のゲーム」だ。


 すまん、昂奮してしまった。俺は気が短いんだ。許せ。


 一言敷衍(ふえん)しておくと、宮田(敬称略)は「法則」としているが、ここはやはり厳密に「法」とすべきである。法則は科学用語で、どうしても方法を含んでしまうからだ。


 法という真理(真如)がある。クリシュナムルティはこれを「他性(アザーネス)」としている。

2011-12-12

竹中労


「私は創価学会という組織の側に立つのではなく、あなた方一人ひとり、庶民信仰者に味方しているのだということを、くれぐれもお忘れなく」


【『左右を斬る 続・文闘への招待竹中労〈たけなか・ろう〉(幸洋出版、1983年)】

左右を斬る 続・文闘への招待

宮田論文に関する覚え書き 10

「5-4-4 現代の文化状況と理法、教法」を参照のこと。


 教法は死んだ。殺した犯人は印刷技術である。ルネサンス三大発明の一つ。グーテンベルクが聖書を印刷したのは1455年のこと。それ以前にも印刷は行われていたが、ま、象徴ということでグーテンベルクの名前を挙げておこう。


 そもそも教法を伝え聞いて悟りを開くことができるのであれば、悟りの内容は知識となる。そんなことがあるものか。大体、言葉はツールに過ぎないのだ。


 実際に教法が存在するのは武道や職人の世界である。何年も師匠について修行した暁にそっと伝えられるものがある。つまりここにおける教法とは「技術」を意味する。


 この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。

 これについて釈迦は、


「比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。……自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」


 と説法したとされる。これが「自帰依自灯明、法帰依法灯明」の教えである。


Wikipedia


 ブッダは拳(こぶし)に何かを隠すような真似をしなかった。


 仏典にある「秘密」とは常識の範疇を超えること(難信難解)に重きを置いたもので、「隠す」義があったとは考えにくい。


 新宗教としての創価学会には宗教体験重視というリベラルな考えに基づく布教活動しか選択の余地はなかったのであるが、伝統仏教としての日蓮正宗は、宗教体験に基づく布教活動を積極的に行わないのであれば、檀家制度に立脚して、聖典に基づいて、信徒に教義を教えることが可能であった。


『本尊問答抄』について 5


 創価学会員であれば何の疑問も挟まない文章である。それゆえ私が異論を展開することにしよう。


 創価学会がいうところの「宗教体験」とは何か? それは健康や経済に関する事柄が殆どである。「困ったことが上手く運んだ」場合に我々は功徳を感じる。僥倖(ぎょうこう)、幸運、ラッキー、ハッピーといった具合だ(笑)。


「生活がよくなる」のは経済的側面であって、クオリティ・オブ・ライフではない。よい学校、よい会社、よい人との結婚が功徳だ。ここにおける「よい」とは他人や過去との比較から判断がなされる。


 私たちは試験に受かり、仕事を得て、結婚し、子供が生まれ、それからますます機械のようになってゆくのです。


教育の機能 2


 クリシュナムルティは比較が分断を生むと喝破した。

 既に何度も書いている通り、聖教新聞に掲載されているのは社会での成功体験に限られている。だがよく考えてみよう。成功を望んだ時点で社会の奴隷になっていることを。


 また科学的視点に立てば、宗教体験の因果関係を証明することは絶対にできない。所詮、主観の領域なのだ。


 創価学会の宗教体験はプラグマティズムに傾きすぎて、宗教の名に値しないと私は考える。その実体は欲望充足であり、学会総体としての欲望は政治的志向とならざるを得ない。


 記憶が定かではないのだが、確か大Bが地区と名称を変えた頃(昭和58年前後)から、座談会では「体験談」を「活動報告」に改めるようお達しがあったはずだ。


 功徳のメカニズムについては以下の2冊が詳しい。

 確証バイアス、認知バイアスについては以下の2冊を参照せよ。

 経験が絶対であるはずがないのだ。我々の脳は日常的に記憶を書き換えていることも判明している。

2011-12-11

財務功徳論者


 財務に功徳があると主張する人は、家屋敷を売って財務をすればよい。昭和40年代にそれをやった婦人がいた。ご主人は既に他界していた。数年後、その婦人は生活保護を受けていたそうだ。草創期に地区部長を務めた方から、「こうした事実についてどう考える?」と質(ただ)されたことがある。

再び「政治の季節」を迎えた創価学会


学会が左右する衆院解散の時期

 2010年の参院選で民主党が惨敗、参院で与党の議席が過半数に及ばない「ねじれ国会」が生じてから1年以上が経過した。だが菅政権も野田政権も「ねじれ国会」を乗り切る道筋を付ける公明党との有効な関係をいまだ築けずにいる。公明党の背後に控える創価学会は、公明党が国会でキャスティングボートを握る立場を活かし、自ら政治を動かそうと再び動き出しているが、その背景には「ポスト池田」時代を睨んだ創価学会内の権力闘争の変化もある。国会の主役に躍り出た公明党とその背後にいる創価学会は、今後どう動こうとしているのか。


【中野潤】


世界 2012年 01月号 [雑誌]

2011-12-09

ただ独り、不確かな道を歩め


 世界の息吹から遠ざけられて、おまえは、息吹どころか風も入らない牢獄に入れられているのだ。親しいもの、個人的なもの、確実なもの、そういうものはすべて捨ててしまえ。親密なものはみな捨て去るのだ。大胆になれ。どんなに長いことおまえの多くの耳は眠っているのだろう。独りになれ、そして、だれにも通用しない言葉、世界の息吹が与える別の新しい言葉をみずからに向かって語れ。よく知っている道を取り上げ、即座に打ち壊すのだ。ひとに語るときには、二度と会うことのない人々に向かって語れ。世界の中心を捜せ。時間は無視せよ。みすぼらしい蜃気楼である未来のことは放っておくのだ。天国を語るのはもうよせ。星のあることは忘れよ。星は古道具のように投げ捨てるのだ。ただ独り、不確かな道を歩め。紙から文章を切り取るようなことはもう止めるのだ。満ち溢れぬかぎり沈黙していることだ。変装した木々は打ち倒せ。それは旧い命令の変装にすぎないのだ。屈服してはならない。世界の息吹がもう一度おまえを捉え支えてくれるかもしれないのだ。何ひとつ乞うてはならない。乞うてみても、何も与えられることはない。率直になれば、主の苦しみは分からなくても、虫の苦しみは分かるだろう。恵みの隙間から1000フィート下に飛べ。その下の方に、はるか下の方に、世界の息吹が吹いているのだ。


【『蝿の苦しみ 断想』エリアス・カネッティ/青木隆嘉〈あおき・たかよし〉訳(法政大学出版局、1993年)】


 友岡本で紹介されていた一節。「ただ独り、不確かな道を歩め」との言葉に胸を抉(えぐ)られる思いがした。そして肚の中に収まった。エリアス・カネッティノーベル賞作家。

蝿の苦しみ 断想

陰湿な創価学会の“権力闘争”

 コンサルタント企業に数百億円も支払う宗教団体ってどうなのかね?

2011-12-08

インターネットでの発信


 インターネットでメッセージを発信するのは無料である。つまりインターネットを活用していない団体や個人は「金になるメッセージしか発信しない」という態度であることがわかる。ビジネスであれ学問であれ芸術であれ、全部一緒だ。

ジャマイカからの応援ソング


D


 我々日本人は日々、アンサーソングを歌ってゆかねばなるまい。

末法の定義


 以前、こう書いたことがある。


 これはまだまだ勉強不足であるが、末法とは「国家が民衆を隷属させる時代」と言ってもよいのではないだろうか。日蓮が過去世の物語に仮託したのは、この事実であったと私は考えている。


摂受・折伏に関する考察


 そこで末法の定義に挑んでみる。


 末法とは人類のコミュニティが国家化へ向かう時代であり、情報のネットワーク化によって一切が政治化する時代である。


 社会システムや建築様式はそのまま脳の構造を示すものだ。こう考えると化儀の意味は変わってくる。単なる儀式性というよりは、制度や組織を指すと思われる。


 では化儀の広宣流布が単一教団の組織拡張なのかといえば、私はそうではないと考えている。立正安国の精神を鑑みれば、当然「脱国家」「超国家」を目指すべきであろう。単純な組織拡大では帝国主義と変わらない。


 参考テキストを挙げておこう。


 社会は暗黙のうちに脳化を目指す。そこではなにが起こるか。「身体性」の抑圧である。現代社会の禁忌は、じつは「脳の身体性」である。ゆえに、一章で述べたように、脳は一種の禁忌の匂いを帯びる。禁忌としての「脳」という言葉は、身体性を連想させるものとして捉えられている。「心」であればよろしい。そこには身体性は薄い。性と暴力とはなにか。それは脳に対する身体の明白な反逆である。これらは、徹底的に抑圧されなければならない。さもなくば「統御」されねばならない。いかなる形であれ、性と暴力とは徹底的に統御されるべきである。それが身体に関する脳化の帰結である。

 脳化=社会が身体を嫌うのは、当然である。脳はかならず自らの身体性によって裏切られるからである。脳はその発生母体である身体によって、最後に必ず滅ぼされる。それが死である。その意味では、「中枢は末梢の奴隷」である。その怨念は身体に向かう。善かれ悪しかれ、そこに解剖学が発生する環境がある。解剖学の背景は単純ではない。

 抑圧されるべきものは、まだ存在する。ヒトの社会は、その成立の最初から脳化を目指していた。社会が支配と統御に尽きるのは、そのためである。それが言語であり、教育であり、文化であり、伝統であり、進歩である。そこでの問題は、自然対人間ではない。その段階はとうに過ぎてしまった。個人対個人でもない。そんな問題は、動物ですら解決している。さもなければ、動物も社会もここまで存続してきていない。資本家労働者ではましてあり得ない。そうした思想は、すべてピント外れであることが証明されてしまった。

 脳化=社会で最終的に抑圧されるべきものは、身体である。ゆえに死体である。死体は「身体性そのもの」を指示するからである。脳は自己の身体性を嫌う。それは支配と統御の彼方にあるからである。自己言及性における、脳の根本的な矛盾は、論理にではなく、その身体性にある。脳に関する自己言及性の矛盾が、実際の論理的表現よりも強く意識されるのは、背後に脳の身体性が隠れているからである。個人としてのヒトは死すべきものであり、それを知るものは脳である。だからこそ脳は、統御可能性を集約して社会を作り出す。個人は滅びても、脳化=社会は滅びないですむからである。


【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】


 現代人はじつは脳の中に住んでいる。それは東京を歩いてみればすぐわかる。目に入るものといえば、人工物ばかりだ。人工物とはつまり脳の産物である。脳がさまざまなものを作りだし、人間はその中に住む。そこには脳以上のものはないし、脳以下のものもない。これを私は「脳化社会」と呼ぶ。大霊界がはやる根本の理由はそれであろう。大霊界もまた、脳の中にのみ存在するからである。われわれの社会では脳の産物は存在を許される。それを信仰の自由、表現の自由、教育の自由、言論の自由などと呼ぶ。他方、身体は徹底的に統制される。だから、排泄の自由、暴力の自由、性の自由、そういうものはない。許される場合は、仕方がないから許されているだけである。なぜか。脳は統御の器官だからである。脳は身体をその統御下に置く。さらに環境を統御下に置く。そうしてすべてを統御下に置こうとするのである。


【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】


 なぜ都市で、とくに時間が早くなるのか。もちろん、ハイテク化が進んで行くからである。それでは、ハイテク化とはなにか。コンピュータに代表されるように、それはまず第一に、情報化である。なぜ都市は、とくに大都市は、極端に情報化するのか。

 都市とはもともと、そのために生じたものなのである。都市には、予測不能なもの、ゆえに統御不能なものは、存在してはならない。それどころか、不測かつ統御不能という性質を持つものを排除した空間、そうしたものとして、そもそも都市が成立したのである。あたりまえのことだが、すべての予測は情報の上に成り立つ。一極集中がどこまでも進むことも、情報に関係している。入手が遅れた情報は、その価値を失う。それは、だれでも気づいていることであろう。


【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

唯脳論 (ちくま学芸文庫) カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)

2011-12-07

聖教新聞社の対応の悪さについて


 相談が寄せられたので一言だけ。

 私はこれ以降、新聞啓蒙をしていない。こんな連中のつくる新聞に未来はない。マイ聖教もやめた。我が家では一部しか購読していない。公明新聞はとっくにやめている。

 東京では40歳前後の販売店主が新築の一軒家を購入しているのもおかしな話だと思う。


 新聞啓蒙が声高に叫ばれるようになったのはバブルが弾けた後のこと。

 上級幹部が配達員をしないのもおかしい。全部末端に押し付けている。


 もう10年以上も前の話だが、中野区が新聞啓蒙一位になったことがある。この時、婦人部の本部長以上は100部のマイ聖教を申し込んでいる。


 聖教新聞が広く読まれることで仏法が流布できるのであれば、新聞を無料にして全戸配布すればよい。


 紙上座談会によって聖教新聞は赤旗と同じレベルに成り下がった。あれはただの作文だ。書いていた記者の名前も俺は知っているよ(笑)。

「すべての哲学的問題」は言語から生じる擬似問題


論理実証主義者●いえいえ、、よく注意していただきたいのですが、ウィトゲンシュタインは、言語が明確でないためにさまざまな哲学的問題が生じているなどと気楽なことを言っているのではありません。彼は、「すべての哲学的問題」が、言語から生じる擬似問題にすぎないと喝破しているのです!


【『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、2010年)】

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

2011-12-05

訃報


 本日午後8時すぎ、冬柴鉄三氏が逝去した。

宮田論文に関する覚え書き 9

 この田中智学の議論は……理法=「爾前権迹共通の理円常住の法」、教法=「事円常住の妙法」と解釈すれば、理法よりは教法が勝れているという日蓮正宗と同様な立場である。


『本尊問答抄』について 5


「理法よりは教法が勝れている」ことなどあり得ない。普通に考えれば誰にでもわかることだ。なぜ日蓮系教団ではこんなことばかり議論されているかといえば、それは日蓮法華経と涅槃経を「法」と位置づけたためである。


 世間の人々は何れをという事をしらざる故に、或は千人のいうかたにつきて一人の実義をすて、或は上人の言について少人の実義をすつ。或は威徳の者のいうぎにつきて無威の者の実義をつす。仏は依法不依人といましめ給へども末代の諸人は依人不依法となりぬ。仏は_依了義経不依不了義経〔了義経に依て、不了義経に依らざれ〕とはせいし給へども、濁世の衆生は依不了義経不依了義経の者となりぬ。あらあら世間の法門を案ずるに、華厳宗と申す宗は華厳経を本として一切経をすべたり。


【真蹟断簡】


 依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。


【報恩抄 真蹟】


 しかしながら法四依(ほうしえ/法に依て人に依らざれ、義に依て語に依らざれ、智に依て識に依らざれ、了義経に依て不了義経に依らざれ)との整合性が崩れる(「義に依て語に依らざれ」)。

 ゆえに事理を論ずるのであれば、まず言葉をどのように扱うかが問われる。


 その意味でウィトゲンシュタインの指摘が重要だ。「およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」(『論理哲学論考』)。

 私は「語りえないもの」を懸命に語ったのが大乗仏教であると考えている。以前は、小ブッダともいうべき人々が次々と登場して、小乗〜大乗という思想的変遷を遂げたものと考えていたが、どうも違うような気がしてならない。なぜなら、新しい理論(後加文や偽書の類い)は常に教団同士の抗争から生まれているからだ。


 例えば論文で示されている田中智学の文章を読んで「ああ、なるほど」と思う一般人がいるであろうか? いるわけないよ(笑)。私ですら難儀しているくらいだ。このようにして宗教は「論理の罠」に囚われてゆくのである。


 そして教団が大きくなり腐敗してゆく過程で必ず原典主義、原理主義が台頭する。

 プロテスタント創価学会が典型だ。その純粋性は言葉を絶対視するために、言葉の奴隷とならざるを得ない。であるからして教祖に額づくことが美徳となる。


 これが宗教であろうか? だとすれば宗教とはコピーにすぎない。パーマン2号が法主だ。

「前へ倣(なら)え」が宗教の根幹であるならば、宗教は軍隊なのだろう。十字軍、僧兵。


 長くなってしまったので、もうやめる。進化宗教学的見地では社会システムの変遷に伴って新しい宗教が誕生していることがわかっている。だから三国四師をありがたがる前に、時代背景や社会構造を検証するべきだと思う。始めに経典ありきじゃバイブルと変わりがない。


論理哲学論考 (岩波文庫) ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

2011-12-04

宮田論文に関する覚え書き 8/五百塵点劫に関する考察

 田中智学の引用部分にある「久遠実成の釈尊、久遠実成の弥陀、大日法身」(『本尊問答抄』について 5)は“神”と考えてよい。一言で述べよう。神とは偶像である。


 チト微妙なのは本尊マンダラの相違で、このあたりが私はよくわかっていない。ただ確実にいえることはマンダラが図であるという事実だ。


 理法(真理)を図像化できるのだろうか? できるとすれば理法は数学世界に収まってしまう。私はできないと思う。つまりマンダラはシンボルであって、理法へ至るサインを示しているのだろう。


 今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品嘱累に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。是れ等は智慧いみじく、才学ある人人とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり。此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひ、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難竝びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること、雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべしと仏記しおかせ給ひぬ。


【新尼御前御返事 文永12年(1275.02.16) 真蹟】


 日蓮系教団の物語性で読むことは簡単だが、現実にこの一文と取り組むとなれば至難極まりない。

 宇宙ができたのは137億年前であるとされている。つまり137×10の8乗だ。ところが五百塵点劫は上記ページによれば10の270乗となっている。(転載ミスがあった。ご指摘いただいたmt氏に感謝申し上げる)

 つまりこの数値自体が一つの宇宙論であると考えてよかろう。だが真実は違う。多分。なぜなら前世も来世もないからだ。生まれ変わるという論理は元々カースト制度を支えるためのデタラメな物語にすぎない。


 では五百塵点劫が示しているのは何か? それは生命論なのだろう。過去という記憶(業)を一掃し、未来を捨て去るところに「死」が浮かび上がってくる。その絶対的な静謐(せいひつ)の中に悟りがあるのだろう。すなわち悟りとは時間から離れることなのだ。


 深遠なるものは無言であり、静謐(せいひつ)であり、そしてこの静謐の中に、無尽蔵なるものの源泉がある。精神の動揺は、言葉の使用である。言葉がないとき、無量のものがある。


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


 私たちは自分のまわりに混乱、不幸、ぶつかり合う願望を見、そしてこうした混沌とした世界の現実に気づいて、真に思慮深くて真摯な人々──絵空事をもてあそんでいる人々ではなく、本当に真剣な人々──は、当然ながら行動という問題を考究することの大切さがわかるでしょう。集団行動があり、また個人行動があります。そして集団行動は一個の抽象物、個人にとって好都合の逃避となっています。つまり、この混乱、たえず起こっているこの不幸、この災いは集団行動によって何とか変えることのできる事態であり、それによって秩序を回復できると思うことによって、個人は無責任になるのです。集団というものは、間違いなく虚構の実体です。集団とは、あなたでありそして私なのです。あなたと私が真の行動というものを関係性において理解しないときにのみ、私たちは集団と呼ばれる抽象物に頼り、それによって自分の行動において無責任になるのです。行動を改善するため、私たちは指導者や、あるいは組織的な団体行動に頼ります。私たちが指導者に行動上の指示を仰ぐとき、私たちは常に、自分自身の問題、不幸を超克するのを助けてくれると思われる人を選びます。が、私たちは自分の混乱から指導者を選ぶので、指導者自身もまた混乱しているのです。私たちは、私たち自身に似ていない指導者を選びません。選べないのです。私たちは、私たちと同様に混乱した指導者しか選べないのです。それゆえ、そのような指導者、教導者、およびいわゆる霊的(宗教的)なグルは、私たちを常により一層の混乱、より一層の不幸へと導くのです。私たちが選ぶものは私たち自身の混乱に由来しているので、私たちが指導者に従うとき、私たちはたんに自分自身の混乱した自己投影物に従っているだけなのです。それゆえ、そのような行動は、直接的結果をもたらすかもしれませんが、結局は常により一層の災いに帰着するのです。

 このように私たちは、集団行動は──場合によってはやりがいがあるものの──災い、混乱に帰着せざるをえず、また個人の側の無責任をもたらすということ、そして指導者への服従は常に混乱をつのらせるということを見ます。けれども、私たちは生きなければなりません。生きることは行動することであり、存在することは関係することです。関係なしにはいかなる行動もなく、そして私たちは孤立して生きることはできません。孤立などというものはないのです。生きるとは、行動することであり、また関係することなのです。そのように、より一層の不幸、混乱を引き起こさない行動というものを理解するには、私たちは自分自身を、そのすべての矛盾対立する要素、たえず互いに闘っている多くの面と共に、理解しなければなりません。私たちが自分自身を理解しないかぎり、行動は必然的により一層の葛藤、不幸に帰着せざるをえないのです。

 ですから、問題は理解と共に行動することであり、そしてその理解は自己認識によってのみもたらすことができるのです。結局、世界は私たち自身の投影です。あるがままの私、それが世界なのです。世界は私とは別個にあるのではなく、世界と私は対立しているわけではありません。世界と私は別々の実体ではないのです。社会は私自身であり、二つの別個の過程ではないのです。世界は私自身の延長であり、ですから世界を理解するためには、自分自身を理解しなければならないのです。個人は集団、社会に対立してあるのではありません。なぜなら個人は社会だからです。社会とは、あなたと私とその他の人々との間の関係です。個人が無責任になるときにのみ、個人と社会との間の対立があるのです。ですから、私たちの問題はとてつもなく大きいのです。あらゆる国、あらゆる集団、あらゆる人が直面しているとてつもない危機があります。その危機に対して私たち、あなた、私はどんな関係があるのでしょうか。そして私たちはどのように行動したらいいのでしょうか? 変容を起こすためには、どこから始めたらいいのでしょう? すでに言いましたように、もし私たちが集団に頼れば、出口はありません。なぜなら、集団は指導者を含蓄しており、ゆえに常に政治家司祭専門家によって搾取されるからです。で、集団を構成しているのはあなたと私なのですから、私たちは自分自身の行動に責任を持たなければならないのです。すなわち、私たちは自分自身の性質、ひいては自分自身を理解しなければならないのです。自分自身を理解することは、世間から引き籠もることではありません。なぜなら、引き籠もることは、孤立を含んでおり、そして私たちは孤立状態で生きることはできないからです。ですから私たちは、関係における行為というものを理解しなければなりません。そして、その理解は、自分自身の葛藤し、矛盾する性質への「気づき」にかかっているのです。そのなかに平和があり、そして私たちがあてにできる状態をあらかじめ思い描くことは愚劣だと私は思います。自分が知らない状態を私たちが思い描くことなく、ひたすら自分自身を理解するときにのみ、平和と静謐がありうるのです。平和の状態はあるかもしれませんが、しかしたんにそれについて思い描くことは無意味です。

 正しく行為するためには、正しい思考が必要です。正しく考えるためには、自己認識が必要です。そして自己認識は、孤立によってではなく、関係によってのみもたらすことができるのです。正しい思考は自分自身を理解することにおいてのみ起こりうるのであり、そしてそこから正しい行為が湧き起こるのです。自分自身――その一部ではなく、矛盾撞着した性質を含んだその中身の全部――を理解することから起こる行為こそが、正しい行為なのです。私たちが自分自身を理解するにつれて正しい行為が起こり、そしてその行為から幸福が生まれるのです。結局、私たちが望んでいるもの、様々な形で、あるいは様々な逃避――社会活動、官僚主義的栄達、娯楽、崇拝、語句の反唱、セックス、あるいはその他の活動を通じての無数の逃避――によって私たちのほとんどが捜し求めているものは幸福なのです。が、私たちは、これらの逃避が永続的な幸福をもたらさないこと、それらが束の間の気休めしかもたらさないことを見ます。根本的には、それらには何ら真実なるもの、何ら永続的な歓喜はないのです。

(ニューデリー、1948年11月14日)


【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1993年)】


 長文の引用となってしまったので今日はここまで。


生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉 瞑想と自然

本部職員は不明を恥じよ


 山中講一郎を知らない本部職員が多い。副会長クラスでも知らないと答える。そして、自分が知らない事実を恥じる感覚が職員には欠如している。一般会員が知り得ぬ情報にアクセスできるため、自分たちは何でも知っていると錯覚しているのだろう。本部職員、外郭職員は山中講一郎の本を全部読むように。これは私からの命令である。

日蓮伝再考 1 伝説の長夜を照らす 日蓮自伝考―人、そしてこころざし

2011-12-03

組織の本質


 組織の本質は命令系統にある。それゆえ組織は命令を遂行するためのヒエラルキー(階級、階層構造)によって構成される。このため全ての組織内における価値観は「命令に従うことが正しい」となる。宗教団体の欺瞞は、命令を信仰に置き換えるところにある。創価学会における「本部直結」とは、本部の方針に従う意味であり、それ以上でもそれ以下でもない。上級幹部ほど命令に逆らうことができない。本部職員も同様だ。

2011-12-02

宮田論文に関する覚え書き 7

 いくつか質問が寄せられたのでお答えしよう。昨日の記事の「仮に教義が絶対であったとしても、結局は一人ひとりの解釈によるのだ」が少しわかりにくかったようだ。


「とっくに書いてあるだろうが!」と思いきや、それは別ブログであった。


 日蓮が経・論・釈を厳密に分けたのは既に書いた通りで、議論の原則を打ち立てるためであって、決して言葉を絶対視・神聖視したものではないというのが私の考えだ(権実相対とは)。


 手っ取り早く書いてしまうぞ。世界とは存在するものではない。ここアンダーライン。世界とは認識されるものであって、我々が生きているのは「認識空間」であり「解釈世界」であるといってよい。


 現実は五感すら当てにならないのだ。

 例えば幻肢痛という症状がある。切断されて既になくなった手足の部分が痛むのだ。我々の実感としては五官が「感じている」と思いがちだが、実際に感じているのは脳である。


 だから見える人にとっては幽霊は実在するといってよい。統合失調症などの幻覚・幻聴も同様だ。つまり世界とは脳内に存在するのだ。

 反対に実際に存在する情報が捨象されるケースもある。フランス人に風鈴の音は聞こえない。要は意識に上らない情報は存在しないも同然なのだ。


 昨今、様々な分野でリテラシー能力ということが言われる。元来は「読み書きできる能力」の意であるが、「読み解く能力」という意味合いで使われることが多い。すなわち解釈である。


 三世間とは解釈世界の相違を示したものだ。国家、民族、宗教、政治、これらの全てが別々の解釈世界といえよう。


 そして脳科学では人間に自由意志はないとされている。

 にわかには信じ難いことだが、微速度撮影された映像を見れば何となく得心がゆく。

 時間軸を変えただけで、人間の動きがビリヤードの球のように見えるから不思議だ。反応と反射が行き交う光景。思考や自我など無意味に思えてくる。


 もう一つ大事なことを書いておくと、最終的に科学と宗教を結ぶものは「時間論」である。こちらに関しては勉強不足で結論を出すまでに至っていない。時間とは概念であって存在するものではない。

2011-12-01

宮田論文に関する覚え書き 6

 仏法をこのような生命論で解釈することが創価学会の大きな理論的特徴の一つになっているが、私自身もこのような考えにはなじんでいて、それほど違和感を持っていなかった。ところが第一次宗門問題で、このような仏法を宇宙に内在する理法と考えるのは根本的な誤りであると細井日達から厳しく批判された。第一次宗門問題に関しては、創価学会にも日蓮正宗にもお互いに不満はあったにせよ、あそこまで大騒動する必要性は今でも見出せない。


『本尊問答抄』について 5


 サイト内検索の都合があるため、第1次宗門問題を「第一次宗門問題」に変えた。


 このあたりについては『日達上人全集』に収められているはずだ。創価大学の図書館で見た記憶がある。


 論文の論旨からは外れるが、「あそこまで大騒動する必要性は今でも見出せない」という指摘は見逃せない。これが事実であるとすれば、第一次宗門問題改め池田×日達紛争は教義に端を発したものではなく、教団内部の政治的、あるいは感情的な問題であったことが窺える。


 その後日蓮正宗の教義を研究する中で、法についての理解が創価学会と日蓮正宗では決定的に相違していることが分かった。創価学会は既に述べたように、仏法も自然科学の法則と同様に宇宙に内在する法=理法であると見なしているが、日蓮正宗では仏法は仏がその悟りを人々に教えるために説いた法=教法であると見なし、それゆえ仏の悟りを媒介にせず、直接法を修行するということはありえないと考える。しかも日蓮正宗は単に仏法を教法と見なすだけではなく、その教法はまだ完全には人々に示されていず、その一部は仏である日蓮の後継者につながる大石寺住持にのみ口伝されているという考えも持っている。


 これが理法と教法の違いである。それにしても素晴らしい言葉だ(笑)。わたしゃ全然知らなかったよ。


 この覚え書きを記した目的はここにある。創価学会は第二次宗門問題改め池田×日顕紛争の際、法主本仏論を徹底的に糾弾した。しかしながら創価学会における師弟論が絶対性に基づいているため、議論としては有効ではない。法主か師匠かという相違だけである。


 問題の急所は日蓮正宗も創価学会も悟りを不問に付してきた一点にあるのだ。このため両派(「派」と書いてしまうぞ)における功徳と罰は、プラグマティックな損得次元となってしまっている。


 前回、私のツイートを紹介したが、仏が行為(悟り)から理論(言葉)へと向かうのに対して、弟子は理論から行為へと向かう。最大の問題は弟子における行為を悟りではなく、行躰(ぎょうたい)に貶めてしまったことだ。

 行躰即信心というのが、日蓮正宗におけるプラグマティズムであり、創価学会もこれを継承した。


 面倒なんで一言で書いてしまうが、行為は時間の束縛を受けるゆえ、悟りとは関係がない。一生成仏が今世のゴールであるならば、現在の自分は否定されるべき存在と化す。これがなぜ誤っているかというと、悟りとは現在性に基づいているからだ。成仏という状態が将来的に約束されるものであるならば、それは思考の範疇となる。

 もっと厳密に見てみよう。創価学会における理法と日蓮正宗における教法に大差はない。どちらも他人の言葉に従っているだけだ。


 実は理法と教法に流れているのは、「悟りと思考」という一大テーマなのだ。

 要は宗教性をどう捉えるかという次元の話である。

 こうして考えてみると、理法の教法化が現代における権実雑乱と思えてならない。


 そもそも悟りを言葉に置き換えることが可能だろうか? 言葉でなされるのは「説明」である。「言葉を信頼する」なあんて言えば聞こえはいいが、こうした発想は言語を絶対視する方向性、すなわち教義化に向かわざるを得ない。


 我々は自転車に乗る行為すら他人に説明することができない。美しい風景を言語化することも決してできない。


 私はブッダ日蓮に教義を説いた自覚はなかったと考えている。なぜなら教義は人を縛るからだ。一切の束縛から人間を自由にしようとした二人が、「私の教義に従え」とはいわなかったはずだ。大体、教義論争をしている人のどこにブッダの精神があるというのか? 仮に教義が絶対であったとしても、結局は一人ひとりの解釈によるのだ。


 既に何度も書いているが、日蓮大乗仏教に基づく教義論争をしたのは、いまだ国家体制が整っていない時代において、対話の土俵をつくる目的があったと私は考えている。


 言葉に額づかせるから教団内のヒエラルキーが生まれる。


 このあたりも多分、脳機能の志向を示しているように感じる。大乗仏教はブッダの教えを啓典宗教に変えたと見ることも可能だろう。キリスト教の変遷を学ぶと酷似した部分が多い(カトリックプロテスタント)。洋の東西で同じ進化を遂げているから、脳と社会のネットワーク機能に由来するのだろう。


「生きているって、凄いことなんだよ」――ブッダや日蓮のメッセージはこの一言に尽きる。


 宗教に思想はない。ただ教団同士の抗争があるだけだ。その事実をしっかりと見よ。