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2011-12-05

訃報


 本日午後8時すぎ、冬柴鉄三氏が逝去した。

宮田論文に関する覚え書き 9

 この田中智学の議論は……理法=「爾前権迹共通の理円常住の法」、教法=「事円常住の妙法」と解釈すれば、理法よりは教法が勝れているという日蓮正宗と同様な立場である。


『本尊問答抄』について 5


「理法よりは教法が勝れている」ことなどあり得ない。普通に考えれば誰にでもわかることだ。なぜ日蓮系教団ではこんなことばかり議論されているかといえば、それは日蓮法華経と涅槃経を「法」と位置づけたためである。


 世間の人々は何れをという事をしらざる故に、或は千人のいうかたにつきて一人の実義をすて、或は上人の言について少人の実義をすつ。或は威徳の者のいうぎにつきて無威の者の実義をつす。仏は依法不依人といましめ給へども末代の諸人は依人不依法となりぬ。仏は_依了義経不依不了義経〔了義経に依て、不了義経に依らざれ〕とはせいし給へども、濁世の衆生は依不了義経不依了義経の者となりぬ。あらあら世間の法門を案ずるに、華厳宗と申す宗は華厳経を本として一切経をすべたり。


【真蹟断簡】


 依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。


【報恩抄 真蹟】


 しかしながら法四依(ほうしえ/法に依て人に依らざれ、義に依て語に依らざれ、智に依て識に依らざれ、了義経に依て不了義経に依らざれ)との整合性が崩れる(「義に依て語に依らざれ」)。

 ゆえに事理を論ずるのであれば、まず言葉をどのように扱うかが問われる。


 その意味でウィトゲンシュタインの指摘が重要だ。「およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」(『論理哲学論考』)。

 私は「語りえないもの」を懸命に語ったのが大乗仏教であると考えている。以前は、小ブッダともいうべき人々が次々と登場して、小乗〜大乗という思想的変遷を遂げたものと考えていたが、どうも違うような気がしてならない。なぜなら、新しい理論(後加文や偽書の類い)は常に教団同士の抗争から生まれているからだ。


 例えば論文で示されている田中智学の文章を読んで「ああ、なるほど」と思う一般人がいるであろうか? いるわけないよ(笑)。私ですら難儀しているくらいだ。このようにして宗教は「論理の罠」に囚われてゆくのである。


 そして教団が大きくなり腐敗してゆく過程で必ず原典主義、原理主義が台頭する。

 プロテスタント創価学会が典型だ。その純粋性は言葉を絶対視するために、言葉の奴隷とならざるを得ない。であるからして教祖に額づくことが美徳となる。


 これが宗教であろうか? だとすれば宗教とはコピーにすぎない。パーマン2号が法主だ。

「前へ倣(なら)え」が宗教の根幹であるならば、宗教は軍隊なのだろう。十字軍、僧兵。


 長くなってしまったので、もうやめる。進化宗教学的見地では社会システムの変遷に伴って新しい宗教が誕生していることがわかっている。だから三国四師をありがたがる前に、時代背景や社会構造を検証するべきだと思う。始めに経典ありきじゃバイブルと変わりがない。


論理哲学論考 (岩波文庫) ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)