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2011-12-25

反証可能性について


 次はLibra君へのご返事。

 Libra君とはそれほど親しいわけではないのだが付き合いは長い。今となっては盟友と思えるほどだ(笑)。そもそも私が「創価仏法研鑚掲示板」を設けたのは、Libra君を釣るためであった。山中講一郎氏もネットから撤退したので、2000年前後から活躍しているのは、もう彼くらいしかいない。


 ただし今回の反応についてはあまり評価できない。彼の関心が「細密な教義論争」に向かっていることを示すものであり、そこに私は何の興味も覚えない。チト失礼になるが、箇条書きで応答する。

  • ウィトゲンシュタインの言葉は文脈を知る必要がある。彼が明らかにしたのは「言葉の限界性」である。
  • 言葉の本質は翻訳機能である。
  • 経・論・釈といったところで、最終的には我々の「解釈」に委ねられる。
  • 私が書く真理とは「悟り」を意味する。
  • 日蓮の曼荼羅は霊山浄土変では?」――霊山浄土変って何? まさか「霊山浄土って変だよ」じゃないとは思うが。
  • Libra君、「日蓮の曼荼羅は霊山浄土変では?」という言説が有意味かね?
  • 「絶対的正義」は誤っている?――正義は悪と相対関係にあり、善とは異なる。
  • 絶対も正義もキリスト教の言葉だと思う。仏教的には「しょうぎ」であり、その基本は正当性ではなく正統性である。
  • 「正当な理由のない生命に対する攻撃は絶対的不正義であり、それに対する防御は絶対的正義である」――「正当な理由」を決めるのは「誰」か?
  • 相対関係に基づく以上、絶対的正義は絶対的不正義に依存せざるを得ない。

 最後に以前つぶやいた反証可能性に関するツイートを紹介して終わる。尚、反証可能性は合理性において重要な役割をもつが、複雑系には対応できない。


今日はカール・ポパーが生まれた日(1902年)。論理実証主義を批判し、反証可能性を基軸とする科学的方法を提唱した。真理は反証できない。それゆえポパーは「真理発見者」を激しく批判した。方法における科学と非科学の間に太い線を引き、マルクスやフロイトを「知的信仰である」と斥けた。
Jul 27 10 via Twit DelayFavoriteRetweetReply


反証可能性という緊張感は、安易な絶対性を斥ける。懐疑とは、真理に対する謙虚さの現れ。盲信や狂信を支えているのは、懐疑と無縁な確信。 RT @ujikenorio: K・ポパー卿が指摘する通り、どこかに「反証可能性」という余地を残していない思想というのは、哲学でも思想でもない。
Sep 28 10 via Twit DelayFavoriteRetweetReply


人文の方が必要でしょう。因果関係を証明できませんから。有り体にいえば複眼思考。 RT @enoking00: 人文でも反証可能性が問われるのか。RT @ujikenorio: 御意。反証可能性とは緊張感。そしていつ破られてもいいという覚悟。緊張と覚悟が喪失すると盲信の狂信。
Sep 29 10 via Twit DelayFavoriteRetweetReply


「智者に我義やぶられずば用いじとなり」というのがそれ。 RT @ujikenorio: 御意。反証可能性とは緊張感。そしていつ破られてもいいという覚悟。緊張と覚悟が喪失すると盲信の狂信。
Sep 30 10 via Twit DelayFavoriteRetweetReply


思想・哲学・宗教には反証可能性がない。だからこそ科学的な態度が求められるのだ。詐欺師に信頼を寄せるような間抜けが多すぎる。懐疑なき信仰が鰯の頭を拝ませるのだろう。理屈の超越はあって然るべきだが、それは個々人の内なる世界で行われるべき事柄である。
Jan 14 via Twit DelayFavoriteRetweetReply


合理性とは矛盾を解消する作業であり、ポパーが説いた反証可能性が重要な鍵となる。
Dec 24 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply

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