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2011-12-26

「絶対正義」が意味するもの


反証可能性について」の続きを。Libra君への追伸である。ネット上にはまともな議論ができる人物が少ないので、ちょっとばかり丁寧に応答しよう。少なからず彼は「自分の頭」で考えることのできる人物だ。

 演繹(えんえき)的に述べよう。まず「絶対」とは神である。絶対という概念は神の座標を示すものと考えるべきである。キリスト教世界観は神の存在という前提に拠(よ)っている。そして神と相対する人間がいる。これが「個人」。


「個人」も「社会」も明治期に導入された翻訳語である。つまり明治以前の日本には「個人」も「社会」も存在しなかった。

「言葉の概念」を知る必要がある。それはこういうことだ。国民と市民と個人は違う。隣村の太郎と個人も異なる。なぜか? 背景や付随情報が違うためだ。つまり脳内のシナプスの連係が微妙に変化するのだろう。


 だから厳密にいえば前にも書いた通り、「信仰」と「信心」も別物となる。

 話を元に戻そう。神という絶対と対峙する個人は、「我思う、ゆえに我あり」と存在を許されることとなる。これが「自我」の本質である。


 蒸し返すようで恐縮だが、自我と我(が)も異なる。自我とは存在で、我とは当体・主体の意である。仏法的な視点では「媒体」的ニュアンスが強い。「現象」といってもいいだろう。


 すなわち「絶対正義」とは「自我」である。今日も冴えてるぞ(笑)。


 アインシュタインは時空が絶対ではないことを明らかにした。時間や空間は速度や重力によって歪んでいることを証明した。存在とは時空である。「私」とは私の一生と身体空間であり、これ一念三千である(三世間)。つまり自我とは時空であると考えられよう。


 ブッダは存在=我を打ち破り、諸法無我と悟った。時間軸においては諸行無常である。


 川を見る。次から次へと流れ去る水を見つめる。川はどこにあるのだろう? 川を自宅に持ち帰ることはできない。とすると川に実体はないのだろう。水が干上がれば、それは川ではない。つまり川が流れているのではなく、流れそのものが川なのだ。私の目の前にあるのは「川という現象」だ。


「私」とは「川」のようなものだ。では、この世界には何が存在するというのか? それこそが縁起である。相互性、関連性だけが実在するのだ(※関係性という言葉は人間関係を想起させるため、縁起を「相互性、関連性」としておく)。つまり日蓮の文字マンダラは人物の固有名をもって存在を表わしているわけではなく、妙法に照らされた当体として輝くのだ。マンダラの空白部分に縁起が横溢している。

 ブッダは徹底した相対主義者であった。そしてブッダが示した座標は「空」であった。神は点であるが、空はあらゆる次元へ拡がっている。

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