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2010-01-31

師匠が「仏法は勝負」と言われているのに、なぜそれを否定するのか?


 同じ内容の質問が数件寄せられたので、まとめて答えておこう。


質問


イズムの罪〜「勝負主義」と「現証主義」について”を読めば「なるほど」と思うのですが、しかし先生は今尚「仏法は勝負」と繰り返し指導されています。これをどう受け止めればよいのでしょうか?


小野不一


 もしも、「仏法は勝負」が「第一義」であるとすれば、仏法は完全な競争原理となってしまいます。では、虫眼鏡で「勝負」の文字を拡大してみましょう。勝負とは「邪正をただす」(16頁)ことであり、公場対決を指す言葉と考えてよいでしょう。鎌倉時代は印刷技術もないため、人々に権実雑乱の現実を知らしめる行為は公場対決しか考えられません。


 では我々が望んでいる「勝利」とは何でしょうか? それは目標の達成です。ある時には弘教であり、またある時には新聞啓蒙であり、そしてある時には選挙だったりします。学会総体として見た場合、全て広宣流布のためであると意義づけられています。


 勝負である以上、勝ったり負けたりすることは避けられません。勝てば気分がよくなり、負けると落ち込むのが人の常でありましょう。これは自我が大きくなったり小さくなったりするためです。


 数え切れないほどの悲惨な地区があります。これらの地区が弘教を推進すれば、悲惨を広げていることになりはしないでしょうか? 悲惨な組織にいる、悲惨なメンバーが行う折伏は、当然の如く悲惨な結果を生むに決まっているのです。


 あなたはなぜ戦っているのでしょうか? それは「組織の命令」や「幹部の指示」があるからです。我々はお尻を叩かなければ戦わないほど怠惰な人間なのです。自分で自分を管理することができないため、組織に隷属することで管理してもらっているわけです。これを美化した言葉が「叱咤激励」です。ムチとニンジンを欲するあなたが、馬のような人生を歩むのは仕方がありません。


 もっとわかりやすく言いましょう。たとえ選挙に勝とうが負けようが、そこには「変わらぬ自分」がいるのです。変化するのは「気分」だけです。一時的に勝負という山を経験しますが、またぞろ仏法勝負とは無縁な日常に舞い戻るわけです。


 そして私が書いた批判的な文章を読んでは溜飲(りゅういん)を下げ、先生の指導を読んでは「あれ、どっちなんだ?」と迷いを深め、周囲をキョロキョロ眺めながら、同じ場所をグルグル回るような人生を過ごしているわけです。ネズミ車の中をひた走るハムスターのように。


 自分の頭で考えるのが大変なので、あなたは常に誰かの考えに寄り掛かり、依存し、もたれているのです。あなたは他人の言葉を杖とし、先生の言葉を車椅子にしておきながら、自分の足で立っていると錯覚しているのではないでしょうか?


 80歳を過ぎた師匠に何度も何度も「勝て!」と言わせる創価学会でいいんですか? 我々はどうして毎度同じことを先生に言わせているのですか? それは負けているからです。負け続けているからでしょう。命懸けの青年が一人もいないためでしょう。先生がいなくなれば滅びゆく創価学会だからでしょう。


 私は、年老いた師匠を利用し続ける創価学会に我慢がならないだけです。私は凄まじいばかりの焦りを覚えてなりません。このまま行けば、先生は一教団のリーダーという存在で終わってしまいます。本当であれば、日本人全員が親しく接する機会を持っていて当然なのです。歴史に名を残した偉人は皆そうです。民衆が実際に自分の目でその姿を見、その声を聴いて、自分の心に炎を灯(とも)してきたのです。


 書籍にしても同様です。思想という次元で考えた場合、書籍はそのエッセンスといえます。では今現在、先生の著作でゆくゆく岩波文庫に収録されるようなものがあるでしょうか? デカルト、カント、ヘーゲルと並べられるような作品があるでしょうか? 私はないと思います。なぜなら、殆どの著作が学会指導となっているためです。


 つまり我々学会員が先生の手足を縛り、身動きできなようにしているわけです。師匠に依存し、おんぶしてもらい、抱っこをせがむ幼稚な弟子しかいないのが現状です。「勝て!」と言われなければ、勝とうとすらしない弟子しかいません。


 追伸――人の言葉に心を振り回される人はネットをすべきではありません。まず、基本的な訓練をしっかりと受けるのが先です。

2008-10-28

世界的な金融危機について


「世界的な金融危機が叫ばれておりますが、どのように考えればよいのでしょうか?」というメールが寄せられた。「私に質問するのはお門違いだ」と返信しようとったがやめた。せっかく寄せられたメールだからね。


 さほど、経済に詳しいわけではないのだが、いついたことを箇条書きにしておこう。

  • 日経平均株価が7000円まで下がったということは、昨年の半額になったということ。
  • 株価は半年先の実体経済を反映すると言われているので、景気が一気に冷え込むことが予される。
  • 銀行は資産強化を求められるため、貸し渋りを行う。
  • 銀行が機能を果たさなければ、闇金が横行する。
  • 金融マーケットの最大の問題は「レバレッジ」にある。
  • 経済原則に乗っ取れば、株価が上がろうが下がろうが、資金の移動を示しただけに過ぎない。ゼロサムゲームであるから、誰かが損をした分は、必ず誰かの懐に入っている。
  • アメリカ経済の落ち込みが、世界各国に輸出された格好になっている。
  • アメリカが経済復興政策として、戦争を行う可能が高まった。戦争遂行が確実になれば、共和党のマケインが大統領になる。
  • アメリカ経済は「ものづくり」に転換する可能が出てきた。
  • 多くのアナリストが、「オリンピックが終れば中国経済のバブルは弾ける」と予測していたが、それどころではなくなった。
  • 株価が下落しているということは、現金の価値が高まったという味になる。
  • ドル安になっている時は、海外旅行へ行くべきである。

2008-04-26

壮年本部長がプライバシーを無視



 皆様、お世話になります。大阪在住の新米壮年部員、畑と申します。


 最近、私の悲願ともいうべき事がついに突破口を開け、歓喜の前進をしている次第です。最終的な悲願の“達成”に到達するには、これからの更なる精進が不可欠でありますが、ひとまず喜び勇んで歩んでおります。


 そんなさなか、 先日、本部長(壮年部)が地区の会合で突然「○○さんが○○をついに○○したそうです。ささ、ひと言どうぞ」。……私は呆然としました。この私が抱えていた問題は、本部長と地区部長しか知りません。 長らく自分一人の胸に抱えて戦ってまいりましたが、やはりちゃんと指導を受けて戦ってゆこうとい、このお二人にだけ打ち明け、「他言だけは決してなさらないで下さい」と伝えていたのです。


 つい先日も地区部長から早速「体験発表をして欲しい」との依頼がありましたが、「それでは私が“○○で困っていた”という“事実”が地区の皆さんに明らかになってしまう。それでは困る」とお断りしました。 そこまでして自分の生活細部を公開しなければいけないのは納得がいかないのです。


「それで誰かか元気になれば」と言うのは理解できます。できればそうしたい。しかしながら、それもケースバイケースではないでしょうか? 「“○○の件”を伏せてならいいです。題目をいくらあげた……、どれほどあきらめなかったか……、どれだけ逆境があったか……。それならば、喜んで発表させて頂きます」とも申し上げた次第です。これには今度は地区部長が色を示し、保留となっており

ます。


 そういう状況で、今回本部長が私のなどまるで考慮に入れず、多くの方の前で“発表”してしまったのです。 「他言なさらないで下さい」というは、願いがかなった今でも変わらないのに……。まったく裏切られたいです。願いがかなったとはいえ、次なる新たな目標も明確にあり、それをかなえてこそ本当の悲願達成であり、「いよいよ、これから!」とのっているさなかで、この事件。全く憤慨しております。


「体験談として“格好のネタ”が来た……」とわれたのかどうかは知りませんが、“慶事だから(発表したって)イイじゃん”的な発は、約束の「なし崩し」であり、個人情報ともいうべきものへの軽視です。ましてや、“本当のゴールへふんどしを絞め直している”私の決に水を差す愚行です。


 できれば本部長への怨嫉などしたくはありません。 しかし、取り返しのつかないことになり、 私はどう自分を納得させられるのか……。その言葉を見つけ出そうと相談をさせて頂いております。ご多忙の中、大変申しわけありませんが宜しくお願い致します。


joypops


 この本部長さん、幹部として失格です。先生は明確に指導されています。「秘密は絶対に守れ。口の軽い幹部は失格だ」と。私は、この指導を先生から直接、伺う機会があったので断言できます。これは時代が変わっても、学会の方向が変わっても絶対に守らなければいけないことではないでしょうか?


「話せるようになったときに話す。話したくないことは話さなくとも良い」先生は、こうも仰いました。今から18年前のことですが、これは年に関係のないことだといます。


 また、学会は「社会の縮図」とも言われますよね。現実社会でも、その本部長さんのされたことは明らかにルール違反です。


 直接、本部長さんにお話しにくいといます。その時は、分区(圏)の幹部・総区、総県の幹部・方面の幹部ときっちりお話されることを、お勧めします。怨嫉しないことと同時に、ご自分にとっての「落としどころ」を見つけるためにも。


小野不一


 プライバシーについては、以下の指導を参照されたい。

 まず目立つのは、畑さんの文章の長さとわかりにくさである。問題の本質を理解してない上、葛藤を抱えている様子が窺える。畑さんの怒りに乗せられてしまったのがjoypopsさんで、最悪のアドバイスになっている。否、アドバイスというよりは、婦人部同士の陰口と同じタイプのもので、畑さんの怒りを強める結果となっている。


 指導というのは、相手の話をよく聴けば、おのずから答えが見つかるものだ。


 できれば本部長への怨嫉などしたくはありません。 しかし、取り返しのつかないことになり、 私はどう自分を納得させられるのか……。その言葉を見つけ出そうと相談をさせて頂いております。


 何もせず、他人の言葉に救いを見出そうとする姿勢が弱々しい。自分にとって都合のよい答えを探しているのだろう。この中途半端さこそ、畑さんの一凶である。


 その場で本部長を糾(ただ)さなかったことが全ての敗因だ。「今頃、泣き言を言われても困る」というのが私の本音である。



 joypops様、早速のご回答ありがとうございます。「落としどころ」という表現は、私には的を射た言葉です。


 正直なところ、学会は人間社会の縮図ですから、時には憤慨することもあります。自分が作り出したにならないよう、これも訓練だとってゆこうといます。そして、ご紹介頂いた先生の指導。先生がそのようにおっしゃっていたという、その事実。それで十分です。何よりの言葉です。ありがとうございました。


 さて皆様に引き続きご相談になりますが、小野さんより以下ご指摘頂きました。


 何もせず、他人の言葉に救いを見出そうとする姿勢が弱々しい。自分にとって都合のよい答えを探しているのだろう。この中途半端さこそ、畑さんの一凶である。その場で本部長を糾(ただ)さなかったことが全ての敗因だ。「今頃、泣き言を言われても困る」というのが私の本音だ。


 真摯に受けたくいます。弱点は指摘されてこそ克服できます。ただ、「他人の言葉に救いを見出そうとする姿勢」は誤解といます。ならば、このような相談室が敷居の高いものになってしまいます。学会における「何でもまず指導を受ける」という姿勢にも影響があるかもしれません。


 また、“その場”というのは「会合のさなか」です。果たして「場を凍らせない」ゆえの忍耐は間違っていたのでしょうか? むしろ、私はこれまで何でもズケズケと見や指摘を言う格でした。自分の小さな正義観の愚かさを知り、時に人を抱擁する境涯の大きさを学会の先輩方に学んだのです。幹部に遠慮するつもりはありません。ですが、会合参加の皆さんに気持ちよく帰って頂けるための私のいは間違っているのでしょうか?


 その場で指摘して謝罪させる行為ができたとして、果たしてそれに応える(“答える”ではなく)ことができる幹部かも疑問です。正義は一つではないのも学会の現実です。“イレギュラーな出来事”は参加の皆さんも困惑するでしょう。現実の場で、学会幹部の権威主義を指摘したとて、皆さんの個人の士気に水を差すかもしれません。私が恐れるのはその現実です。


壮年部くまおー


 お疲れ様です。No.28のご見に対する私の見です


 また、“その場”というのは「会合のさなか」です。果たして「場を凍らせない」ゆえの忍耐は間違っていたのでしょうか? むしろ、私はこれまで何でもズケズケと見や指摘を言う格でした。自分の小さな正義観の愚かさを知り、時に人を抱擁する境涯の大きさを学会の先輩方に学んだのです。幹部に遠慮するつもりはありません。ですが、会合参加の皆さんに気持ちよく帰って頂けるための私のいは間違っているのでしょうか?


「『場を凍らせない』ゆえの忍耐」とは? 上位幹部の誤解や不見識に基づく発言を聞いた場合、創価学会員の私は会合中であっても間違いは糾(ただ)すのが礼儀であり、慈悲であるといます。私は、正義かどうかその場では判断できませんが、「おかしい」とったら、場がどうであれ相手が誰であれ、忍耐せずに見を言うようにしています。忍耐は、家庭指導や折伏の時のためにとっておくようにしています。


ku


 文字でのやり取りですから、細かなところは像するしかありません。小野さんが指摘されているのは、一念の姿勢というか、のありようの部分ではないでしょうか、行動は一念から起こるものだと考えると、本部長を糾(ただ)せなかった姿勢へのアドバイス=叱咤、だといます。


 また、“その場”というのは「会合のさなか」です。果たして「場を凍らせない」ゆえの忍耐は間違っていたのでしょうか? むしろ、私はこれまで何でもズケズケと見や指摘を言う格でした。自分の小さな正義観の愚かさを知り、時に人を抱擁する境涯の大きさを学会の先輩方に学んだのです。幹部に遠慮するつもりはありません。ですが、会合参加の皆さんに気持ちよく帰って頂けるための私のいは間違っているのでしょうか?


 畑さんの文は、学会を楯に自分のいを正当化しようとしているようなところがあるのでは? とじます。このような場合は終わってから、本部長に言えばいいのではないでしょうか? 言いたいことは直接話して、はっきりさせればいいのです。


 私自身の場合は、プライベートな悩みや問題・目標も全て皆の前で語ることにしています。そのような場を提供してくれているのが学会だとうし、語ったことによって腹が決まるからです。語る→腹が決まる→祈れるようになる→実践がともなう→結果が出るというじでしょうか。この過程にの入る隙はありません。これは飽くまでも私のやり方です(笑)。


 畑さんも結果を勝ち取られているのですから、些細なことに振り回されないことが大事なのではないかといます。


ume2


「その場」と言う言葉に対して飛躍的な質問になっているようにえますね。


 質問を見る限りでは、畑さんが言われている「現場」では、本部長に対して何一つアクションがなされていないようにわれます。「その場」と言うのは、畑さんが言われている「会合のさなか」から、こちらに質問をするまでの時間的流れを「その場」と言うのではないかと私はじましたが? 「その場」という言葉で、そこまで疑問をじてしまうことに違和があります。


 私でしたら、それほど話してほしくない内容(相談)でしたら、終了後便所の裏へ呼び出します。当事者が当事者と問題解決するのが一番ではないでしょうか。


 ある中学生が言っていました。「いじめは黙っていないで文句を言い返すと、それは【イジメ】ではなくなり、【ケンカ】になる」と。


 その場で指摘して謝罪させる行為ができたとして、果たしてそれに応える(“答える”ではなく)ことができる幹部かも疑問です。


 とありますが、そんな幹部によく指導を受けられましたね。


 現実の場で、学会幹部の権威主義を指摘したとて、皆さんの個人の士気に水を差すかもしれません。私が恐れるのはその現実です。


 起こってもいない現実(過去に起こした現実かもしれませんが)をご配されるより、一日も早く問題を解決し、現場で会員の皆さんの指揮を鼓舞されることを期待いたします。


joypops


 畑さんが納得されたのならば、もうこれ以上、他の方の見に反応されるのは得策ではないといます。小野さんからのご指摘ですが、一理あるとはいます。しかし、私は畑さんがとられた行動を支持します。


 私も、以前、総区部長会で、とある方面幹部の一言にぶちきれてその場を立ち去ったことがあります。あとで、「どうしたのか?」と聞かれたので、「あなたのあの一言がどれだけの人間にいやないをさせたかお分かりか?」と、問いただしたことがあります。何も言わなくとも、黙って立ち去ることで、場は充分、凍ってしまいました(笑)。その後、その幹部は私に土下座して謝りましたが、私は受け入れませんでした。それは、あの場にいた方々全員に、不適切だったと謝罪してもらいたかったからです。


 ただ、私もそのとき、先生のご指導をい出し、自分の落としどころを見つけたんです。


 現実の場で、学会幹部の権威主義を指摘したとて、皆さんの個人の士気に水を差すかもしれません。私が恐れるのはその現実です。


 これは、学会の幹部たるもの、常に肝に銘じることだと、私もいます。たまたま、私が畑さんの答えになるご指導を知っていた。それで納得された……。これでいいのだといます。


 ちなみに、ご紹介したのは神奈川文化(1990年115日)でのご指導です。これは残ながら、詳細は活字になっていません……。


小野不一


 ネガティブな者同士が奏でるハーモニー。これを怨嫉と付けよう。もう、これ以上のやり取りはムダだ。親切が仇となりかねない。死ぬまで、「場を凍らせないよう」配慮をし、問題がある度に「落としどころ」を探すがいい。子供じみた正義は極めて厄介だ。どこをどう突っつけば組織が動くのかも理解できないのだろう。今のままでは、誰に何を言ったところで解決することは不可能だと言っておこう。



 ご回答くださった皆様、ありがとうございました。まず第一に厚く御礼を申し上げます。


 さて、今回の往復は非常に考えさせられました。私の相談内容については、自分の中での気持ちの解決は着いております。joypopsさんに師匠池田先生のお言葉をご紹介して頂き、弟子としてこれ以上の納得はありません。


 そもそも、私の相談の主旨は“落しどころ”を見つけたい事なのです。組織をどうこうさせたいであるとか、この(約束を破った)幹部を糾弾したいとか、そういったものではありませんでした。


 一部の方の回答には、どちらかというと、私の悩み(しみ)の解決をはかるというより、正論でもって“正しきことを”論ずることに重きを置いておられるようにじました。「ネット相談室」の主旨が“議論”にあるなら、それでもいいといます。 議論でもって、「何故そのとき幹部に詰め寄らなかったのか」というような、私への叱責は議論上は正しいことかもしれません。ですが、それは相談者のしみに、それこそ“火に油を注ぐ結果”になりませんか?  学会同志が「慈悲」の絆であるならば、相談における往復が相談者のしみを取り除くことに重きを置くべきだと個人的にはいます。 「慈悲」はご存じの通り、「抜苦与楽」であり、その根底には「同」です。 このことを忘れていては、信の場の相談にふさわしくないといます。


 さて、更に私がその場で糾弾することによって、“場が凍ること”への配が、「起こってもいない現実」と一蹴されたことには正直、失笑しました。まるで、“信号無視しても事故にあうとは限らない”ような理屈にじました。多くの現場担当者は私と同じ配をしていますよ。悪く言えば自分を殺している。幹部に遠慮しているのじゃなく、部員さんの混乱があってはならないという一念だとう。だから“落としどころ”をみんな自分なりに探しているんです。これを「悪しき習慣」であると知っていても、自分が“改革派”などと傲慢になる人は少ない。学会自体も“環境”に過ぎないから。私が無役職時代には、それこそ何の配も、何の空気も読まず、“私の正義のまま”にその場で抗議しました。「腫れモノ」のような存在だったかもしれませんw。でも、多くの諸先輩の懐の大きさが私を育ててくれました。


 仮に「悪しき習慣」も、法の深い味においては、「学会に何故縁したか?」の理由だといます。「それからどう成長したか」を生むための。ゆえに問題解決も大事だけども、“落としどころ”も非常に大事だとうんです。それは、前進へのエンジンだから。


“敷居の高い”相談室にならないために、是非「2ちゃんねる化」(“突く”という議論モード)は一考かと。ましてや主宰者への配慮も。


 最後に、ネット上である方からも個人的に激励くださったものを抜粋してご紹介したいといます。全文では、私のしみを理解してくださった上で、「この幹部をいかに糾弾するか」の組織論に終わることなく、信の指導として書いてくださっています。今は晴れ晴れした気持ちでいます。


以下、ご紹介文

 まず、件(くだん)の地区部長・本部長の事ですが、そういう人は、信の世界とは別に、人間として大いに問題がありますから、いずれ厳しい指導を受ける時が来る事でしょう。 ですからそれは置いておきます。


 牧口先生以来、我学会は座談会を活動の原点として、拡大をしてきました。 その座談会の中は体験発表です。 代々の会長は、なぜそうして来たのでしょうか。様々な義があります。 細かくは書きませんよ、畑氏なら義だけ書けば、深い味を理解されるでしょうからね。


 一つには、「体験を語る事イコールご本尊の賛嘆」であるからです。それは即自分の功徳、家庭の繁栄に繋がります。体験発表そのものが、(輪円具足とも功徳珠とも表現する)御本尊功徳の偉大さの新たな証明の出発になるのです。一つには、座談会は地湧の菩薩の集まりですから、報告をするのは当然であるからです。体験発表は地湧の菩薩同志が互いに行う、功徳の現証の報告なのですね。最高の指導であり、最大の激励なのです。一つには、「せめてもの報の行為」です(個人的にはこれが一番重要かな)。もう、わかりましたよね。 結局、しなきゃならないのさ、やんなきゃだめなのさ。どうせ、しなきゃならないのだから、やんなきゃだめなのだから、堂々とやればいいんですよ。



 小野不一氏がこの相談室での一連のやり取りを、当事者が反論できない自身のブログ(創価王道)に無断で載せ、コメントまで載せている。前々回の私のレスで、そのブログでの氏の文章を引用し、相談室での回答諸氏への返答と併せ反論を載せた。驚いたことにその後、またまた相談室ではなくブログにおいてjoypops氏と私のやり取りを評し、辛らつなコメントを寄せている。ご紹介しておこう。


ネガティブな者同士が奏でるハーモニー。これを怨嫉と付けよう。もう、これ以上のやり取りはムダだ。親切が仇となりかねない。死ぬまで、「場を凍らせないよう」配慮をし、問題がある度に「落としどころ」を探すがいい。子供じみた正義は極めて厄介だ。どこをどう突っつけば組織が動くのかも理解できないのだろう。今のままでは、誰に何を言ったところで解決することは不可能だと言っておこう。


【1】何故、ブログなのか? 相談室の存在義に問題が生じまいか? また、相談室だから書いたのであって、ブログに転載するなら書いていない。ルール違反、モラルに反すると抗議しておきたい。ましてや、一方的な価値観による皮肉まじりのレッテル、侮辱を受ける筋合いはない。きわめて不愉快だ。


【2】何を指して「子供じみた正義」か?ご説明頂きたいところだ。


【3】「どこをどう突っつけば……(中略)……解決することは不可能」……と仰せだが、そもそも“改革者”として自負されている方とは相談の出発点が異なる。このことは前レスにて述べたので省略するが、何やら「相談室」というものを議論の場と勘違いしているのであろう。これ以上多くの提起をすることも無駄とえる。このような相談室は主宰者のブログのオカズに過ぎない無味な存在と断じておこう。


joypops


 ほう。それは知らなかったですね、ブログの件。小野さん、あなた、完全にルール違反ですよ。


 何を指して、ネガティブだというのかお聞きしたいところですよ、小野さん。方法論は、それぞれ、その組織によって違っていいんじゃないかな? それを画一的な考えで一刀両断される覚えはない。また、画一的な方法論しか唱えられない方が逆に哀れだ。


 小野さん、では伺うが、畑氏、joypops両の場合どうすればよかったお

か? あなだだって、所詮、師匠を守りきれなかった東京の人間ではないか。そのような人間にとやかく言われる筋合いもないが、とりあえずは聞いておこう。


 私は、幹部に対してだって言いたいことも言うし、行動も起こす。変に改革者ぶったりせずにですよ。


 小野さん、あなたは確かにすばらしい人かもしれない。しかし、他人を貶めるようなことを言う資格も権利もどこにもないことだけははっきり申し上げておこう。


joypops


小野不一


 まず目立つのは、畑さんの文章の長さとわかりにくさである。問題の本質を理解してない上、葛藤を抱えている様子が窺える。畑さんの怒りに乗せられてしまったのがjoypopsさんで、最悪のアドバイスになっている。否、アドバイスというよりは、婦人部同士の陰口と同じタイプのもので、畑さんの怒りを強める結果となっている。


 怒りにになんか乗っていませんよ。しかも、この発言には更なる非常識さが。師匠が一番戒めている、婦人部へ信熱がありますねぇ。しかも、人の文章を分かりにくいと断罪。あなたは何様のつもりですか、一体?


小野不一


 ネガティブな者同士が奏でるハーモニー。これを怨嫉と付けよう。もう、これ以上のやり取りはムダだ。親切が仇となりかねない。死ぬまで、「場を凍らせないよう」配慮をし、問題がある度に「落としどころ」を探すがいい。子供じみた正義は極めて厄介だ。どこをどう突っつけば組織が動くのかも理解できないのだろう。今のままでは、誰に何を言ったところで解決することは不可能だと言っておこう。


 ほう、怨嫉ね……。それをいうなら、小野さんあなたが一番怨嫉してますよ。確かに内容を拝見しました。ブログからの削除を求めます。


のり


 ルール違反は貴殿らですね。


 質問&アドバイスには、必ずハンドルネームを書いて下さい。いずれの場合も、メールマガジンに返信すれば届くようになっております。またアドバイスに関しては、「○○(ハンドル)殿御返事」というタイトルでお願いします。尚、掲載につきましては、私の一方的な判断で行いますので、怨嫉してはいけません。更に、質問もアドバイスも寄せられない場合は、発行できないまま私が不貞腐れることになります。発起衆(ほっきしゅ/質問する人)に一番功徳があることは間違いありません。


「○○(ハンドル)殿御返事」というタイトルでお願いします。


 これさえも守れない。


 尚、掲載につきましては、私の一方的な判断で行いますので、怨嫉してはいけません。


 小野さんはこのように明記されているではありませんか。しっかり読んでおりませんね。ダメだな。小野さんに、いちゃもんつけるのが目的ならば、迷惑なので書き込み遠慮願います。気に入らなければ、自分達でやればいいじゃありませんか。


 じゃあね、公爵……じゃなかった、畑殿&joypops殿。


Sky


 せっかくのネット相談室が、なんだか読んでいてしい状況になってますね。


 確かに、小野さんのコメントは、相当辛らつで断定的ですけど(笑)。そして、「学会では当たり前」になっているとらえ方を、根底からくつがえす見が多いですよね。でも、それが小気味良くて、小野さんのブログ等を読まれていたのではないかしら。


 幹部や学会員の惰弱さを切る文章を読んで「その通り!」とはっても、いざ自分を責められると、なかなか受け入れられないものかもしれません。つまり、きっとどこかで「自分は、そうじゃない」とって読んでいるんですよね。


 実は私も以前、小野さんから厳しいお返事をいただいてビックリしたことがあります。確かに今までにない衝撃でした。小野さんのブログを読んでいて、なぜか「自分のことも、きっとわかってもらえるかも……」なんてってしまっていたのもしれません。私の場合は、自分の方がおかしかったことにも気付かせていただきました。


 ただ、それを大勢の人に向けて指摘されたら、更にショックかもしれませんね。確かに、「相談室だから書いた」「ブログに載せるとは聞いていない」というのはその通りだといます。小野さんのコメントも、相談室で送信されたほうがよいようにいますが、いかがでしょうか。


「相談室」としての持ち方は検討していただくとして、内容としては、「相談」が、“相談者の求める形・気の済むように終わる”ことが望ましいのか、“皆でアドバイスし合うことで義ある形で解決する”ことが望ましいのか。決着(?)がしいですね。


 私は、これまでの皆さんのご相談やアドバイスで学ぶところも多くありましたが、「相談」をする方は、どんな回答がかえってくるかを考えると、勇気が要ることかもしれませんね。もちろん、回答を真摯に受け止めるという勇気も含めて。


S


 しばらく見させていただいておりました。何の価値も創造しない議論は2ちゃ

んねる以下です。それぞれ自分の価値観からお互いを蔑んでいる。


 題目あげてをお開きくださいませ。それぞれの立場や価値観をその広い広いという境涯で、受け止めてくださいませ。こんなところで下らない議論をするのであれば題目・家庭訪問でも行きましょうよ。


シビック


「○○(ハンドル)殿御返事」というタイトルでお願いします。


 これさえも守れない。


 こんな細かい事にいちいちつっこみを入れるのは、どうかといますよ。ブログに掲載された事に対する返事なので、どのように表現するか迷っただけではないでしょうか?


 尚、掲載につきましては、私の一方的な判断で行いますので、怨嫉してはいけません。


 この「掲載」っていうのは、ブログへの掲載のことだったんですか? 私は、ネット相談室として発行されることだとってましたが。



 小野さんに、いちゃもんつけるのが目的ならば、迷惑なので書き込み遠慮願います。


 ネットでは、決め付けの論調が多いですよね。「いちゃもんつけるのが目的」と判断するのは、早すぎるような気がします。畑さん、joypopsさんは、小野さんに対する気持ちを率直に書かれただけだといます。


 気に入らなければ、自分達でやればいいじゃありませんか。


「僧侶の言うことを聞けないなら、御本尊を下付しないから、勝手にやりなさい」という言葉と同じようにじてしまいます。



 アンカーの“仕様”が些細な事とっているのは今も変わらぬ正直ない。しかし、既定に沿うようにした。


 さて、「掲載」とは何処のことを指すのですか? ブログも含むの? はっきりさせてよ! それが認められるなら、この相談室はブログのオカズだね! と申し上げているんですよ、私は。


 傍流議論で数珠つなぎ……。「2ちゃんねる」のように、だんだんと本筋から離れるのはよくないw


 No.35(2008-05-06)が私の言いたいこと。ここに見があるならを立てますよ。



 掲示板のようになりましたが、干されている相談もないようなので一筆。掲載するかは管理者さんにお任せしますが、読んでおられることは間違いないw。「掲載」する“場所”をお間違えないように願いたいものです。


 さて、「落としどころ」を「妥協」「泣き寝入り」と捉えている方も多いのでは? 起こっている“事象”だけでは判断できないのが法。でも、人には受け入れい辛さも伴う。“納得”には長い時間が必要なことも多い。「ああ、味があったんだ……」。そんな体験は学会の“特産物”ですね。そんな辛い初期段階の痛みの“冷湿布”が「落としどころ」だといます。


 私は一部学会の悪習慣に何の反発もないわけではありません。ですが学会も個々の人間革命のための「環境」なんです。地域差もあるでしょう。ですが、そこに生まれ逢わせた全てに味がある。そして起こった事象さえも。


 ブログ「創価王道」には痛快な内容も多い。また、「創価法研鑚掲示板」はディスカッションモードだそうです。自信あふれる切り込みは管理人の得分野でしょう。でも法にふさわしい慈悲(抜苦与楽、同)あふれる「相談(室)」はそのモードだけでいいのでしょうか? ここを創設したのは管理人ご自身です。ですが法の味からすると、自覚は無いでしょうが、実は管理人こそが、“弱点”を克服する「縁」「機会」「味」を御本尊から頂いたと私はうのです。


 唐突ですが、「子育て」は簡単ではないですね。自分がそうだったからといって、我が子の代で簡単に通用するものでもない。一刀両断で済まない。学会員であること、この信に縁していること、全てがつながっているようにえてならない。だからこそ勇ましい“演説”だけでは危険ですね。


joypops


 なるほど。しかし、投稿に際し「〜殿御返事」とタイトルをつけていないことは、なぜご存じか?


 別に、いちゃもんなんかつけていないですよ。大体、あなたの文章の終わりかたは何だろうか? まじめに議論する気がない。だったらあなたこそ、間接的に小野さんにいちゃもんをつけているのでは?


 2ちゃんねる以下だと言う指摘がありましたが、2ちゃんねる以下にしているのは、小野さん自身ですから。


大勝利


 シビックさんの発言を引用させていただきます。


 この「掲載」っていうのは、ブログへの掲載のことだったんですか? 私は、ネット相談室として発行されることだとってましたが。


 このネット相談室の配信部数は現在270部ほどになっていますし……。メンバーの誰かが自分のブログで紹介することは有得ることだといますし、止められないでしょう。そもそもネット相談室のメールを受信しているメンバーでなくとも、バックナンバーのURLへアクセスすれば誰でも見れるのですから、例え最初に細かな説明がなかったとしても、「ネットでの公開」は周知の事実だったといます。


 NO-0

 http://www.emaga.com/bn/bn.cgi?sodan


 ここで、「すべて公開される」とは、当然「メール上」ではなく「ネット上」でのことを指すという事をよく理解すべきだといます。学会員だけが見ているのではありませんので、回答者の方々も公開されていることをよく識した回答をがけるように期待したいといます。


のり


 これは面白いこと仰いますね(笑)。私はね、この件での書き込みは、ちょっと迷ったんですよ。というのは小野さんにあらぬ迷惑がかかるのではないかとったからです。つまり、こうしたやりとり。


 シビック殿は私に対するレスを何の躊躇もなく書き込めましたか。


 尚、掲載につきましては、私の一方的な判断で行いますので、怨嫉してはいけません。


 この「掲載」っていうのは、ブログへの掲載のことだったんですか? 私は、ネット相談室として発行されることだとってましたが。


 私は当然プログだといましたよ。既にメール登録している者に、何でネット相談室として発行する必要がありますかね。

 小野さんに、いちゃもんつけるのが目的ならば、迷惑なので書き込み遠慮願います。


 ネットでは、決め付けの論調が多いですよね。「いちゃもんつけるのが目的」と判断するのは、早すぎるような気がします。畑さん、joypopsさんは、小野さんに対する気持ちを率直に書かれただけだといます。


 私も率直な気持ちを書いたまで。決め付けの論調と言いますが、相談を持ちかけた者が、小野さんのネット相談室を利用して小野さんに論争を挑む。これって、当相談室の趣旨から逸脱しておりませんか。論争したければどこかの掲示板でおやりになれば良い。実際に対面しての相談室ではないので限界もあろうというもの。それぞれの方のアドバイスに対して、論争を目的としてはいけませんな。


 気に入らなければ、自分達でやればいいじゃありませんか。


「僧侶の言うことを聞けないなら、御本尊を下付しないから、勝手にやりなさい」という言葉と同じようにじてしまいます。


 飛躍しすぎですね。私は相談室の主催者ではありません。権限などないのです。勘違いなさらないで下さいね。そういうのを「決め付けの論調」っていうんじゃないですか。座談会週間でもありますし、こうしたやりとりは不毛です。よってこの件に関する論議は、以後スルーします。


joypops


 またこんなの載せる……。火に油を注いでいるのはあなただ、小野さん。それを否定するなら、この文章も流してください!!!


壮年部くまおー

 お久しぶりでございます。 No.29の自分の見について少々言い訳をいたし

ます。


 一部の方の回答には、どちらかというと、私の悩み(しみ)の解決をはかるというより、正論でもって“正しきことを”論ずることに重きを置いておられるようにじました。


 私のレスNo.29に対するご見でもあると勝手に解釈しています。私の地域の創価学会では私の見は正論ではありません。畑さんがNo.26で紹介された体験は、私も詳細は違いますが経験した事があります。そして今まさに自分自身の人事を任命前に幹部に他言され、担当地域の会員さんと私は迷惑を被りました。先輩幹部でありましたが、皆の前で謝罪していただきました。別にわたし一人が正しいとか、悪い幹部は糾弾すべしとかって行動しておりません。 私の地域の創価学会池田先生の手作りの組織であると言われています。それゆえ、池田先生のご指導と違う事はしたらあかんやろ−という考えです。


 先生は明確に指導されています。「秘密は絶対に守れ。口の軽い幹部は失格だ」と。私は、この指導を先生から直接、伺う機会があったので断言できます。これは時代が変わっても、学会の方向が変わっても絶対に守らなければいけないことではないでしょうか?


 Joypopsさん勝手に引用してごめんなさい。 しかし口の軽い幹部は失格にならないし、絶対に守らなければならない事も守られていないのが、私の地域の創価学会です。だからこそ池田先生のご指導を具現化できる自分になりたいといます。


 自他共に師匠に対するええかげんな姿勢は許さん! 青年のとはこんなんでないやろか?


ご立腹


 まったくその通りだといます。ここの管理人は、自分本位的な内容しか書けないようである。今まで読んできてじたことは、常に他力本願である。良識ある会員さんであれば、なんということもない出来事ではあるが、新入会員さんが見てるとうとゾッとする内容の書き込みもある。


 あまりにも無責任極まりないサイトであることは間違いないようだ。書くのは最初で最後になりそうだが、小野不一という男には呆れた。どうか、会員全員が利用したくなるような運営をお願いします。


学生部書記長


 みなさん、初めまして学生部で書記長させていただいております_(._.)_

 いつもネット相談室を楽しみに拝見しておりましたが、最近楽しくありません。なぜかわかりますよね? 本来はネットの相談室、このメールは壮年部男子部女子部はモチロン、学生部など色んな方が拝見しているといます。最近の内容を見た人はどういますか? もっと仲良く楽しくしましょうよ! ものすごい相談しにくくなってしまってるじゃないですか! ここは「相談室」ですよね? 相談して、相手の事をって返事しましょうよ! よろしくお願いします_(._.)_


photochika


 はじめまして。学会二世の婦人部です。職は写真家です。

 もうみっともない事はやめましょうよ。読んでいて情けなく、そして嫌悪の情に鳥肌が立ちます。まったく男ってどうしようもない。黙って引っ込むことはできませんか?


 そもそも、最初のご質問自体が情けないですよ。その場で、あるいは会合終了後に直接その本部長に言えばすむ話をこんなにグダグダ引きずるなんて。


 随分気の弱い人だとっていたら、なんだか最近は威勢の良いこと。本当に同一人物なのかしら?

 

 小野さんの言葉――


 死ぬまで、「場を凍らせないよう」配慮をし、問題がある度に「落としどころ」を探すがいい。子供じみた正義は極めて厄介だ。どこをどう突っつけば組織が動くのかも理解できないのだろう。今のままでは、誰に何を言ったところで解決することは不可能だと言っておこう。


 これが全てですね。


 畑さんの言葉――


 このような相談室は主宰者のブログのオカズに過ぎない無味な存在と断じておこう。


 あなたが強い態度で向かっていかなくてはいけないのは、本部長でしょう? このくらいの勢いで現実も頑張ってくださいね。それから「オカズ」という言い方は非常に不愉快です。


関西・岡本


 この「ネット相談室」の最初のとっかかりは次のようなことでしたね。


※この度、「ネット相談室」なるメールマガジンを発行することとなりました。その理由と動機は以下の通りです――

 1.組織に相談できる先輩がいない。

 2.Web上で情報発信できる学会員が極端に少ない。

 3.まともな学会員同士の交流の場がない。

 4.私の頭が固くなってきている。

 5.私が結構暇である。

 6.自由に参加でき、尚且つ刺激的な場がない。


 私も、「そう! その通り!」とい購読申込しましたが、最近は“子供の喧嘩”状態になっていることを憂えてます。色んな見を出すのはいいといますが、見が違うことに対して、相手を指摘し合うのはどうかといます。 

 組織の中でも、その人の為とって「指摘」することはあります。面と向かって言っても本人にはうように伝わらないことも、ままあります。まして、ネットでは自分のいなんて伝わらないといます。同じ国土世間で池田先生のご指導のとおり戦っているもの同士なら解りあえるといますが、中々しいでしょうねえ。


 せっかくの機会なんですから、今後も長く続くよう、「前向き」に相談、アドバイスをしていきましょうよ。「先生ならどうされるのだろう、どう言われるのだろうと……」と。


Sky


 畑さんの当初のご相談が、皆さんのアドバイスを受け止められた上で「落としどころを見つけられて完了」という旨、確かに了解いたしました。“味”を見つけられ、が晴れたご様子、本当によかったですね。


 私自身は、ご相談内容に対しては何も見を述べられませんでしたが、皆さんのご見を拝見し、色々考えることができました。お辛いなかで、勇気のご投稿をありがとうございました。


 ただ一点だけ、「その幹部のかた、自分のしたことに気付かないままで、また他の人にも同じことを繰り返して、辛いいをさせてしまうのではないかな……」という配だけは残ってしまいました。


 さて、No.44【Sky殿ご返事+α】の、他のお書き込み部分は私宛ではないようですのでコメントはできませんが、


「実は管理人こそが、“弱点”を克服する『縁』『機会』『味』を御本尊から頂いたと私はうのです」等、小野さんへご見があるようでしたら、この「相談室」ではなく、ご本人に直接メール等でお伝えしていただければありがたいです。


 それでは、横から口をはさんですみませんでした。失礼いたします。


シビック


 私はね、この件での書き込みは、ちょっと迷ったんですよ。というのは小野さんにあらぬ迷惑がかかるのではないかとったからです。


 そうですね。書き込まない方が良かったのかも知れませんね。畑さんが「件の本部長」に対して何らかの行動を起こした方が良かったのかどうかもやってみなければわからないことかも知れません。もしかしたら、行動を起こした後に、のりさんのように後悔したかも知れませんしね。


 ただし、後悔するかどうかは別にして、味のあるものになると信じて行動するしかないのだといます。この相談室も始まったばかりですので、様々な見や要望が出て、小野さんが反映してくださったりすれば、ありがたいのかなといます。


 私は当然プログだといましたよ。既にメール登録している者に、何でネット相談室として発行する必要がありますかね。


 私が言ったのは、そういう味ではなくて、我々が「質問」や「返信」をした内容がネット相談室として採用されるかどうかという味です。現に私は、今回の相談内容以外にもメールを何件か送ってますが、採用されませんでした。小野さんが価値的なものかどうかを判断し、取捨選択して発行しているのではないでしょうか。そういう味での「掲載につきましては、私の一方的な判断で行います」なのだといます。ただ、大勝利さんの発言も、もっともかなとったりします。


 私も率直な気持ちを書いたまで。決め付けの論調と言いますが、相談を持ちかけた者が、小野さんのネット相談室を利用して小野さんに論争を挑む。これって、当相談室の趣旨から逸脱しておりませんか。論争したければどこかの掲示板でおやりになれば良い。実際に対面しての相談室ではないので限界もあろうというもの。それぞれの方のアドバイスに対して、論争を目的としてはいけませんな。


 確かにそうかも知れませんね。ただ、この相談室で疑問を呈するのが、手っ取り早かったのかなといます。


 飛躍しすぎですね。私は相談室の主催者ではありません。権限などないのです。勘違いなさらないで下さいね。そういうのを「決め付けの論調」っていうんじゃないですか。


 権限があるかどうかが問題ではなくて、小野さんの側に立って、相手を追い出すような論調の部分に日顕宗じたので、一言いわせてもらっただけです。


 座談会週間でもありますし、こうしたやりとりは不毛です。よってこの件に関する論議は、以後スルーします。


 このあたりにも「対話拒否」や「日顕宗の(秋谷会長に対する)お目通り叶わぬ身」発言と同じようなものをじてしまうのです。「以後スルー」するのであれば、No.47のご返事自体を出さない方が良かったのではないでしょうか。もっと言えば、No.39の畑さん、joypopsさんへの喧嘩を売るような発言がなければとさええてしまいます。でも、全部味があるんですかね。のりさんと話ができてよかったと私はいますから。

2008-04-16

仏法は性善説か?


こいたろう


 私は男子部の部長をしています。昨年任用試験に受かった入会3年目の部員さんから、「法は善説ですか?」という質問を受けました。その時の私の答えは、「いや、法は一念三千を説く(この部員さんは勉強熱で知っています)。色々な生命がすべて内在されているので、どっちでもない」ということを言いました。しかしその後自分の中で、色々と疑問が湧いてきました。


 九識論から言えば、さまざまなの奥底に最高の善のがあると説くことを考えると善説といえるのか? とか。


 善悪というのをベクトルとして捉えると、「の闘い」というように、生命には向上しようという「」の作用と、停滞・堕落しようという「」の作用がある。「なんにもしない」というのは「」の働きに他ならないので「悪説」ともいえるんじゃないか? とか。大体この場合の「善悪」を単純に当てはめようとするところが間違っているのかな? とか。


 もう自分の頭の中が判らなくなりました(笑)。そこでどのように考えたらいいのか教えていただけたらといます。よろしくお願いします。


壮年部くまおー


 男子部部長の連日の奮闘ありがとうございます。


 善説・悪説についての見をいいます。そのどちらでもないというのが私の今の所です。


 こいたろうさんは、様々な先輩後輩の中でに広布拡大に尽力されているとうのですが、人々の言動にしばし「信じられない! なに考えてんの?」とわされる場面があるのでは? そのたび「この人は前世なにやったのか?」と変な像することもあるではないでしょうか?


 醍婆、阿闍世王の故事を考えると、どのような悪人でも善人(成)になると言うのが法(創価学会)の立場ではないでしょうか? 善説・悪説、どちらでもええんとちゃうん?


大勝利


「善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗のは善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の一念三千善妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天帝釈等と顕われ元品の無明第六天の魔王と顕われたり」(997頁)


 ご質問された会員さんの「善説」とはどのような説を図しているかによって、様々な考え方ができるとうのですが、「治病大小権実違目」の御文を挙げてみました。ここで大聖人は「にさえ善の両義が備わっている」と説いています。


 儒教の善説、悪説を教上どのように捉えるかは、教が中国に渡って以来、天台でも多くの議論がなされてきたテーマだったようです。


 しかし基本的には中国天台も、悪説を外道の典とし、「九界=悪」「界=善」と見た一念三千から、いかに悪を滅し善を観じるかの修行法に終始していったようにいます。最終的は「十如是の如是、本末究境等」ですので、教は善説だったと言っても良いかもしれません。


 つまり「人間の本は善である」ことの肯定に向かっていた、との味からですが……。


 しかし、大聖人の法は先に挙げた御書のように、字即から悪そのままの成と更に展開しますので、こいたろうさんがお答えした「いや、法は一念三千を説く色々な生命がすべて内在されているので、どっちでもない」とのお答えでよろしいのではないかいます。


壮年部ikemo


 私がうに善悪ともに具わっているといます。なぜかといいますと池田先生は善悪一如とおっしゃいました。これは元品の無明と法が生命に具わっているからだといます。も常に一緒にいるといます。縁に触れて無明とするのか法とするのかの違いによって、善悪になるのだといます。


のり


 様々な御書からも拝されるように善と悪は、世法、国法、法の上から判断しなければなりません。大勝利さんも述べておられましたが、善説や悪説は儒教から興ったです。私達一般市民がこの言葉を使用する場合、様々なケースが考えられ、必ずしも儒教の教えに則った形で使用するとは限らないようです。


 世法、国法で考えた時、欧米などは訴訟国家等と揶揄する方がおられますが、現今の日本も、日常身近なところで、裁判沙汰になっているケースが頻繁に見受けられます。


 例えば裁判沙汰とまではいかなくとも、道路交通法では、信号が赤である場合、車も人も停止しなければなりませんね。しかし、人命を救助する為にあえてこの法律を無視しなければならない事態が発生したとしたら、どう判断すべきでしょうか? 人間の命を救うことを優先したとすると、法律ではルール違反となりますね。つまり悪となるわけです。


 社会規範やルールはむしろ、ああしちゃいけない、こうしちゃいけないという悪説に基づいているようにいます(そうしないと社会が混乱する。悪がのさばる)。核を持たなければ世界秩序が守れないとする、どこかの国の考えにも似たところがあります。


 昔、小学校の授の科目に修身というのがあったそうです。いわば道徳を学ぶ科目ですね(親孝行をしようとか、礼儀を重んじよとか、約束は守れとか、基本的な当たり前の教え)。しかし、儒教による道徳だけでは推し測れないほど、現代社会は複雑を極め、病んでおります。善説や悪説だけでは抗しきれないほど問題を抱えた社会に私達は生きているのですね。


 人類に光を与えられるのは、善と悪を止揚したこの法以外にはありません。


こいたろう


 壮年部くまおーさん、お返事ありがとうございます。


 善説・悪説ともに間違っているというのがやはり法の考え方ですね。相手のもともとの質がどうかということではなく、どんな人でも成できる(がある)と信じ切るこちらの行為こそが大切なのですね。どうもありがとうございました。




 法は善説でも悪説でもない。そもそも法は、人間を枠にはめ、固定化する視点と無縁だ。釈尊にも地獄界が具わり、提婆達多にも界が具わる。十界互具・一念三千は境涯の流動を示しているともいえよう。冥伏(みょうぶく)することはあっても、なくなることはない。

2008-04-04

デジカメで新聞や縮刷版を保存する方法


小野不一


 コピーの代わりに、デジカメで新聞や縮刷版を保存することは可能でしょうか? またデジカメを選ぶ際は、画素数などどこを重要視すればよいのでしょうか? 更に、ファイルの保存形式についても教えて頂けると幸いです。欲を言えば、画像をPDFファイル化したり、OCR(文字読み込み)できれば完璧なんですが……。取り敢えず、以下のページは既に参照しました。


こいたろう


 デジカメで文章を写すのはできないことはないですが、なかなかしいといます。電子化する味の一つは規格化です。その時に、被写体との距離、明るさなどを常に一定に保つのはしいことだといます。


 お望みのことはやはりドキュメントスキャナーと呼ばれる専用の機器を導入するのが一番かといます。

 大体の機器にはPDF化やOCRソフトが付嘱で付いているので、ソースによって(普通の資料、表罫線になっているもの、新聞等々)処理が若干ことなりますが、少しコツを覚えればそれほどしくないといます。


 ただ、これらの製品で手頃な物はたいていA4版までなので、池田先生の指導のように新聞のほぼ全面にわたるようなものには適していません。


 また、単純にソフトウェアだけで何とかしたい場合、ソースネクストの「いきなりPDF」シリーズ


 で、「JPEG、BMPから透明テキスト付きPDFを作成」という機能があるものを買えば何とかなるかも知れません。


小野不一


 ドキュメントスキャナーというのは初めて知りました。ご教示に謝申し上げます。


 ただ、私の言葉足らずだったんですが、基本的には図書館が所蔵している新聞をデータ化するのが目的でした。


 再び検索したところ、以下のソフトが見つかりました。これで何とかなりそうです。


ふれーむ


「デジカメで新聞や縮刷版を保存する方法」に関して、おそらくおさえておいたほうがいい点があります。参考にしていただければ幸いです。


1.解像度は高いほうがよい

 カメラ解像度が高いに越した事はないですが、それに加えて接写する範囲は狭いほうがよりよい結果が得られるといます。理論上は、OCR系のソフトが画像を文字と認識するために、文字と背景の境界を算出するのですが、解像度が高ければ高いほど正確な境界検出ができます。結果として認識精度も上がります。


2.縦横は正確なほうがいい

 2次元の情報をパソコンに取り込む際、コンピュータというのは画像の回転が手な特徴があるため画像の縦横と紙の縦横は平行である事が望ましいです。


3.BMPとJPEGでは、BMPのほうがいい

 JPEGは圧縮過程で情報が欠損し、前述した「境界」の情報がぼやけます。これはJPEGの仕様的に仕方がないため、記憶媒体の容量が許すのであればBMPが理的です。


4.光が均一に当たる環境がいい

 新聞を取り込まれるとの事ですので、対象物のサイズは嫌でも大きくなるのかなとっております。光源に対して平行であれば画像全体の情報(主に明るさの量)のヒストグラムが平均化されるため、コンピューターは文字を文字と認識しやすくなります。できれば四方から光が降り注いでいる平行な机で取り込みをされると良いのではないでしょうか。


 参考になれば幸いです。

2008-04-03

心の病を抱えているメンバーについて



 我が地域には、の病を持っている方専門の病院があります。そこには自立のための寮があって、学会員のメンバーが常に2〜3います。ここから退院して他の地域に行くことがあるのですが、統監カードを送ると、受け入れ拒否をされる地域がたまにあります。出向いて行って先方の組織へ願いをしても、後から電話で「面倒を見きれない」というようなことを言われます。話を聞いてみると、変な指導がまかり通っていることがわかります。「の病のある方には、題目をあげさせてはいけない」「不敬することが多い」等というものです。全国的にはどうなのでしょうか?


joypops


 こころの病の場合、確かにお題目を唱える時期については配慮が必要です。実際に私がそうでした。本人がお題目をあげたいとうまでは、強要はいけないといます。


 こころの病の場合、「強制」「強要」が病気を治す最大の敵だからです。しかし、お題目以外に治す方法がないのも厳然たる事実です。


 さて、組織上のことですが、偏見はまだまだありますね……。しかし、これだけ組織が大きくなってくるとこころの病が原因で入会される方も多いですよね。「不敬することが多い」というのは偏見です。


 学会も、早くこころの病に理解のある組織になってもらいたいといます。『潮』に特集が組まれました。書いたのは、私の所属する組織の総区書記長です。2007年7号をご一読ください。


kazu


 私は作療法士として働いています。こころの病といっても、疾患、重度は様々で一概に言えるものではないのですが、共通する目的は「社会復帰」です。社会においても精神疾患への偏見は多く、働ける能力があるにもかかわらず、受け入れてもらえない人もいます。そんな方達にとって、疾患を理解し、受け入れてくれる人との出会いはとても大切です。社会復帰の足掛かりにもなります。


 精神にかぎらず疾患や障害を抱える人は、必ずといっていいほど「不安」をかかえています。それを解消できるのは、やはり「人」であるといます。


 こころの病はあくまでも疾患であり、人間の問題ではないことを理解する必要があります。こころに病を抱えた方がいる組織では尚更です。今は一般向けの書籍も多数出版されていますので、参考にされるといいといます。


壮年部くまおー


 くさんのご労は大変なものであると像いたします。


 統監上の“法律”では「受け入れ拒否」は原則できないとうのですが……。統監部の義や実務を研修することもなく、カードの受け渡しと増減処理のみになっているのが現在の壮年の悲しい現状です。


 空前のストレス社会の中であるにもかかわらず、の病は誰でも、いつでもなってしまうものだとういう認識をもつ活動家は少ないといます。


 私の住む関西には、高な学会員の精神科医がおられます。その方の診断で症状によっては「唱題はしない方がいい」と言われた人はいます。しかしすべてのの病の方に「唱題はしない方がいい」とは言ってないといます。


 統監の受け入れを拒否した方は、実際の病に罹(かか)った家族や友人、部員さんと正面から向き合った事があって、そのような発言をされているのでしょうか?


 御本尊を不敬することが多いというのは、実際にその現場を見た人がいっているのでしょうか? これも伝聞の類いといます。


 地区の現状は自転車操で、大変なのはわかるのですが……。


 創価学会組織は、いつから部員さんを選ぶようになったのでしょうか? 統監が増えると分母が増える。分母が増えると戦いの目標が負担になってしまう。目標が高いとなかなかクリヤーできない。幹部から問い詰められる。


 結果、戦えない部員はいらない。そんなんで、ええんかな?


ume2


 私の住む地域では、「無理してお題目はあげさせない」と言うことは、個人指導として聞いたことがあります。しかし、「不敬することが多い」とは聞いたことがありません。


 実際に通ったり、電話で話したりして、関わり合っていたメンバーが副県長に指導を受けたところ、「お題目を毎日一時間、頑張ってあげなさい!」と言われ、その後、不安定な状態になってしましました。


 統監を回しても受け入れを拒否される地域があるとのことですが、そのような指導を通して「面倒を見きれない」と言うのが本当のような気がします。その他、面倒な人は、紹介者の下へと回されることが、私の住む地域では最近見受けられます。根は同じようなものではないかといます。


joypops


 追伸です。


 私の組織では、こころの病になると一切の役職を解任されます。それは、創価班などの人材グループも同様です。


 私は、総区委員長に直談判して、創価班だけは現場復帰させていただきましたが、役職は解任されたままです。これってどうなんだろう?といます。元気に復帰したら、役職は元に戻すべきだとうのです。役職で信するわけではないのですが、何か釈然としないいがあります。


 もちろんこの件で指導を受けました。全国幹部にもです。答えは、その地域地域でのやり方があるので従ってくださいと言うものでした。


 全国的にはどうですか?



 アドバイス、ご見、参考資料の紹介、本当にありがとうございます。自分も、もっと学んでいこうと決を新たにしました。


の病」についてはやはり、いろいろな偏見があるのでしょうね。実際は「無理してお題目を上げさせることはない」という指導が、だんだん変質していって「上げさせてはいけない」というものになっているのかなあといます。「不敬」に関しては、完全に偏見が入っているのでしょう。


 私の担当している地域では、病院で働いている方に半年に一回程度、座談会で「の病」について話していただいています。自立のための寮におられる学会員さんは、家族からも諦められてしまっている人がほとんどで、頼る人が学会員しかいないこともあり、地域のメンバーの協力が不可欠だからです。


 でも、なかなか理解していただくことはしいですね。総県で一つでいい。「の病」について、専門的に相談できる窓口があればなあとよくいます。


小野不一


 これは質問の仕方がよくない。問題は「統監カードの受け入れ拒否」であり、「の病を抱えている方を拒否する組織の体質」である。それが、組織内でまかり通る都市伝説を確認する内容になってしまっている。


 学会は上下達型の組織であるため、上の幹部に見を伝えた方が効果的だ。例えば、統監カードの受け入れに関する問題であれば、現場の責任者である地区部長・支部長は避けて、本部長・区長に言うべきだろう。


 ちょっと理解にしむのが「入院先に統監カードがある」という事実だ。普通は考えられない。地元か親元にカードを置いておくのが当然である。


 また、精神疾患が原因で役職を解任された事例を私は知らない。活動を休ませた上で、役職はそのままにしておくのが通常の組織の慣例だろう。


 精神疾患は一筋縄ではいかない。だが逆から考えれば、の複雑が人間の豊かさを象徴しているようにう。


 私は青年部時代、精神疾患をもつ8人のメンバーと関わってきた。全員が社会復帰を勝ち取った。本人とはもちろんだが、ご家族とも深く関わることなくして、病状がよくなることはない。


 資本主義型成果主義が横行するあまり、精神疾患と同様、身体障害者の方々は組織から顧みられることがないのが現実だ。結集でカウントできないメンバーは、人間扱いされない組織となってしまった。組織があるゆえに孤独を強める結果となっている。


シビック


「面倒を見きれない」なんて言う組織があるとは驚きです。確かに「題目をあげさせない方がよい」というようなことは聞いたことがあります。が、面倒を見きれないから統監を受け取らないとは……。


 私の後輩での病が原因で自殺未遂をしたメンバーがいます。彼が発する前から面倒を見てきたメンバーなので、担当組織は変わってしまいましたが、定期的に家庭訪問しています。本人が無理にならない程度で題目も自主的にあげるようになっています。まだ、薬を服用し通院してますが、仕事もできるようになりました。ケースバイケースでしょうが、面倒は見てあげて欲しいですよね。本来は、家族や元々知っている方が近くにいてあげるのが一番良いのでしょうが。


一支国


 統監カードを送ると、受け入れ拒否をされる地域がたまにあります。出向いて行って先方の組織へ願いをしても、後から電話で「面倒を見きれない」というようなことを言われます。話を聞いてみると、変な指導がまかり通っていることがわかります。「の病のある方には、題目をあげさせてはいけない」「不敬することが多い」等というものです。全国的にはどうなのでしょうか?


「面倒を見きれない」とは「自分のい通りにならない」からかな? そういう組織の人達は、自分の家族が「の病」になると家から追い出すんでしょかね?


 実際に通ったり、電話で話したりして、関わり合っていたメンバーが副県長に指導を受けたところ、「お題目を毎日一時間、頑張ってあげなさい!」と言われ、その後、不安定な状態になってしましました。


 その副県長は骨折した人には「足を骨折するのは弱いからだ。毎日一時間、頑張って骨折した足で歩きなさい!」って指導するのかな?


 私の組織では、こころの病になると一切の役職を解任されます。


 これも対応を誤ると症状を悪化させます。「寝たきり老人が本当に起きれなくなる」ようなものです。本来、学会の組織がリハビリの場にならなくてはならないはずです。逆に奪ってどうする気?


 本人とはもちろんだが、ご家族とも深く関わることなくして、病状がよくなることはない。


 一番危険なのが「誰も存在を認めてくれない(自分は必要とされてない)と気付いた時」です。間違いなく自殺します。あと「誰かが自殺した」とニュースで流れた場合、それに共鳴して自殺者がでます。たった一人でもいいからその人の存在を認めてあげてください。


小野不一


 失礼。読み違えておりました。入院ではなく、「自立のための寮」だったんですね。具体的なアドバイスとしては以下の通りです――


 1.まず、寮で生活する方の統監カードが来た場合の「取り決め」を総県に決めさせる。

 2.決められないのであれば、統監カードの受け入れを拒否する。

 3.1が決まった場合は、統監カードを送り出す際に、総県から必ず送付先の組織に連絡を入れさせる。


 尚、最近の医学では、精神疾患は「脳の病気」とされてます。服薬とカウンセリングで治療するのが基本です。

2008-04-01

法要について


グライド


 早速質問なのですが、先16日に、実父がなくなりました。家族は全員が学会員ですので、友人葬で執り行いました。


 本題なのですが、四十九日の法要(家に集まって勤行をする程度だといます)を行うべきなのでしょうか? 未活動の姉や妹が言うには、法要を行う事を前提に、三越しの四十九日は縁起が悪いから早めるだの、三十五日にすればいいだのと言っております。母は姉達に任せているじです。


 個人的には毎日の勤行で追善供養しているので、法要など行わなくて構わないとうのですが、どのように考えるべきなのでしょうか?


 ご教授の程、宜しくお願い申し上げます。


天狼星


「どのように考えるべきなのでしょうか?」と問われるなら、


 個人的には毎日の勤行で追善供養しているので、法要など行わなくて構わないと


 でいいといます。


 相談者の立場が不明ですが、法要を行うかは地域の慣習やご家族で決めることなので喪主(お母様?)の判断でなされるべきで、信とは別のことだといます。


 形式が重視されるほど本質が忘れられがちになるので、それさえ違えなければ大らかに考えればいいのでは。


 法要の機会は親戚や関係者も多く集まるでしょうから、良い面もあります。


小吉


 少し長くなりますが、「私の場合」を具体的に綴らせていただきます。ご参考にしていただければ幸いです。


 父の死後、友人葬で葬儀を済ませ、会葬のお礼や関係各所への諸届け等の事後処理をしているうちに、時間はどんどん経過しました。


 私の周辺の慣習や、実際に見聞してきた葬儀後の様子から、四十九日までに納骨を済ませるものだと判断したので、四十九日を迎える前の日曜日を選んで、法要を行い、納骨しました。日曜日を選んだのは、親類縁者が集まりやすいようにしたかったからです。


 私は横浜在住で、親類も横浜・川崎に多くいます。自宅に集合してもらって、貸切バスで往復しました。


 納骨する場所、即ち墓所が「富士桜墓地公園」だったので、法要は、同所の礼拝所で、地元の儀典部の方の導師により、方便〜自我喝の読経および唱題をしました。途中で、係の方の案内に従って、参列者全員が焼香しました。


 礼拝所での法要後に墓前で、母を中に題目三唱し、納骨しました。清清しい法要と納骨をすることができました。納骨後は、園内のレストランで、粗餐を供しました。


 さて、私が以上のように仰々しく、法要を行ったのは、我が家以外の親類が、創価学会を正しく理解されていないからでした。


 往復の車中では、池田先生や体験のビデオを見てもらいました。池田先生の長編詩を朗読もしました。学会の墓苑の素晴らしさも見てもらいました。別れ際には、返礼品を渡したのですが、SGIグラフを一冊ずつ贈呈しました。


 亡くなった父に対して、毎日の勤行で追善供養するのはもちろんですが、この機会をとらえて、学会理解の輪を広げることができました。


 当時、39歳独身でしたが、我が家は功徳をいただきました。直後に、妻と巡り会い、3人の子供に恵まれ、地区部長・地区婦人部長として、戦わせて頂いております。


壮年部くまおー


 はじめまして、壮年部くまおーと申します。お父さんがお亡くなりになってさぞ、あなたも、お母さん、ご姉妹もつらいいをされているでしょう。しっかりと家族を支えてあげてください。


 私の地域(大阪府)の学会員は、ほとんど四十九日法要を行っているようです。


 あなたの姉妹さんのおっしゃるとおり、三(みつき)越しは縁起が悪いということで三十五日、あるいは二に収まるように日を繰り上げて法要をおこなっています。四十九日も三十五日も教の教義と関係なく、あなたのおっしゃるように毎日の追善供養こそがすべてなのですが、それを行うことで遺族の方たちの新たな決の場になるならば、味のあることになるといます。


法要をするかどうか」ではなく、どうすれば皆が希望をもって生きることができるかを真剣に考え、行動しているあなたの振る舞いが、お父様の成、ご家族の宿命転換につながることを確信いたします。


大勝利


 No.3の小吉さんのご見を大変に有義なものと拝しました。私の方からは拙い見を申します。参考程度にしていただければといます。


 大聖人が追善供養を行ったことは間違いないだろうと御書からは推測出来ます。これをどのように捉えるかを個人的に申しますと、時代や状況に合わせて採用したものと拝します。


 十王賛嘆抄と八大地獄抄という御書がありまして(まず間違いなく偽書)、日蓮宗系が“僧侶による法要”が必要であり過去に執り行ってきた根拠となってきたものといます。なぜこのような偽書が作られたかと言いますと、“僧侶の生活の為”であることは像に容易(たやす)いですね。


 次に大聖人の時代はどうだったのかと考えますと、中国で道教との習合により十王信仰というものが出来上がって10世紀頃に「預修十王生七経」という偽経が作られ、これが日本に持ち込まれます。さらにこれを元に「地蔵十王経」などの偽経が日本でも作られるようになります。しかも始めは十回忌までだったのが、空海の時代に入ると、大日如来をプラスする為もあり十三回忌、さらには三十三回忌と、ありがた〜く増えて行きます。それでもまだ、大聖人の時代は、逆修という考え方も強かったはずですが(例えば入道殿など)江戸期に入り、日本の教がゆっくりと、逆修(死後に備えて逆〈あらか〉じめに修める)傾向から、預修(死後に修める)傾向へと変化して行きました。よって僧侶にとっては亡くなられたあとも何年間にも渡って儀典の収入を確保でき、檀家の安定というメリットができあがったんですね。


 私は、年忌法要は信仰上は不必要であるが、習慣上は必要と考えています。つまりメモリアルな式典としての通過儀礼(例えば卒式など)は、人間が生活していく上でどうしても必要不可欠な要素だとうからです。ですから、年忌法要も生きている人間の区切りの儀礼として学会でも「会員の為に」行っていくべきだといます。


 乱文で御免なさい。

 敬具


小野不一


 まずは、「ネット相談室」の立ち上げに際し、発起衆(ほっきしゅ)である質問者と、影響衆(ようごうしゅ)となる回答者に謝申し上げる。


「三越しの四十九日は縁起が悪い」ということを私は知らなかった。北海道は伝統的な風習が殆どないので、道産子はこういうのに疎(うと)い。

 学会員は、宗門問題を経験してからというもの、いたずらに伝統・風習を軽んじる傾向が強い(笑)。しかし、風習といっても、結局長い期間に渡る人々の境が反映されているのは確かだろう。その「人の」にいを馳せることができるかどうかが最も大切だとう。


 葬儀法要というものは「遺族のために行っている」と私は考えている。故人を偲(しの)び、悲しみを共有し、謝を再確認する作ではないだろうか。


 お父さんを亡くしたばかりのグライドさんには酷なようだが、私は「学会員特有の身勝手さ」をじてならなかった。結局、自分のことしか考えていないのではないか? 姉妹が未活動ならば、勤行・唱題する機会をつくろうとするのが当然だろう。


 他の質問者もそうだが、誰一人としてお礼の言葉すら述べていない。見を寄せて下さった方々は少なからず配していることだろう。その程度の像力も持ち合わせていないのだ。常識がなさ過ぎるとう。


グライド


 グライドです。ご回答を頂きました、天狼星様 小吉様 壮年部くまおー様、大勝利様、また、このような質問の場を設けて頂きました、小野様に深く謝を申し上げます。大変にありがとうございました。


 お礼の返事が遅くなりましたことを、深くお詫び申し上げます。大変申しわけございませんでした。どのスレに書き込もうかとなどと、のんびり構えすぎてしまいました。返事はメールでよかったんですね……。なぜか、メールは質問と回答オンリーとい込んでいました(ほんと馬鹿です)。ともあれ、返事が遅くなりまして、大変申し訳ございませんでした。


 質問時に詳しく書き込めば良かったのですが、少々焦っていたため説明不足になってしまいました。


 元々、姉夫婦(旦那さんは未入信)の手前、四十九日は行うべきだろうとは考えてはいたのですが、三越しの話が出てき、語呂合わせ云々で縁起が悪いとなんて云うのはおかしいと、疑問にい、ネットで色々調べている内に、三越しを否定するサイトにはたどり着いたのですが、そこはたしか浄土真宗のサイトだったのです。


 そこでまたひとつ疑問が湧いてきました。大聖人様はどのよに説かれているんだろうと。そんな時に、タイミングよく、「ネット相談室 No.0」が届き、「発起衆(ほっきしゅ/質問する人)に一番功徳があることは間違いありません」を読み(笑)、い切って質問させて頂く事になった次第です。


 で、結局どのようにしたかと申しますと、姉と妹の見を尊重し、三十五日(322日)に繰り上げて、四十九日法要を行いました。 皆の仕事の段取り上、38日には日を決定せざるを得なかったため、繰り上げるべきか云々については、ご回答頂いた皆さんのご見を参考にすることは出来なかったのですが、その後、お寄せ頂いたご見を拝見し、これでよかったのだと確信いたしました。誠にありがとうございました。