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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2008-10-28

「ものの見方」について


 視覚に関する研究が進んでいる。我々は世界を「ありのまま」に見ているとい込んでいるが、実際はそうでもないらしい。簡単に言えば、バラバラになったジグソーパズルを脳で統合し直していることが明らかになってきた。例えば、上下が逆さまに見える眼鏡を掛けたとしよう。すると、1週間も経てばこの人はまったく普通に生活ができるようになるという(『海馬 脳は疲れない池谷裕二糸井重里)。


 ご存じのように右目の右横と左目の左横には盲点がある。我々は片目をつぶってもそれを自覚できない。脳が補ってしまうためだ。また、視野は人によっても範囲が異なる。一流のサッカー選手になると、ボールを追いながらも敵味方の殆どが見えている。それとは反対に、交通事故を起こしやすい人は視野が狭いと言えよう。こうしたことを考えると、「実際に見えている」というよりも、「周囲の動きを像しながら先を読んでいる」ことが理解できる。


字の言」に対抗しようと目論んだが、予以上に前置きが長くなってしまった。やっぱり、いつもの調子で行くことにしよう。


「ものを見る」というのは考力であり、「ものが見える」というのは境涯であろう。「ものの見方」は目に映じたものを捉え直すことができるかどうかが問われる。見たままで判断する人は、ただの錯覚野郎だ。もちろん、そいつの目は節穴だ。


 なぜなら、「眼はむき出しになった脳の一部」(『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック)であり、「能動的な仮定」(『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ)であり、「世界を見るために目ができたわけではなく、目があるからこそ世界は味を持った」(『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線池谷裕二)と考えられているからだ。


 では、本題に入ろう。次の文章が説明不足である点を挙げなさい――

  • 暑くて汗が止まらない。
  • 寒くて身体が震え始めた。
  • 風邪をひいて高熱となった。

 時間は1分だ。これ以下は、ちゃんと考えてから読むんだよ。って書いてもムダなんだよな。だから、答えは最後に書いておく。


 これらの文章は日常生活でよく使われている言葉である。ところが実際の味は違っているのだ。それを知っているかどうかが問題なんだよ。


 善悪はもっと複雑だ。多くの場合、相手の行為や言動に善があるか悪があるかで判断される。これがそもそも間違いのもとだ。そんなレベルで世間を渡って行けるとったら大間違いだ。そんな野郎は、一日一歩、三日で三歩、三歩進んで五歩下がるような人生しか歩めないことだろう。汝のを「五っ歩(ゴッホ)」とづけておこう。


「ものの本質」を見抜くためには、目的と味を素早く読み解く能力が必要となる。私が提唱する「組織利用の3秒ルール」には、そういう味が込められている。


 振り込め詐欺なら、金をふんだくられるだけで済む。だが、「組織利用」に巻き込まれると、信までが破壊されてしまう。


 というわけで、答えだ――

  • 汗が出るのは気化熱によって身体を冷ますため。
  • 身体が震えるのは体温を上げるため。
  • 熱が上がるのは体内で病原菌を殺すため。

2008-01-05

微小なマグマがネットワークをつくり爆発に至る


 ところで、火山活動を起こすマグマの成り立ちについて述べてみたい。マグマとは、地下深くで生まれる溶融状態の物質のことをいう。高熱・大量のマグマが一体となって上昇し、地上に噴き上げる現象が噴火である。そうしたマグマは、どのように発生するか。

 何らかの原因で、地中に温度上昇や圧力低下が起こる。すると鉱物粒子の一角が溶ける。これがマグマの最初の一滴である。しかし、それはきわめて微小な“一滴”に過ぎない。それがマグマの流れとなり、大河となるのは、マグマの一滴が自身も着実に拡大しつつ、他の一滴一滴と網目状に結合し、いわば“液のネットワーク”を構成するからである。ここから確かな流れが生まれ、更なる温度の高まりとともに、マグマは周囲の鉱物粒子をも巻き込み、一団となって上昇を開始する――。

 最初は微小で影響力も小さかったマグマ。それが、確かな“ネットワーク”をつくり、限りなく広がってゆく時、信じられないような爆発力を発揮する。

 人間社会においても、同じ道理があるといってよい。一人ひとりの「個人」は小さな存在かもしれない。しかし、それぞれが成長しながら、連帯と信頼の輪を結んでゆく時、個々の力は絶大なパワーとなり、信じられないような爆発力となってゆく。

 ゆえに団結が大切でる。とともに、それ以上に、“最初の一滴”が大切なのである。“最初の一滴”がなければ、連帯も、拡大も決して生まれ得ないからだ。

 ガンジスの大河も、源の一滴に始まる。広大な広布の流れも、日蓮聖人御一人から始まった。戦後の学会戸田先生お一人からスタートしたことは、ご承知の通りである。「一人」こそ「万人」の基(もとい)であり、一切の根本である。

 ともあれ、自分という「一人」には、それだけの「使命」と「力」と「責任」があることを知らねばならない。


【第24本部幹部会 1989-12-20 創価文化会館


 戸田先生「人生も信心も強気でいけ」の続き。


 今、社会も世界も分断化が進んでいる。日本の場合、高度成長(19551974年)に伴って核家族化が進んだ。その上、1973年以降は少子化が進んでいるので更に深刻だ。昔と比べると近所付き合いはないも同然で、実態のある共同体はもはや「会社」だけだとわれる。


 国際社会はどうか? 国の数は増えている。日本が承認している192ヶ国というのは、北鮮を除いた国連加盟国+バチカン市国となっている。北鮮を国家として認めてないことを初めて知った。この中には、台湾やパレスチナ、IRAなどは当然入ってない。紛争が絶えない内は、国家が増え続けることだろう。つまり、細分化が進む結果となる。


 ライオンといえば、「一人立つ」というイメージを抱くが、実際は群れで行動している(笑)。数頭から、多くて30頭ほどの規模。動物の場合、共同体(=群れ)の数は、餌と関係しているとわれる。オスが成長すると群れから追い出されることも珍しくない。


 動物としての人間を考えた場合、どの程度の群れが必要になるだろうか? 実は昨年からずっと考えている(笑)。生きてゆくだけなら、数十人程度だろう。農・漁・林を兼務することが可能な人数を定した。


 古来、人間のネットワークは戦争によって拡大してきた。強い者が、弱い者から奪い続けてきたのが人類の歴史だ。共同体が大きくなると、政治が必要になる。政治の目的を単純化すれば、共同体のルール作りと、利益の再配分ということになろうか。


 国家という規模の共同体になると、その中に無数の小さな共同体が存在する。そこで、利益の奪い合いが生じる。税金に関しては、国が圧倒的な裁量を持っているので経済原理が働かない。最も平等な競争を行えるのは「会社」である。


 私は、現代日本におけるコミュニティは「会社」だと考えている。だから、人生を有義にするためには、「会社」の中でどう生きてゆくかがキーポイントになる。


 選択肢はいくつかある。出世、金、働き甲斐など。目的は何でも構わないだろう。いずれにせよ、どう人脈を拡大してゆくかである。それができない会社なら、転職を考えるべきだ。あるいは起するのもいいだろう。


 漫然と構えていても、人間関係は広がらない。女であれば、地域や趣味などをテーマに、友好の輪を広げることが可能だ。現実的には、子供を通した親同士の交流が手っ取り早い。


 私が言いたいのは、こうだ。一滴のマグマが地表で燃えても爆発は起こらない。だから、自分が中となって何らかのコミュニティを形成しようということ。簡単に運ばないのは確かだ。でも、ネットワークを築いておかないと、「一人立った時に、誰もいなかった」なんてことになりかねない(笑)。智を働かせ、情を通わせ、を巡らせてゆくしかない。インターネット電話が武器になるのは確かだ。

2007-12-29

登山は、敢えて「困難に挑もう」とする文明人の行為


 単に「生きている」だけなら、わざわざしい山登りなどする必要はない。登山は、敢えて「困に挑もう」とする文明人の行為であり、「不可能を征服すること」(フランスの登山家ヤニック・セニュール)である。いわゆる原始人は、「狩り」はしても「登山」はしない。言い換えるなら、登山は自己の可能を探る冒険といってもよい。

 宗教もまた、単に「生存している」だけなら必要ないかもしれない。しかし、「よりよく生きよう!」「より高い境涯に登ろう!」とした時、正しい宗教が必要となる。登山が文明人の行為であるごとく、宗教も文化人・文明人の証なのである。


 アルプスのあるガイドは書いている。

「まずなによりも、わたしたちは生命が、真の生命が好きなのだ。そして4000メートルの空気には、特別の味わいがある」「真の人間は、自分に対して、きびしい者でなければならない。彼のをしずめ、その運命に満足させるには、テレビでは事足りない。志があれば、道は通じる。彼は生存しているだけでは満足できない。彼は自ら生きたいのだ。彼には肉体と魂があるのだ。高嶺は、彼に、行動と瞑を与えてくれることだろう」(ガストン・レビュファ『星と嵐』近藤等訳、白水社刊から)

 つまり、彼は言うのだ――真の生命を戦い取るために山に登る。私は、テレビを眺めるだけの“受動的な人生”“生きながらの死”を拒否する。労の道を進んだ方が自身のためになる――と。

 この「困への愛」に「真の人間」の証明がある。

 烈風に吹かれながら、ナイフのように鋭き山稜を進む。絶壁に足掛かりを刻み、一歩一歩、更に次の一歩と踏み出す――。

 山との格闘は、そのまま自分との格闘である。


【第19回全国青年部幹部会 1990-01-08 創価文化会館


 本日付の聖教新聞に掲載された「随筆 人間世紀の光」を読んで、予定が変わった(笑)。呼吸は合っているのだが、書くタイミングが少し遅れてしまった。


 人間の種類を大きく分けると山派と海派になるらしい。私は札幌の地で、手稲山を見つめながら育ったので完全な山派である。上京してからというもの、関東平野には目印となる山がないため、今でも方角がわからなくなることが多い。


 ガストン・レビュファの『星と嵐』は最も好きな本の一つ。山好きでなくとも手にした人は多い。フランスのクライマーが紡ぎ出す言葉がこの上なく詩的で美しい。


 天に近い場所は、人間を斥(しりぞ)けようと険の峰で立ちはだかる。そこを制覇した者にしかわからない世界が確かにある。

星と嵐―6つの北壁登行 (集英社文庫)

2007-09-21


 さて、今日は満でもあり、暑い日が続いているので、ここで涼しい「」の話をさせていただきたい。

 といえば、よく戸田先生は“光を浴びながら、人生や哲学、未来を、夜中まで語り合い、論じ合ってこそ青春である”と言われていた。

 ともあれ、地球の衛星である。それは古来から“かぐや姫の宮殿”と親しまれてきたように、私達にはいつも何かを語りかけてくれる“おとぎの世界”でもある。


 また、義は、ロマンの世界にとどまらない。大聖人は御自身のお前について、こう仰せである。

「明かなる事・日月にすぎんや浄(きよ)き事・蓮華にまさるべきや、法華経日月蓮華となり故に妙法蓮華経とく、日蓮日月蓮華との如くなり」(1109頁)

 ――明るいことは太陽と以上のものはない。清浄なことは蓮華以上のものはない。法華経は「日月」と「蓮華」が象徴である。ゆえに妙法蓮華経とづける。日蓮もまた日月蓮華のようである――と。

 この御文には甚深の義があると拝するが、大聖人も御自身を「日月」のごとしと仰せのように、太陽とは切り離せない。

 私どもも常々、「太陽の法」とたたえるが、太陽だけではない。をも包摂する義を持つ法なのである。


 また一般的には、太陽とは互いに相対するものとして考えられている。だが、実は、相対するものの「調和」が価値を生み出す。それは、陽と陰、男と女、火と水、外向と内省等の関係にも見られる非常に大事な原理である。

 人間もまた同じである。いつも「太陽」のようにギラギラ燃えてばかり(笑い)、大で激励ばかり(笑い)では、自分も疲れる。第一、周りが迷惑である(大笑い)。

 皆が疲れている時には、「今日はベートーベンの曲でも」(爆笑)と穏やかに、疲れを癒すことも必要であろう。ともあれ、「」の光が包み込むように、静かに語りかけてゆくことも大切である。

 ある時は「太陽」のような満々たる生命力が必要である。とともに、ある時は「光」のように、清浄で穏やかな「精神の光」と円満な「知恵の光」を持たなくてはならない。

 特にこれからの高齢化社会、成熟社会には、この両面が必要になってくるようにう。

 また、学会にあっても、これまではいささか偏りのある“ミニ太陽”のような人が多かったかもしれない(大笑い)。今後は、「太陽」の力と「満」の光とが、見事に調和されたような人材の成長を目指してゆくべき時代といえよう。


 その味でこれからは、いわば「日月調和の時代」である。

 それは一つには、「自分を見つめる力」が要求される時代である。これまで我が国は「日本株式会社」(笑い)と言われるように、豊かな生活を求めて誰もが皆、せわしなかった。しかし、人間を犠牲にした経済的発展、氾濫する情報を前に、もはや外にばかり目を向ける時代ではなくなっている。今や、内なる自己を見つめる力が強く求められているといってよい。

 もう一つには、従来の男社会に対し、「女」の特質がより重要になる時代である。政治の分野でも、女の発言が重みを増しつつある。ここ東北にあっても、これまで以上に女見を尊重しながら進んでいただきたいとう。


 もちろん、太陽が男が女とは限らない。当然、その反対であってもよい(笑い)。事実、太陽が女詞、が男詞とする言語もある。女を太陽、男とする文化もある。

 かつて、社会運動家の平塚らいてう女史が、「元始(げんし)、女は太陽であった」と語ったことは有である。また私も、婦人は「家庭の太陽」と申し上げてきた。

 要は、「太陽」と「」、両者の絶妙な調和が必要となる時代を迎えていることを知らねばならない。


 かつて私はこう記した。

「昼は太陽と共に謳いながら 生命を燃やそう 夜は静かな光の道で 友の休むのを待って 自分という人間を考えよう」と。

 多くの詩人や歌人がを通して人生を詠み、それはまた日本人、東洋人の一つの精神史を綴ってきた。

 いわばは、を映す鏡である。古来、人々はいを託し、と語り、に我が人生を映して、の内を見つめてきたのである。

 人は、「自分を見つめる」ことを忘れた時、必ず進歩がなくなる。また、自分を見つめない人は、人間的な魅力も出てこないし、最後は枯渇せざるを得ない。

 だからといって、ただ自分を見つめてばかりいて(笑い)、行動のない人には前進も成長もない。大切なことは、実践の中で自分を凝視しつつ、そこで深められた精神を、更なる価値創造へのバネとしてゆくことである。

 その味で私どもは日々、御本尊に向かい、唱題することによって自らを照らし、境涯を深めながら、限りなく前進してゆくことができる。これほど偉大な世界はないし、価値ある人生もない。


 大聖人は妙一女(みょういちにょ)に「御身は忽(たちまち)に五障の雲が晴れて覚を詠(なが)め給うべし」(1262頁)――あなたは、たちまちに五障の雲が晴れて寂光の覚をながめられることでしょう――とのお手紙を認められている。

 五障とは、爾前経において、女人が1.梵天、2.帝釈、3.王、4.転輪聖王、5.になれない、とされた五つの障りのことである。しかし、たとえそのような身であっても、三大秘法御本尊に真剣に題目を唱えるならば、「寂光の覚」をながめられる自分になってゆく。すなわち、界の悟りの智が輝いてゆく。

 己の「界」の満に照らされた、その「智」の光は自身を見つめさせ、同時に他の人をも導く根源の力となる。そして、自身を照らす光が強ければ強いほど、他人への洞察や尊敬が深くなり、慈愛も深まってゆく。指導の力も深まる。

「守護国家論」の中で大聖人は、「内界を知らざれば外の諸も顕われず」(67頁)――自身の界を知らない内は、外の諸も姿を顕さない――と仰せになっている。

 この御文は「十界互具」の義を説かれたものである。また、私どもの信の一についても重要な示唆を与えてくださっていると拝する。すなわち己の「界」の光が強まれば強まるほど、他の人の「界」も確信できる。本来、であるという本源的な尊敬のが起こってくるのである。

 反対に、権威をカサに子を見下し、“我尊し”と威張っている人間は、それ自体、己界を現じていない証拠である。

 当然、「自分を見つめる」力もない。成長も止まる。堕落が始まる。人からも信用されない。

 そして、表では立派そうに振る舞いながら、中には裏で学会を利用しようと策動する者さえ出てくる。まことに「偽りの精神生活」である。それが、責任ある立場にありながら退転し、反逆した人間の正体でもあった。

 信の世界は全部、「自分」の内実がどうかが根本である。表面的な“組織の論理”で決まるのではない。大切なのは、いわゆる「話のうまさ」でも、多くの人を動かしてゆく「立場」でもない。どこまでも信である。一個の人間として、信仰者として偉大なる境涯を開いてゆくことである。それが自身の成を決定してゆく。また、実質的に広宣流布を進めてゆくのである。この原理・原則を私は厳然と言い残しておきたい。


 さて、再びの話に戻ることにしたい。

 アポロ計画以来、の研究は飛躍的に進んできている。その中で最も身近な天体であるに、太陽系全体の歴史が刻み込まれていることもわかってきた。ちょうど「一人」の人間に、「人類」の進化の歴史が集約されているのと似ている。また、「一人」をから味方にすることが「万人」に通じていくのである。

 最近の研究によると、の誕生は約46億年前。太陽系や地球とほぼ同じである。では、はどのようにしてできたのか。これには、地球と一緒にできたとする「兄弟説」、地球から分かれてできたとする「親子説」、地球が漂うをとらえたとする「捕獲説(他人説)」、その他がある。

 原始のは、燃えたぎるマグマの海であった。その後、次第に冷えて、軽い物質が表面の方へ、重い物質は中へと分かれて、地殻とマントルが形成された。

 約44億年前から40億年前までの間、激しい隕石の嵐や雨がを襲った。この時期、地球も含めた太陽系全体が、無数の隕石が飛び交う激動期にあった。

 宇宙においても、また、人間の世界においても、形成期には必ず激しい嵐があるものだ。戸田先生はよく語っておられた。“ある味で、学会も第三代が最も大変だよ。一番、嵐にあうだろう。だが、それを乗り越えれば、あとは永遠に安定していくであろう”と。

 初代、二代も熾烈な建設の闘の連続であった。それにも増して重要な時期が第三代であるならば、未聞の嵐はむしろ当然である。広布の磐石な未来を決する学会の“形成期”を第三代で総仕上げせよとの、先生のおに応える以外に、私の人生はないとっている。


 太陽系の激動期の中で、地球にも多くのクレーター(くぼみ)ができた。が、後の火山活動によってその痕跡はほとんど消されてしまった。

 一方、にはクレーターがそのまま残っている。いわゆる、“のあばた”である。なぜなのか。

 それは、が39〜32億年前まで火成活動をし、「の海」(他より低く、黒く見える部分)などをつくった後、深部まで冷えきり、活動を停止してしまったからである。このことはに、31.5億年より若い岩石がないことからも推定されている。

 つまり、は32億年前に、ほぼ死んでしまった天体である。その寿命は14億年。天体として出発した時のエネルギーが小さく、尽きてしまった。そのため、激動期の状況、いわば傷跡をそのまま表面に残しているのである。

 人生も、活動を止めてしまえば、理を実現し、完成させることはできない。ともかく生きて生きて生き抜いてゆく――その中でこそ様々な傷や痛みも時とともに癒され、人間としての円満な境地も築かれてゆくものだ。美しい緑に包まれた地球のように――。

 また、妙法を信じ、広布へと進んでいる今こそ、三世永遠の幸の旅路への出発の時である。ゆえに大きなエネルギーが必要である。題目を唱えに唱え、“満タン”のエネルギーを蓄えながら、私どもは悠々と幸福の軌道を進んでゆきたい。


 さて、静寂な「死の世界」であるには、ほとんど大気も水もない。大気は地球の10兆分の1。ほぼ真空の世界である。

 大気がないということが、どれほど悲惨なことであるか――。大気に守られないの表面は、「直(じか)に」宇宙空間からの脅威にさらされている。無防備の裸の状態である。

 太陽からのX線や紫外線、帯電粒子すなわち、いわゆる太陽風。また、その他のあらゆる宇宙線や隕石等々、そうした宇宙の“暴力”に何十億年も、は痛められ続けてきた。

 大気がないため、昼夜の温度差も激しい。昼は130度、夜はマイナス170度にもなる。その差、何と300度である。

 これに対し地球は、オゾン層など厚い大気の層や地磁気で保護されている。ゆえに、人類をはじめとする生物が生きてゆける。


 しかし、こうした無数の“宇宙のギャング”達の害に、人間が気づいたのは、つい最近のことである。「大気に守られている」という事実に、長い長い間、誰も気づかなかった。

 あまりにも大きな恵は、人は忘れがちである。あまりにも、すっぽりと身近に包まれているので、空気の偉大さに「謝」することがなかった。

 その大気がない世界の無残さを見て、初めて「地球の素晴らしさ」がわかったのである。地球に住むことが、どれほどありがたいことか。緑したたる宇宙のオアシス地球を、皆で大切にし、皆で真剣に守らなければならない。


 学会も、宇宙の中で最高に幸福な「信の世界」である。

 絶え間なく降り注ぐ物の攻撃から信仰を守り、諸天の力を増幅させながら、福徳の華を繚乱と咲かせている。

 確たる軌道もなく漂うのみの人生が多い中で、自他ともに人生を最も充実させて歩むことができる。

 その味で、正法を守りゆく組織が絶対に必要である。人々を守りゆく指導者が必要である。また、ありとあらゆる社会の分野で活躍しゆく同志がいなければならない。

 一人になってしまったなら、無防備ののようなものである。無数のから信仰を守ることは困である。広宣流布も進めることができない。


 学会の存在が、どれほどありがたいか。大切であるか。あまりにも大きく守られているゆえに、その恵を当たり前のようにい、忘れてしまう場合がある。それでは浅はかである。また、守られ過ぎて、ひ弱になってもならない。


 謝のがなければ、もはや信もない。その人の周りの空気は濁り、福徳と歓喜に満ちた新鮮な空気を味わえない。それのみならず、不満と嫉妬で環境をも汚染してゆく。絶対にそうさせてはならない。

 また、そうした人間から、信の世界の清浄な空気を断固、守り抜いていかねばならない。


 にも始めは少しの大気があった。しかし、の重力が小さいため、結局、どんどん宇宙に逃げていってしまった。福運も、それを引きつける信の引力が弱まれば逃げていってしまう(笑い)。

“幸いを万里の外より集める”強盛な信一年で、汲(く)めども尽きぬ満々たる福運と生命力を私どもはたたえてゆきたいものである。


 ところで、は「死の世界」であるにも関わらず、地球に巨大な影響を与えている。

 それはあたかも、宇宙には「生」の力のみならず、「死」の力も存在していることを象徴しているようでもある。

 宇宙に溶け込んだ「死」の状態の生命も、実は様々な面で人間に影響を与えている場合がある。そこに法の追善供養の背景の一つがある。

 御書には「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり」(1336頁)――(妙法の)妙は死、法は生である。この「生死の二法」が(地獄から界までの)十界の全ての当体である――と。

 生死、生死と永遠に繰り返していく生命。その「生死の二法」からは誰人も免れない。この生と死を貫く大法が妙法である。ゆえに妙法を持(たも)ち続ける人は、自身も三世にわたって幸福である。また、先祖をも救ってゆくことができる。

 反対に、妙法の世界を破壊しようとすることは、そのまま自身の生命を破壊することに通ずる。ゆえに、生死、生死と永遠に悩の極限の境涯となる。


 の引力が、太陽の引力とともに、海の潮汐(ちょうせき)――満ち潮、引き潮を起こしていることは常識である。

 それに加えて、最近ではが人間の行動や理・生理にも大きな影響を与えているという研究も注目されている。

 それによると、満や新の時に、人間の情緒が不安定になり、犯罪件数も増加するという。もちろん、これは主にアメリカでの統計であり、異文化の各国にそのまま当てはめることはできないかもしれない。

 ただ、人間の身体にも「海」がある。すなわち、体液は海水と似た成分である。その「内なる海」が、の変化に応じて何らかの影響を受ける――そうした見方に関が高まっていることは事実である。

 昔からよく知られているように、女の妊娠期間の平均も、満から満までの期間(29.5日)の、ちょうど9倍である。

 このように人は、太陽とともに時を刻む以上に、実はとともに生命の時間を生きている。

 ちなみに日本語の「つき」の語源は、「尽きる」であるともいう。形が段々欠けて尽きてしまうからである。

 しかも、「とき(時)」も、古くは「つき」と同じ味で使われた。例えば、「あかつき(暁)」を「あかとき」と表現した。

 英語の「ムーン(moon)」も「測る」という味が語源にある。「メーター(meter)」「メジャー(measyure)」などの語も親戚である。

「時を測る」ものがであった。「タイム(time)=時」と「タイド(tide)=潮」も同語源である。


 人間はをはじめとする宇宙とともに生きている。その事実は時代とともに、いよいよ明らかになってきている。

 大聖人は常に、日天よ、天子よ、あらゆる諸天よと呼びかけておられた。

 元東京天文台長・広瀬秀雄氏は、大聖人が「天体の活動と不離不可分の生活をしていた」(『年・・日の天文学』中央公論社)ことに注目され、「依智(えち)の星下り」が“最大光輝の金星”に、「竜の口の光り物」が“エンケ彗星による流星”によると推定しておられる。

 このことは対談『「法と宇宙」を語る』の中でも触れておいた。

 広瀬氏は結論して、日蓮大聖人のいうように「その身と天体との一致まで堅く信じた人は他にほとんどいないとう」(前掲書)と述べておられる。大聖人の広大な御境界の一端に、一流の科学者も関を寄せているのである。

 ともあれ、全宇宙を我が「人生空間」とし、宇宙の運行のリズムに合致して生きる、その妙法受持者の生き方の正しさを、「と人間の関係」をはじめ、科学もまた証明しつつあるといえよう。


 法では「天」を様々なたとえに用いている。「三昧(がつあいざんまい)」もその一つである。

 父を殺した悪逆の阿闍世王が、提婆達多にだまされ、乗せられて、悪を犯したことを悔い、に「悔熱(げねつ)」を生じた。

 地獄しみ、身体にも悪のできもの(瘡/そう)が出る。誰も治せない。自自得とはいえ、あまりにも悲痛な姿である。

 病気にも「身の病」と「の病」がある。の病の方が治すのはしい。

 この時、釈尊が王の後悔の姿を見て、彼を懺悔させ、そのを癒した。その様子が「太田入道殿御返事」には、次のように描かれている。

「世尊・大悲導師・阿闍世王のために三昧に入りたもう三昧に入り已つて大光明を放つ其の光り清凉にして往いて王の身を照すに身の瘡即ち愈えぬ」(1010頁)

 ――大悲の導師である釈尊は、阿闍世王のために三昧に入られた。そのあと大光明を放たれた。その光は清涼であり、阿闍世王のもとに行って王の身を照らすと、悪瘡(あくそう)はたちまち治った――。

 これは、「の病」を治したの慈悲の光を、優しい光にたとえた話である。


 軽度の「の病」の人は、いよいよ増加している。そういう人には強烈な激励は逆効果になる場合が多い。

 むしろ、粘り強く、静かに話をよく聞いてあげ、同してあげる包容力がポイントとなる。

 一般的にいっても、何か相談すると、話も聞かない内に、いつも「とにかく、題目をあげればいいんだ!」(爆笑)では、やり切れない。たとえ、真実ではあっても、相手が納得できなければ仕方がない。

「真理である」ことと、「説得力がある」ことは違う。どう、その人に「信の力」「唱題の力」を確信させ、発させてゆくか。そこまでに至る力が「指導力」なのである。


 釈尊が「三昧」に入ったということは、深い義があるとう。すなわち、これは妙法の「生命を癒す」力の一分を表している。

 宇宙は妙法の当体であり、日天、天の働きもまた妙法の力による。大聖人は、この妙法即御自身の御境界を御本尊として御図顕された。御本尊には大日天王を、大天王をも厳然とお認(したた)めである。

 ゆえに、「三昧」といっても、全て御本尊のお力に含まれる。

 また、妙法を信受し、修行する私どもの生命にも、日天・天の働きが分々に顕れてくる。


 涅槃経には「」の働きを通して、三昧の六つの義が説かれている(梵行品/ぼんぎょうほん)。

 第一に、光が3000年に一度咲く優曇華(うどんげ)を開花させるように、人の善を開かせる。

 第二に、光が道ゆく人を照らして喜ばせるように、道をゆく人を照らして喜ばせる。

 第三に、新から満へと次第に成長するように、煩悩によるしみが次第に減ってゆく――宿命転換してゆく。

 第四に、十六夜(いざよい)から次第に形が小さくなっていくように

煩悩によるしみが、次第に減ってゆく。――宿命転換してゆく。

 第五に、暑い盛りの時、光に涼(りょう)をとるように、人間の「貪り」の悩みの「熱」を冷やし、取り去る。

 第六に、星々の王が満であるように、あらゆる善の「王」である。すなわち大善中の極善が妙法である。


 日月といっても、実は「我が胸中」にある。その明るい光を大きく周囲に放ちながら、日のごとく、のごとく慕われゆく人でありたい。

 そして、素晴らしき「我が家」を、「我が地域」を、「我らが社会」を、その「生命の光」「人間の光」で照らし、輝かせてゆくことが私どもの使命なのである。


は犬が吠えるのを気にしない」(The moon does not heed the bark of dogs)というイギリスの諺(ことわざ)がある。

 いかなる卑しい吠えにも、は悠然と高みに澄んで、皓々(こうこう)と地上を照らす。

 これこそ、「信仰者」の姿である。人間の「王者」の姿である。私どもも、この気で進んでまいりたい。


【第21回本部幹部会 1989-09-15 東北文化会館

2007-09-18

松の意義


SGI会長●ところで、画伯が2年前、贈ってくださったのは「」の絵でした。この「」は、私ども法者にとっても、ひときわ深い義があります。法には「は霜が降りて、他の木々が枯れたあとに『木の王者』として風格を現す」との言葉がある。

 更に法に、「は万年の長寿をたもつゆえに、枝を曲げられる。法華経の行者は久遠長寿の如来である。ゆえに、修行の枝を切られ、曲げられることは疑いない」ともあります。

 偉大な生涯に様々な風雪、障害があるのは当然です。「」はそうした幾多の試練にあっても、凛々しく我が王道を貫く「勝利王」「幸福王」「人間王」の象徴となっている。

 ともあれ私は、画伯の絵から、私どもに対する絶大な未来への期待をじてならなかった。


画伯●「」を描く義は、中国においても全く同じです。複雑に屈曲したの枝ぶり。それは、外部の圧力を受けても、頑強に抵抗し、強く生き延びてゆく姿であり、最も迫力ある形態です。無論、私もを選び、描く際は、そうした義を託している。


【中国の著な書画家・董寿平氏と会談 1989-09-11 国際友好会館


 打てば響く対話は、が奏でる共鳴音である。それは、音叉のように共振し、余韻を残す。信頼から生まれるハーモニーのタイトルは「友情」だ。


 竹梅を慶事の象徴とする風習は中国から伝わった。正に門を飾る習慣は平安末期から広まったというから、きっと大聖人も目にされたことだろう。「」は常緑樹であることから不老長寿を示し、「神を待つ」という掛詞(かけことば)もあるようだ。


 前や地に「」の字がつく人は、しっかり頑張るように(笑)。


御書に出てくる「

  • 蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧蘿頭に懸りて千尋を延ぶ(26頁)
  • 諸木は枯るると雖も柏は萎まず衆草は散ると雖も鞠竹は変ぜず法華経も亦復是くの如し(47頁)
  • 澗底の長未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり(170頁)
  • 但し歎ずるは田舎に於て邪正を決せば暗中に錦を服して遊行し澗底の長匠を知らざるか(184頁)
  • 青山峨峨として常楽我浄を奏し前には碧水湯湯として岸うつ波四徳波羅蜜を響かす深谷に開敷せる花も中道実相の色を顕し広野に綻ぶる梅も界如三千の薫を添ふ(478頁)
  • 西には紅葉常葉に交ればさながら錦をおり交え荻ふく風閑かにしての嵐ものすごし過ぎにし夏のなごりには沢辺にみゆる螢の光あまつ空なる星かと誤り虫鈴虫の涙を催せり(492頁)
  • よりよ桜よと起るは切なり、是は法に約する義なり(826頁)
  • 栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり(934頁)
  • 高ければ藤長く源深ければ流れ遠し(975頁)
  • さかふれば柏よろこぶ芝かるれば蘭なく情なき草木すら此くの如し何に況や情あらんをや又父子の契をや(1047頁)
  • 木にすむ虫は木をはむ水にある魚は水をくらふ芝かるれば蘭なくさかうれば柏よろこぶ、草木すら是くの如し(1088頁)
  • 喩へばのしもの後に木の王と見へ菊は草の後に仙草と見へて候(1095頁)
  • 女人はたとへば藤のごとしをとこはのごとし須臾もはなれぬれば立ちあがる事なし(1115頁)
  • 大風吹けば求羅は倍増するなり、は万年のよはひを持つ故に枝をまげらる、法華経の行者は火と求羅との如し薪と風とは大の如し、法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられまげられん事疑なかるべし(1136頁)
  • されば山門と王家とはと栢とのごとし、蘭と芝とににたり、かるれば必ず栢かれらんしぼめば又しばしぼむ(1353頁)
  • 余の木ひの木の浮木にはあひやすく栴檀にはあひがたし(1391頁)
  • 藤はにかかりて千尋をよぢ鶴は羽を恃みて万里をかける此は自身の力にはあらず(1430頁)
  • 竜馬につきぬるだには千里をとぶ、にかかれるつたは千尋をよづと申すは是か(1553頁)

2007-09-07

“発想の転換”は“一念の転換”


 よく発の転換ということが言われる。人類の進歩は、絶えず発の転換、もしくは新しい着眼点を発見しつつ、それを起点としてなされてきたといってよいとう。

 科学の世界においても、近世においても天動説から地動説へと変転したのも、また20世紀においてアインシュタインの相対理論が生まれたのも、そこには大きな発の転換がありました。

 人間というものは、とかく既存の枠の中に生きようとする習のようなものがあります。そして、その習は頑としての奥に根をおろしていて、いったんそこから脱皮しようとすると、ものすごい勢いで引き止めようとする。これは個人においても、また社会のメカニズムにおいても、同じようなことが言えそうであります。

 日本という社会は、とかくこれまで、日本から世界を見てまいりました。個人においても、自分を中に据(す)えて他人を見ようとするものですが、他人の目をもって自分を見るということも、大切なことであります。これは、地球を中として考えた天動説から、太陽という他の天体を中として地球を見直した発の転換に通ずるものがあります。日本を中にして世界を見るのではなく、世界の客観的な目で日本を見つめ直すという発の転換が、いまほど必要な時はないと、私は考える。

 発の転換とは、的確にいうならば「人間の一の転換」であります。この生命の一の狂いが、実は日本をこれほどまでに駄目にしてしまった。いったい誰の一であったのか――ある人は派閥と私利私欲の葛藤に明け暮れ、ある人は学問の権威の座に坐して民衆を嘲笑し、ある人は経済的利益のみを追い求めて諸外国の顰蹙(ひんしゅく)を買い、ある人は評論家と称してもっともらしい言葉で自分を粉飾し、ある人はエリートという気位に立って弱き人々をいじめ抜いてきたのであります。この一切のエゴの激突のルツボと化した日本の姿を、再び鏡に照らして見直すべきではないかとうのであります。

昭和元禄”と呑気(のんき)に構えていた脆弱(ぜいじゃく)な一が昨今にいたって、脆弱な精神構造として白日の下(もと)にさらけ出されてしまったといってよい。

 ともあれ、あらゆる指導者たちが、正しい一に転換することが、今ほど緊急な時代はありません。しかし、それは単なる反省とか識変革などで変わり得るものではない。を支配するものが生命の働きである以上、もっと根源的ななにものかを必要とするのであります。それを私どもは知っている。現代の最も正鵠(せいこく)な一は、法の真髄による生命哲学に帰着しなければならないとうのであります。


【第36回本部幹部会 1973-12-16 大阪市・中央公会堂】


 いやあ、痺(しび)れますなあ。このような指導を読むたびに、身体がブルブルと震えてくる。先生、45歳の時の指導。当時のの勢いは凄まじかった。それこそ、威風堂々としてナポレオンを彷彿(ほうふつ)とさせる姿だった。現在、連載中の『新・人間革命』で描かれている前の年である。1972年には日中国交正常化を果たし、創価学会の存在はいや増して重くなった。また、1973年は「教学の年」と銘打たれており、750万世帯の学会員に哲学の楔(くさび)が打ち込まれた。


 本来であれば正本堂の完成を期して、法を世界へと展開してゆくことが、先生の構であったとう。だが、強欲な坊主どもと悪徳顧問弁護士によって、先生の足は引っ張られた。


 30年以上も前の指導でありながら、昨今の政治家に対する警鐘の響きがある。

2007-08-25

人の苦悩に対して想像力を広げることから「同苦」は始まる


 題目をしばらく唱え、鈴(りん)を叩いて御観文に入ろうとすると、伸一の背中に、ゴツンと後ろにいた青年の頭が当たった。

 視覚に障害があることから、伸一との距離がつかめなかったのである。

 頭をぶつけた青年は、慌てて後ずさりし、恐縮して小さくなっていた。

 伸一は、メンバーの労を深くじ取った。そして、皆が一人ももれなく、信を根本に強く生き抜き、なんとしても幸福な人生を勝ち取ってもらいたいと、ひたぶるに祈するのであった。

 一つの事柄から、何をじ取るか。人の悩に対して像力を広げることから、「同」は始まるのである。配慮とは、人をいやる像力の結晶といえよう。


【『新・人間革命』宝塔43/聖教新聞 2007-04-24付】


 どんな団体であれ、組織が資本主義的な色を帯びるのは仕方のない側面がある。一つの目的に向かって「競い合う原理」が働かなくなれば、集まる味がない。


 だが、責任ある立場の人々が競争原理にどっぷりと浸(つ)かってしまえば、構成員は手段として利用される結果となる。我々の立場で言えば、「何のために広宣流布をするのか」ということが最重要となろう。


 先生の人間主義が、世界を潤(うるお)す時代となった。しかし、組織は悪しき成果主義に毒されている。皆、「おかしい」といながらも、沈黙を守っている。まるで、オメルタ(マフィアによる沈黙の誓い)のようだ(笑)。


 参院選挙の渦中、日新聞東京版に学会を批判する投書が掲載された。会館で行われた座談会の終了後に模擬投票をしたことを問題視する内容だと記憶している。投稿した方は、普段、活動してない会員で、講演を頼まれたと伝えられている。直後に何通かのメールが寄せられた。云く、「どうやって切り返せばいいんですか?」。


 これこそ、今の組織を象徴する問題であると私はじた。日新聞の政治的な惑は別としても、投書の内容は頗(すこぶ)るまともである。模擬投票という行為が、時に選挙権を侵害するケースも出てくることだろう。身内では“当たり前”とってきたことが、社会で通用しない場合もあるという好例である。このように、真っ当な見であっても、組織防衛の本能が優先的に働いてしまい、拒絶反応を示すのだ。


「上から言われることは正しい」とい込み、自分で判断することを怠ると、必ず誤解が生じる。先の問題は、「学会の成熟度」が問われているのではないだろうか。


 組織で打ち出しが多いのは、「指示を出さなければ末端は動かない」という民衆蔑視によって支えられている。利口な会員はロボットになる道を選び(笑)、器用じゃない人は大リーグボール養成ギプスを装着する羽目となる(笑)。


 学会は人間主義なんだから、人間で勝負しろ。