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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2012-07-06

監獄の壁、環境の制約


 あらゆる人は邪魔をされ、彼自身の分離状態を意識して、環境の中で、環境を通じて行動し、それに戦いを挑み、情況を調節し、部分的に修正し、変えるために途方もない努力をするのです。それがあなた方全員がしていることなのではないでしょうか? あなた方は愛の邪魔をされ、職業、行動を邪魔されます。そして自分に負わされた制限に対する苦闘の中で、意識が鋭くなり、あなた方は情況、環境を部分的に修正し、変えようとし始めるのです。すると、どうなるでしょう? あなた方は単に抵抗の壁を強固にするだけです。なぜなら、部分的修正や変更は理解の欠如の結果だからです。あなた方が理解する時、部分的に修正したり、変えたり、改革したりすることをやめるのです。

 で、部分的に修正、調節、変更することに、制限の壁を突破すべく努めることに、あなた方が活動(activity)と呼んでいるものがあるのです。たいていの人にとって、行動とは環境の部分的修正に他ならず、そしてこの行動は監獄の壁、あるいは環境の制約の増大に帰着します。もしあなた方が、何かを理解せずに、闇雲にそれを部分的に修正しようと努めれば、あなた方の行動はすでにある障壁をかえって強めるだけでなく、別の新たな障壁を築き上げてしまうのです。そしてこれらの障壁のことを人は環境と呼び、その内側での営みを活動と呼ぶのです。

(カリフォルニアのオーク・グローブでのトーク、1934年


【『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2004年)】


片隅からの自由―クリシュナムルティに学ぶ

2012-05-02

祈りのメカニズムは機械的な結果をもたらす


シュアレス●あらゆる宗教は、神、宇宙など――その呼び名が何であれ――あるより高い実在物と交感するための祈りやなんらかの黙想(瞑想)の方法について話します。あなたの宗教的活動はいかなるものですか? あなたは祈りますか?


クリシュナムルティ●神聖な決まり文句の反唱は、精神の動揺を静め、それを眠り込ませるのです。祈りは、われわれに自分自身の心理的獄舎を押し破り、破壊させる必要を感じさせずに、われわれをそのなかに閉じ込め続けさせることのできる、鎮痛剤のようなものです。祈りのメカニズムは、他のすべてのメカニズム同様、機械的な結果をもたらすのです。自己自身についての無知を突き破ることのできるような祈りなどないのです。無限なるものに差し向けられたあらゆる祈りは、有限なるものが無限なるものを知り、そしてそれといかに接するかということを前提にしています。それは無限なるものについてのあらゆる観念、概念および信念を持っており、そして精神的な獄舎に閉じ込められた説明体系のなかに包み入れられているのです。祈りは束縛するものでこそあれ、解決するものではないのです。そして自由こそは、真の宗教のまさに核心なのです。宗教的組織・団体は、自由を与えると主張しながら、実は逆に、このなくてはならない自由を与えないようにしているのです。自己認識は祈りではありません。そして自己認識こそが、瞑想へのドアなのです。自由は、一組の心理学的な理論に基いたものでもないし、あるいは恩寵を期待して身を委ねた状態でもないのです。それは、宗教や社会によって押し付けられた諸々の制約を打破するのです。それは、特定のものについてではなく、全的に注意を傾けた状態なのです。


【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】


私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集

2012-04-20

心理的、内面的な依存


 わたしたちの教育、生き方、伝統などには、誰かがほかの誰かに何かを与えることができるという考えがしみついています。イエスはあなたに救済の手を差し伸べることができる。あるいは、グルはあなたを救うことができる。あるいは、妻はあなたを助けることができる。それは、私たちがすがりついている使い古した伝統であって、まったく誤ったアプローチかもしれないのです。みなさんは理解しており、私はしていないと思ってるかもしれませんが、失礼ながらみなさんは条件づけられているのかもしれないのです。みなさんは、自分はその理解を誰かに与えられるという観念へと条件づけられているのではないでしょうか? が、それは少しも事実ではないかもしれません。心理的、内面的に、皆さんは誰かに依存しているのではないでしょうか?


【『変化への挑戦 クリシュナムルティの生涯と教え』J・クリシュナムルティ:柳川晃緒〈やながわ・あきお〉訳、大野純一監訳(コスモス・ライブラリー、2008年)】

英和対訳 変化への挑戦―クリシュナムルティの生涯と教え

2012-03-24

創造的な不満


 君たちは動きもなく、とても静かに坐ったことがありますか。やってごらんなさい。背筋をまっすぐにして本当に静かに坐り、自分の心がしていることを観察するのです。制御しようとせず、ある考えから他の考え、ある興味から他の興味へと跳んではいけないと言わないで、心がどのように跳んでいるのかにただ気づいていなさい。それについては何もせず、河岸から水が流れていくのを眺めるように眺めなさい。流れる河の中には、とても多くのもの――魚、木の葉、死んだ動物があります。しかし、河はいつも生きて動いています。そして、心もそれに似ています。永久に落ち着かず、チョウのようにあるものから他のものへと飛んでいるのです。

 君たちは歌を聴くとき、どのように聴くのでしょう。君たちは歌っている人が好きかもしれません。その人はすてきな顔をしているかもしれません。君たちは言葉の意味を追っているかのもしれません。しかし、そのすべての裏で歌を聴くときには、調べと、調べの間の静寂を聴いているでしょう。同じようにそわそわせず、手も爪先も動かさず、とても静かに坐って、自分の心をただ眺めてごらんなさい。たいへんに楽しいものなのです。楽しみやおもしろいこととしてやってみるなら、君のほうの制御しようとする努力もなしに、心が落ち着きはじめることに気づくでしょう。そのとき検閲する者、判断する者、評価する者はいないのです。このように心がおのずととても静かで、自然に穏やかであるときには、快活であるとはどういうことかを発見するでしょう。快活さとはどのようなことか、知っていますか。それは、どんなことにも何でもないことにもただ笑って喜ぶことで、生きること、微笑むこと、何の恐怖感もなくまっすぐに人の顔を見つめる喜びを知ることです。

 君たちは本当に誰かの顔を見たことがありますか。先生や親やえらい役人や召使や貧しい人夫(クーリー)の顔を見つめ、どうなるのか見たことがありますか。私たちのほとんどは率直に人の顔を見つめることを恐れています。そして、他の人たちもまた、そのように見つめてほしくはないのです。なぜなら、彼らもまた怯えているからです。誰もが自分をあらわにしたくはありません。みんなが用心し、幾重ものさまざまな悲惨や苦しみ、あこがれ、願いの裏に隠れています。それで、まっすぐに顔を見て微笑んでくれる人がほとんどいないのです。微笑んだり、幸せであることはとても重要です。なぜなら、心に歌がなければ、生はとても冴えないものになるからです。

 君たちは寺院から寺院へ、ある夫や妻から他の人へと移るかもしれません。新しい先生や導師(グル)を見つけるかもしれません。しかし、この内的な喜びがなければ、生にはほとんど意味がありません。そして、この内的な喜びを見つけることは簡単ではないのです。なぜなら、私たちのほとんどはただ表面的にのみ不満を持っているからです。

 不満になるとはどういうことか、知っていますか。不満を理解することはとても困難です。なぜなら、私たちのほとんどは不満をある方向に導いて、それにより不満をなだめてしまうからです。つまり、私たちの唯一の関心は、動揺しないように、既成の利益と威信のある安全な地位に納まることだからです。このことは家でも学校でも起ります。先生たちは動揺したくはないのです。それだから、いつもの課業を続けるわけです。なぜなら、本当に不満になって、質問し探究しはじめたとたんに、そこには必ず動揺があるからです。しかし、ただ本当の不満によってのみ、人は創意を持つのです。

 創意とは何か、知っていますか。促されずに自分で何かを創始し、始めるとき、君は創意を持っています。何も大したことやとてつもないことでなくてもいいのです。それは後のことでしょう。しかし、君自身で木を植えるとき、自然に親切にするとき、重い荷を運んでいる人に微笑みかけるとき、道の石をどけ、道で動物を撫でてやるとき、そこには創意のきらめきがあるのです。それは、この創造性と呼ばれるとてつもないものを知るのであれば、持たなくてはならない膨大な創意の小さな始まりです。創造性は、深い不満があるときにだけ生じてくる創意に根ざしているのです。

 不満を恐れずに、きらめきが炎になり、あらゆるもの――仕事や家庭、伝統的な金銭や地位や権力の追求に対して、永久に不満になるまで、それに糧(かて)を与えなさい。それによって君は本当に考え、発見しはじめるのです。しかし、年をとるにつれ、この不満の精神を維持することはとても困難であると気づくでしょう。扶養すべき子供が生まれ、考慮すべき仕事上の要求もあります。隣の人や社会の意見も迫ってきます。それで、この不満の燃える炎をすぐに失いはじめるのです。不満になると、ラジオをつけたり、導師(グル)のもとに行ったり、礼拝(プージャ)を行ったり、クラブに入ったり、酒を飲んだり、女性を追いかけたり、その炎をなだめるために何でもします。しかし、この不満の炎がなければ、君は創造性の始まりである創意を決して持つことがないでしょう。何が真実かを見出すには、既成の秩序に対して反逆していなくてはなりません。しかし、親はお金を持てば持つほど、先生は仕事が安定すればするほど、君たちに反逆してほしくはないのです。

 創造性とは単に絵を描いたり、詩を書くという問題ではありません。そうしたことをするのは良いけれども、それ自体はとてもささいなことです。重要なのは完全に不満になることです。というのは、そのような完全な不満が創意の始まりであり、それが熟するなかで創造的になるからです。そして、これが、真理とは何かを見出す唯一の道なのです。なぜなら、創造的な状態が神であるからです。

 それで、この完全な不満を持たなくてはなりません。しかし、喜びをもってです。理解できますか。不平を言わず、喜びや快活さや愛をもって、完全に不満でなくてはなりません。不満を持っているほとんどの人たちは、ひどく退屈な人たちです。彼らはいつも、あれやこれやが良くないと不平を言ったり、自分がもっと良い地位にいたなら、もっと環境が違っていたらなと願っています。なぜなら、彼らの不満はきわめて表面的であるからです。そして、まったく不満を持たない人たちはすでに死んでいるのです。

 君たちが若いうちに反逆し、成長するなかで喜びと大いなる愛情の活力をもって不満を活かしていくなら、その不満の炎は築き、創造し、新しいものを出現させるから、とてつもない意義を持つでしょう。そのために、正しい教育を受けなくてはなりません。しかし、それは単に仕事を得たり、出世の階段を昇る準備をしてくれるようなものではなく、君が考えるのを助け、空間を与えてくれる教育です。それは、大きな寝室や高い天井という形の空間ではなく、心が成長するための、どんな信念や恐怖にも束縛されない空間です。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2011-12-31

先入観


 何らかの信条に固くすがりついているなら、君たちはその特定の先入観や伝統によってあらゆるものを見るのです。現実との接触を持ちません。君たちは、村の女性が重い荷物を町に運んでいるのに気づいたことがありますか。それに本当に気づくとき、君はどうなり、何を感じるでしょう。それとも、これらの女性が通っていくのはしばしば見ているので、慣れてしまったためにまったく何の感情も持たないし、したがって彼女たちにはほとんど気づかないのでしょうか。そして、初めてあるものを観察するときでさえも、どうなるでしょう。先入観にしたがって見るものを自動的に解釈するでしょう。共産主義者、社会主義者、資本主義者、その他「主義者」という自分の条件づけにしたがってそれを経験するのです。ところが、これらのもののいずれでもなく、そのためにどんな観念や信念の幕をも通して見ず、実際に直かに接触するなら、そのとき君は、自分とその観察するものとの間には、なんというとてつもない関係があるのかと気づくでしょう。先入観や偏見を持たずに開いているなら、そのときは、まわりのあらゆるものがとてつもなく興味深くなり、ものすごく生き生きとしてくるでしょう。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2011-12-18

利他という名の自己満足


 あなたは言うかも知れません。自分自身のことを考えるより、他の人を助ける方が満たされた気分になると。違いは何ですか? それは依然として自己関心です。他の人たちを助けることがあなたにより大きな満足感を与えるとすれば、あなたは自分により大きな満足を与えてくれるものに関心をもっているのです。なぜそこにイデオロギー的な観念を持ち込むのですか? どうしてこの二重思考があるのでしょう?


【『既知からの自由』J・クリシュナムルティ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2007年/『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ:十菱珠樹〈じゅうびし・たまき〉訳、霞ケ関書房、1970年の新訳版)】

既知からの自由