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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2008-01-05

微小なマグマがネットワークをつくり爆発に至る


 ところで、火山活動を起こすマグマの成り立ちについて述べてみたい。マグマとは、地下深くで生まれる溶融状態の物質のことをいう。高熱・大量のマグマが一体となって上昇し、地上に噴き上げる現象が噴火である。そうしたマグマは、どのように発生するか。

 何らかの原因で、地中に温度上昇や圧力低下が起こる。すると鉱物粒子の一角が溶ける。これがマグマの最初の一滴である。しかし、それはきわめて微小な“一滴”に過ぎない。それがマグマの流れとなり、大河となるのは、マグマの一滴が自身も着実に拡大しつつ、他の一滴一滴と網目状に結合し、いわば“液のネットワーク”を構成するからである。ここから確かな流れが生まれ、更なる温度の高まりとともに、マグマは周囲の鉱物粒子をも巻き込み、一団となって上昇を開始する――。

 最初は微小で影響力も小さかったマグマ。それが、確かな“ネットワーク”をつくり、限りなく広がってゆく時、信じられないような爆発力を発揮する。

 人間社会においても、同じ道理があるといってよい。一人ひとりの「個人」は小さな存在かもしれない。しかし、それぞれが成長しながら、連帯と信頼の輪を結んでゆく時、個々の力は絶大なパワーとなり、信じられないような爆発力となってゆく。

 ゆえに団結が大切でる。とともに、それ以上に、“最初の一滴”が大切なのである。“最初の一滴”がなければ、連帯も、拡大も決して生まれ得ないからだ。

 ガンジスの大河も、源の一滴に始まる。広大な広布の流れも、日蓮聖人御一人から始まった。戦後の学会戸田先生お一人からスタートしたことは、ご承知の通りである。「一人」こそ「万人」の基(もとい)であり、一切の根本である。

 ともあれ、自分という「一人」には、それだけの「使命」と「力」と「責任」があることを知らねばならない。


【第24本部幹部会 1989-12-20 創価文化会館


 戸田先生「人生も信心も強気でいけ」の続き。


 今、社会も世界も分断化が進んでいる。日本の場合、高度成長(19551974年)に伴って核家族化が進んだ。その上、1973年以降は少子化が進んでいるので更に深刻だ。昔と比べると近所付き合いはないも同然で、実態のある共同体はもはや「会社」だけだとわれる。


 国際社会はどうか? 国の数は増えている。日本が承認している192ヶ国というのは、北鮮を除いた国連加盟国+バチカン市国となっている。北鮮を国家として認めてないことを初めて知った。この中には、台湾やパレスチナ、IRAなどは当然入ってない。紛争が絶えない内は、国家が増え続けることだろう。つまり、細分化が進む結果となる。


 ライオンといえば、「一人立つ」というイメージを抱くが、実際は群れで行動している(笑)。数頭から、多くて30頭ほどの規模。動物の場合、共同体(=群れ)の数は、餌と関係しているとわれる。オスが成長すると群れから追い出されることも珍しくない。


 動物としての人間を考えた場合、どの程度の群れが必要になるだろうか? 実は昨年からずっと考えている(笑)。生きてゆくだけなら、数十人程度だろう。農・漁・林を兼務することが可能な人数を定した。


 古来、人間のネットワークは戦争によって拡大してきた。強い者が、弱い者から奪い続けてきたのが人類の歴史だ。共同体が大きくなると、政治が必要になる。政治の目的を単純化すれば、共同体のルール作りと、利益の再配分ということになろうか。


 国家という規模の共同体になると、その中に無数の小さな共同体が存在する。そこで、利益の奪い合いが生じる。税金に関しては、国が圧倒的な裁量を持っているので経済原理が働かない。最も平等な競争を行えるのは「会社」である。


 私は、現代日本におけるコミュニティは「会社」だと考えている。だから、人生を有義にするためには、「会社」の中でどう生きてゆくかがキーポイントになる。


 選択肢はいくつかある。出世、金、働き甲斐など。目的は何でも構わないだろう。いずれにせよ、どう人脈を拡大してゆくかである。それができない会社なら、転職を考えるべきだ。あるいは起するのもいいだろう。


 漫然と構えていても、人間関係は広がらない。女であれば、地域や趣味などをテーマに、友好の輪を広げることが可能だ。現実的には、子供を通した親同士の交流が手っ取り早い。


 私が言いたいのは、こうだ。一滴のマグマが地表で燃えても爆発は起こらない。だから、自分が中となって何らかのコミュニティを形成しようということ。簡単に運ばないのは確かだ。でも、ネットワークを築いておかないと、「一人立った時に、誰もいなかった」なんてことになりかねない(笑)。智を働かせ、情を通わせ、を巡らせてゆくしかない。インターネット電話が武器になるのは確かだ。

2006-12-09

一騎当千の師子王たれ!


「一騎当千」という言葉は、どこからきているか。

 それは「一人当千(いちにんとうせん)」という言葉からである。

 釈尊が入滅する直前に説いた涅槃経に、如来の力を讃えた「一人当千」という言葉がある。

「大力士有らん。其の力千に当り、更に能(よ)く之を降伏(ごうぷく)する者有ること無し。故に此の人を一人当千と称す」(岩野真雄編『国訳一切経印度撰述部 涅槃部一』大東出版社、現代表記に改めた)

 すなわち、誰人たりとも倒すことのできない、千人力の偉大な力士を「一人当千」という。

 その大力士のごとく、はかりしれない智で四を降(くだ)す無敵の存在こそ、であるというのである。

 まさに「一人当千」「一騎当千」の力を発揮しゆく源泉こそ、法なのである。

 広宣流布を成し遂げゆく法の師弟に、この「一人当千」「一騎当千」の力が湧現し、具足しないわけがない。

 牧口先生は、「羊千匹より、獅子一匹たれ」と叫ばれた。

 いわんや、リーダーの皆さま方は、この創価の師弟の道に直結して、一人が「一千」、否「一万」にも匹敵する師子王の大力を出し切っていくことだ。その生命の勢いと気迫が大事である。

 新しい人材を、新しい青年を、きら星のごとく育て、新しい広宣流布の圧倒的な勝利、勝利の時代を断固とつくろう! そのための各部合同研修会である。


【各部合同研修会 2006-08-02 長野研修道場


「一騎当千」という言葉が典から出たものとは私も知らなかった。


 言うは易く行うはし、である。本幹衛中で原田会長が「師匠に守られる弟子から、師匠を守る弟子に」なあんて話をしていたが、とても本気とはえない(笑)。無理に決まってるよ。私に言わせりゃ、そんなことをうこと自体が謗法だ(笑)。自分の責任範囲を死守する――これしかない。


 一人が千人に匹敵するというのだから、千人の敵を味方にしなくてはなるまい。まあ、平均寿命を無視して、人生八十年と考えれば、1年あたり12.5人の友好拡大が求められる。とはいうものの、学校に行ってる間は勉強が本分となるので、20歳以降で計算すれば16.7人となる。こりゃ、中々大変だ。


 強敵を伏して始て力士をしる(957頁)


 明年はこの御聖訓を引っさげて戦い抜いてゆく予定。強敵とは、目上の人、嫌いな人、手な人のことである。


 テーマは、「一人当千の陣列で全員当選」に決まり(笑)。

2006-04-05

新時代を開くのは青年の勇気


 彼は土産(みやげ)にバラの花などを採集して帰った。穏やかそのものである。それも当然、この岬が位置するのはカナリア諸島の約240km南。アフリカ全体の大きさから見れば、“航海学校”からでさえ、いかほども離れていなかった。

 ゆえに地理上の発見としては、ほとんど価値もないように見えた。しかし、それまでの「恐怖の岬」という「の境界線」「臆病の壁」を越えた。そこに決定的義があった。(ボジャドール岬に関するエピソードについては、前掲書を参照)

 遠洋航海に従事する「波濤会」の方からも、かつて同様の話をうかがったことがある。


 一人の勇者が壁を越えれば、あとは次々と続く。ついにアフリカ西海岸を踏破。やがてアフリカ南端「喜望峰」の発見(1488年)、インドへの新航路発見(1498年)と続く。

つまり、「大航海時代」とは、あの無の船乗りが、かの小さな岬をい切って越えた、その瞬間に本格的な幕を開けたのである。


 ともあれ、新しい時代を開くのは、常に青年の勇気である。誰を頼るのでもない。若き勇者が一人立つならば、いかなる困な道も切り開いていけるものだ。

 この後、マゼランの一行が世界一周に成功したのは1522年。王子の死から60年後、航海学校設立から100年後であった。えば、学会も創立60周年に過ぎない。戦後の再建からみれば、実質40年である。今、私は、創立100年、200年の確かな未来を目指している。そのための人材をいかに育てるか。広布という壮大な航海における課題もここにある。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し(564頁)


 一は万が母といへり(498頁)


 その一人となるのか、それとも、誰かの後ろにくっついてゆくのか。


 夜の山道を車で走ると、直ぐにわかることだが、別の車が前を走っていると、非常に楽だ。しかし、自分の車しかないと、見通しが悪いため、神経を集中させて、慎重な運転となる。後続は楽な分だけ、新たな発見が少ない。


 我々の戦いの目的は人間革命にある。だから、成果が目的になってしまうと、必ず行き詰まる。その結果として、人が育たなくなる。何のための目標か。目標を達成する中で、いかなる人材群をつくり上げるのか。長の一にその理があって、初めて強靭な団結が生まれる。「我が生命の新たな地平を開いた!」という一人ひとりの実こそ、本物の勝利だ。

2006-03-25

屹立した一人が新たな歴史の舞台を開く


 それにしても、ヨーロッパの最西端のイベリア半島、そのまた西端の、資源も乏しい小国ポルトガルである。当時、人口は約200万といわれる。この国が、なぜ世界中に領土を持つ大帝国に成長したのか。また、ポルトガルを“海の勇者”“時代の勝者”へと押し上げたものは何であったか。

 その原点は、たった一人の青年であった。「一人」の決と努力、実践が、一国を導き、人類の新時代を開いた。その「一人」とは、有なエンリケ(ヘンリー)航海王子(1394〜1460)である。

 人数さえ多ければ物事は成就できる――それは明らかに誤りである。屹立した「一人」があってこそ、歴史の転換は成され、新たな舞台が開かれる。この原理は、今までも何度かお話してきた通りである。

「一人立て」と人に言うことはあまりにたやすい。しかし、現実に自ら“一人立つ”のでなければ、何の味もないし、価値もない。

 むしろ、口で言う必要はないのである。自ら一人立ち、行動してゆけば、必ずや二人、三人と後に続き、やがて澎湃(ほうはい)たるうねりとなってゆくからだ。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 民衆が、力なく座り込み、気力を失って倒れている中で、一人立ち上がるのだ。そして、の限りを尽くして正義を叫び、力の限りを尽くして、手を取り肩に引きかけて、一人でも多くの人々を立ち上がらせる。これが、創価学会による宗教革命だ。


 法華経に現れる宝や、地涌の菩薩の偉大な姿は、人間の尊極を示しているのだ。力のない地涌の菩薩がいるはずがない。力は「あるか、ないか」ではなく、「出すか、出さないか」という次元の問題だ。「力がない」と嘆いている内は、己に敗れている証拠である。自分に勝てずして、革命を遂行できるはずもない。金魚の糞は、いつか必ず水底(みなぞこ)に落ちる。


 地涌の菩薩は大地から涌出した。一人立つ真剣の人もまた、下から出てこなければ駄目だ。

2005-02-01

苦難の時に一人立て


 全ての歴史にの時がある。その時に誰が本気になって立ち上がるか。

 実は、ただ一人いればよいのである。誰に言われるのでもない。自ら決めて、一人立ち上がり、死力を尽くして活路を開いていく。その偉大なる信の“一人”がいれば、そこから常に新たなる勝利の歩みが始まっていく。これが、いわば歴史の不変の鉄則である(拍手)。

 大聖人はもちろん、日興上人も、ただ一人で正義の戦いを敢行された。日目上人も一人、死身弘法を貫かれた。

 そして、牧口先生も、戸田先生も、一人立つ戦いに身命を捨てられた。その学会精神の骨髄を体して、私も一人、生命を賭して、全てを勝利に導いてきた(大拍手)。

 すべては一人に始まる。その真金(しんきん)の一人を育てればよいのである。私の焦点も常にそこにある。数ではない。組織のみの力でもない。

 あらゆる分野で、一人を見つけ、一人を鍛え、一人に託していく。それこそが、万代にわたる不断の発展の原点となる。私の指導も、いわば、その一人のために話しているとさえいってよい(拍手)。

 皆さま方は、そういう“一人”になっていただきたい。それぞれの地域・舞台、それぞれの世代にあって、「あの人ありてこそ」と後世にうたわれる縦横無尽の活躍の歴史を刻んでほしいと私は切願する(大拍手)。


【「8.24」記大田・世田谷・杉並区合同支部長会 1988-08-24 東京池田記講堂】


 本物のリーダーは、一人立つ孤独を知る人だ。頼るべき人もなく、我がを知る人もいない状況下で、決然と立ち上がることができるか、それとも、臆して座り込んだまま不平不満を吐くのか――道は二つしかない。


 活動に対する動機が弱まると、地涌の菩薩のサラリーマン化が始まる(笑)。あたかも、ノルマを課せられる営マンの如し(笑)。こうなると、ノルマを達成することが目的となり、“一人立つ精神”は遠い彼方に浮かぶ蜃気楼みたいになってしまう。


 奴隷根のサラリーマンや雇われ兵が何人いたところで、広宣流布はできない。竹林のように、一人ひとりがすっくと立ちながら、根はつながっている。それが、学会の組織であるはずだ。


 先日、ある老夫婦と語り合った時のこと。初対面の私に向って、組織情を切々と訴えてきた。二度にわたって病を克服した体験の持ち主だったが、ない幹部の発言によって、退転しそうになったと語っていた。を傾けながら、激励している内にわず本音が出てしまった。「私がいれば、必ず何とかできたんですがね」。


 私が青年部時代に徹底して教わってきたことは、「戦いを起こした以上、一歩も退かない」ことと、「後輩を守り切る」という二点であった。厳しい訓練によって、既に血となり肉と化している。


「自分がどうわれようと関係ない」――捨て身のリーダーが一人いれば、現場の人々は救われる。官僚主義に毒されてしまえば、組織悪の温床とならざるを得ない。


 一人立つには、足腰の鍛錬が欠かせない。いきなり立とうとすると、目まいを起こし、よろよろと倒れるケースもある(笑)。時と場所を弁(わきま)えなければ頭をぶつけることもある。だから、日常のヒンズースクワットが大事になってくる。小さな決発表や、「やりましょう!」という一言でも構わない。普段から、一人立つ実践を掛けることだ。拠点に一番で駆けつける、いつも門前払いで終わってしまう人に手紙を書く、いつもより5分間多い唱題をするなど、何でもいいとう。ただし、智のない人は、直ぐ行き詰ることをお忘れなく(笑)。


 戸田先生を失った創価学会の中で、誰よりも素早く立ち上がったのは30歳の池田青年であった。世界190ヶ国にまで広がる本因は、この時に決まった。

2004-01-29

一人立つ精神と団結


“一人立つ”ということと、団結とは、一見違えるようにえるが、実は全く同じものであります。自分が責任を担って一人立つところに、団結はおのずから築かれていく。

 誰かがやるだろうと考えている限り、どこまでいっても団結を築くことはできない。一人立って、それが軸となって全部の人が立ち上がり、その結果、堅い団結ができあがる。これが理的な和合僧であり、異体同なのです。これは絶対に崩すことのできないものであり、私どもはそれを目指しているのです。

 一人の自覚ある幹部、使命と責任に満ちた闘士が立ち上がったとき、そこには常に新しい波動が湧き起こり、人々のを一つにしていく力が必ず出てくる。この方程式、原理を、皆さんのおのおのの立場で実践し、見事に実験証明していただきたい。


埼玉総合本部幹部会 1968-04-24


 あまりにも有な指導。大事な内容なので、あと2号続く。


「団結」とは波風を立てないことではない。また、無責任でもなく、見を述べないことにもあらず。自分が一人立ち上がって“調和の核”となることをいう。つまり、真剣を抜いた一人の存在なくして団結を築くことはできないということだ。


 一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し(564頁)


 一は万が母といへり(498頁)


 真の団結とは、表面的に仲がいいとか、まとまっているとかいう代物ではないだろう。「一度(ひとたび)、同志と出会えば、闘魂がたぎってくる」「会合が終わると決が深まっている」「悩に喘(あえ)ぐ友を守らずにはいられない」という姿こそ本物の団結だ。




 無責任な人間の集まるところ団結なしとの指摘は重い。中が定まった時、始めて組織は回転する。但し、中者とは単純に「長」を指すわけではない。若き先生は文京・蒲田にて支部幹事、大阪では支部長代理。副役職でありながら厳然たる結果を残されている。中者の一が強靭なほど遠力が増す。


 広布破壊の極悪法主・日顕が登場してからは、真の和合僧学会しか存在しない。というよりはむしろ、宗祖亡き後の700年間において、日蓮正宗が和合僧たり得たのは、極めてわずかな時代といえよう。


 2004-01-30




「自覚」とは地涌の菩薩としての自覚であり、真の池田門下生としての自覚であろう。「使命と責任」とは、“広宣流布せずにはいられない”という使命であり、“周囲にいる人々を幸せにせずにはおくものか”との責任か。


 戸田先生は青年訓にて「青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん。三人はまた続くであろう」と叫ばれた。人からどう見られるかなどということを気にしている内は、まだまだ責任が弱い。“たとえ、自分一人になったとしても戦いには勝ってみせる!”この気概と決断が、全軍を勝利へと牽引(けんいん)する。


 2004-01-31