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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2003-01-02

『「太陽の世紀」へ 地球市民の哲学を語る』


 森羅万象は「縁(よ)りて起こる」のであり、相互に関係しあいながら存在している、そして人間の生命も、他の人間やすべての生命体、さらには宇宙の法則とつながっている。


ヘイゼル・ヘンダーソン対談(主婦の友社)】

2002-08-01

「地球革命への挑戦――持続可能な未来のための教育」


 私どもの信奉する法でも、「目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」(『ブッダのことば』中村元訳、岩波書店)と説かれています。

 この言葉は、生命の連関を説く「縁起」と呼ばれる世界観に基づいていますが、ここで重要なのは「幸せであれ」と結ばれていることです。

 つまり、その核は、環境が自己に及ぼす影響を踏まえつつも、あくまで自己を“変革の主体”と捉え、他の生命と識的に関わり合う中で環境をダイナミックに変革しようとする強靭な志力にあります。それは、他者への「慈愛」の一から発するものです。

 自己の生命と他者の生命が豊かに触発し合いながら、自他ともの「生命の歓喜」が呼び起こされていく。この他者へと開かれゆく“生命の拡大”――すなわち自己の生命を「大我」に立脚させていくことに、法の生命観の眼目があります。

 SGIの「人間革命」運動も、一人ひとりが、この内なる変革に挑戦しながら、「生命尊厳」のを社会に開花させていくことを目的としているのです。


【環境開発サミットへの提言 2002-08】

2000-09-29

「教育のための社会」目指して 21世紀と教育――私の所感


 人間が人間らしくあること、本当の意味での充足感、幸福感は、“結びつき”を通 してしか得られない――ここに、法の“縁起観”が説く人間観、幸福観の核心があります。


 人間と人間、人間と自然、宇宙等々、時には激しい打ち合いや矛盾、対立、葛藤を余儀なくされるかもしれないが、忍耐強くそれらを乗り越えて、本来あるべき“結びつき”のかたちにまで彫琢し、鍛え上げていくところに、個性や人格も自ずから光沢を増していくのであります。


 そうした“結びつき”を断たれたならば、人間の魂は、孤独地獄の闇の中をあてどもなくさまよっていく以外にない。精神医学の言葉でいえば「コミュニケーション不全」というのでしょうが、この問題は、総じて人間関係が希薄化しつつある現代という時代がはらむ病理ともいえます。


【2000-09-29】

1995-11-02

トリブバン大学講演「人間主義の最高峰を仰ぎて 現代に生きる釈尊」


 釈尊の人格を構成するもう一本の柱は「慈悲の大海」の姿であります。

 慈悲の第一のメッセージは、「人類の宇宙的使命は慈悲にある」という使命論であります。釈尊にとって、まさに「宇宙は慈悲の当体」であり、自らの振る舞いは、その慈悲の体現でありました。

 宇宙の森羅万象は、一切が「縁起」、すなわち、縁りて起こっている。お互いに支え合っているがゆえに、何ひとつ無駄なものがない。また味がないものはあり得ないというのであります。

 その相互依存の「糸」を活用して、宇宙は生命を育み、この地球上には、人類をも誕生させたわけであります。

 法では、現代天文学の知見とも一致して、この大宇宙の他の天体にも、知的生命が活躍していると論じております。まさしく、宇宙それ自体が創造的生命体であり、尊い慈悲の顕在化であると見ることができるのであります。

 釈尊は、生まれ故郷である貴国を目指していたとも推察される“最後の旅”の途上、訪れた町で豊かに生い茂る木々を見つめながら、繰り返し、「楽しい」「楽しい」、「美しい」「美しい」との慨を漏らしておりました。

 生涯、広大な大地を歩きに歩き、民衆救済の平和旅を貫いた釈尊の慈悲が、宇宙生命の永遠なる慈悲の律動と共鳴していた姿であると私は信ずるのであります。

 翻って、近代が直面している一番大きな課題は、「生きる味の喪失」であります。

 何のために生きるか。人間とは、一体、何か、人間は何のために生きるのか――。生きる「味」を見失った現代人は、「味への渇望」に身を焼きながら、社会からも、自然や宇宙からも孤立し、疎外のなかを、さまよい続けております。

 法の慈悲論は、この地球上に誕生した人類の使命は、宇宙の慈悲の営みに参画し、その創造のダイナミズムを高めつつ生き抜くことにあると明示しております。

 つまり、万物を育み、繁栄と幸福に導く慈悲の行動こそ、宇宙より人類に託された使命であり、この使命の自覚と達成にこそ、「生きる味」があると釈尊は呼びかけているのであります。

 このような慈悲論は、今日において、一人一人の人間を尊重しゆく「共生の文化」を養い、地球環境と共栄しゆく「自然観」を培っていくことでありましょう。

 そして、更には、「分断」から、「結合」へ、「対立」から「融和」へ、そして「戦争」から「平和」へと人類史を軌道修正させゆく、菩薩道の行動を促してやまないのであります。


【トリブバン大学での記講演 1995-11-02 ネパール・カトマンズ、インタナショナル・コンベンション・センター)】

1995-01-26

「平和と人間のための安全保障」


「自体顕照」というごとく、自らの本然の個を、内から最高に開花させていく。しかも、その個は、いたずらに他の個とぶつかったり、他の犠牲のうえに成り立つものではない。相互の差異を慈しみながら、花園のような調和を織り成していく。そこに、教の本領があるのであります。

 典には、「鏡に向つて礼拝(らいはい)を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(御書769頁)――鏡に向かって礼拝すれば、映る姿もまた、私自身を礼拝するのである――という美しい譬(たと)えがあります。

 教の精髄ともいうべき、万有を貫く「因果律」のうえから、他者の生命への尊敬が、そのまま鏡のごとく、自身の生命を荘厳していくという道理が示されているのであります。

 このように、人間や自然の万象は、縁りて生起する相互関係のなかで、互いの特質を尊重し、生かし合いながら存在していくべきことを促しているのが、教の縁起観なのであります。

 しかも、その関係は、まぎれもなく、万物と連なり合う宇宙生命への直観に基づくものであります。

 なればこそ法では、“森羅万象のかけがえのない調和を絶対に壊してはならない”として、一切の暴力を否定するのであります。


【ハワイ・東西センターでの記講演 1995-01-26】

1993-09-24

「21世紀文明と大乗仏教」ハーバード大学での記念講演


 教では「共生」を「縁起」と説きます。「縁起」が、縁りて起こると書くように、人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。


 すなわち、事象のありのままの姿は、個別というよりも関係や相互依存を根底としている。


 一切の生きとし生けるものは、互いに関係し依存し合いながら、生きた一つのコスモス(内的調和)、哲学的にいうならば、味連関の構造を成しているというのが、大乗教の自然観の骨格なのであります。


 かつて、ゲーテは『ファウスト』で「あらゆるものが一個の全体を織りなしている。一つ一つがたがいに生きてはたらいている」(大山定一訳、『ゲーテ全集 第2巻』所収、人文書院)と語りました。この教的ともいうべき知見を、若き友人エッカーマンは「予はするが実証がない」(『ゲーテとの対話』下巻、神保光太郎訳、角川文庫)と評しましたが、その後、百数十年の歳とともに、かのゲーテの、更には教の演繹的発の先見をうかがわせつつあるようです。


【「21世紀と大乗仏教」米ハーバード大学記講演/1993-09-24

1991-09-26

ハーバード大学講演「ソフト・パワーの時代と哲学」


 法では、人間界であれ、自然界であれ、森羅万象ことごとく、互いに“因”となり“縁”となって支え合い、関連し合っており、物事は単独で生ずるのではなく、そうした関係のなかで生じていく、と説きます。これが“縁りて起こる”ということであり、端的にいって“個別”よりも、むしろ“関係”を重視するのであります。

 また関係を重視するといっても、そのなかに個が埋没してしまえば、人間は社会の動きに流されていくばかりで、現実への積極的な関わりは希薄になってしまいます。

教史にその傾向が著しく見られることは、ベルクソンや貴大学で長く教鞭をとっていたホワイトヘッドなどの知が鋭く指摘するところであります。しかし真の教の真髄は更にその先に光を当てております。すなわち、真実の法にあっては、その関係の捉え方が際立ってダイナミックであり、総合的であり、内発的なのであります。


米ハーバード大学記念講演 1991-09-26】