Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2010-09-28

鎌倉幕府の成立は1192年ではなく1185年


 かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在では実質的な成立は1192年より前すなわち1185年であるとする説が支配的である。また、「日本で初の武家政権」とされたこともあったが、今では平氏政権に次ぐ武家政権と位置づけられている。


Wikipedia

2008-01-12

貞永式目/『日本人と「日本病」について』


岸田●もともと原理(プリンシプル)としての法というのは、日本にはなかったんじゃないですか。


山本●ないですね。というのは形式的に律令格式がありながら、何ら正統をもたない幕府の北条泰時(1183-1242)が、平気で「貞永式目」を発布している。こんなことはヨーロッパでは考えられない。執権とは法的にいえば執事であって、立法権などないはずです。ところがおもしろいことに、彼はこれを「目録」としようとした。というのは、これは法ではなくて単なる目録だと言いたかったわけです。ですからその立法の根拠は不明なのに、法みたいになるんです。まあこれも「天下を丸く治めて」でしょう。


【『日本人と「日本病」について』岸田秀、山本七平】

日本人と「日本病」について

2005-12-18

鎌倉幕府の滅亡


 1192年に誕生した鎌倉幕府は、1333年に滅亡した。公家を倒し、武家による体制は、141年間をもって一旦、幕を閉じる。


 鎌倉幕府滅亡の原因は、二度にわたる蒙古襲来(元寇)にあった。


◎文永の役/文永11年(1274年)105〜20日

 元軍→船900隻 兵3万2000

 日本軍→九州の武士を中とした1万人


◎弘安の役/弘安4年(1281年)615日〜閏71日

 元軍→船4400隻 兵14万人

 日本軍→博多に4万人、山口県に2万5000人、瀬戸内海地方から京都までで6万人程度【参照


 更に、三度目の襲来に備えたのはいうまでもない。


 この時、集められた武士の殆どは、準備のために借金をして馳せ参じた。武士は元々農民である。土地を奪われたり、不当な税を課せられることに対して立ち上がった人々を、源頼がまとめ上げたものだ。この時代、戦って勝てば報酬があるのが当たり前だった。ギブ・アンド・テイクであればこそ、武士は命懸けで戦った。


 ところが、蒙古との戦いは、戦果としての土地もなければ、奪い取った財産もない。このため、賞らしい賞は与えられなかった。更に、子孫が増えつつあったことによって、武士の財産は分散せざるを得なくなっていた。


 こうした中で幕府は、弘安7年(1284年)に幕府沽却(売却)の質地・所領の和与などに関する条規を制定。更に、永仁5年(1297年)には徳政令を打ち出した。借金をチャラにして、質草の土地を元に返すという強行手段。訴訟も受理しないという徹底したものだった。これじゃあ、武士に金を貸す人はいなくなっちまう。


 1333年522日、北条高時(31歳)以下の一門283人が東勝寺で自害し、火を放った。鎌倉では6000人が自害したという。この年の27日に日興上人が亡くなられている。


 文応元年(1260年)に大聖人は「立正安国論」をもって国主を諌暁した。「自他叛逼(じたほんぴつ)の二によって国が滅びるであろう!」と警鐘を鳴らした。それは、「此れ偏に国土のを報ぜんが為」(34頁)という私のない進言だった。国をえばこそ、「之を用いざれば定めて後悔有る可し」(35頁)と、為政者の責任を呼び覚まそうとされた。


 大聖人の諌言から73年後、鎌倉幕府は滅亡した。大聖人の諌言を用いていれば、鎌倉幕府は滅亡を避けることができたのだ。事実上、国が滅んだといっていいだろう。

2005-10-05

変革の世界史的意味


 わが国の古代国家の成立は、鮮半島における諸勢力の消長、中国大陸における王の強い影響のもとに行なわれたことは、第1巻や第3巻で明らかにされた。またのちの明治維新が、欧米の強い「外圧」のもとに行なわれたことも改めて指摘するまでもないであろう。外国の影響といっても、古代ローマ帝国の崩壊はゲルマン民族の侵入によるものであるし、中国や鮮半島の諸王の興廃も北方異民族の侵入との関係なしには考えられない。歴史上の変革は、その社会自体のなかに基本的な変化への動きをふくみながらも、直接には外部的な圧力により、あるいは外部的な圧力にたいする反撥(はんぱつ)の結果としてあらわれることが多い。もし外部からの刺激が加えられないばあい、古代社会の矛盾はそのまま蓄積して、新しい方向への変革の糸口が与えられないまま歴史的発展は完全に停滞し、その社会は化石化してしまう。古代のエジプトはその適例である。

 このような世界史的変遷(へんせん)を考えるとき、わが国が古代末期にほとんど完全に外国勢力からの影響から独立に、いわば純粋培養のような形で社会の根本的変革を行なったことは、世界史上にもその類をみない注目すべきことである。


【『日本の歴史 6 武士の登場』竹内理三(中公文庫)】

2005-10-04

変革の時代


 それは単に、政権が宮廷貴族の手から武士の手に移り、社会経済体制が根本的に変化したというだけでなく、国家社会の全体にわたる社会秩序の変化、さらに人間の識の変更をも味するものであった。すなわち、文化・の面でも、その内容のうえにおいても、あるいはその担い手のうえにおいても大きな変化がみられるのである。

 このような社会的変動は、「古代世界の崩壊」から「中世的世界の形成」へという言葉で的確に表現することができるであろう。


【『日本の歴史 6 武士の登場』竹内理三(中公文庫)】

2005-09-06

鎌倉時代の人口


 鎌倉時代人口については諸説がある。一般的には800万人とする説と、1000万人とする説がある。これは、食糧の生産量から推測しているようだ。以後、室町時代1500万人、江戸時代3500万人、明治4000〜4500万人、そして、昭和になると1億人と推移している。


 大聖人は御書の数ヶ所で「四十九億九万四千八百二十八人」と明記されている。「億」は現在の「10万」を表すので、499万4828人となる。


 執筆年次が判明しているものは以下となる――

  • 諌暁八幡抄 弘安3年12(587頁/588頁)
  • 曽谷殿御返事 弘安2年8(1064頁)
  • 曽谷二郎入道殿御返事 弘安4年閏7(1066頁)
  • 六郎恒長御消 文永元年9(1369頁)
  • 新池殿御消 弘安2年5(1437頁)
  • 上野殿母御前御返事 弘安3年10(1569頁)

 文永元年から弘安3年までは16年間。飢饉や疫病による死亡者が多く、人口は激しく流動していたことだろう。とすると、文永以前のある年代の統計があったのかもしれない。


 日蓮云く夫れ日本国は道は七国は六十八箇国郡は六百四郷は一万余長さは三千五百八十七里人数は四十五億八万九千六百五十九人或は云く四十九億九万四千八百二十八人なり、寺は一万一千三十七所社は三千一百三十二社なり(1066頁)


 具体的な記述からは、地政学的な視点すら窺える。一国を救わんとされる大慈悲は、あらゆる社会事象を見極め、国の行く末を厳しい瞳ではたと睨(にら)んでおられたに違いない。