Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2008-05-29

「魚は頭から腐る」


 今日付の「新・人間革命」にあった言葉。いつまで、先生にこんな言葉を書かせるつもりなのか?


 大切なのは、“あそこまで自分を犠牲にして尽くすのがリーダーなのか”と、皆が驚くような率先垂範の行動だ。


 そんな幹部は見たことないよ。私の地域だと、「あそこまで会員を犠牲にできるリーダー」は山ほどいるけどね(笑)。

2007-10-01

恩師「幹部が自らを指導し、幹部自らが自己を磨いてゆけ」


 師・戸田先生は、昭和33年211日、すなわちご自身が迎えた最後の誕生日の折に、お祝いに集った弟子達に向かって遺言のごとき厳しき口調で言われた。

「幹部が自らを指導し、幹部自らが自己を磨いてゆけば、会員は自然と育ってゆくのである」と。私はこの指導を決して忘れなかった。常に率先して実践してきたつもりである。

 いくら熱に説き、言葉巧みであっても、口先だけでは人は動かない。後輩は成長しない。これまで幹部となりながら、退転・反逆していった人々の姿は、この根幹の指導を忘れ、自らの「慢」に溺れ、「策」に走った結果であった。それは本当の法者の姿ではない。

 大切なのは、リーダー自身の懸命な実践の姿である。謙虚に自らの人間革命に励むところに後輩は安し、ついてくるのである。


【第10回SGI総会 1989-10-04 創価文化会館


 組織のどこに身を置くかで決まる。楽な位置から先輩風を吹かしているのか、それとも誰よりも厳しいところで戦っているのか。例えば、家庭指導を奨励する幹部は、まず現場に入ってない(笑)。まして、自分の決として述べた場合、今までやってないことを白状したも同然だ。


 わかりやすい例を示そう。副会長があなたの組織に家庭指導で入ることになった。予定は2時間。この場合、どういうコースを組むかというと、頑張っているメンバー、家に上がれるお宅を優先する。間違っても、ドアの空かない家には連れていかない(笑)。多忙を縫って来てくれるのだから、ムダがないように配慮をする。副会長は、家庭指導をしたという既成事実に満足する(笑)。


 このように現場の配慮が、幹部を甘やかす結果になっていることが珍しくない。どこの組織においても一番切実な問題は、「会えない部員に会う」ことであり、「出ない部員を出す」ことなのだ。上の幹部が、そこに気づいていない。


 こうした背景もあって、組織の厳しいところは、地区部長やB長任せになっているきらいがある。


 更に、担当幹部が半年から一年ほど入っているにも関わらず、活動家が増えないとなれば、必然的にB幹部・地区幹部がお手上げ状態となる。


 先生の指導は素晴らしい。皆、そうっている。だが、指導を体現する人がいない。


 幹部カードの本尊流布数は、既にいい加減なものとなっているので、人材育成数を記すことを提案したい。

2007-09-20

最前線で懸命に戦う友を讃えよ


 信の立派な人とは、役職の高い人ではない。役職がなくても、どういう立場であっても、信を深めてゆく人こそ尊いし、立派なのである。

 地道に絶え間なく道修行に励み、広宣流布のために戦っている人が偉大な人である。

 家庭訪問する、個人指導に歩く、弘教に励む、同志の面倒をみる――こうした基本の活動が、信の基礎体力をつけてゆく。したがって、いくら役職を持ち、巧妙に組織の中で戦っているような姿を見せても、基本となる道修行を怠り、広布の組織活動をないがしろにする人は、結局、行き詰まり、信の軌道から離れてゆく。それは、信を退転し、学会に造反した幹部の姿を通して、皆さま方もよくご承知のこととう。

 ともあれ、たとえ役職がなくても、組織の第一線で日々懸命に活動している人を最高に尊敬し、大事にしてゆくことが、信の指導者のであることを忘れてはならない。


【第21回本部幹部会 1989-09-15 東北文化会館


 信の立派な人とは、役職の高い人である――これが現実だわな(笑)。


 初対面だと、どうしても役職で判断してしまう。私もそうだ。「失礼ですが、役職は?」「あ、私、副会長です」「ハハァアーーーッ」とひれ伏すのが普通(笑)。


 通常、信行学は“修行のスタイル”と受け止められているが、実はそうではない。信行学とは“力”のことである。つまり、信力・行力・学力。力とは負荷に対抗するものであるから、筋肉が必要となる。だから、祈らない人は祈れなくなる。動かない人は動けなくなる。そして、学ばない人は学べなくなるのだ。これを身口意の三業という。瞬間最大風速みたいな成果など、全く当てにならないことが理解できよう。地道な人間革命の中にしか、法勝利の実証はない。


 真面目に戦っている婦人部幹部が一様に嘆くのは、「壮年が動かない」ことである。そんなことで悩んではいけない。壮年が動かないのは久遠元初以来のことだ(笑)。「動くのが当前」とっているから頭に来る。「動かないのが普通」とえば、世界は明るくなる(笑)。


 家庭指導が楽しくなってくれば、幹部として一人前である。あとは、何でも出来るようになる。後輩と一緒に回ると、どの程度戦っているかが瞬時にわかる。「わかる」というよりも、「見えて」しまうのだ。


「あの人は会合に出ないから厳しい」などと、相手を向こうに見ている内は対岸の火事だ。“相手側からの関わり方”を問題にするのは随他である。人間関係は、“自分の関わり方”で全て決まる。これが随自意の哲学であり、依正不二・三変土田・一三千もここから始まる。


 折伏もしなければ、家庭指導もしない。そんな人間ばかりが集まる会合に、果たしてどのような味があるのか?(笑)


 聖教新聞は、会長・理事長が家庭訪問する様子を報じるべきだ。

2006-12-29

総県長会議での秋谷会長の指導


 幹部の「励まし」として大切なことは、あくまでも「信の指導」「信の激励」でなければならない。励ます相手の信を奮い立たせることもなく、ただ口先だけで「頑張れ、頑張れ」というのが「励まし」ではない。

 ゆえに、何よりも「家庭指導」「個人指導」に徹していくことが重要である。膝詰めの対話をし、一人ひとりの具体的な悩みをよく聞き、共にその悩みと真っ正面から向き合い、取り組んでいく――そういう幹部の姿勢でなければ、揺るがざる信の楔は、打ち込むことができない。


 また、個人指導では、相手が真剣に信で立ち上がり、功徳を受けていけるかどうか、現証が出るのかどうかは、指導する側の確信で決まる。

 幹部は、激励した相手に「必ず功徳を受けさせてみせる」との強い一で、悩みが解決して喜びの結果が出るまで面倒をみていこうとの真剣さがなければならない。

 個人指導によって悩みが解決していけば、それはその人自身の喜びであるだけでなく、ブロックや地区、支部にも明るい波動が広がり、広布前進の原動力になっていくのである。

 組織における会員の絆といっても、この真剣な個人指導の積み重ねがあって初めて築かれたものである。

 この信頼の絆こそが、今日の学会の強固な団結の基盤となっていることを幹部は忘れてはならない。


 会合での指導も大切であるが、そうした「話」だけでは、生命に刻み込まれ、残るものが少ない場合がある。それに比べ、個人指導を受け、境を克服した体験は、絶対忘れない。その人の生涯の宝となって残っていく。

 ゆえに、いわゆる“会合型”の幹部になってはならない。「他人の体験」を伝える話も大事だが、それだけでは生命を動かす力にはならない。自分が人を励まし、個人指導をして結果が出た体験を語る幹部の話には、説得力があり、動が伝わる。

 本部幹部会での中尾関西婦人部長の話でも、池田先生が、大阪で唯一の「村」であり、奈良との県境にある千早赤阪村まで歩みを運ばれ、一人ひとりへの激励に全力を注がれた話が紹介された。

 この歴史を「宝」として、個人指導、家庭指導に徹していこうという実践は、今の創価学会にとっても、活動の基本として最も大事なことである。

 全幹部が実践していかなければならない課題である。

 そうなれば「会合が多過ぎる」という問題もおのずからなくなるし、幹部がいわゆる「運営型」に陥ることもなくなる。


 幹部が地区に入る時は、決して「上から下を見下ろす」ような、威圧的、命令的に入ってはいけない。上から臨むという態度で入るような本部幹部以上の幹部は嫌われる。本部幹部以上の幹部は皆、「地区を助け、支える存在」なのである。

「皆が困っている問を引き受けてくれた」「未活動だった人が、あの幹部のおかげで立ち上がった」「活動に参加するようになった」「聖教新聞を購読するようになった」と地区部長や地区婦人部長から喜ばれ、謝される幹部でなければならない。

 また幹部は、あくまでも、「皆の力を引き出す」存在である。

 数で煽ったり、押しつけられたとじたら、会員の本当の力は出ない。

 逆に「一人」への信の激励、信指導がなされて、一人ひとりに功徳の喜びがあれば、どんなに厳しい状況も、かえって挑戦の気概が湧くものである。


 どこまでも、一人の会員を大事にした時、創価学会は栄えていく――これは、常に池田先生がご自身の行動を通して教えてくださっていることである。

 私たち自身が個人指導、家庭指導に徹しながら、明年への活動の中で、この先生のご指導通りの実践に取り組み、幹部のあり方の模範を示していきたい。

 この一年、本当にご労さまでした。明年1、「新しい生命」「みずみずしい生命」でお会いし、創価完勝への大前進を開始してまいりたい。


【要旨/創価文化会館 聖教新聞 2003-12-14付】


健康勝利の掲示板」で薬王さんが紹介した指導。既に入力していたことをい出し、アップした次第である。そして、長年にわたって全会員の先頭に立って指揮を執ってこられた秋谷前会長への謝を込めて。


【※入力ミスがあり、薬王さんに校正して頂いた/2006-12-30 08:50】

2006-12-26

傲慢な幹部には女性が鉄槌を下せ


 私は、牧口先生戸田先生の言論、指導を、できる限り記し残してきた。

 尊き広布の同志が何が起ころうとも微動だにしない。その基盤を今、万代の未来のためにつくっておかねばならない。

 法は厳しい。ゆえに本当のことを言っておきたいのである。

 真実を語る空気がなければ、組織はダメになってしまう。

 リーダーには、「何でも言える雰囲気」「何でも語り合える環境」をつくる責任がある。

 戸田先生は語られた。

「時代遅れの幹部になるな。幹部自ら勉強し、成長し、『人間革命』していくことだ。そして同時に、新しい時代を創っていく、若い幹部を登用し、バトンタッチしていかねばならない」

 リーダーは、硬直した古い考えになってはダメだ。自分自身が変わり続けることだ。

 常に、新鮮味のある生命で、笑顔で、真で、会員の皆さんに接していただきたい。

 また、先生は次のようにおっしゃっていた。

「ずる賢く、威張り散らすのは悪い幹部だ。人と接する誠の真がわからない」

「幹部の地位を利用して、女を叱るのは、野蛮人のすることである。野蛮人は人間ではない。そういう人間は、断じて学会の世界に入れてはならない」

「威張る幹部、礼儀を知らない幹部、誠のわからない幹部、慈愛のない幹部、生気な幹部、すぐに人を軽蔑し叱る幹部。

 そんな幹部には、女が中となり、厳重な措置を求めていただきたい」


【関西・九州・中国・四国合同研修会 2006-08-07 長野研修道場


 立場の弱い人間が、強くなることが革命に通ずる。上からのトップダウンで変わるのは改革であって、革命ではない。


 革命には破壊が伴う。そのため歴史上の革命は、体制の転覆を図り、大勢の犠牲者を生んだ。目的を果たすためなら手段を選ばなかった。そして、暴力を容認した瞬間から、理は現実の前に敗れたのだ。


 革命を支えているのは“怒り”だ。それも、正義の焔(ほのお)が柱となって噴き上げるほどの怒りである。


 今日、愛については誰も語っている。誰が怒(いかり)について真剣に語ろうとするのであるか。怒の味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無格であるということのしるしである。

 切に義人をう。義人とは何か、──怒ることを知れるものである。


【『人生論ノート三木清(新潮文庫)】


 我々が目指す革命は無血革命である。体制の転覆でもなければ、制度や階級の破壊でもない。生命尊厳を説いた法は、暴力の立ち入る隙(すき)を許さない。人間革命とは、生命の悪を破壊し、宿命の鉄鎖を断ち切る革命だ。エゴを叩き破り、ぬるま湯につかったような生活を打ち破る大闘争だ。


 若い頃、よく先輩から叱咤された。「貴様、そんなところで負けていて、自分の宿命に勝てるとっているのか!」と。学会で受ける訓練は、一切が宿命転換に備えるものだった。それゆえ厳しかった。


 本当のことを書いておこう。現場から私に寄せられる、Webを通じて私のもとに寄せられるメールの殆どは、の弱い学会員からのものである。革命はおろか、見すら言えないような人々だ。時折、小賢しい内容のメールも来るが、訓練を受けているか受けてないかは、瞬時にわかる。どの程度の重さの荷物を抱えているかも、直ぐわかる。自分を誤化そうとする人ほど、言葉を飾るものだ。


 学会員は甘い。一人じゃ何もできないのが多過ぎる。信弱き学会員の多くは、何だかんだと言いながらも、組織に依存しているのだ。を文句で一杯にしながら、会合だけは皆勤賞という学会員の何と多いことか。傍(はた)から見ていると、「文句をいうために活動している」ようなものだ。これぞ、「法華文句」だよ(笑)。


 味のない活動はやめることだ。ストレスをじているのであれば、少し休めばいい。“活動病”に冒されている人々は、「それじゃ功徳が出なくなる」とうことだろう。だけど、いいんだよ。どうせ文句だらけの信には、最初っから功徳などないんだから(笑)。


 多くの同志が恐れているのは、「組織内での村八分」だろう。見を言えば言うほど、周囲から疎(うと)んじられ、破和合僧のレッテルを貼られ、人事対象から外され、連絡も滞りがちになる。ま、よく見られる光景ですな。


 だから、何なんだ? それが、どうした? そんなことを恐れて引っ込める程度の見であれば、端(はな)っから言わなければいいのだ。所詮、自分の都合で不平不満を並べているから、臆病になるのだ。


 その点、私は強い。私は、それなりに訓練を受けてきている。そして、私が発する見は、会員のを代弁するものだ。個人的な情で、幹部を責めることは決してない。だから、相手が副会長であろうが、会長であろうが、負けることはないよ。そのためとあらば、多少、荒っぽいこともしてみせる。地区のオジサン、オバサンが信しやすくなるためなら、何でもするよ。当たり前だ、そんなことは。


 それが出来ない者は、文句を言わずに引っ込んでろ!

2006-11-11

プライバシー


 個人プライバシーの守秘、すなわち個人の私事の秘密を守ることについて確認しておきたい。

 私どもは、多くの同志に囲まれて、互いにいやり、守り、支え合いながら、広布の活動に励んでいる。これほどありがたいことはないし、これほど美しく麗(うるわ)しい「の世界」は他にない。

 そこで、特に幹部の皆さまは、信の先輩として、後輩や友人から様々な相談を受ける場合が多々ある。その際、相手のプライバシーは絶対に尊重しなければならない。

 立場上、知り得た秘密を守ることは、いかなる組織、団体においても当然のことである。医師や弁護士などは、プライバシーを含めて、務を通して知った人の秘密を第三者に漏らした場合には、処されることが刑法第134条に規定されている。

 また、公務員についても、「守秘義務」が国家公務員法第100条、地方公務員法第34条に定められており、則の規程も国家公務員法第109条、地方公務員法第60条に明示されている。


 こうした職上の立場と学会の役職とは、もちろん次元が異なる。私どもにとって「プライバシーの尊重」は、何よりも人間としての信頼の問題である。

 信仰は、その人の人生の幸・不幸に深く関わる問題である。ゆえに学会の幹部には大きな責任がある。また、強いの絆で結ばれた信仰の世界であるがゆえに、相手は幹部を信頼し、学会を頼って相談してくれるのである。その“”を絶対に裏切ってはならない。その味で、個人プライバシーを守れない人は、法者として「失格」である。

 私も、多くの方々からお手紙をいただき、実に様々な報告も受けている。しかし、他人に言うべきでないことは、一度たりとも口にしたことはない。


 ところで、人生の様々な悩みについて相談を受けた時、自分一人では、指導し、解決できない場合には、先輩に相談することもある。

 更に、その人が抱えた問題を克服するために、皆で祈り、応援してあげたいという場合も出てくる。

ただし、そのような場合でも、プライバシーに関することは、本人の了解を得て、その人が本当に喜び、安できるよう細やかに配慮してゆくことが大切である。

 相談にきた本人が知らない内に、周囲の多くの人が知っていたというようなことがあってはならない。

 組織の中には、問題を抱えながら、誰にも相談できずにいる人もいよう。せっかく勇気を出して相談にきた人が、たとえ善からであったとしても、幹部の不用な言動によって不愉快ないをしたり、しむようなことがあれば、大きな誤りである。それでは、ますます相談しづらくなってしまう。

 触れられたくないプライバシーの問題を、無理に聞く必要もない。それを話すかどうかは本人のであり、幹部が強いて聞く権利もなければ、幹部に無理に話す義務も全くないからである。

 どうか皆さま方は、このような問題の一つ一つに賢明に対処し、一人ひとりの「人格」を最大に尊重しながら、他人に言っていいことと、言ってはならないことを峻別できる聡明な、責任あるリーダーであっていただきたい。


「秘密を守る」ということで、一つの極限状況を描いた映画がある。その映画はフランスの劇作家ポール・アンセルメの戯曲「われら二人の道義」を映画化したものである(ヒッチコック監督のアメリカ映画『私は告白する』)。

 この映画の舞台はカナダのケベック。主人公はカトリックの神父であり、信者の告白を他言してはならないという義務を負っている。

 ある時、彼は、自分が面倒をみていた男から、殺人の罪を犯したと告げられる。罪を償うように諭(さと)したものの、他言はできない。

 その内に、警察はあろうことか、この神父を殺人犯だと誤解して追及を始める。しかし、彼は頑として秘密を口外しない。ますます証は悪くなり、遂に逮捕され、裁判にかけられる。それでも彼は黙秘する。

 幸いなことに、決め手がなく、彼は無罪となる。

 しかし、宗教者としては、犯罪者の疑いを広められただけで致命的な痛手となった。釈放された彼を、裁判所の前で群衆が取り囲み、口汚い罵を浴びせ、嘲笑し続ける。

 人波の中をくぐってゆく彼の姿は、まさに殉教者のようであった。

 真相を知る犯人の妻は、とても見ていられず、わず真実を叫ぼうとする。

 それを止めようとした犯人が、妻を銃で撃ち、そこから全てが明らかになってゆく。

 卑劣漢の汚を着せられたこの神父が、実は最も自分の誓いに忠実な人間であった。やがて、この事実が証明され、映画は終わる――。


 これは少々極端な例かもしれない。また、国法上も、宗教的観点からも、多くの異論があろう。また、悪を助長させ、人間としての道を踏み外させてしまうことは、絶対にあってはならない。

 ただ、それはそれとして、プライバシーという次元ではあるが、自分がひとたび誓った「約束」「誓い」というものは、最後まで貫くべきものである。

 時には守秘によって自分が不利益を受けることもある。秘密を口外されないのをいいことに、秘密を守ってくれている人を裏切り、逆にその人を攻撃し、陥(おとしい)れようとする場合もある。

 私もこの40年間、こうした裏切りや堕落の姿を幾度となく見てきた。しかし、守るべき個人の尊厳や秘密は、厳として守り通してきたつもりである。それが、法者としての生き方であり、信だからである。


 日蓮聖人は「約束」ということについて、次のように仰せである。

「いふにかひなきものなれども約束と申す事はたがへぬ事にて候」(1512頁)――取るに足らない者であっても、約束というものは破らないのが習いである――と。

 約束は約束として守り通し、信義を貫いてゆく。ここに人間として、法者としての大切な姿勢がある。


 ロシアの作家プーシキンは『ベールキン物語』という小説の中でこう述べている。

「よしどんな種類の秘密にもせよ、総じて秘密といふものは、女ごころにとつては辛い重荷になるものである」(改造社版『プウシキン全集』第3巻、神西清訳)と。

 簡単に言えば、女にとって黙っているというのは大変な痛である(笑い)ということになろうか。

 また、「一人の女に話したことは、世界中に話したのと同じことである」(爆笑)と言った皮肉屋もいる。

 要するに、“女はおしゃべりだ”という味であるが(笑い)、実は男についても同じことが言える。

 結局、人の不幸を喜ぶようなゴシップを好んで話したり、広めたりする人は、薄っぺらな人格という他ない。何でもすぐにしゃべりたがるという軽率さは、戒めてゆくべきである。

 その点、明確な目的に生きる一流の人々は、こうしたゴシップを聞こうともせず、自分で話そうともしないものだ。政治家でいえば、イギリスのサッチャー首相は、そうしたリーダーの一人である。

 要するに、言うべきことは敢然と言い、一方、言ってはならないことは厳然と守るという「勇気」と「良識」――これが大切なのである。


【第8回全国婦人部幹部会 1989-09-06 創価文化会館


「大変な悩みを聞かされると、こっちの命がグーーーッと重くなる。相手の悩みを引き受けるというのは大変なことだ。祈れば祈るほど重たくなる。それに耐え切れなくて、関係ない人に話す。話せば自分は楽になれる。しかし、問題は絶対に解決しない」――私の父が、ある人にこう話していた。


 地域や組織によっては本当に酷いところがある。東北のある村では、指導を受けると、翌日には皆に知れ渡っているそうだ。


幹部に相談した内容が漏れたことがありますか?」の結果をよくご覧いただきたい。結婚が破談となったケースもあるようだ。


 口の軽い幹部どもによって、幹部不信が広がっている。


 また、私のように強烈なキャラクターの持ち主で、幹部の立場を脅(おびやか)かし、蔑(ないがし)ろにするタイプの場合だと、迅速な連係で対応策を講じつつ、「彼はしい、厳しい、怖い」というレッテルが貼られる。だから、私にちょっとしたエラーや失敗があると、それら全てが誇張され、増幅されて、幹部間を駆け巡る。ま、何があっても負けないけどね(笑)。


 学会も、いじめを傍観するような連中が増えれば、おしまいだ。学会員は誰よりもデマしめられてきた。デマは、それを流す連中と、鵜呑みにする人々によって支えられている。その学会の中で噂話が流れるとすれば、学会の組織とは到底いえない。

2006-11-08

指導を咀嚼せよ


 ここで、まず申し上げておきたいことは、これまで私は数々のスピーチをしてきた。また、多くの学会の指導がある。

 各地の広布の指導者である幹部は、まず、自らが率先して指導を読み、咀嚼(そしゃく)し、自分のものとしていただきたい。

そうでないと、どんなに多くの指導がなされても、結局は空転となってしまう。

 指導を聞いては、ただそれを伝える。自分自身で考え、咀嚼しようとはしない。それで事足りると考えているのは、大きな間違いである。

 そうした形式的な、“官僚的”ともいえる存在に、幹部は絶対になってはならない。そこには、みずみずしい信の流れも、温かな魂の脈動も伝わらないからである。


【「8.24」記 第1回東京総会 1989-08-24 創価文化会館


「咀嚼」とは、口の中で噛み砕き、味わうこと。昔は今のように、幼児用の食品がなかったから、噛む力が弱い内は、大人が噛み砕いて与えたものだ。


 子供達の好きな食べ物の上位に、ハンバーグやカレーライスが登場した頃から、「噛む力が弱くなった」と指摘されるようになった。私の世代ぐらいからだ(1963年/昭和38年生まれ)。所謂、「新人類」とネーミングされた世代であり、校内暴力が社会に表面化した世代でもある。東京オリンピックの前年ということからもわかるように、日本が経済的に豊かになりつつある時代だった。


 そして、私の世代が親になった頃、極端に顎(あご)の細い顔が登場し出した。「噛む力」は確実に退化しつつあった。


 人間の消化機能は咀嚼から始まる。唾液に混ざっているアミラーゼによって炭水化物は、より小さな糖に分解される。だから、歯が悪い人は、知らない内に胃腸に負担をかけている。


 更に、よく噛むことで得られる効果としては――リラックスする、免疫力を高める、虫歯を予防する、ボケを防止する、視力が向上する、ダイエットに役立つ、姿勢がよくなる、美容効果などなど。(※「健康生活のアイデア」を参照した)


 一番最初となる衛星中継で先生は、「池田門下生を乗るのであれば、我が指導を如是我聞せよ!」と仰せになったのだと私はじた。この時、26歳。それ以降、31歳になるまで、新聞に掲載された指導は、必ず3回読むよう掛けた。、通勤途中で。そして、会社の昼休みに赤線を引く。更に、一日の闘争を終えて、要所要所を四角で囲った。我が青春は、文字通り師の指導と共にあった。その中で毎年、100冊以上の本も読んできた。


 砂漠の民がオアシスの水を貪るように、私は指導を読み抜いた。そこには、類い稀なる指導者論と将軍学があった。人生と生命の勝利の方程式があった。ものの本質を見抜く智と史観があった。人と人とのを結ぶ慈愛があった。そして何よりも、大聖人が脈打っていた。


 同じ内容であっても、全く新しくじることが幾度となくある。それは、先生の境が進まれているからに他ならない。80歳になろうとしながらも、今尚、一人の戸田門下生として、前へ前へと進み続けておられる先生の姿を見失ってはならないとう。とは、完成品ではなく、無上道そのものなのだ。


 現在、スピーチの量は降りしきる雨の如く、膨大な量となっている。その様は、既に我々に対してではなく、滅後の弟子に残されているようにすらじられる。だが、そんな惰弱なことを言っているようでは、後世の門下生に笑われてしまうことだろう。まして、消化不良を起こしているような幹部は問題外だ。


 我々が、現代の舎利弗となり阿難となり、四条金吾となり南条時光となることを望むのであれば、広布史に残る金字を打ち立てるしかない。