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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2007-12-19

少女パレアナは何にでも喜びを見出した 


 パレアナは、どんな人に会っても、何かしら「嬉しいこと」「喜べること」を見つけた。誰だって、自分に会ってから喜んでいる相手に対し、悪い気持ちを持ち続けることはしい。だから皆、いつしかパレアナの味方になった。

 は不議である。は微妙である。こちらが悪い情を抱いていると、たいていは相手にもそれが伝わっている。こちらが笑顔のいで接すれば、相手にも微笑みのが宿る。こちらが粘り強く手を差し伸ばせば、相手もいつしか手を差し伸ばす――相手はいわば、自分にとって「鏡」のような存在なのである。

 パレアナは、自分がまずから「喜ぶ」ことで、「鏡」である相手からも、少しずつ「喜び」を引き出していった。

 また、どんな人に会っても“素晴らしい人だ”とまず決めて、その“信頼”を率直に表現した。だから、多くの人が何とかその信頼に応えようと動いた。

“あの少女のようになりたい”――見えない「の力用」が人々のを揺さぶり、大きく開花させていったのである。

 ――パレアナの物語は、アメリカ中に広まった。そして、ある辞書には「パレアナ」のが「喜び」を味する言葉(普通詞)といして載せられるまでに定着した。


 パレアナのように、「何にでも喜びを見出す」ことは、呑気(のんき)な気休めではない。「義務」や「愚痴」で日々を灰色におおうよりも、よほど創造的な「強さ」が要求される。

 また、「何にでも喜びを見出す」――これは、一歩間違えれば、単なる現状肯定の、お人よしになりかねない。

 それはそれとして、同じ一生であるならば、喜んで生きた方が得である。同じ行動をするのなら、楽しんで行動した方が価値的である。

 まして、法では「一の妙用」と説く。また、「一念随喜」(随喜とは、随順して歓喜すること)」と説き、「随喜功徳」(随喜の一念に広大な功徳が備わる)と教える。

 にあふれる喜びの光――そこに信仰の証明があり、境涯のバロメーターもある。

 ともあれ、「生き生きと生きよ」――自身のため、愛する家族のため、友のために、私はそう申し上げたい。その人には、悩みをも希望へと変えゆく勇気が湧く。のみならず、多くの人々のに希望の灯(ひ)をともしてゆくことができる。その味でどうか、厳しい現実の生活も、豊かなで楽しみながら、強くまた強く、価値ある人生を創っていっていただきたい。


【第9回全国婦人部幹部会 1989-11-29 創価文化会館


 青年部のメンバーは、以下の御書を全部、大きな拝読した上で、『少女パレアナ』(エレナ・ポーター)を読んで頂きたい。ま、人間革命が30%ほど進むことだろう。

少女パレアナ (角川文庫クラシックス) パレアナの青春 (角川文庫)

2004-01-17

歓喜こそまことの信心


 まことの信は、他人から押しつけられたり、形式や体制でするものではない。おのおのの自覚から湧き出た生命の歓喜によるものなのだ。それは、いかなる弾圧や迫害を加えられようと、決して破られるものではない。人間として、最も尊く、美しい生き方が、そこにある。


【小説『人間革命』第6巻 1976年発行】


 所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり(787頁)


 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉れば我則歓喜とて釈尊歓喜し給うなり、歓喜とは善悪共に歓喜なり十界同時なり深く之をう可し云云(735頁)


 一の奥底(おうてい)にあるのは、歓喜か義務か。そこで人生は分かれる。歓喜は波動となって組織を潤し、義務は暗い雰囲気となって伝播(でんぱ)する。