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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2009-05-17

一時間置きに現れる悟り


 本来であれば私事はあまり書きたくないのだが、記録として残しておきたいゆえ、何卒ご容赦願いたい。


 父の件で好き勝手なことを書いているが、実はこれ悟りである。そこ、笑わないよーに! いや本当の話だ。大体、一時間に一つの悟りが現れる。明らかに脳内でシナプスのつながり方が変わっている。「あ、こうなんだな」ってな具合だ。ひょっとすると三千遍かも知れない。私のスピードだと45分を切る時間である。


 父が倒れたのが11日の午後のこと。で、「今日、明日がヤマです」と医師から言われた。私は15日から謝の唱題を捧げている。父は既に寿命を延ばしているとっているからだ。で、今日もまだ生きている。つくづくありがたいことである。本当に「有りい(有ることがしい)」とはこのことだ。


 命は三千にもすぎて候・而も齢(よわい)もいまだ・たけさせ給はず、而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべし、あらをしの命やをしの命や、御姓並びに御年を我とかかせ給いて・わざと・つかわせ大日月天に申しあぐべし(「可延定書」986頁)


 初めは「親父が生きていて、ありがたいなー」とっていたのだが、「そういや、俺が生きているのもありがたいなー」となり、「先生もお元気で嬉しいなー」と、妙に生温かい情が湧いてきた。父の病が、“当たり前であることの幸福”を教えてくれているのだ。謝は尽きない。

2008-10-25

究極の勤行・唱題法


 こんな言葉を鵜呑みにする奴は馬鹿だ。そんな馬鹿は、俺についてこい!(人につくのは依法不依人の原則に反します。文章上のレトリックだからね)


 うところがあって勤行の仕方を変えた。やり方はこうだ――

  • ――今まで通り、元気いっぱい、超スピーディーに行う。
  • 夜――低いで、ゆっくり行う。

 大切なのは呼吸法だ。必ず鼻からを吸うこと。ここ、アンダーライン。そして、肺の空気が空っぽになるまでを吐き出すことを掛ける。ここ、二重線。


 なぜ、このような変化をつけたか。それは、自分のリズムを固定化しないためだ。人は、それぞれリズムを持っている。ま、バイブレーションと言ってもいいし、波動と言ってもらっても構わない(ただし、江本勝の『水からの伝言』はインチキだからね)。


 リズムの本質は「逆らいい」ところにある。だから、自分の好きな歌がどこからか聞こえてくると、わずをそばだててしまうのだ。自分のリズムがある以上、他人にもリズムが存在する。「馬が合う」の語源は、馬と乗り手の呼吸が合うことを味する。つまり、リズムだ。


 私の長年にわたる研究によれば、リズムの基本は呼吸、歩行、脈拍によって決まる。だから、老いるにしたがって、スピードが遅くなるのは致し方ない。間もなく超高齢社会となる以上は、速い者が遅いお年寄りにスピードを合わせる必要があるとう。


 で、「馬が合う」という言葉ある以上は、「馬が合わない」人も存在する。私の場合、特に多い。これは、リズムの違いによる違和である。


 要はこういうことだ。自分のペースで勤行・唱題をしていると、「ったく、このオヤジはとろいんだよ」とか、「この若造の勤行は早口言葉か?」などと、自分のペースを基準にして好き嫌いが形成されてしまうのだ。だからこそ、自分以外のリズムに合わせることができる余裕が必要となる。


 歌だって、そうだろう。アップテンポがあって、バラードがあるからメリハリが効くのだ。ま、騙されたとってやってごらんよ。たとえ、騙されたとしても得になるから(笑)。特に、勤行をサボっている君! そう、これは君に向けて書いた文章だ。

2008-08-19

「祈」


 形。音符は斤(きん)、斤に圻(き/かぎり)・沂(き/ほとり)の音がある。古い字形には、單(単。上部に二本の羽飾りがついている楕円形の盾〈たて〉の形)や神に対する誓いのことばを味する言をそえた字形。また旗の形をそえた字形がある。そのことから考えると、祈は軍の遠征や狩猟の成功を祈り願う字のようである。のちすべてのことについて「いのる、もとめる」の味に使われるようになった。


【『常用字解』白川静】

2007-11-19

一念を定めた祈りが宇宙を回転させる


 本日、まず私が申し上げたいことは、「祈りは具体的でなければならない」ということである。

 例えば、今日一日、無事故で自己の使命を果たせるように。また、出張や旅行等の出発の折も、無事に目的を達するように。

 その他、きちっと一を定めて具体的に祈してゆく。それでこそ祈りは御本尊感応し、「事の一三千」の法理に則って、宇宙のあらゆる次元の働きが、祈りの実現へと回転を始める。

 妙法を信じ、行ずる者の祈りは絶対にかなう。それも祈る側の「強き一」があってのことである。強き一は、目指す的が明確であり、具体的であってこそ生まれる。

 漠然とした定まらない祈り。義務的、形式的な勤行・唱題。それらは信の「惰」の表れである。惰の信は、惰と空虚の回転を生む。

 勤行しないと何となく叱られているみたいだから(笑い)とか、お父さんやお母さんがうるさいし、奥さんの急(せ)き立てるから逃れんがため(大笑い)、しぶしぶ壇に向かう(爆笑)。

 はじめは嫌々(笑い)、途中は“早く終わらないか”(大笑い)。予定通り早く終えて(爆笑)、“ああ、終わってよかった”(爆笑)。

 京都にはこんな人はいないとうが(笑い)、これでは諸天善神も活躍しようがない(爆笑)。


 はっきりしない一では相手に通じない。これは人間同士でも同じ道理である。

 例えば恋人同士でも、男が結婚したいのか、したくないのか、はっきりしない。何となく、そこにいるだけ(笑い)。指輪もくれなければ、プロポーズもない。具体的なものは何もない(笑い)。これでは女の方だって、イライラするのも無理はない(爆笑)。返事のしようもない。


 ともあれ、“法は道理”である。観的な、また真剣さのない祈では、明確な結果は出ない。

 広布のこと、一家と自身のことに関して、絶えず明確で具体のある祈りを重ねてゆく。そこに妙法流布の進展もあるし、宿命の打開もなされてゆくと私は考える。

 例えば「交通事故」にも、事故を起こしやすい傾向を持つ人がいる。無事故を日々真剣に祈っていくことによって、そうした悪い傾向をも修正してゆくことができる。また、諸天に守られてゆく。その他の宿命の転換の方程式も同様である。


【京都平和講堂落成祝賀 京都記幹部会 1989-10-18 京都平和講堂】


 当時、男子部地区リーダーとしてブロック座談会で叫んだ指導。


 祈る内容は何でもいい。自由である。ただ、10年以上も信していながら、自分にとって都合のいい幸福像を描いている人を見ると、吐き気を覚える。「あれが、こうなりますように。これが、ああなりますように」「これだけ祈ったら、このぐらいの功徳があるかな」――こんなものはエゴ以外の何ものでもない。


 そう考えると、信仰とは確かにエゴを肥大させる側面がある。「財務は倍返し」とかね(笑)。「そんな下らない信はやめろ」と言っておきたい。


「祈り」は「おねだり」ではない。「2時間、唱題したんだから、その分は功徳があるはずだ」――かような人を「信のパートタイマー」という。お前の功徳は時給か!


 境涯は祈りとなって表れる。祈っている時の自分が本当の自分だ。だから信は、自分と御本尊にしかわからない世界なのだ。


「貪るは餓鬼」である。どれほど真剣に祈ろうとも、餓鬼界という境涯を脱することはできない。むしろ、強化される結果となるだろう。


 差し迫った生活の課題があるなら、それでも致し方ない。だが、いつまで経っても同じ境涯であれば、「人間革命できない自分自身」をしっかり見つめるのが先だ。


 御いのりの叶い候はざらんは弓のつよくしてつるよはく太刀つるぎにてつかう人の臆病なるやうにて候べし、あへて法華経の御とがにては候べからず(1138頁)


 弱い祈りに御本尊感応しない。御本尊を揺り動かすほどの強靭な祈りが、三千羅列の法界を回転させる。


 譬えば頭をふればかみゆるぐはたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉ればゆるがぬ草木やあるべきさわがぬ水やあるべき(1187頁)

2006-12-16

38年越しで、母が父を折伏


明日 投稿者:水無はつか 投稿日:2006-12-16 21:51:07 No.15088


 私の父が創価学会に入会いたします。私の父は来年1の誕生日で70歳となります。私の母が昭和43年、御本尊を授持してから夫(私の父)の入会を祈り続けて38年。母の祈りが遂にかないます。母の初めての折伏が実ります。一番身近で「信」を見続けてきた夫(私の父)が入会するのです。母は組織では何の役職もありません。一婦人部員です。もう多宝会の領域です。教学資格もありません。任用試験も受けたことがありません。ですが、我が家の大黒柱を入会に導く偉大な力を持っていました。


 祈りは必ずかなう! 今回の母の弘教体験から、漠然とした観ではない確信を持つことができました。明日、父の入会記勤行会が行われます。私が実家を離れて既に10年――。明日は早起きして、父と母の祝福に向かいます。


【「富士宮ボーイ掲示板」より転載】


 勝手に転載させて頂いた。読みながら、私は涙が止まらなかった。これこそ、「民衆勝利の劇」そのものである。無の母は勝った。母の勝利は、子の勝利であり、一家の勝利でもあった。「創価の母」の何と偉大なことよ。

2005-12-03

唱題のペース


問い


 地区や支部で唱題会を行った際に、いつも釈然とせず疑問にじることがあります。それは題目のペースです。池田先生の指導に、「勤行唱題は白馬が天空を駆けるような清々しいリズムで」とあります。しかし実際は、錦宝会の方が多いので、題目のペースが遅くなりがちで、導師がよいリズムであげていても、後ろにひきずられてしまうのです。更に、銘々が自分のペースで唱え、導師に合わせようとしません。幹部の方に指導を受けても明確な答えが返ってきませんので、下記の点、ぜひともご教示をお願いいたします。


小野不一


「唱題のペース」について質問が寄せられた。


「幹部に指導を受けても、明確な答えが返ってこない」と書かれていた。これは大問題だ。幹部が“迷う方向”へと追い風を送っているのだから。


 そこで、同じような疑問を抱いている方や、デタラメな幹部の犠牲になっている方のために、私の基本的な考え方を記しておきたい。参考にして頂けると幸いである。


 まず、窮屈に考える必要はない。「こうしなくてはいけない」とか、「こうあるべきだ」という考えが先行してしまえば、“型”にはめ込むような姿勢になりがちである。この点を踏まえた上で具体的に述べて参りたい。


 昨日付(2005-12-02)の「法と医学 第2回」で、いみじくも西山女ドクター部長が言っているが、1分60遍=1秒1遍が丁度いい。「最も落ち着いている時の臓のリズムと一致」するとあった。


 私の研究によれば(笑)、生命のリズムとして表れているのは、拍数、呼吸数、歩くスピードの三つ。これらは年齢によって変化してゆく。


 つまり、年を取れば取るほど題目のスピードは、どうしても遅くなりがちだ。ということは、高齢者が参加している唱題会の場合、少しゆっくりしたペースで行うのが親切というものだろう。導師が、「何が何でも、自分に合わせろ」というんじゃ、あまりにも狭量だ。後ろに合わせるぐらいの度量があって然るべきである。導師が皆に配慮し、皆がしっかりと呼吸を合わせようとするところに境地冥合がある。


 昔から、「白馬が天空を駆けるが如く」と指導されているが、南無妙法蓮華経という音自体にスピードと躍動がある。それに対して、南無阿弥陀は尻すぼみの哀音であるため、「ナンマイダブ」と発音されているのはご存じの通り。


 題目は正確な発音を。信してない人が聞いても「南無妙法蓮華経」と聞こえるようでなければいけない。「ナンミョウオウレンゲキョウ」、「ナンモウホウレンゲキョウ」、「アンミョウホウレゲキョウ」、「ナンミョウホウレンゲキョ」じゃ駄目。“正確にやってるつもり”になっているのが一番怖いところ。電話だって、番号が一つ違えば、全く別の家にかかってしまう。そして、音程は尻強に発音するのが正しい。


 次に、唱題会の諸法実相を――

  • 「唱題会」となると来ない人(笑)→これは、普段、勤行をしてない人だ。バレバレだね。
  • 必ず遅れて来る人→信が惰の人。勤行・唱題が“生活のリズム”の中になってない証拠。
  • 題目が導師と合わない人・題目にクセのある人→我見が強い。また、不平不満を抱き、幹部に対する不信がある。自分勝手。わがまま。
  • に力がなく、小さい人→確信がなく、自信がない。何事に対しても消極的になりがち。
  • が大き過ぎる人→火の信の典型。人が見ているところでは大いに頑張り、見てないところでは手抜きをするタイプ。「見せる信」だ。
  • 前に座らない人→責任がない。後から来る人のことを考えてない。導師に合わせようとする姿勢のなさ。

 単純に決めつけるわけにもいかないが、大体こんなじ。


 では、リズムが合ってさえいればいいかというと、そうではない。


 おのおのは随分の日蓮が・かたうど(方人)なり、しかるを・なづき(頭脳)をくだ(砕)きて・いの(祈)るに・いままで・しるし(験)のなきは・この中にの・ひるがへる人の有ると・をぼへ候ぞ、をもいあわぬ人を・いのるは水の上に火をたき空にいゑを・つくるなり(1225頁)


 祈る「」が合っているかどうかが最大事だ。


“形式的な唱題会”や、“作戦の上に乗っかった唱題会”であれば、やらない方がましだ。また、長時間の唱題会は、近隣の迷惑になりかねない。今、1時間以上の唱題会を行っているところは、本部に呼吸が合ってない。


「経」は「歌」である。ソロがあり、合唱があり、アップテンポがあり、バラードがあっていい。

2005-10-24

題目の人こそ真の弟子


 学会がこれだけ大きくなると、一人ひとりにお会いすることは不可能に近い。だが、この私のを知って、日夜題目を唱え、王冥合のために戦っている人は、既に私と会っているのと同じであります。同志とは同じ志(こころ)に立つということであります。その人こそ、私の最も尊敬する、の通じ合った同志であります。その人の人間としての価値は、役職によって決まるものではない。真面目に信し、自己の使命を全うし、己の妙法を湧現し、人間革命し、宿命転換してゆく人が、最も尊い人であり、勝利の人生を開いている人であると私は言いたいのであります。

 妙法の眷属であれば、上げ潮のごとく福運がついてまいります。いかなる立場の人であっても、見せかけの信であり、利にとらわれるならば、の眷属となり、引き潮のごとく、福運が消滅してゆくでありましょう。いかに地味な活動であろうが、どんな境遇の実践であろうが、真面目に、純粋に、水の流れるがごとく、信を貫き通した人が、大聖人のご称賛にあうということを知っていただきたい。また、大聖人の、学会本部の指導通りの信、実践でいく人は、真実の大聖人の弟子であり、創価学会の宝であります。したがって、いよいよ求道を旺盛に、受動的な信ではなく、能動的な信に立っていただきたい。


【中部本部幹部大会 1967-07-10 古屋・金山体育館】


 入会して間もない頃、私の父は旭川の地で、先生が出席された会合に参加することができた。先生が退場される際、会場の人々が「先生ぇーっ!」と近寄ってきた。父は、誰から言われるともなく、先生に背を向けて周囲の人々の整理にあたった。先生は、無の青年の自主的な行動を見逃さなかった。父の後ろを通った時、背中にそっと手を掛けられた。「何とも言い情が湧いてきて、俺の人生はあの瞬間で決まった」と語っていた。それから父は、新入会でありながら輸送班の一員となった。更に、長年にわたって通信員をしていたこともあって、聖教本社の幹部の大半と顔馴染みだった。それをいいことに、東京の会合でも顔パスで入れたそうだ。が掛かってないにも関わらず、一人で勝手に先生の警備をしたことも多々あったという。


 私の父は大幹部ではない。現在は副本部長で、青年部時代は総B長を務め、その後、引っ越しをしたので、最終役職は副部長である。北海道という最果ての地にいながらも、父は先生と何十回も出会いを重ねた。幾度となくを掛けて頂き、「君は私と同行しなさい」と言われて随行したことも、しばしば。先生に個人指導も受け、奥様と3人で勤行をしたこともある。


 こんな話を3年前に初めて聞かされた。いやはや、驚かされた。さっさと言えよ。


 父は題目の鬼である。私が子供の時分から、我が家では夜な夜な深々と祈るが響いていた。10年ほど前からは一日5時間ぐらいあげているようだ。どんなに少なくても、3時間はやるというから凄い。


 その祈りに包まれて、私を筆頭とする6人の子供は、学会の庭で育った。完璧な広布後継は、総区副青年部長、〈県〉副青年部長、〈県〉副青年部長、副本部長、本部長、部長という姿となって結晶した。


 父は、座談会の担当幹部をつかまえては、「子供は何人いるんだ? 全員、活動してるのか?」と訊ね、「子供に信もさせてないくせに、今日はどんな話をするんだ?」と言い放つそうだ(笑)。そりゃあ、威張り過ぎだよ。