Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2006-12-05

精神疾患について


健康勝利の掲示板」で、ホストの薬王さんから、精神疾患について色々とご教示を受けた。大変、有益な内容とわれるので、ここに転載させて頂く。


小野不一


 私見ながら、「鬱病や心身症などの精神疾患は、多分、過去のトラウマ(心的外傷)から自分の心と身体を守っている状態のような気がする」とブログに書いたんですが、専門家の目から見ると、どうなんでしょうか?


薬王


「過去のトラウマ的外傷)から自分のと身体を守っている状態のような気がする」


 生きものの本能として、外からの攻撃(理的危機・ストレス・トラウマ等を含む)があった場合、逃げる・戦う・硬直する、と3通りあります。


 初めに、も身体も「柔軟」がある人はクヨクヨせず、どんなことも対処できます。多くの身症や精神疾患の方は、身体的にも理的にもこの「柔軟」が失われていることがみられます。


 まず、何かストレスを受けた場合、に余裕のある人とはサッと逃げれます。何事もなかったようにうまく逃げて、後に不安や不満・執着が残りません。泣くことも逃げになります。


 戦った場合は、その場で不満や恐れが発散できるので、これも後に残るのは少ない。


 最後に問題なのが、硬直(固まる)です。


 過去の出来事(ストレス)に対し、身体や神経は防御反応を示します。小野さんの言う通り、自分のと身体を守っている状態です。これは、当たり前といえばそうでして、本能がそうさせています。


 ただここで問題なのは、ストレスに対して、発散できず、我慢(硬直)した状態が長く続いた時です。これは抑圧エネルギーといって筋肉や神経系統に残こるのです。また、抑圧されたエネルギーは次から次へと噴出して、精神的変調をきたしてくるのです。


 我慢(硬直)=交神経の過剰刺激=自律神経失調=ホルモンバランス変調=だるい・つらい等、身体的にも変調が出てきます。色不二ですね。


 精神疾患の解決法は多種多様です。現在の理療法は過去を振り返り、原因を追求することに重点を置いているようですが、法の現当二世、未来へ希望を生み出す力は精神疾患の解決に重要かとっています。


小野不一


 やはり、餅は餅屋ですね。大変、勉強になります。


 逃げる・戦う・硬直する


 これは初でした。確かに動物の弱肉強食の世界では、よく見られる態度ですね。


 翻って人間の世界を考えますと、「逃げづらい環境」が束縛している側面が窺えます。職場でのパワーハラスメントを支えているのは、「賃金を失うことへの恐れ」→「生活への不安」→「忍耐=硬直状態」のような気がします。


 学会組織の場合、これが更に強く発揮されます。多くの善良な会員が、法の正しさと組織の無謬を混同しているためです。ゆえに、モラルハラスメントパワーハラスメントの被害は、より大きなものとなると考えます。


 勝手ながら、もう一つ質問があります。「精神安定剤は“ものを考えられなくするための薬”だ。頭が働かないようにして、自殺を防ぐものだ」と聞いたことがあるのですが、これは正しいのでしょうか? 多くの患者が「強い薬」と表現して、忌み嫌っております。人によっては、3〜4時間以上、何もできなくなるといいます。こうした理由から、服用すべき薬を捨てている患者も珍しくありません。また、先日私が激励した青年は、家族の介護があるため、服用したくてもできない状況にあります。


薬王


「精神安定剤は“ものを考えられなくするための薬”だ。頭が働かないようにして、自殺を防ぐものだ」と聞いたことがあるのですが、これは正しいのでしょうか?


 精神安定剤は脳内の神経伝達物質に作用します。医師ではないので薬学のことは詳しくわかりませんが、精神安定剤に限らず、薬とはなんらかの二次的作用(副作用)は必ずあります。


 多くの患者が「強い薬」と表現して、忌み嫌っております。人によっては、3〜4時間以上、何もできなくなるといいます。こうした理由から、服用すべき薬を捨てている患者も珍しくありません。


 薬を飲む側の価値観や空・観など、その人のの働き方により、「同じ薬」でも効果は大きく変ってきます。3〜4時間以上、何もできなくなるといっても、「鬱状態よりましだ」とう人には効き、「強い薬」の副作用に不安を抱えている人に効果は期待できません。


 また、先日私が激励した青年は、家族の介護があるため、服用したくてもできない状況にあります。


 青年が若ければ若いほど、家族を介護する、ということが気になります。


 人間が生きるための働きには、丈夫になりたいとうことから、病気が治りたい、健康でいたいなど頭で考えています。しかしその一方で、の根底には、事のついでに壊したい、壊しておきたい、身体の弱いことを知らしめたい、などの「の方向」が生じます。


 頭(理)では介護をしなければとわかっていても、青年の生きる要求は満たされていない。人は要求が満たされないと、そのエネルギーは他人(外)に当るか、自分(内)を痛める方向のどちらかへ向かうからです。


小野不一


 いやはや、凄い展開になってきました。本当に学ぶことばかりです。


 人間が生きる為の働きには、丈夫になりたいとうことから、病気が治りたい、健康でいたいなど頭で考えていますが、の根底には、事のついでに壊したい、壊しておきたい、体の弱いことを知らしめたい、などの「の方向」が生じます。


 とすると、精神疾患は「本人の絶望を表現している場合」があるということでしょうか? 生きるためにリストカットをする若者と同じように、自らを傷つけるケースがあるという理解で宜しいでしょうか?


 また、「薬を飲む側の価値観や空・観」が薬効に影響するとすれば、医師への信頼があれば、プラシーボ効果も望めるのでしょうか?


小野不一


 質問ばかりとなってしまい、まことに恐縮です。こうした機会は中々ないものですから、甘えさせてもらいます。


 以前からってたんですが、貧しい国に精神疾患は少ないようにじます。衣食住が満たされない生活環境では、確かな生きる志が育まれるようにもえます。この私のい込みが正しいとすれば、精神疾患は満ち足りた生活の後に襲われるストレスが原因と考えることは可能でしょうか?


 また、私が運動部出身ということもあり、「ものを考えられなくなるほど身体を動かせば、精神疾患になる暇もない」と考えているのですが、これについてはどうでしょう?


 ちなみに私の実家で引きこもりになったとしたら、多分、殴って治されたことは疑う余地がありません(笑)。


薬王


 とすると、精神疾患は「本人の絶望を表現している場合」があるということでしょうか? 生きるためにリストカットをする若者と同じように、自らを傷つけるケースがあるという理解で宜しいでしょうか?


 そうだといます。人は「我ここにあり」と存在の主張を示さずにはいられないからです。「俺はこんなに力があるんだ」しかり「私はこんなに傷ついているんだ」しかり……。


 また、リストカットは若者にはみられますが、大人がすることはあまり聞きません。これは、若い時は生きる力が強く、その奥には壊してもまた再生する力を持っていると考えられます。怖いところ、危険な場所へ行くことにワクワクしたり、また傷付けることに快すらじることもあります。


 また、「薬を飲む側の価値観や空・観」が薬効に影響するとすれば、医師への信頼があれば、プラシーボ効果も望めるのでしょうか?


 医師への信頼は、プラシーボ効果を増大させるでしょう。このプラシーボ効果を引き出すのも、あくまで本人の側にあり、いくら医師が人格的にすぐれていても、説明が上手でも、受け取る側のによります。「この薬は効くようだ」と、いったん空がはじまり、「何日後にはこんな状態になるかな」と、連が続くと観となります。この観は、本来のの働きではなく、別に作り上げたなのですが、こうしての方向が固まってくると、識では否定しても体は反応してしまうのです。


薬王


 質問ばかりとなってしまい、まことに恐縮です。こうした機会は中々ないものですから、甘えさせてもらいます。


 こちらこそ! 応えることで勉強になっております。


 以前からってたんですが、貧しい国に精神疾患は少ないようにじます。衣食住が満たされない生活環境では、確かな生きる志が育まれるようにもえます。この私のい込みが正しいとすれば、精神疾患は満ち足りた生活の後に襲われるストレスが原因と考えることは可能でしょうか?


 人でも動物でもはじめに「生きてゆく」という生命の要求あります。貧しい国ではまさに、生きるために生きているので、先進国よりもかえって、伸び伸びと生きているように私はえます。


 確か、動物実験だとったのですが、ストレスがまったくなくなると、死んでしまうようなんです。ストレスもひとつの刺激ですが、満ち足りた生活にはストレスや刺激が多少必要ですが限度もあり、それを転換して生きるバネに変えてゆきたいですね。


 また、私が運動部出身ということもあり、「ものを考えられなくなるほど身体を動かせば、精神疾患になる暇もない」と考えているのですが、これについてはどうでしょう?


 同です。体を動かすという点で、運動はエネルギーの発散で良いのです。あくまで程々に(^^)


 ちなみに私の実家で引きこもりになったとしたら、多分、殴って治されたことは疑う余地がありません(笑)。


 野的ですね(笑)。強い子(人)に育つわけです(^^)


小野不一


 いつも、本当にありがとうございます。モヤモヤした考えが、どんどんスッキリしてきます。


 魯の人改め、魯ひとさんが、書いたテキストです。

 http://karagura.blog01.linkclub.jp/index.php?itemid=17929


 ご存じないかも知れませんが、魯ひとさん自身が鬱病の経験をお持ちです。


 私はこの方の見識の深さ、執ともいえるほどの教学に対する姿勢を拝見すると、仰ぐようないに駆られます。


 ただ、この文章に関しては、どうもスッキリしないのです。私は、精神疾患は、どう考えても「の病」だといます。「身の病」であれば身体の部位を特定できるからです。


 私の考えでは、魯ひとさんとは全く逆で、健常者もみんな、「の病」に冒されているといます。格や分に始まり、何かしら社会やコミュニティー、他人に対する違和など、「の病」は枚挙に暇がありません。


「彼女が欲しくてたまらない」なあんてのは、「の病」以外の何ものでもありません(笑)。「恋の病」ってえのも、ありますな(ニヤリ)。女子部の皆さん、お気をつけ遊ばせ。


 つまり私の考えでは、「の病」は人類の宿なのです。療内科の医師も、これを避けることはできません。皆、病んでいるのです。だからこそ、反省し、決し、前へ前へと人生の歩みを運んでいる。


 宿命や環境に毒された生命――私はこれを「の病」とづけます。


薬王


 私は職柄(整体)、身体の側面から診る傾向が強いです。の働きは体に表れ、逆に体の働きがに影響します。そして、身体を診ながらとの関連をみて、その人がどんな反応・行動をするのかを観てゆきます。では、そのと体を動かしている大元は何かというと「生命」と考えています。


 一方、人は家族をはじめ、人との関わりなしに生きてゆけない、また社会や時代の流れに沿って生きているので、それを見過ごすわけにはいけない。 個人(一人)の体から出発して、その社会、時代の流れをみてゆきます。


 とすると、現代の「の病」は私も、人類の宿=生命の宿の表れとみていますが、それと共に、その影響は身体にも如実に表れています。


 ギスギスした生きにくい社会で、今の人は過度の緊張状態が抜けません。その緊張状態は、呼吸器や脊椎神経に表れ、硬直を生じ、頭(脳)の過敏としても出ています。その箇所を手技療法や運動動作・言葉かけにより改善してゆきます。


 緊張の抜けない人は、ちょとした刺激(ストレス)で過敏になり、すぐキレたり、怒ったり、些細な事柄を大きな問題に摩り替えてみたりします。また弾力を失い、体が硬くなると、考え方までコチコチで、集中力に欠け、ひとつのことにこだわったり、出来もしない事を考え続け、疲れ果てたりします。 このような体の状態が「の病」や今の「いじめ」に繋がっているとみています。


 私が懸するのは、鬱病という「病」が一般化し、流行(はや)りだしたことです。健全な人が少し、気分が落ち込んだだけで、鬱病という「病のイメージ」に結びつけてしまう。単なる気分の落ち込みを「かもしれない……」とい込みが強くなると、本当の鬱病に化けてしまうからです。まあ、鬱に限らず病気になる大半は、このようなものなのですが……。


薬王


 私も一つお聞きしたいのですが、「の病」の方が題目を上げると「症状が出るからやめたほうがいい」と、聞くのですがどうなのでしょう?


 7〜8年前、私の部員さん(男20代)で「の病」を持ち、その専門の病院に通っていた部員さんがいたのですが、よく一緒に題目を上げていました。その時、症状が出ることはなかったのですが、どうなんでしょうか?


小野不一


 また弾力を失い、体が硬くなると、考え方までコチコチで、集中力に欠け、ひとつのことにこだわったり、出来もしない事を考え続け、疲れ果てたりします。


 竹内敏晴氏が全く同じことを言ってます。身体がいびつになったため、が出なくなっていると。(『ことばが劈(ひら)かれるとき』ちくま文庫)


小野不一


の病」の方が題目を上げると「症状が出るからやめたほうがいい」と、聞くのですがどうなのでしょう?


 唱題自体に義務じたり、生命力が躁状態につながるためだとわれます。自然に発生した自分の志で行う場合は、問題がないとわれますが、「やらないといけない」というい込みがあれば、逆効果になるとわれます。


 私の経験から申せば、「本人に題目を唱えることを強要する」よりも、「お前のことは俺が祈っているから配ない」と言うのが適切なあり方だとじます。


 人間はともすると、問題があると本人に押し付ける傾向があります。それを自分の問題とするのが内外相対だといます。


薬王


 唱題自体に義務じたり、生命力が躁状態につながるためだとわれます。


 ありがとうございます。体験を通した答えに頭が下がるいです。


 追伸――「の病」の方が薬を飲むことに抵抗がある場合、下記の本が参考になるかも知れないので、ご紹介しておきます。

 低血糖症の症状が「の病」の症状を引き起こしている?とみているようです。


 HPhttp://www.shinjuku-clinic.jp/

 ブログ/http://orthomolecule.jugem.jp/?cid=7


小野不一


 溝口氏の書籍は知ってますが、まだ読んでおりません。


 食べ物の影響は大きいといます。ただ、個人的には、栄養面よりも食品添加物などの化学物質や化学肥料の影響の方が大きいようにじます。


 また、谷口祐司氏によれば、おむつの様変わりも赤ちゃんに深刻な影響を与えているようです。谷口氏によれば、紙おむつの登場以降、赤ちゃんが母親に噛み付くようになったと指摘しています。「キレる」状態といってもいいでしょう。


 内は兄弟が多く、下の3人は私が育てたようなもの。で、いまだに直らない癖があるんですが、赤ちゃんが泣くとおむつの中をさわってしまうのです(笑)。布おむつを使っていると、赤ちゃんは不快を訴え、泣いてそれを伝えました。おむつ交換が遅くなると、お尻にアカギレができました。おむつを交換すると、キャッキャッとを上げて喜んでおりました。


 つまり、不快を覚えることによって、快を知るわけです。紙おむつはこれを奪った。


 更に谷口氏によれば、若いお母さんが「オンブする姿」を嫌い、抱っこするようになったことも問題であると指摘しています。理由は、抱っこの場合、お母さんの身体と赤ちゃんの身体が逆方向に動くため。おんぶだと一体がある。


 そして、これは私の見解になりますが、幼児から「遊ぶ文化」が喪失したことも大きな原因だといます。ゲームなどを初めとする、屋内の遊びは、身体的な刺激が少な過ぎます。外で遊ぶことによって皮膚覚が研ぎ澄まされ、子供同士の社会が形成されます。私の世代(43歳)であれば誰もが経験しているといますが、初めて木登りをする時は年長者が手を貸してくれたものです。こうした行為を受け継ぐことによって、社会の基盤が形成されていたようにいます。


小野不一


 ヨガなんか効きそうですね(笑)。あと、平均台とか。キーワードは柔軟とバランス覚といったところでしょうか。


小野不一


「言と云うはいを響かしてを顕すを云うなり、凡夫は我がに迷うて知らず覚らざるなり」なのかな、といました。


 というよりも、「いが響かない身体」になってしまったということなんでしょうね。吹いても鳴らないラッパ状態です。


薬王


 つまり、不快を覚えることによって、快を知るわけです。紙おむつはこれを奪った。


 今の紙おむつは吸収がよく、赤ちゃんがオシッコや便をしても、快・不快をじにくい。赤ちゃんは言葉を話せないので快・不快、腹が減ったなどを泣いて訴えます。その点、布おむつの場合は不快をじやすく、親は「あっ、したな……」と分かりました。


 つまり、赤ちゃんは泣くことで親の注を引き、安を得るのですが、紙おむつというのは、不快が少ないので赤ちゃんも泣かない。すると親のほうも勝手がよく、無関になります。これが親と子の信頼コミュニケーションがはかれなくなる始まりといえるでしょう。


 はじめのボタンのかけ違いが、後々大きな問題になってゆくと考えられます。


薬王


 ヨガなんか効きそうですね(笑)。あと、平均台とか。キーワードは柔軟とバランス覚といったところでしょうか。


 脳味噌の、柔軟とバランス覚には任天堂の脳トレを(笑)。


 編集記――硬直した身体をほぐすために、一番重要なのは「睡眠」です。


薬王


 というよりも、「いが響かない身体」になってしまったということなんでしょうね。吹いても鳴らないラッパ状態です。


 師子吼して、ラッパを磨くしかないようですね。

2006-11-13

「兵衛志殿」の読み


小野不一


 先号の大白で、「兵衛志殿御返事」=「ひょうえさかんどのごへんじ」となっておりましたね。するってえと、兄も「たゆうのさかんどの」って読みになりそうですね。


 但し書きをしてくれると助かるんですがね。プラス、理由も。こっちが注深く読み取らないと、何も気づかなくなりそうで怖い(笑)。



 参考になるかどうか、御文を挙げておきます。すべて「兵衛志殿御返事(三障四魔事)」からです。


「ひやうへの志殿をぼつかなし」(1090頁)――対告衆である弟・兵衛志宗長


「さえもんの大夫殿は今度・法華経のかたきに・なりさだまり給うとみへて候」(1091頁)――兄弟の父・左衛門大夫康光


「ただこのたびゑもんの志どのかさねて親のかんだうあり」(1090頁)


「えもんのたいうの志殿は今度法華経の行者になり候はんずらん」(1091頁)――兄・右衛門大夫(志)宗仲


 全部「の」が入っています。


 呼びの中の、役所官位の区切りとして用いられていた「の」の省略は、まだ大聖人の時代でも一般的ではなかったようです。今でも「相模守」とか「上総介」などは、読むときに「の」を入れるのが普通です。


創価仏法研鑚掲示板より転載】

2006-10-25

臓器提供について


小野不一


 法上、臓器提供については、どのように考えればよいのでしょうか?


 昔、「遺体を損してはならない」というような文章を読んだような記憶があるんですが……。


 以前、先生が書かれた「脳死論文」(『東洋哲学研究』)では、特に「やれ」とも、「やるな」とも書かれておりませんでした。


 ただ個人的には、臓器提供が「相手の宿命転換になる」とはえません。



 法上、臓器提供については、どのように考えればよいのでしょうか?


 私も小野さんと同様の疑問を持っています。死刑廃止に抱くような、私個人の明確な答えがありません。


 脳死移植についてのさまざまな論考や書物を読みました。もちろん先生のテキストも拝読しました。現行の脳死移植の法律にも、議論されている改正案についても、釈然としないいがあります。


 脳死移植については、臓が動いていても人間の死なのだと、そこまで画然と割り切れるのかという疑問があります。欧米キリスト教の唯論的な人体観にはなじめません。いわゆる和田移植についても、功を焦った医者のフライング殺人との疑いをぬぐいきれません。


 またこれは、先に事件が報道された生体間の移植についても言えることですが、金持ちや強い立場にある者が、貧乏人や弱い立場の人を犠牲にする可能を捨て切れません。法律上の規制はあっても、抜け道はどこにでもあるものですから。


 アメリカで多発している子供の失踪の一部はそうした需要のためではないかとのおぞましい考察を読んだことがあります。途上国のアングラ市場では公然と売買されているという噂も聞きます。


 一方で、臓器移植は、優秀な人工臓器が開発されるまでの過渡期の需要だとする見もあります。


 ただ個人的には、臓器提供が「相手の宿命転換になる」とはえません。


 これは私も同です。


命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり」(「可延定書」986頁)


一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(同頁)


 との御金言はズシンときますが……。祈り、索し続けるしかないのだといます。


小野不一


 鋏さん、いつも理知的な応答をありがとうございます。


 大事なことだとうので、ちょっとメモしておきますね。

  • そもそも、自分の死を他人に勝手に決めて欲しくない。
  • 臓器提供は、人体を部品化するようで嫌だ。
  • 何となく、「他人の不幸(死)の上に自分の幸福を置いている」ような気がする。
  • 提供してもらう側が、「他人の死」を願うようになることを避けられない。
  • 臓器提供によって、「自分の宿命を見つめる機会」が奪われる。
  • 本当に純粋な人であれば、「生きながらにして」臓器提供を申し出る可能がある。
  • 既に、臓器を目的とした人身売買がアジアを中に横行している。
  • 臓器提供を善とするならば、提供しない人が悪になりそうな気がする(笑)。

 こんなところでしょうか。


小野不一


 脳死が話題となった頃、こんな川柳がありました。


 命日が 脳と臓 二回あり


 わずを上げて笑ったものです。あっけらかんとしていながらも、痛烈な揶揄と皮肉が込められています。



 そういえば夏休みに、女房の実家近くの温泉入浴施設の仮眠コーナーのようなところで、見るともなしに見ていた映画、確か『アイランド』とかいう題だったといますが、臓器提供や代理母等に関するおぞましい近未来の仮世界を描いていて、途中で見るに堪えず、仮眠室を出てきてしまった覚えがあります。


 人間の身命というのは、軽々に扱われてはいけないと改めて強くいます。小野さんの論点メモ、その通りだといます。


 臓器移植がなければ死への恐怖と隣りあわせで生きていかなければならない様々な病気や障害のある方がいる事は承知していますが……。


小野不一


 そして臓器移植は、新しい形の幸不幸を生み出し、悲劇と不運を構成する。


【「富士宮掲示板」より転載】

2006-08-30

謗法払い


小野不一


 今日、気づいたんですが、御書には「謗法払い」という言葉はありませんね。


 その昔、突然亡くなった学会員の遺品を整理したところ、他宗のお守りが見つかった、なあんて話がまことしやかに語られていた(笑)。これは、ひょっとして、学会特有の都市伝説なんだろうか?


 草創期特有の教条主義的なまでの謗法払いが、世間の要らぬ誤解の原因になったことも見逃すわけにいかない。


 個人的には、信の自覚が芽生えてから、本人の自然な気持ちから行うべきだと考える。


 皆さんは、いかが?


宮ちゃん


 個人的には、信の自覚が芽生えてから、本人の自然な気持ちから行うべきだと考える。


 私も同じ見です。


コスモス


 個人的には、信の自覚が芽生えてから、本人の自然な気持ちから行うべきだと考える。


 個人の自覚を促し決する為にも謗法払いは必要のようにもいます。状況などを考えた時、それが全てとはいいませんが。でもやはり、後々のその方の信を考えると基本はこれではないかといます。


小野不一


 では、御書に謗法払いという言葉がないことを、どう考えますか?


プリン


 でも、御書に書かれていないからといって、謗法払いが「不要」とまではおっしゃってないんですよね?


 私としては(御書に書かれているかは別として)、我々の信仰する大聖人法が「唯一」の「絶対的な教え」とする教義から論理的に導かれるものが謗法払いだといますね。


fやん


 二には去し文永八年九十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆とてどしうちして他国侵逼とて此の国の人人他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺寿福寺極楽寺大長楽寺等の一切の者禅僧等が寺をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ(287頁)


 もっと過激だったりして。ま、文が無くとも、義やは汲んでいるといます。


卞氏


 小野さんに賛成です。


 自分にとって謗法払いを必要だとじることはあるかとおもいますが、その「儀式的行為」を教条的に捉えるのは間違いであるといます。


 例えば、感応が強い人で道修行の上で妨げになりそうだから、払い捨てる覚悟を持てということがあるでしょう。また、これまでの過った信仰へと感応しそうだとわれるから、捨てた方がいい。以前までは、このようなことで謗法払いが有効だとされてきた一面があるようですが、現代ではどうでしょうか。


 自分にはもう必要のない物だとおもうなら捨てればよい。信が深まれば自然に不要な物がわかる(現段階での学会の姿勢)。大事な物をむりやり捨てらされたといういが強くなれば、かえってマイナスになるでしょう。


 いずれの方法にせよ、相手の方を信頼しつつの個人指導が為されることが前提にあって容認されるものです。


小野不一


 あんまり盛り上がりませんでしたねー。失敗した(笑)。


 私の言いたいことは「常識を疑え」ということです。学会が推進するのは化儀の広宣流布ですから、もちろん御本尊を安置するという形式を広めることが根本となります。


 また、歴史を振り返れば、御授戒も謗法払いも、学会が宗門に教えてきたことも事実です。これ自体が民衆による革命といえましょう。


 しかしながら、2世、3世、4世の時代となり、草創期の吹や行動原理、はたまた信の姿勢に至るまで、随分と様変わりしてきている。


 私は、広宣流布が革命でなくてはいかんと考えております。師匠が「結果を示せ!」と指導すれば、弟子が強引な折伏をする。かようなことが、いつまでも続けられるとはえない。


 我々は出来上がった組織の上に乗っかって、あまりにも安易な信の姿勢になってやしないだろうか?


fやん


 謗法払いに関する問題提起を受けて、広宣流布まで展開した回答をするというのは結構、超人的な理解力の持ち主だとうのですが(笑)。


 池田先生は、人間革命その他の著述で広宣流布の定義を繰り返しされています。会長就任の第一に「化儀の広宣流布を目指し」と仰られてからそれは一貫しています。要約すると「広宣流布とは平和・教育・文化を推進する運動だ」ということになります。(注:現代では「広宣流布」といえば「化儀の広宣流布」のことです)


 弟子としては、その運動をどう具現化するかが喫緊の課題になってきていることでしょうか。小野さんの仰るとおり「強引な折伏」では、その答えになっていないといます。


 具現化には、的側面と運動的側面があるといます。強引な折伏をしなくても的・運動的に優れたものであれば、現状を改善できる可能があります。それには、先に折伏相手である現代の日本人というものを分析する必要がありそうです。


コスモス


 では、御書に謗法払いという言葉がないことを、どう考えますか?


 私も草創期特有の教条主義的なまでの誤解を生むような謗法払いのみに焦点をあてた場合は、小野さんの見に賛成です。


 素朴にったことですが、


 師匠が「結果を示せ!」と指導すれば、弟子が強引な折伏をする。


 というこの時点での部分で既に信しているといえるのかと考えました。


 の伴っていない折伏は後の入信された方が悲惨な方も多いですね。何の為に信しているのか。また目指さなければならない目的を見失っている方が多いようにいます。



 謗法払いが必要かどうか? 私は疑問です。謗法とは正法に背く行為のことです。行為ですから、その根底には当然に不信があります。


 正法に帰依し信受すれば不信ではありませんので、神棚や他宗の本尊などを処分しなければならない必要は特別ないと考えます。正法に帰依すれば、それらは脇士となり、諸天善神と化すとも考えられます。どちらも拝む(爆)、ということであれば、これは正法に背く行為ですからもちろん謗法です。


 しかしながら、正法に帰依することでそれまでの不信・謗法を謝すといういのもとに処分をするのも当然の気持ちであるといます。私なら処分しますし、するように勧めます。「こそ大切」だからです。


 また同様に、神社・閣に行くことや行事に参加することも、それ自体は謗法ではありません。これらは、信受でも帰依でもありません。最近はまったく行っていませんが、古刹は大好きです(笑)。


 現代は、交流や友好が多方面に及んでいますので、厳格に謗法を気にしていたら何もできなくなりますし、生きていくうえでも多少の謗法は誰しもが日々犯しています。信強盛であり、そこに報謝があれば、多少の謗法は気にする必要はないといます。そして、懺悔滅罪すれば、すべて罪障消滅します。


 こう述べてくると神札はどうなんだ?と批判が聞こえてきそう(笑)。あれは信仰の帰依の対象であり、強制といえども受持は謗法です。まして宗門においておや(爆)。


 fやんが引用した「撰時抄」は、やはり当時の時代・社会背景、そして人々のと信仰をもとにした破折です。それをそのまま、現代に当てはめることにはムリがあると考えます。原理としては変わらなくても、も信仰も激変しています。化儀の広宣流布の話題が出ているように、時応機応や宗教の五綱などに応じ変化していくのが当然です。四箇の格言を見直すことへの批判がありますが、まさに的外れです(笑)。


 また、大聖人が当時の邪宗に対して実際に暴力行為をしたことは、全くありません。宗教の五綱や邪宗に対しての強言の真については、山中講一郎氏の『日蓮自伝考』に詳しいので是非一読を勧めます。


fやん


 痛いところを突かれましたね。実は、撰時抄の当該部分は、平左衛門尉に捕縛されている状況下でなされた発言です。つまり、テロルを推奨しているわけではなく、逆に大聖人御自身がテロにさらされている中でなされた強言であることを考えるべきだとというのが山中氏の仰りたいことですね。誤解を招く書き込みをして、すみません。


小野不一


 っていうかさ、学会員はあまりにも物事を定型化・固定化して捉えるところが目立つんだよね。「謗法払い」という言葉が御書に書かれてないことに気づいた時、何だか愕然とするいになった。この年になるまで気づかなかったこと自体が、私自身、組織主義に毒されてきた証拠だとう。


 大聖人は民衆をありとあらゆる束縛から解き放ち、自由にされることをお望みだったに違いない。では果たして、我々の指導組織は、会員一人ひとりを自由にしようと、どの程度の努力をしているだろうか? 時として、成果を出すための手段にしているような面が否めないんじゃないか?


 先生の指導を聴くと、の底からホッとするし、何とも言いい充実に満ちあふれる。しかし、中堅幹部を経て落ちてくる「打ち出し」は、実に事務的な内容と化している。


 このギャップが私は怖い。


小野不一


 さすが、恋さん。私にゃ、これだけの論理的な文章は書けない(笑)。


 私が憂えているのは、謗法払いの味をきちんと理解せず、単なる形式的な手続きとして行い、相手のを平然と傷つけている学会員がいやしないか、ってことなんです。


 形式がまかり通ると、内面の闘争がおろそかになる。先生は以前、「広宣流布は精神闘争だ」と指導されました。の格闘がなくなると、人は形式に安住するものです。


「ただこそ大切なれ」とは言うものの、現実にどれだけ自分がをつかい、配り、砕いているか――甚だ疑問になってきます。


まりん


 私のカレシ君は、4年前に入会しました。当初入会前は紙札が3個部屋にありました。それは、彼が信じるからというより……遠く離れた彼の郷里の母が子をい案じて持たせたものであり、彼は母親の気持ちを大切にうが故に棄てられないものでした。


 私もそれが、わかっていたため咎(とが)めませんでしたし、入会後も口出しは一切せずに紙札の扱いを本人のに任せました。


 すると最初は、大切にずっと飾っておりました。が、信が深まり時が経つに連れ……一枚一枚見えるように飾ってあった紙札が、部屋の角に重ねて置かれるようになり……その内、物の陰にヒッソリとしまわれるようになり……先日、転居した後は…あの紙札は何処へやら。姿を消しました。


 謗法払いは本人のですべきといます。私たちは信が深まるように祈り行動するのが大切といます。


fやん


 正直、5年前に(ネット上で)お会いしたころとは、論調が変わってきてるなあとじています。まだ、その時は青年部でいらっしゃいましたが。八王子に行ったのが大きかったんでしょうか。もちろん、悪い変化だと考えているわけではありません。以前より、内在的な悪に対する糾弾が増えたようにいます。根本には先生の指導があるとじていますが……。


 形式主義というのは、官僚主義と密接な関わりのある言葉だといます。現実に合わせるのではなく、現実のほうを形式に合わせようとするものです。根本には、対象をコントロール可能なものにしたいという欲求があるといます。現代人の病理みたいな側面もありますね。複雑な現実を直視するのは面倒というわけです。精神闘争なんてかったるくてやってられっかという本音が見え隠れしています。


 自由の問題はしいですね。自律には内省が伴っていますが、そこを省略すると形式主義に堕するのだといます。他人だけではなく、自分自身をも束縛してしまう危険があります。偏見の虜になってしまうのです。ただ、自由そのものは幹部が与えるといった質のものではなく、不断の努力によって自ら獲得していくものだと考えています。その過程に他人が介在した段階でそれは「自由」ではなくなるからです。教における自由とは偏見や執着からの自由だと考えています。ですから、考えることをやめた時点で教的ではなくなるといます。


 学会における自由とは何でしょうか。活動をしないことでしょうか(笑)。そうではないとはうのですが、小野さんが仰るような事実があるために問題をややこしくしているといます。理形は、自立的で自律的な信仰者の集団になることです。上からあーしろこーしろと言われて動くというスタイルがそれとは正反対であるのは自明です。何かもうちょっとシンプルにできないもんですかね。


 御本尊にお題目を唱えたら幸せになりました。そしたら他人にも教えてあげたくなりました。その結果、学会員の数も聖教新聞の部数も公明党の支持者も増えました。ってえのが自然な流れだとうのですが、逆になってませんでしょうか。あなた本当に幸せですかと問い詰めたい(笑)。幹部は会員の幸福のためにいるんですよね。だから、とりあえず今いる会員さんを本当に幸福にするのが先決だといます。そうすると、今度は会員さんと対話することが必要になってきます。「君は幸せか?」「君にとって幸せってなんだい」「どうなりたい」って具合に。で、学会員が幸福者の集まりになれば、無理な折伏なんかしなくても向こうから寄ってくるんではないでしょうか。何か顛倒してますですねえ。


沖浦克治


 学会における自由とは何でしょうか。


 創価学会員でいる事が自分の権利だとうことでしょう。権利ですから、嫌なことはやらなければいいんです。好きなことを見つけるんです。それに人生をかけると良いといます。


 お題目も同じです。権利ですからね、嫌な時はやめて良いんですよ。その代わり、誰もあげろ、とは言えませんから、自分が挫折すればお仕舞いになります。復帰には勇気が要りますから。

 

 義務なら、もっとやれ、サボるな、などと言う人が必ず現れるものです。権利にはそんな人はいません。大変なことかも知れませんね。


コスモス


 一会員からの書込みです。以前、義務で活動しているとっていた一人です。しかし義務で活動していただけではなかったです。私の場合はもっと深く内観していくと組織依存、怠惰、慢。愚痴や文句。色んな要素が考えらます。


 沖浦さんの書き込み、


 義務なら、もっとやれ、サボるな、などと言う人が必ず現れるものです。


 にはとても考えさせられるものがあります。


 自分自身との精神闘争がなければその時点で信も形骸化しますね。ともにもかくにもこの信は精進行ですね。


コスモス


 沖浦さんの続きですが、そんな自分との格闘をはじめだして一年ほど経ちましたが、我が家では御本尊様を三所帯送ることができました(私の母含む)。その折伏は強引でもなんでもありません。その全ての方が創価学会に入信したいと自分から求められてこられた方たちでした(法対話をあまりせずに本流に至りましたので、これ折伏?という疑問もありますが)。私は沖浦さんの姿を見てました。私にとってはとても影響あるものでした。自分との格闘をしてなんとか形の信を突破していこうとっています。


小野不一


 やはり、八王子に来たのが大きいね。プチ人間革命(笑)。よもや、学会にこんな酷い組織があるとは夢にもわなかった。第2総東京では「大学職員天国」と言われている模様。


 幹部の力不足が、会員にストレスを与えまくっている。何十年も信をしてきた方々が、どうしてこんないをしなくっちゃいけないのだろうとじること多々。が痛む分だけ怒りの炎が燃え上がる。


 でも多分、これが平均的な組織の現状なんでしょうな。


 こんな現状になってしまったのは、一人ひとりの弱さを、組織力でカバーしてきたため。だが今となっては、既に組織の態(てい)をなしてない。


小野不一


 私も「沖浦スタイル」(敬を表して)に賛成です。ただし、地区幹部以下に限る(笑)。


 革命というのは、既存の権力に対して「NO!」と叫ぶことです。バスの座席を立つよう言われたローザ・パークス女史然り、神札を受け取るよう促された牧口先生また然り。


 最前線で戦っている方々は皆、真面目に地道な闘争をされている。そして、決まったように人がいい。自分の見を堂々と述べるような人は殆どいない。それをいいことに、権威主義の幹部が現れれば、拒否する道しか残されてない。


 動けば動くほどストレスが溜まるようなら、少し休むべきだと言いたい。特に婦人部に目立つのが、動いた分だけ怨嫉している人(笑)。これじゃ、功徳など出るはずもない。


小野不一


 権利と義務に関して。


 これは私が学会2世であるところに原因があるのかも知れません。私は、信は義務だとってます。信というよりも、広宣流布ですかね。


 何せ幼い頃から、勤行をしないと飯を食わせてもらえなかったんで(笑)。


 この問題については、二十歳(はたち)の頃から、先輩と何度もやり取りしてきました。負けたことなし(笑)。


 先生が「信仰は権利である」と指導されていることは、置いておきます(笑)。


 私が義務だとう最大の理由は、「権利は放棄できるもの」だからです。義務は放棄できません(笑)。


 私はよく青年部時代から、ウルトラマンを例えにして話をするのですが、怪獣と戦うことは、ウルトラマンにとっての権利というよりは、義務であるようにずるのです。「人間は小さくて弱い。だからこそ、私が戦って地球の平和を守るのだ!」というウルトラマンの決が窺えます。


「信するか、しないか」っていう時は、権利ですね。しかし、後輩を成長させる、守る、幸せにする、ということは私にとっては義務です。これは、放棄できない責任があるためです。


小野不一


 価値論の観点から言えば、会合や学会活動は、楽しくて(美)、ためになり(利)、正しいという実相が当たり前。


 しかし現実は、善のために、美利の価値を無視、あるいは我慢し過ぎたキライがある。


 組織で革命を起こすだけの力がなければ、避した方がいい(笑)。


沖浦克治


 コスモスさん、よかったですね。嬉しいですよ。


沖浦克治


 小野さん、権利と自由の裏には、義務と責任が存在し切り離せない。こう言うことでいかがでしょうか?


小野不一


 仰る通りです。率直な覚としては、上の幹部には権利を主張し、後輩に対しては義務が生じるってじでしょうか。


 私は壮年部になってからというもの、突然入った会合は全部拒否します(笑)。



 権利と自由の裏には、義務と責任が存在し切り離せない。私も、常にこう考えています。


 信における義務と責任は、「誓願」を認識&自覚&決をしてからだといますね。

法華経の行者といえるのは、誓願があってこそ。


【※「創価仏法研鑚掲示板」より転載】

2006-04-18

開目抄


 されば日蓮法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし(202頁)


小野不一


「慈悲のすぐれたる」(202頁)とは、日蓮聖人が我々の凡智では像も及ばない不屈の大慈悲の御信を忍ばれ、父親の子供をうがごとく全人類を救済せんと、妙法という法理を示し遺されたことである。

「おそれをも・だいきぬべし」(202頁)とは普通、天台、伝教が大聖人に対して恐れを抱くという風に理解しがちであるが、第26世日寛上人は文段で「吾が祖、天台・伝教に対して恐れを懐(いだ)くの義なり。これ則ち天台・伝教に勝れたりという故なり」(『日寛上人文段集』124ページ)と釈されいる。すなわち「天台・伝教よりも勝れているということは、天台・伝教に対して恐れ多いことであるが」とのであり、先の「千万が一分」と同じく、謙遜のを示されたのである。

【ハワイでの第1回御書研鑚会 1981-01-19 ハワイ会館


 との指導を見つけたんですが、講義録の通解はどうなってるでしょうか?


おにゆり


 講義録の通解です。


 されば、日蓮法華経に対する智解は、天台・伝教に比べて、千万が一分もおよぶことはないけれども、を忍び慈悲の勝れている点では、像法の天台・伝教は末法の日蓮に恐れをもいだくであろう。(283頁)


大勝利


 どちらも正解という事だといます(笑)。


 開目抄愚記(上)で


一、されば日蓮が等文。

 この下は三に功を顕して疑いを立て、広釈の本と為すなり。「千万が一分」等とは、一には卑下の、二には慈悲に対するが為なり。

一、を忍び慈悲のすぐれ等文。

 外に大を忍ぶは、内に慈悲の勝れたる故なり。顕戒論に云く「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と云云。また云云、愚案三八、御書二十三三十五。

一、をそれをも・いだきぬべし等文。 啓蒙に云く「天台・伝教も吾が祖に対しては恐れをも懐きぬ可きなり」と云云。今謂く、吾が祖、天台・伝教に大して恐れを懐くの義なり。これ則ち天台・伝教に勝れたりという故なり。


 となっています。


 謙遜して、1.「日蓮の智解は、天台・伝教に比べて、千万が一分も及ばない」ということは、2.「天台・伝教の慈悲は、日蓮に千万が一分も及ばない」という事であり、この1と2にそれぞれ「をそれをも・いだきぬべし」を続けるとして、1.「日蓮の智解は、天台・伝教に比べて、千万が一分も及ばないが、天台・伝教(といえど)も日蓮に(対して)恐れをいだくだろう」ということは、2.「天台・伝教の慈悲は、日蓮に千万が一分も及ばない、天台・伝教に対して恐れ多いことであるが」と同義を二重に読むことになります。2の方がより強調された釈といます。



 いくつか辞書を引いてみましたが、小学館の日本語大辞典がわかりやすかったので引用します。


【古典語の接続助詞「ども」の上に形容詞の已然形の語尾「けれ」がついて一語化したもの。活用語の終止形につく。

くだけたスタイルでは「けれど」「けども」「けど」ともなる】

《接続助詞》

1.予に反して対照的に異なる二つの事態を表す文を対比的に接続するのに用いる。

2.〈係助詞「も」のついた文節を上下に伴い〉

一つの事がらをたしかにそうだといったん認め、しかしさらにと、同類の事がらを対比的にあげるのに用いる。

3.ことわりを前置きとして述べ、話の導入とするのに用いる。

《終助詞》

【接続助詞の用法から転じたもの】

言い切る形を避けて表現を和らげ、相手の反応を待つ気持ちを表すのに用いる。


 日寛上人の解釈は、2または3になるとわれます。 通解は、1として解釈しているようですね。1と2の違いは、どちらも対比するための用法ですが、1では異なる事項の対比であり、2では同類の対比になるのだといます。


 どちらを用いるかは、文脈と文から汲み取るしかないといますが、私はまだそこまでしていません。


 該当箇所だけなら、通解通りかな?といますね。古文や国文学に詳しい人がいればいいのですがねぇ。



 この件についてはかつて開目抄愚記を拝読して日寛上人の境涯と論理展開に驚嘆したことがあります。観心本尊抄文段の「竹膜を隔つ」の解釈も驚嘆でしたが……。


 結論は大勝利さんのお考えに私も賛成です。素晴らしい論理だといます。その上で、いわゆる「啓蒙」とは、日寛上人がその内容を徹底的に破折し尽くされた、当時最も権威のあった大聖人の御書の解釈書だったことを付け加えたいといます。不受不施派の日講著で、権力者に迎合した身延派(一致派)的観点が強かった書物です。「教学は日寛上人の昔に帰れ」ですから、大勝利さんの「2の方がより強調」とのご主張をもっと「強調」して、「2こそが主」であると申し上げたい。


fやん


 鋏さんに賛成。大勝利さんのの説に一票。


 それゆえ、日蓮法華経の理解は、天台や伝教には千万分の一にも及ぶことは無いけれども、(日蓮の)を耐え忍ぶ力や慈悲の優れていることについては、(天台や伝教に)恐れ多い気持ちを抱いてしまう(ほど)に違いない。


 確か教哲学大辞典の前書きか後書きか凡例かに読み方についての方針が書いてあっったようにいます。聖教新聞などはその方針を踏襲している模様。


【「創価仏法研鑚掲示板」より転載】

波木井は、「はきり」か「はきい」か?


小野不一


 今日付の新聞(2006-04-18)で、波木井(はきい)となってますね。


 はきり(波木井)どのの事は(1151頁)


 と御書には書かれておりますが、これは、「り」と「い」を読み違えていたってことなんでしょうかね?



 小野さんの挙げられ御文以外に、「このはきゐは法にすぎて・かんじ候」(「兵衛志殿御返事」1098頁)との御文もあります。古い哲大には波木井の辞書的見出しとして「はきり」としながら、解説文の冒頭「『はきい』とも読む」とあります。「はぎり」「はぎい」でもよいといます。古文は濁点をつけませんから。


 私が未来部のころは「ハキリ」とか「ハギリ」という読みを聞いた覚えの方が強いのですけれど、まあ、どちらでもどうぞということなのでしょうか。


「大集経」も昔は「ダイシッキョウ」と読めと言われましたが、最近の教学関係のものには「ダイシュウキョウ」とルビがふってあったりします。「通解」も草創期は「ツウゲ」と読んだと母親が言っておりました。他にも随分あるといます。


 本筋と少しずれるようですみませんが、そうした草創期に言い慣(なら)わされてきた読みに、庶民をバカにした坊主たちの衒学(げんがく)的な臭味を、C作戦以降、私はじるようになってきています。


 最初は僧侶から教学を教えてもらったはずですから仕方なかったのでしょうけれど。法華講と乗る面々がネット上で振り回す用語にも、それを強くじます。


【「創価仏法研鑚掲示板」より転載】

2005-12-07

十如是問答 その三


【→十如是問答 その二


小野不一


 以下、御義口伝――


 第二諸甚深無量其智門の事(714頁)


 文句の三に云く(中略)、甚深無量とは即ち称歎の辞なりの実智の竪に如理の底に徹することを明す故に甚深と言う、横に法界の辺を窮む故に無量と言う無量甚深にして竪に高く横に広し、譬えば根深ければ則ち条茂く源遠ければ則ち流長きが如し(同頁)


 御義口伝に云く此の本末の分明なり、中に竪に高く横に広しとは竪は本門なり横は迹門なり、根とは草木なり草木は上へ登る此れは迹門のなり、源とは本門なり源は水なり水は下へくだる此れは本門のなり、条茂とは迹門十四品なり流長とは本門十四品なり智とは一の三智なり門とは此の智に入る処

の能入の門なり三智の体とは南無妙法蓮華経なり門とは信の事なり、爰を以て 第二の巻に以信得入と云う入と門とは之れ同じきなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るを智とは云うなり(715頁)


 竪=本門、横=迹門 との御指南。事理の一念三千の所以(ゆえん)か。


小野不一


 次に紹介するのは、『法華経 方便品・寿量品講義(1)』より――


 諸法のありのままの「実相」を究めるというのは、ただ物事の表面だけを見るのではない。こうした生命の広がり、奥行きをあますことなく捉えきるということです。人間だけに限りません。路傍に咲く一輪の花にも、美しき相があり、質があり、その体がある。また、力・作・因・縁・果・報の、どれ一つも欠けることがない。そして全体として、花という生命を織りなして一貫している。

 更に、無生物も同様です。

 小さな石ころも、大空も、も、星も、太陽も、潮の香りを運んでくれる海も、峨々(がが)たる山々も、喧騒の街を見下ろす都会のビル群も、家や車や一つ一つの調度も――。ありとあらゆる存在が、十如是という様式で存在しているのです。

 これがの究めた諸法実相の智です。すなわち、「諸法」を見れば、はその「実相」がわかる。人々の姿を見れば、その人の境涯がわかり、本来、であることがわかる。自然を見れば、その尊い輝きをじ取ることができる。また、社会の現象を見れば、その味を鋭く見抜くことができるのです。

 このように、あらゆる事物の本質を見極めるのが諸法実相の智といってよいでしょう。(168p)


小野不一


 答えを発見!(笑)


法華経 方便品・寿量品講義(1)』より――


 更にこれを生命という観点から見ると、諸法とは個々の生命であり、実相とはが覚知した宇宙大の生命そのものを指すともいえます。個々のどんな小さな生命の中にも、宇宙生命そのものを見るのです。

 言いかえれば、あらゆる衆生はが悟った妙法の当体であり、を具していると見るのです。それがの諸法実相の智です。諸法に即して実相を見るの眼(まなこ)とは、一切衆生を救い、成させてゆこうという慈悲の眼でもあるのです。

 大聖人は、「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり」(1596頁)と仰せです。一人の命、一つの生命は、全宇宙の宝よりも尊い――これは、諸法に実相を見る法の素晴らしい生命観といえましょう。

 生命というのは不議です。その不議なる生命の真実の姿を究め尽くしたのが、の智なのです。何と広大にして、深遠な英知でしょうか。

 このの眼から見れば、この世界、この宇宙は、「生命が輝く世界」です。「万物が歌う世界」です。ありとあらゆるものが、かけがえのない個をもち、価値をもつ世界であることが実できる。「生命への動」「生きる喜び」に満ちた境涯――それが知見なのです。そして、後に述べるように、文底の立場からいえば、諸法実相とは御本尊のことです。御本尊を持(たも)つ私どもにとっては、全てを「法の眼」「信の眼」で見てゆくことが諸法実相の智となるのです。(171p)


卞氏


 三転読みの三つめ(笑)が出てきた! 答えというものが先に無いほうがやはり面白いです。


小野不一


 確かに(笑)。ここで止まってしまえば、当たりの弟子ということになりかねません。


ひたち


>>182 小野さん

> 「一大事の因縁」とは何だと考えますか?


 一大事とは釈尊の悟りであり、諸法実相ということでしょう。因とは、衆生本有の界でしょうか。分かりやすくいえば、求道であり、信のことでしょう。縁とは釈尊の「如我等無異」の誓願だといます。もっと端的にいえば、釈尊の大慈悲のでしょう。


 衆生は何ゆえを目指すか、これがの誓願と合致した時に、因縁和合して、初めて界は涌現するということになります。


> 釈尊門下の対境は具体的には何だったのでしょう?


 対境とは、成のための如是縁だと考えます。釈尊在世は、釈尊その人であったことでしょう。釈尊の行動であり、言葉であったといます。滅後は、様々に分かれたとはいえ、釈尊の言葉である経典であったといます。


> 釈尊は「何を打ち破った」のか?

> 舎利弗等が抱いていた「迷いの本質」は何だったのか?


 成が最終目的であるという執着を打ち破ったのです。身の永遠は、衆生救済の永遠に繋がっていきます。


 舎利弗等の悩は「何のため」という目的観を忘れ、修行の完遂のみに囚われたところにあったのでしょう。法華経譬喩品の記述は、まさにその姿を示しています。を目指すのはなんのためか。この一事をい出すことで、舎利弗は成の道を開いたのだといます。


 法華経譬喩品には、釈尊が舎利弗に記別を与える時に以下のように話しています。「本願所行の道を憶せしめん」とは、人々を救うために道を志したという久遠の誓願、本因を覚知させようということでしょう。


「我今還って汝をして本願所行の道を憶せしめんと欲するが故に、諸の聞の為に是の大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・所護くるを説く。」


ひたち


 小野さん、


 の実智の

 竪に如理の底に徹することを明す故に甚深と言う

 横に法界の辺を窮む故に無量と言う


 ここに示される如理とは十如実相であり、法界とは十法界です。また、法華経に則していれば、如理とは一仏乗であり、法界とは菩薩二乗に分けて説いたところの三乗各別の法となるといます。


小野不一


「因縁」といってるわけですから、となった「果報」の因縁ですよね?


 次の御書を見つけました。


 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い善知識の縁に値いて五を顕さんこと何の滞りか有らんや(574頁)


 因=三因仏性=衆生本有の妙理は多くの学会員が了解しているところわれますが、縁=善知識というのには少々驚きました。境地の二法でいうと、対境が釈尊ということで、いいんでしょうかね?


 舎利弗等の悩は「何のため」という目的観を忘れ、修行の完遂のみに囚われたところにあったのでしょう。法華経譬喩品の記述は、まさにその姿を示しています。 を目指すのはなんのためか。この一事をい出すことで、舎利弗は成の道を開いたのだといます。


 こりゃ、卓見ですね。勉強になります。


小野不一


 するってえと、やっぱり、ひたちさんが言ってたように、十如是=縦、十界=横 という関係になりますね。



 お二人の議論から、じたことを。


今、議論になっている一大事因縁は、二つの視点で語られて、ごっちゃになってますね。一つは、からの視点。二つは、衆生からの視点。


 法華経方便品の「一大事因縁」は、からの視点です。総勘文抄は、衆生からの視点です。これは、従果向因と従因至果の両方からの視点とも言えるのではないか?と考えます。両方の視点が必要であると同時に、どちらの視点から考察されているのかを区別する必要もあるでしょう。どちら(からで)も成り立つのは、因果倶時だからですが。


 は衆生がいるからこそ出現し、衆生はが法を説いたからこそ成できる。相互に、善知識となります。そして、いずれの存在も、『縁起』によって成立します。


小野不一


 中々、しいですね。能所の違いということなんですね。


【→十如是問答 その一


※全文は→「成仏の法理・一念三千の研鑚

2005-12-04

十如是問答 その二


【→十如是問答 その一



 議論の蒸し返しになりますが(笑)、非常に基礎的なことに戻り、私見を。


 十界は基底論。十界互具は境涯論。十如是は十界が働く方法論。


 単純化は危険ですが、分かりやすく理解するには、こう捉えています。三世間は、存在論といえるでしょう。その上で、一三千は、包括的な生命論と考えます。


 諸法実相は、智智)による認識論でしょう。 その分析の成果が十如是といえます。その十如是は、十界において働くと。その十界は、互いに具する。 故に十界互具が中核である。


 また、空仮中の三諦は認識論。「法報応の三身」は存在論に分類できるでしょう。


 十如是に戻ると、生命がどのように働くかという説明になるでしょう。その働きは、本末究竟して等しい、と。これは、一三千の、どの一瞬(例えば国土世間の地獄界所具の菩薩界)を捉えても、すべて十如是が等しく働き、一貫している。


 九識論は、こうした生命の実相を、として考察し分類したものと言えるのではないでしょうか。


 最近は、脳との関係が脳科学による前頭葉(特に前頭前野)の研究でかなり解明されてきていますが、生命の働く場がで、の働く場が脳ではないのかな? とっています。その場は、重層化していて、その重層の実相をどう捉えていくか。こうした視点に、法の生命論(生命哲学)の役割はかなり重要です。


 脳の活化とその方法と成果をみていると、諸法実相・一三千の論理的な考察と一致しますね。


大勝利


 十如是について……。


 まず、基礎的な共通認識を確認し合わないと皆様の折角の議論が混乱するようにえます(笑)。


1.十如是の部分は、鳩摩羅什の創作とも言える訳である点。(鳩摩羅什十如是


2.天台大師による三転読による十如是。ここではじめて、空仮中の三諦に分配されるのですが、あくまでもの中を捉える十如是と言えるといます。(天台の十如是


3.大聖人の事の一三千への十如是。(大聖人の十如是


4.生命論の展開から見る十如是。(学会十如是


 勝手に分類してしてしまいましたが(笑)。現在、我々も三転読を行っているわけですから……2→3→4 の十如是は本来的に同義であるとするならば、天台智ギの、の中に倶する「内」の十如是を賢察してから、生活としての「外」に開いて行った方が掲示板としては伝わりやすいようにいます。


 小野さんのように「ウンコ」から直的に悟る部分は感応できますし(笑)、小生も含めて皆様方も、「閃(ひらめ)き」としてあるのでしょうけれども、結局、整理文章化はかなり厄介ですよね。


小野不一


 読み直して気づいたんですが……。


 舎利弗は、我が生命に界があることを確信したのだといます。(中略)釈尊から成の記別を受けるのはその後であり、記別を受ける前に舎利弗は自身の成を確信しているのです。


 ということは、因果異時ってことですね。つまり、「理の一三千」。


 込み入った質問になりますが、舎利弗が悟ったのは、「がある」ってことだったんでしょうか? それとも、「ゆくゆくになれる」ってことだったんでしょうか?


 更に、にならなければ、「菩薩教化する」資格はないのでしょうか?


 もう一つ、舎利弗が歓喜している姿を、周りの連中はどんな風に見つめていたのでしょうか? 私なら、「オイオイ、俺にも教えてくれよ」と頼むところです(笑)。


大勝利


 ROMの為に三転読文について――


「是の相も如なり、乃至、是の報も如なり……」

「是の如きの相、乃至、是の如きの報……」

「相も是に如し、乃至、報も是に如す……」

 と三度繰り返して読む事とって頂ければ結構です。


大勝利


 摩可止観の五巻より――


 三世間の説明のあと、「この三十種の世間はことごとくより造る」の次からです。変換出来ない字など、誤字、当て字なりますが御容赦願います。


 また十種の五陰は一一におのおの十法を具す。いわく如是相・・体・力・作・因・縁・果・報・本末究境等なり。まず総じて釈し、のちに類にしたがって釈す。

 総釈とは、それ相はもって外に拠る。覧て別(わか)つべし。

 釈論にいわく、「知り易きが故にづけて相となす」と。水・火の相は異なればすなわち知るべきこと易し。人の面色に諸の休否(くひ)を具するがごとし、外相を覧てすなわちその内を知る。(中略/中国故事の引用)

 善く観ぜざる者はに一切の相を具することを信ぜず。まさに実のごとく観ずる者にしたがってに一切の相を具すること信ずべし。


 如是とは、はもって内に拠る。総じて三義あり、一には不改をづく。(中略)また、分(しょうぶん)とづく。(中略)

 また、はこれ実なり。実はすなわち理なり、極実にし過まることなし、すなわちの異なるのみ。(中略)

 竹の中の火のは、見るべからずといえども無ということを得ず、炊人(ついにん)と乾草があまねく一切を焼くがごとし。もまたかくのごとく、一切の五陰を具す。見るべからずといえども無ということを得ず、智眼をもって観ずるに一切のを具す。世間の人、笑うべし、その偏聞をもって円経を判じ、涅槃に

は衆生にありと知りたもう」

と明かすを判じて極常となし、法華に

は一切法の如是を知りたまう」

と明かすを判じて無常となす。あに小知をもって常となし、多知を無常となすべけんや。……(省略)


 如是体とは、主質の故に体とづく。この十法界の陰入はともに色を用いて体質となすなり。


 如是力以降は又今度にします。(笑)



 普段、私たちの日常に顕れ千変万化するのは、互具している十界であり、基底部の十界はなかなか変わりません。変わるときは一瞬で変わることもあれば、何年かかってもほとんど変わらないこともあります。


 信は年数ではない、と言われる由縁でもあるでしょう。この基底部の十界を変革していくことが、一生成であり、宿命転換であり、人間革命です。


 互具というのは、互いに具するという単純な味以上に、同時包含であるともいます。これは、例えて言えば、円と円が交わるのではなく、重なっているということに近いといます。これを、単純に二重構造とすると、これもまた誤解を招きます。そうではなく、相互に影響を与えあっていると考えます。


 例えば、基底部が菩薩界であれば、日常において縁に応じて顕れる地獄界に影響を与えていて、たとえ怒ったとしても嫌な印象を与えることは少ないであろうし、怒るという頻度も少なくなるでしょう。逆に、日常において縁に応じて顕れる菩薩界は、その清らかな覚によって基底部の地獄界に自覚を促し変革の一助になっていく。


 こうした相互に影響を及ぼしあう作用が、十如是によって成り立っているのだと考えます。


 戸田先生の例を敢えて引くのなら、先生の生命の基底部は、牢獄に入る前も、入獄中も、出獄後も菩薩界ないしは界であったはずです。少なくとも、決定(けつじょう)した広布の使命を抱く菩薩界、地涌の菩薩であったからこそ法華経を身読でき悟られたのだといます。もし、入獄によって基底部が変化したのであれば、それは菩薩界から界への変革であったといます。


ひたち


 力と作についてですが、その差異は何だとお考えでしょう?


 例えれば、力は能値であり、作はそれが実地の上で発現することでしょう。これには物理的な力と精神的な力があるといます。筋力だけではなく、美醜からくる魅力、財力、権力などさまざまな力が世の中にはあるのではないでしょうか。


 ちなみにアイスクリームには人を太らせる力があります(爆)。そして、力が衰えれば、作も衰えます。機械も人間も、故障したり、老いなどによって力を失うもので、それによってなすところの作も衰えることでしょう。もちろん、精神的な力もありますから、単純にはいえません。私は精神的な力というのは非常に重要ですね。サミュエル・ウルマンの有な「青春の詩」が好きです。いろんな訳を見聞きしますが、たまたま見つけた以下の訳が気に入っています。精神の力の大切さをじますね。

 それと、どこかで読みましたが、人は動けると信じなければ、指一本すら動かすことができないという話があります。志を持つ人間という存在は、特にの力が大事なのだとじます。


ひたち


 どうして、十如是なのか?


 私見ですが、十如是が十界を貫く共通原理だからだと考えています。そもそもの目的は、の衆生の壁を取り払って、万人の成の道を開くのが法華経の主旨だといます。その時に、既に他の経典に説かれる十界は既知の概であるとして、その互具を説いても、それで具体的には界はどのように現れるかということになるのではないでしょうか。やはりそこで共通原理を明らかにしなければならないといます。


 舎利弗しか悟れなかったのは、どうしてなのか?


 一つには機根の違いというものがあるといます。そして舎利弗は諸法実相の直接の対告衆ですから、説法を聞く真剣さがまったく違っていたといます。座を立った上慢の人々だけでなく、会座にいた人々にも疑いがあったのでしょう。釈尊は一度は最後まで法を説くことをやめようとしますが、舎利弗の求道がそれを上回ります。そして「汝今善く聴け、当に汝が為に説くべし。」と舎利弗一人のために説法が再開します。最終的には舎利弗しか悟れなかったわけではなく、三周の説法によって会座の人々は皆成の記別を受けます。舎利弗が記別を受けたことによって、会座の人々は疑いながらも歓喜するのです。


 悟りの内容を伝える術(すべ)を持たなかったのか?


 十如是に続いて、説かれる世雄偈には以下のようにあります。


 是の如き大果報 種々の相の義

 我及び十方 乃し能く是の事を知しめせり

 是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり

 諸余の衆生類は 能く得解することあることなし

 諸の菩薩衆の 信力堅固なる者をば除く


 言葉ではなく、信力で受けるしかないということではないでしょうか。方便品では、ここだけでなく全体が信を非常に強調しています。


 死相をもって成を示す必要があったのか?


 実際の舎利弗は自殺ともえる死に方をしていますね。法華経に説かれる舎利弗との整合は私にはとれていません。


ひたち


 舎利弗が悟ったのは、「がある」ってことだったんでしょうか? それとも、「ゆくゆくになれる」ってことだったんでしょうか?


 舎利弗は、これまで二乗の道を智で理解しつつも、釈尊が人々に法を説き慕われる姿を見て、そのように素直に菩薩行に邁進できない自分を責めてきたしいの内を吐露しつつ、法華経において大歓喜を得て「今日乃ち知んぬ。真に是れ子なり。」というのです。この歓喜は、になれるという喜びというよりは、と同じように人々の悩を救える自分になることができるのだという確信だったようにじます。


 にならなければ、「菩薩教化する」資格はないのでしょうか?


 そうではないといます。譬喩品に記される舎利弗の悩はすべての二乗しみです。化他行を横目で見つつ、素直にそうすることができない二乗悩を、乗り越えた歓喜がそう語らせたようにじます。自分にもと同じように人々の悩を救う力があるのだという確信ではなかったかといます。


 舎利弗が歓喜している姿を、周りの連中はどんな風に見つめていたのでしょうか?


 先にも書きましたが、歓喜と疑いです。舎利弗の成は、自身の成に繋がることに対する歓喜と、なぜ舎利弗が成するのかという理由がわからないための疑いです。それを舎利弗はじ取り、釈尊にさらに法を説くように願うのです。


小野不一


 それを舎利弗はじ取り、釈尊にさらに法を説くように願うのです。


 こりゃ凄い! 二乗菩薩になった瞬間と言えますな。


卞氏


1.壇の中に御安置している御本尊は仮諦と考えられないでしょうか?

→その時点では「仮観」としてとらえることが出来ますね。


2.安置した御本尊を「仮」と観る。力・法力が「空」と観ることで、仮諦・空諦の関係が見えてきます。

  • 仮諦――安置された御本尊。大聖人が顕したものを書写製版して家庭に置いてあるという事実。
  • 空諦――御本尊力・法力。大聖人の智の発揮。
  • 中諦――力と法力を出だす法。

 と観ます。


3.「安置」した「御本尊」を仮として観たわけですから、そこから離れないように自分に置き換えると。

 

(中諦)御本尊を信じ題目をあげて折伏することが、衆生の救済ということなのである。

(信力・行力が力・法力を出だす)


大勝利


「力」は、「作用」して「果」となり、「報」と現れる時点で消えてしまいますよね。


」も現した時点で分別可能だが既に別の「」に変化してるとも言えるのではないかと(笑)

 やはり「空」は哲学的命題ですね。


卞氏


 因縁果報の時間的経過に挑戦。(笑)


「 り ん ご 」


 ここにあるのは掲示板に書かれた文字という「相」と「体」だけです。 でもなぜか、人により時により「キライなので気分が悪くなったり、歌をい出してなつかしいいを致したり、よだれが出たり」と様々です。


 その文字に「」「力」「作」があることに疑いは無いのですが……。


「因縁果報」


 この文字には、そういった「因」があり、同時にそれぞれの人にそのようにわせる「縁」となっています。そのため、この文字(列)自体、ある果物の称として識別されんがための「果」というものを持ちあわせています。「報」はこの文字(列)自体がどのように扱われているかということです。


 この場合、私の説明の槍玉に扱われています。理由は無だったからです。もし、「日X」というとある宗派の法主とかしたら、皆さんの情たるや納まらないだろうから、無なものを選んだわけです。


 さて、この「りんご」という文字列の如是として考えるに時間的経過が必要でしょうか?


 それともなにか考察に瑕疵が有るでしょうか。


ひたち


 人のいない所で、木の枝が折れたとする。枝が折れた音は“存在”するのか?


 これは法の哲理とはちょっと異なる見方ではないでしょうか。他から見て認識されることはなくとも、自身は認識しているわけです。例えば勉強、練習、努力に基づいた力は自分がよく知るところでしょう。力をのみとするのは、頭滅却すれば火もまた涼しのような、無謀な精神論に陥るといます。例えば、機械は燃料や電気がないと動きません。人間も食べ物を食べないと空元気しかでません。もちろん逆もまた然りで、物理的な力に偏重するのも誤りです。力はのみで起こるものではないと考えます。


ひたち


 卞氏さんへ。


 やっぱり時間的な経過はあるといますよ。最近、TVとかで脳科学の番組が多くなってきましたが、そういった認識に脳が活発に動いていることがよく紹介されますね。


 引用しました御書に「此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る……」とあります。これは道理です。色受行識でいえば、目は色です。目がなければものは見えません。しかしまた、視神経に障害があると、網膜に像を結んでも認識できません。両方が必要であり、それは以下のような関係になるといます。


 力:色受

 作:識


 また色受行識は自明の順序があるわけで、時系列なしとはいえないのではないでしょうか。ここは一認識という単位で捉えた時、それ以下の時間経過を無視できます。辞典によれば一念は、指パッチンの60分の1という説など、経論から逆算される単位時間があります。ここまでは道理の範疇で、ここから先は哲学的な惟となるでしょう。いわゆる経過のない時間時間という金太郎あめの断面、スナップショット、微分の極限値として 捉えることもできます。これは信仰の上からは、如来、「今から』という捉え方になるのではないでしょうか。とすれば、「久遠」と「一念」とは相通じていく考え方といます。


小野不一


 フウム、どうやら、今までのやり取りを踏まえますと、「力」と「作」を、「」と「相」に分ける味はなさそうですね。


 十如是の流れからみると、「相・・体」の「力」と「作」ということか。そして、「作」という生命の発動・活動によって、「因縁果報」が決まる。


小野不一


 戸田先生が教壇でやった、「犬」の講義みたいですね。ただ、その観点だと、経験則に縛られるような気がしないでもありません。と書きつつ――この辺にヒントがあるんですかね? 成の可能=妙法を誰も知らない。その状況下で諸法の実相を説くと、十如是になるってことなんでしょうか? でも、どうして、「食べたことのないリンゴ」を舎利弗は悟ったのか?


小野不一


 でも、本当は、一念三千ですから、時間の経過は無視されるはずですよね? 無視というか、瞬間の生命に具わっている。また、五陰の「色」は、目が不自由な方であっても「形」は理解できるケースもありますから、「色(いろ)」だけに限定するのは、どんなもんかと……。


 私が五陰を分けるとすれば、「色受」と「行識」ですね。後者が、生命体の能動を示していると考えます。


ひたち


 小野さん

 瞬間の生命に具わっている。


 そうですね。冥伏しているだけで、常に具わっているものと考えます。 余談ですが、量子力学の世界では因果律が崩壊するそうです。つまり、原因と結果が同時に起こるということらしいですね。


「色(いろ)」だけに限定するのは、どんなもんかと……。


 徹底して発起衆に徹してますね。「色」とは「いろ」のことではなく、物理的に識別できる存在全てを指しています。これには覚器官そのもの(眼、鼻、、舌、身)も含まれます。ですから、「形」だけでなく、、香り、味、手触りなども含まれます。


「色受」と「行識」ですね。


 教学的には、受行識を精神活動の側面でとらえるため、以下のような建て分けになっています。


 色法:色

 法:受行識


 この観点からしますと、視神経はまだ色の範疇でしょうか。余談ですが、視覚障害の人の脳に直接電極を差し込み、映像を電気信号として送り込むという記事をい出したので紹介します。

 科学の発達で色に当たる範囲がどんどん広がっていくでしょうから、 色の明確な建て分けは、だんだんしくなるのでしょうね。


小野不一


 教学的には、受行識を精神活動の側面でとらえるため、

 以下のような建て分けになっています。

 色法:色

 法:受行識


 こりゃ、失礼しやした。拙者の勉強不足。何となく、人間と物を分けているのが「行識」だとじてたもので。


卞氏


 戸田先生が教壇でやった、「犬」の講義みたいですね。


 ええとですね、実をいうと最初「日顕」で考えていたんですよ(笑)。そして、そういえば戸田先生が……てなことをい出しつつ。


 経験則に縛られるということですが、「経験より出発せよ」とは牧口先生の言です。縛られてはいけませんね。縛られたら「如是」ではなくなってしまうのでは? 「ありのままに捉えることが出発点」という味が重要なのではないかといます。


 十如是を応用(注:応用というのは数式のように当てはめるという味ではなく、ありのままに見つめることができるという味)して未知のことに挑む時、ひとつのある「確信」がそこにある、または生まれるのだろうと観ています。その点が「無謀」との分かれ目ではあるまいかと考えています。「相手のが信じられる。」ということもそこに通ずるものなのだといます。表現として適切ではないかもしれませんが、このようなことではないかと。


卞氏


 やっぱり時間的な経過はあるといますよ。

 最近、TVとかで脳科学の番組が多くなってきましたが、

 そういった認識に脳が活発に動いていることがよく紹介されますね。


 そうするとその時点で、脳という存在を介在させてしまっていますが? それは「 り ん ご 」の十如是ではなくて、脳の十如是になりますよ。


卞氏


 でも、どうして、「食べたことのないリンゴ」を舎利弗は悟ったのか?


 それは、もともとだったからでしょう。


ひたち


 卞氏さん、申しわけありません。主張されるところを読み違えていたようです。ただ、如是縁と如是果についてちょっと違うのではないでしょうか。如是縁は外界からのイベントであり、因を助けて果を生じさせるものです。卞氏さんの説明は、他の人の如是縁ではあっても自身(この場合は文字)の如是縁になっていません。如是果についても同様で、如是因の説明とは独立していて、説明の方向が逆になっています。


 また、如是果については誤解を招くとわれます。法で説くところは因縁和合ですから、縁なしに固定された結果を持つことはないとわれます。たとえば、赤ん坊や外人に「りんご」を見せても、「ある果物の称として識別」ということにはならないといます。「ある果物の称として識別」は、「りんご」を知る人の側の果報です。


 文字の果報を考えるなら、そこに存在しているということ自体が果報でしょうか。人と異なり、文字は変化の度合いが少ないので分かりにくいのですが、そこにもやはり「因縁果報」の連鎖はあるわけです。たとえば、インクの経年劣化によって字が薄れてきたり、鉛筆書きなら、消し込むで消してしまえたり、ワープロ上の文字なら、フォントのタイプフェースを変更したりと、急激な変化相を生じることもあります。経年劣化の少ない物体に、これまた劣化の少ない材料で文字を書けば、人の寿命を越えて、後世に伝えることができます。


小野不一


 まあ、卞氏さんが提示したのは、飽く迄も“例え”なんで、索のヒントになれば構わないといますよ。


 更に、「如是縁」といっても、一念三千に含まれるわけですから、一概に「外界からのイベント」と断ずるわけにもいきません。「力→作→因」があっての「縁」ですから。“双方向の関係”といったところでしょうか。


 それにしても、十如是ってえのは、わからんものだ(笑)。すっ飛ばして、三世間に行くわけにもいきませんしねえ。


小野不一


「如去」って言葉があったんですねー。吃驚(びっくり)!


 の「最後身」を称して「如去」(Sugata)と呼ぶ。二度と生れて来ることのない者、という味。南方ではこの呼称が多かったとも。



 進展が早いので、また議論に蒸し返しになりますが、十如是の私見を。


 前にも述べましたが、諸法実相で得たの知見が十如是です。これは「の成就したまえる所は、第一希有解の法なり。唯、と、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」とあり、唯解ですので、私たち凡夫の智では理解できなくても当然です。


 しかし、当然としてしまえば考停止にもなりかねないので、議論する価値は大きいでしょうが、非常にしい命題でもありますし、所詮は理であり事が明かされた以上観論に陥る危険を認識する必要も重要です。


 さてここで、私の長年の最大の疑問は、諸法実相として明かされたものが「十界互具」ではなく、なぜ「十如是」なのか?ということでした。一念三千の中核は「十界互具」であるはずなのだから……。


 これはなかなか結論を得られませんが、十界互具の境涯を顕現する原理(方法・働き)として『十如是』が最重要だからではないか、と考えています。


 前置きから本題に入ります。分かりやすく「十如是」を分類すると、 「相体」は三如是として特に別称され「体」であり、他の七如是は「用(ゆう)」とされていますが、「相体」と「力作」と「因縁果報」と三つに分けられるでしょう。


 ここで、「体」と「用」の違いが良く分かりませんが、用が顕現する主体が「相体」になるからであろうと考えます。故に、「相体」は、具体的に確認できる(表面に顕れる)表層部分でもあり、「力作」と「因縁果報」は、深層部分であると考えます。しかし、それが相互に関連し包括し合うものであるから、「相から報」までの本と末が一貫して等しいという関係になるのでしょう。


「因縁果」として内在する主体()は、「力作」という働きを持ち、「報」として顕現するときには「相体」の三如是に一貫して顕れてくる。顕れてきたものは、「因縁果」となり内在化されていく。


と、このように私は単純化してしまいますが(笑)。こうすると一生成・宿命転換・人間革命の原理として理解しやすくなりましたね。


卞氏


 ひたちさん、詳説ありがとうございます。ごもっともです。とりあえずは御礼まで。


 十如是ってえのは、わからんものだ(笑)。


 何気なく使ってしまいますからね。対象がりんごであることは稀ですし。


【疑問】諸法実相として明かされたものが「十界互具」ではなく、なぜ「十如是」なのか? 一念三千の中核は「十界互具」であるはず。


 に対して恋さんは。


【仮説】十界互具の境涯を顕現する原理(方法・働き)として「十如是」が最重要だからではないか


 と立てているわけですね。


 私は、別の方向からですが、(方向が違うというだけで同じような位置づけとうのですが如何でしょうか)、


【仮説】十如是が実相を捉えるための鍵となるから。


 十界(互具)そのものは目に見えないので、法華経などを通じて様々な形をとって説かれてきましたね。どこにでも登場する。しかし何かを通してそれを関知せざるを得ない。


 関知するためのものとして十如是が必要である(鍵となる)ので、実相を明確にしておくために、法華経の入り口でずばりと説いておく理由もそこにあるのではないかとみます。


 あの人が可愛そうだ、とうのはその人が「地獄の相・……」を有するからです。でも本人にしてみると外と「天界」にいたりします(笑)


「そんなことするな」などという言葉は作力に見えたことを通して相手に働きかけます。「おまえこんなふうだな」は相体や果報に見えたことを通して相手に働きかけます。「こういうことなのだろう」は因縁に見えたことを通して相手に働きかけます。そのとき相手がどう受け用いるかはわかりませんが。


 とまあ、このように私のばあいは単純化してしまいますが、こうすると創価の運動の原理として理解しやすくなりましたでしょうか。


 三転読みするともう一つ観点があるはずなのですが……(笑)。


小野不一


 通説によれば、釈迦を殺そうとした悪人デーヴァダッタは、最後には、生きながら火焔に包まれて、「無間地獄」へ落ちて行ったとされていますが、釈迦の没後900年頃、経典を求めてインドにおもむいた法顕(340?-420?)が、その見聞録(『法顕伝』)の中で、調達(デーヴァダッタ)派の教僧団がネパール地方にあったと述べており、また、玄奘(600-664)も、その著『大唐西域記』の中で、ベンガル地方に提婆達多派の教僧団があったと述べていますから、釈迦の没後の後継者争いに敗れたデーヴァダッタが、彼の僧団をひきいて辺境の地に逃れ、バラモン階級出身者の手にその主導権がにぎられた中央の『正統派教僧団』からの激しい迫害と常に闘いながら、かなり長年の間、生きながらえて、強烈な化を及ぼしたことも、充分に考えられるのであります。そして、この釈迦の正統な後継者と称する中央の教僧団への反抗が、釈迦への反や軽侮を産み出したようであり、大乗教で、釈迦の在世中に直接釈迦から説教を聞いた弟子たちが「聞」(sravaka シュラヴァカ)――釈迦のを聞いた者――と軽侮されて、最下位に置かれ、誰のも聞かずに、独自の方法でさとった者たちが「独覚」(pratyekabuddha プライエティカブッダ)と呼ばれて、その上に位置し、更に、その上に、陀のを聞いてさとりを求める者としての「菩薩」が置かれているのもそのためであると推定されます。(192p)


 上記は、『教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士(第三文明レグルス文庫)より。大乗教が編まれた経緯や、十界の成立が窺える内容。


小野不一


 ここで、「体」と「用」の違いが良く分かりませんが、用が顕現する主体が「相体」になるからであろうと考えます。


 体=生命の個体、用=関係=価値、でどうでしょ?


 諸法=十界、実相=十如是、でどうでしょう?


 お二方の書き込みは凄い内容ですね。私の目は開きそうで、まだ、半眼半口(笑)。


 十界互具=カテゴリー、十如是=実態・実体か?


 いずれにしても、卞氏さんが書いているように、「諸法の実相は十如是である」というところが大事ですね。


卞氏


 諸法=十界、実相=十如是


 それですね。

  • 諸法=十界(互具)→法(中) カテゴリー、法理
  • 実相=十如是→報(空)と応(仮) 実体・実態

 にも充てられそうです。


小野不一


 何だかピンと来ないとってたら、十如是の後の方便品を知らなかったためと気づいた次第(笑)。


十如是

 http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-2-1.htm

→開三顕一

 http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-2-2.htm


 で、涌出品以降の「開近顕遠」へとつながるわけです。


 するってえと、十如是=開三顕一となると、こりゃ十界互具になるんですかね? でもって、「開近顕遠」の本国土妙をもって三世間が整う。


小野不一


 エー、極端な単純化を(笑)。


 生命は十界の境涯に分類される


→その実相は十如是である


→更に、十界の各界にが存在する


 すると、十如是というのは、生命が固定したものではなく、諸行無常=流動・変化を示したものと考えられるでしょうか? それによって、舎利弗らが抱いていた「部分的な生命観」を打ち破った、と。


小野不一


 うっかりしてました。「諸法実相抄」に書かれてましたね。


 又云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」(1358頁)


小野不一


 さあ、舎利弗に追いつけ、追い越せ!(笑)


ひたち


 小野さん、大乗の起源が調達派の教僧団とはあまり面白くない話ですね。また一昔前に聞いた、上座部と大衆部の根本分裂が大乗の起源する説も、今は支持されていないのです。現在の学説では、大乗教は部派教の主流派から起こったとする説が最も支持されているようです。理由はいくつかありますが、根本分裂の話自体が大衆部には伝わっていない。部派教の主流派である説一切有部から派生した派閥の中に大乗に通じる教義が伝わっている。大乗は上座部の中でも説一切有部を激しく攻撃している。などが挙げられています。このことから、大乗は釈尊の正統派の流れにおける「釈尊の精神に帰れ」というような一大回帰運動であったのではと考えます。


小野不一


 そして、この釈迦の正統な後継者と称する中央の教僧団への反抗が、釈迦への反や軽侮を産み出したようであり、


 ここから後の部分は、別の文脈で読むべきだといますよ。すなわち、バラモン階級出身者が法を独占したことが、大衆の反を招いたってことじゃありませんか? 私はそう捉えました。


 せっかく入力しても、ケチばかりつけられると、やる気をなくしますな。議論はこうして熱を失う――。


ひたち


 もういちど「何のため」という視点に戻りたいといます。何のために諸法実相を示したのかといいますと、「如我等無異」のためです。一切の人々をと同じ境涯になすというのが、釈尊の本願でした。


 十如是はこの視点から見るならば、成の原理を示したものです。最初の三如是は九界の衆生、後の七如是はという果報を受けるということで、九界即界となり、衆生とと究境して等しいとなるのですね。前に引用しました御義口伝をご覧戴きたいといます。


 観心本尊抄に「但界計り現じし」とあります。菩薩界までの因果は、聞かずとも身をもって知るところであり、しい理論をふりまわさずとも理解できるところです。


 十界互具之を立つるは石中の火木中の花信じけれども縁に値うて出生すれば之を信ず人界所具の界は水中の火火中の水最も甚だ信じし(242頁)


 九界の衆生に界が具わることが一番信じられないことなのです。


 法華経には開示悟入の四知見が説かれています。


 諸世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。

 舎利弗、云何なるをか、諸世尊は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもうとくる。

 諸世尊は、

 衆生をして知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。

 衆生をして知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。

 衆生をして知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。

 衆生をして知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。

 舎利弗、是れを諸は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。


 ここでは、「一大事の因縁」のために、は世に出現したというのです。このことをもっとわかりやすく書いている部分が同じ方便品にあります。


 種は縁に従って起ると知しめす 是の故に一乗を説きたまわん


 前に因縁和合という話を書きました。これは端的にいえば、因(衆生本有の界)があっても、 縁がなければ、成という果報は表れないことを味しています。一大事因縁とは、成のための如是縁となるためには出現したということです。


 このの慈悲を信じることによって、舎利弗は成したのだと考えられます。観心本尊抄に「汝既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば釈尊より已下四依の菩薩並びに末代理即の我等如何が汝が不信を救護せんや」とあります。


 法華経譬喩品には次のようにあります。


 汝、舎利弗 尚此の経に於ては 信を以て入ることを得たり 況んや余の聞をや

 其の余の聞も 語を信ずるが故に 此の経に随順す 己が智分に非ず


 舎利弗は、理解したのではなく、師である釈尊の慈悲を信じきったがゆえに、成したことがわかります。このことを、舎利弗の回から、そのの動きをかいま見ることができます。


 初めの所説を聞いて 中大に驚疑しき

 将にと作って 我がを悩乱するに非ずやと

 種々の縁 譬喩を以て巧みに言説したもう

 其の安きこと海の如し 我聞いて疑網断じぬ

(中略)

 世尊は実道を説きたもう 波旬は此の事無し

 是を以て我定めて知んぬ 是れと作るには非ず

 我疑網に堕するが故に 是れの所為と謂えり


 ここには釈尊という人格を信じようと決めたの変化があるのではないでしょうか。


ひたち


 小野さん、申しわけありません。ケチをつけるつもりではありませんでしたが、わざと書いたことは認めます。最初の一文、実は最初面白い話ですねと書いて、面白くないと直しました。教団の話は事実面白いとったのですが、大乗が主流派から起こったということを示したいという気持ちがよけいに働いてしまいました。


小野不一


 それを、牽強付会と言うんじゃありませんか? お宅の文章を読んで、どうもスッキリしない印象を受けてしまうのは、「議論する」というよりも、「主張」する姿勢が強いためだといますよ。


 私が少し前に、「論文を書くのであれば――」と書いたのも、そのためです。いいですか。主張があるなら、それはそれで結構なんです。ただ、別スレッドで主張すべきことを全て主張した上で、見なり、批判を求めるべきではないでしょうか?


 議論の途中で、次々と主張されると、お宅の主張のために、議論自体が利用されているようにじてしまうのです。作為があれば、議論は誠実なものにならんでしょう。


小野不一


 それから、私の文章をよく読んで欲しい。


 大乗の起源が調達派の教僧団


 というように、私は読んでない。今日、創価wikiに書評をアップしたが、この方は法律学者で、多分、信もしてないとわれる。宗教という畑違いの分野に敢えて挑み、独創的な視点から教とキリスト教を捉え直す作に私は服した。本当に、立派な方だとじた。


 そうした見識に対し、自分の「大乗が主流派から起こったということを示したいという気持ち」のために、「面白くない」と書ける神経が私は信じい。


 お宅はひょっとして、「最近の学説」が変われば、自分の主張も変えるんですか? むしろ、「最近の学説」を自分の主張のために利用しているようにしか見えませんけど。


小野不一


 これは興味深い。まず、「一大事の因縁」とは何だと考えますか?


 次に、大聖人は縁を喚起せしめるために、御本尊=対境 を顕されました。釈尊門下の対境は具体的には何だったのでしょう? 「釈尊という人格」とお考えですか?


 話は変わりますが、個人的に気になっていることは、寿量品が「生命の永遠」を説いたものであるとするならば、永遠を示すために、十界互具・十如是・三世間をもって、釈尊は「何を打ち破った」のか? 舎利弗等が抱いていた「迷いの本質」は何だったのか?


ひたち


 小野さん、牽強付会のそしりは甘んじて受けましょう。ただ小野さんがそう読まなくとも、ROMの方の中には「調達派の教僧団が大乗の起源」とわれる方もいるでしょう。どうしても書く必要があるとったのです。不快にさせてしまったことは慎んでお詫びいたします。


【→十如是問答 その三