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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2004-12-13

求道心に功徳が薫る


 信の世界は、積極的に求道精神をもって実践した時には、功徳を受け向上してゆく。反対に受け身の場合には、なんとなく圧迫や抵抗をじて、激がなくなり、功徳も受けられず惰に流されてしまう。

 全て自分のためであると確信して、活動してゆく積極が真実の道修行である。

 根本的には、御本尊を持(たも)ったということが、最高の積極である。釈尊時代の迦葉(かしょう)、阿難でさえ、を恐れて末法に出現できなかった。信した以上、消極的だからと悩む必要はない。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 世間とは世界と同法上では差別の義と説かれる。ここでいう差別とは“人種差別”などの味ではなく、本質的な差異・相違のこと。


 信している人としてない人の違いは何か? 人によって様々な見があろう。私の場合、信してない期間が生後4ヶと極めて短かったため、記憶が定かではないが、まあ大体の像はつく(ニヤリ)。


 信してない人の幸福とは、世間に認められることであろう。顔やスタイルの美醜に始まり、仕事の成功、地位、誉、財産、仲睦まじそうな家族、互いの見栄を認め合う友人達、とでもいったところか。こういう人は、自分の外側にあるもので我が身を飾ることが幸福だと勘違いしていて、ともすると、数多くの宝石を身にまとっている薄気味悪い婆さんのようになりがちだ。その眼差しは常に外へ外へと向かい、自分自身を深いところから見つめ直す作が全くない。


 翻って我々学会員はどうか? まあ、学会員ったって色々いるからねえ(笑)。決定的な違いは、我々は功徳の世界に生きてることである。人生や生活の中で、生命に功徳じては謝を捧げ、を自覚しては生き方を見つめ直し、再び決を深くする。日常の些事(さじ)からも人生を省察し、一事ある時は、今こそ使命を果たさんと自分の限界を打ち破り、新たな生命の大地を開拓する。日常の小さな営みは社会の改革に直結し、人間と人間の絆を深めゆく語らいは、互いの人生をよりよい方向へと誘(いざな)う。ま、いいことずくめってこった(笑)。


 そうであれば、いたずらに自分を卑下する学会員は信が弱いと言わざるを得ない。他人と比較して落ち込んだり、浮かれたりするような視線は、真っ直ぐに御本尊を見つめることができないだろう。衆生を見る時、役職やキャリアは考慮されないことを知るべきだ。釈尊の十大弟子も、決して序列を示したものではなく、それぞれの弟子が自分の個を開花しきった姿を現したものであろう。


 然る間(みな)を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一に納めたる功徳善根なりと信を取るべきなり(383頁)


 前にシキミを捧げ、線香を焚(た)いても功徳がある。学会活動は妙法を讃嘆し、宣揚する儀式であるから、会合で拍手をしただけでも功徳があるのは当然だ。会館のトイレでスリッパを並べても功徳があるし、後から来た人のために前へ詰めただけでも功徳がある。会合に遅れそうになって、駆け足なんぞで行った暁にはどれほどの功徳があるか計り知れない。これは冗談でも何でもないよ(笑)。


 ところが現実には、選(え)り好みをしたり、消極が顕著になる場面があったりする(笑)。最近、目につくのは、会場の正面真ん中に座ることを避け、やたらと壁際に座ろうとする人が多いことだ。まるで何か隠し事でもあるのか、とにかく中者や幹部の視線を避けようと頑張ってらっしゃる(笑)。こうした行為に悪はなかったとしても、消極が消極を呼び、全軍の呼吸を乱す結果となりかねない。大聖人は、功徳善根は「我が一に納めたる」と仰せだ。他人の顔色を窺っている内は、功徳の実は乏しくなるのが当然だ。


 小さな勇気が積極を築く。一度、勇気を出してしまえば、同じことがわけもなくできるようになるものだ。何はともあれ、信の世界における遠慮は不要だ。

2004-12-08

求道心篤き海外の同志


 私は学会本部で、お会いしたブラジルの青年たちにこう語った。

「今、日本の青年部のなかで、法のため、広布のために、自らお金をため、自発的にブラジルへと弘教・指導に出かける青年が、いったい何人いるだろうか。仮に、そう考えると、諸君たちの行動が、どれほど尊いことか。その信を、私はから賛嘆する」と。

 信の「」がどうかである。これが一切の根本の基準となる。格好でもない。立場でもない。その味において、私どもはこの求道の青年たちを最大にたたえ、尊敬し、また真摯(しんし)に学んでいくべきであると私はう。


【第2回神奈川県支部長会 1988-07-19 神奈川文化会館


 衛星中継で海外からのメンバーが紹介されるや否や、私は懸命に拍手をする。来日までの労を像しながら、せめてものいで掌(たなごころ)を合わせるような気持ちで、顔よりも高い位置で拍手する。


 私は北海道から、会合に参加するために上京したことが2度ある。19歳の時と、20歳の時のこと。東京に住むようになってからは、家庭訪問で仙台へ行ったことがあるし、御本尊御安置のために四国へ行ったこともある。海外から来日するメンバーの労は、この100倍以上かもしれない。ある面で全てを犠牲にし、ただ先生を求めて空を渡り、海を越えてやって来るのだ。その一には、堂々たる草創の吹きが満ちている。

 

 道のとをきにざしのあらわるるにや(1223頁)


 これは、釈尊の十大弟子の一人であった目連が、過去世において千里の道をものともしないで法を聴聞したがゆえに、天眼第一の果報を得たことを示され、乙御前の母を讃嘆した御文。この御聖訓を誰よりも深く味わうことができるのは海外の同志であろう。


 学会で最も偉い人は誰か? それは信強盛な人である。そして、広宣流布を現実に開拓した人である。役職や信年数は全く関係ない。自分の方が先輩であっても、朗らかに妙法の凄さを語る後輩に接した時、額(ぬか)づき、ひれ伏すようないに駆られた経験を何度もしている。これが本物の雄弁だ。


 役職の差は、受け持ち人数の違いであって、担当範囲が異なるだけに過ぎない。そうであればこそ、役職で自分を卑下したり、役職だけで大物振るのはおかしなことだ。


 我(わが)弟子等の中にも信薄淡(うす)き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず(537頁)


 お互いが確かなる信を築くための組織であらねばなるまい。