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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2010-01-15

教育の機能 6

 君たちはこれがどういうことなのか、恐怖のない雰囲気を生み出すことがどんなにとてつもないことになるのか、知っていますか。それは【生み出さなくてはなりません】。なぜなら、世界が果てしない戦争に囚われているのが見えるからです。世の中は、いつも権力を求めている政治家たちに指導されています。それは弁護士と警察官と軍人の世界であり、みんなが地位をほしがって、みんなが地位を得るために、お互いに闘っている野心的な男女の世界です。そして、信者を連れたいわゆる聖人宗教の導師(グル)がいます。彼らもまた、ここや来世で地位や権力をほしがります。これは狂った世界であり、完全に混乱し、その中で共産主義者は資本主義者と闘い、社会主義者は双方に抵抗し、誰もが誰かに反対し、安全なところ、権力のある安楽な地位に就こうとしてあがいています。世界は衝突しあう信念やカースト制度階級差別、分離した国家、あらゆる形の愚行、残虐行為によって引き裂かれています。そして、これが君たちが合わせなさいと教育されている世界です。君たちはこの悲惨な社会の枠組みに合わせなさいと励まされているのです。親も君にそうしてほしいし、君も合わせたいと思うのです。

 そこで、この腐った社会秩序の型に服従するのを単に助けるだけが、教育の機能でしょうか。それとも、君に自由を与える――成長し、異なる社会、新しい世界を創造できるように、完全な自由を与えるのでしょうか。この自由は未来にではなくて、今ほしいのです。そうでなければ、私たちはみんな滅んでしまうかもしれません。生きて自分で何が真実かを見出し、智慧を持つように、ただ順応するだけではなく、世界に向き合い、それを理解でき、内的に深く、心理的に絶えず反逆しているように、自由の雰囲気は直ちに生み出さなくてはなりません。なぜなら、何が真実かを発見するのは、服従したり、何かの伝統に従う人ではなく、絶えず反逆している人たちだけですから。真理や神や愛が見つかるのは、絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいるときだけです。そして、恐れているなら、探究し、観察し、学ぶことはできないし、深く気づいてはいられません。それで確かに、教育の機能とは、人間の思考と人間関係と愛を滅ぼすこの恐怖を、内的にも外的にも根絶することなのです。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 これと全く同じことを示しているのが以下の指導である。

 尚、メッセージの全文は以下――

 多くの学会員が知る指導である。知らない者は訓練をやり直せ。メッセージが送られてから既に10年以上が経過している。本当なら、「お前が本当に好きになれる創価学会」がそこここに出現しているはずだ。果たしてそのような組織はどこにあるのだろうか? 「権威的で、真剣にやらない上に、後輩を大切にしない先輩」が一掃された区や本部はどこにあるのだろう?


 多分――ないよ。我々は「反逆」できない。反逆はおろか「抵抗」もできず、意見すら言えないのが現状だ。先輩に物申すことが破和合僧となると勘違いして、取り敢えず調子を合わせることが組織内のトレンドとなっているのだ。


 結局、このような臆病が「権威的で、真剣にやらない上に、後輩を大切にしない先輩」を増殖させる要因となっているのだ。呼ばれた時しか来ない幹部、頼まれない限り家庭指導をしない幹部――こんなのばっかりだ。


 組織は腐敗している。もちろん、あなたと私も。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-14

教育の機能 5

 若いうちに恐怖のない環境に生きることは、本当にとても重要でしょう。私たちのほとんどは、年をとるなかで怯えてゆきます。生きることを恐れ、失業を恐れ、伝統を恐れ、隣の人や妻や夫が何と言うかと恐れ、死を恐れます。私たちのほとんどは何らかの形の恐怖を抱えています。そして、恐怖のあるところに智慧はありません。それで、私たちみんなが若いうちに、恐怖がなく、むしろ自由の雰囲気のある環境にいることはできないのでしょうか。それは、ただ好きなことをするだけではなく、生きることの過程全体を理解するための自由です。本当は生はとても美しく、私たちがこのようにしてしまった醜いものではないのです。そして、その豊かさ、深さ、とてつもない美しさは、あらゆるものに対して――組織的な宗教、伝統、今の腐った社会に対して反逆し、人間として何が真実なのかを自分で見出すときにだけ、堪能できるでしょう。模倣するのではなく、発見する。【それ】が教育でしょう。社会や親や先生の言うことに順応するのはとても簡単です。安全で楽な存在方法です。しかし、それでは生きていることにはなりません。なぜなら、そこには恐怖や腐敗や死があるからです。生きるとは、何が真実なのかを自分で見出すことなのです。そして、これは自由があるときに、内的に、君自身の中に絶えま(ママ)ない革命があるときにだけできるでしょう。

 しかし、君たちはこういうことをするように励ましてはもらわないでしょう。質問しなさい、神とは何かを自分で見出しなさい、とは誰も教えてくれません。なぜなら、もしも反逆することになったなら、君は偽りであるすべてにとって危険な者になるからです。親も社会も君には安全に生きてほしいし、君自身も安全に生きたいと思います。安全に生きるとは、たいがいは模倣して、したがって恐怖の中で生きることなのです。確かに教育の機能とは、一人一人が自由に恐怖なく生きられるように助けることでしょう。そして、恐怖のない雰囲気を生み出すには、先生や教師のほうでも君たちのほうでも、大いに考えることが必要です。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


「反逆」とは、自分の内側で繰り広げられる絶え間のない革命である――凄まじい言葉だ。階級によって構成される世界では、「ランクダウンするかもしれない」という恐怖感が原動力になっている。そして組織というものは細分化を避けられない。すると今度は支部と支部とが、地区と地区とが敵となって競争を開始する。競争原理を支えているのは恐怖と満足である。つまり、欲望ってことだよ。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-13

教育の機能 4

 生という、微妙なすべて、そのとてつもない美しさ、悲しみ、喜びのある大いなる広がりを理解する助けとならないなら、教育には確かに意味がありません。君たちは学歴を得て、名前の後に肩書きを連ね、とてもよい仕事に納まるかもしれません。しかし、それからどうなるでしょう。その過程で心が鈍り、疲れて愚かになるなら、それが何になるのでしょう。それで、若いうちに生とはどういうものなのかを探して見出さなくてはならないでしょう。そして、これらすべての問題の答えを見出そうとする智慧を君に涵養することが、教育の真の機能ではないのでしょうか。智慧とは何か、知っていますか。確かに智慧とは、何が本当で何が真実なのかを自分自身で発見しはじめるように、恐怖なく公式なく、自由に考える能力です。しかし、怯えているなら、決して智慧は持てないでしょう。精神的だろうと現世的だろうと、どんな形の野心も不安と恐怖を生み出します。そのために野心は、単純明快、率直で、それゆえに智慧のある心をもたらす助けにはなりません。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 よく考えてみよう。実は「社会のために役に立つ」という言葉は、正当化された野心に過ぎない。我々は学校教育という通過儀礼を経て、社会を構成する一員として社会を支えることを強いられる。我々は労働に従事し、税金を支払い、法律を順守することで、国家の安定に寄与している。しかしながら、国民の努力によって安定しているはずの国家は、他国の戦争を手伝い、大企業優先で税金をばらまき、病指定を認めなかったりしている。一見すると安定しているように見えるが、国のあちこちで混乱が起こっている。学校教育の目的は、兵士と労働者を育てるところにある。このため我々は死ぬまで野心を抱いて競争に参加する羽目となる。


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-12

教育の機能 3

 私たちが成長し、大人の男女になるとき、みんなどうなるのでしょう。君たちは、大きくなったら何をしようかと、自分自身に問うたことがないですか。君たちはたいてい結婚し、自分がどこにいるのかも知らないうちに母親や父親になるでしょう。それから、仕事や台所に縛られて、しだいにそこから衰えてゆくでしょう。それが【君】の人生のすべてになってゆくのでしょうか。この問題を自分自身に問うたことはないですか。問うべきではないですか。君の家が豊かなら、すでにかなりの地位が保証されているかもしれません。お父さんが安楽な仕事を与えてくれるかもしれません。恵まれた結婚をするかもしれません。しかし、そこでもやはり腐敗し、衰弱するでしょう。わかるでしょうか。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 何と辛辣(しんらつ)な言葉か。クリシュナムルティは生徒達に対して全く手加減しない。我々は本能の赴くままに異に恋をして、欲望に身を任せて子供を出産しているというのだ。結婚という制度そのものが機械化を促進し、更に夫婦という役割分担が機械化に拍車をかける。このようにして皆が皆、腐敗し、衰弱してゆくというのだ。個々人は「自分らしさ」にしがみついて勝手な物語をつくり上げる。こっちの人よりも早く結婚したと優越に浸(ひた)り、あっちの家よりもいい車を持っていると自慢する。子供ができたらできたで、今度は子供同士を比較し、ランク付けすることに余がない。「君のお父さんが副会長なら、すでにかなりの地位が保証されているかもしれません」――全く仰せの通りだ。テレビ局というのは、政治家や有人の子弟によって形成されるサロンのような場と化している。学会の外郭企も似たところがある。大幹部の子供というだけで、活動も満足にしていないのがゴロゴロしている。このようにして魚は頭から腐ってゆく。


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-11

教育の機能 2

 それで、教師だろうと生徒だろうと、なぜ教育をしていたり、教育をされているのかを自分自身に問うことが重要ではないでしょうか。そして、生とはどういうものでしょう。生はとてつもないものでしょう。鳥、花、繁った木、天、星、河とその中の魚、このすべてが生なのです。生は貧しい者と豊かな者です。生は集団と民族と国家の間の絶え間ない闘いです。生は瞑です。生は宗教と呼ばれているものです。そしてまたの中の微妙で隠れたもの――嫉妬、野、情熱、恐怖、充足、不安です。このすべてともっと多くのものが生なのです。しかし、たいがい私たちは、そのほんの小さな片隅を理解する準備をするだけです。私たちは試験に受かり、仕事を得て、結婚し、子供が生まれ、それからますます機械のようになってゆくのです。生を恐れ、怖がり、怯えたままなのです。それで、生の過程全体を理解するのを助けることが教育の機能でしょうか。それとも、単に職やできるだけ良い仕事を得る準備をしてくれるだけなのでしょうか。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 謳(うた)い上げられた生の諸相が一念三千を志向している。「このすべてともっと多くのものが生なのです」――かくも広大なる生を果たして我々は日常の中でじ取っているだろうか? 学校や親は「社会のルール」を叩き込むことで子供達の生を抑圧し、狭い世界へと追い立てる。こうして小学生にもなれば、生きることが競争を味し、競争に勝つことが幸福であることを自覚し始める。テストや運動会を通してランク付けされ、おのずとクラス内では序列が形成される。既に親の姿から、強い者には媚びへつらい、弱い者を軽んじることは学習済みだ。かくして生はどんどん貧しくなってゆく。当たり前のように、「親の言うことを聞け」「先生の言う通りにしろ」と我々は育てられた。つまり、「大人の言いなりになる」ように促され、責め立てられ、強制されてきたのだ。これ、第六天の魔王の所為である。善悪の判断もできない年頃から完全なコントロール下に置かれていることに改めて驚かされる。このため、正常な子供ほどストレスにさらされる事態となる。まともな子供ほど不適応という烙印(らくいん)を押されてしまう。こんな劣悪な教育環境に適応している子供はどこか異常なのだ。結局、我々が生きているのは、異常が支配する世界なのだろう。進学、就職、結婚、子育てという決まりきった人生のサイクルが人間を機械化してゆく。更に学校で、職場で、そして家庭で機械化は進行する。我々は否応(いやおう)なく、弱肉強食の競争社会の中に取り込まれる。常に比較され、評価され、差別化されることで幸不幸をじているのだ。我々は「社会の部品」だ。しかも交換可能な部品なのだ。生は断片化し、分断され、分離されて砂粒のように卑小な姿をさらしている。


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-10

教育の機能 1

 君たちは教育とは何だろう、と自分自身に問うたことがあるのでしょうか。私たちはなぜ学校に行き、なぜさまざまな教科を学び、なぜ試験に受かり、より良い成績のために互いに競争し合うのでしょう。このいわゆる教育とはどういうことで、どのようなものであるのでしょう。これは生徒だけではなく、親や教師やこの地球を愛するすべての人にとって、本当にとても重要な問題です。なぜ労して教育を受けるのでしょう。それはただ試験に受かり、仕事を得るためなのでしょうか。それとも若いうちに、生の過程全体を理解できるように準備することが教育の機能でしょうか。仕事を持ち、生計を立てることは必要ですが、それですべてでしょうか。それだけのために教育を受けているのでしょうか。確かに生とは単なる仕事や職だけではありません。生はとてつもなく広くて深いものなのです。それは大いなる神秘、広大な王国であり、私たちはその中で人間として機能します。もし単に生計を立てる準備をするだけなら、生の味はすべて逃してしまうでしょう。それで、生を理解することは、単に試験に備えて、数学や物理や何であろうと大いに上達することよりもはるかに重要です。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 クリシュナムルティが創設した学校はインドに数校と、アメリカ、イギリスにもある。現在はオーストラリアにもあるようだ。クリシュナムルティ神智学協会という神秘主義団体に見出され、「世界教師」という救世主と目され、10代からエリート教育を施された。クリシュナムルティが16歳の時点で彼のために「星の教団」が設けられた。27歳の時、「プロセス」と呼ばれる激しい宗教体験を経て彼は目覚めた。34歳となった彼は教団の解散を宣言する――「〈真理〉は途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです」と。それ以降、彼は一切の教義、一切の組織を否定した。彼は自分の弟子や信奉者すら認めなかった。彼の教えが「主義」となることを嫌い、彼のからも離れよと諭(さと)している。しかしクリシュナムルティは終生にわたって教育に力を注いだ。社会や歴史や文化によって条件づけされている子供達を自由にしようとした。彼が行う講話で原稿が用されることはない。それどころか事前に話す内容すら決めていないのだ。集った人々を1分間ほど見渡してから、おもむろに語り出すことを常としていた。クリシュナムルティは我々の「価値観=条件づけ」を激しく揺さぶる。絶妙な動執生疑といってよい。教育の目的は「生の全体」を学ぶところにある、という指摘はあまりにも重い。


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2010-01-09

すべての偉大な文明は教育者の上に築かれた


 周知のように、世界中の教育は失敗したのです。なぜならそれは、歴史上で最も大規模かつ破壊的な戦争を二度も起こしたからです。そしてそれは失敗に帰したのですから、単にある方式を別のに取って代えることは、私にはまったくの無駄のようにわれます。これに対して、もし教師の考、情、態度を変える可能があれば、そのときには多分新しい文明がありうるのです。なぜなら現代文明は完全な崩壊へと向かっているからです。次に来る戦争は、われわれが知っているものとして西洋文明をおそらく清算することでしょう。多分われわれは、それによってこの国においても深甚なる影響を受けるでしょう。しかしこのいっさいの混沌、不幸、混乱、争いのただ中で、教育者の責任は確かにとてつもなく大きいのです――彼が公務員だろうと、宗教的教師だろうと、あるいは単なる情報伝達者にすぎなかろうと。ですから、もし新しい秩序が作り上げられるべきなら、生計の資を得る手段として教育の上で肥え太るだけの人々は、私に言わせれば現代の社会構造の中で何の居場所もないのです。そしてわれわれの問題は児童、少年少女というよりはむしろ教師、教育者であり、彼の方が生徒よりはるかに教育を必要としているのです。そして教師はすでにできあがり、固定しているので、教育者を教育することのほう(ママ)が、生徒を教育するよりははるかに困なのです。彼は単に日課通りに機能しているにすぎません。なぜなら彼は実際のところ考過程、英知の涵養に関がないからです。彼は単に情報を与えているのにすぎません。そして全世界が自分ののまわりで音を立ててくずれているとき単に情報しか与えない人間は、確かに教育者とは言えません。皆さんは、教育とは生計の資を得る手段だとおっしゃりたいのですか? それを生計の手段とみなし、自分自身の幸福のために児童を利用することは、私には教育の真の目的とまったく相反するようにわれます。

 ですから、質問にお答えする上で、要点は教育者であって子供ではないということを銘記いただきたい。正しい環境、必要な道具等々を備えることはできますが、しかし重要なことは教育者自身が、この生存全体が何を味するのかを見出すことです。なぜわれわれは生きているのか、なぜわれわれは闘しているのか、なぜわれわれは教育を施しているのか、なぜ戦争があるのか、なぜ人と人の間の宗教的紛争があるのか? こういうすべての問題を研究し、英知を働かせること、それこそは真の教師の役割なのです。自分自身には何ものも求めず、教育を地位、権勢、権威を得るための手段として用いない教師、利益のためではなく、一定の方針に沿ってではなしに真に教えるところの教師、自分自身の内に英知を培っているがゆえに生徒の内部にも英知を育て、目覚ましている教師。確かにこのような教師こそは文明の中で主要な居場所を持っているのです。なぜなら結局のところ、すべての偉大な文明は、技師や技術者ではなく、教師の上に築かれたからです。(1984年の講話)


【『クリシュナムルティの教育・人生論 理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性